第23話 そして退路も無く

 封筒の中に入っていたのは、便箋の切れ端と鍵だった。紙片には「大門」と走り書きされていた。

 俺の心臓がドクンと鳴った。

 なんということか。ニアは大門の合い鍵を渡してくれたのだ。


 ニアの文字を見たのは初めてだったが、ひどく乱雑な筆跡は彼女らしくないと思った。だが、それはおそらく慌てて書いたからだろう。どれだけ危険を冒してこの鍵を用意したか、どれだけ懸命に俺たちを救おうとしているのか、彼女の文字にはその思いが込められているような気がして胸が苦しくなった。

 今だって、ニアは自分を探す女中を警戒して、俺に先に行けと言ったのだ。俺たちの逃亡を悟らせないために、苦渋の思いで先に行けと。

 俺はニアに助けられてばかりだ。自分の無力さが情けなかった。


 大門とはアベール王国の一番外側の高い壁にある門のことだ。俺がこの国に訪れたとき、念入りな入国審査を受けた場所でもある。

 警備が厳しく鍵も厳重なので、俺たちは壁を乗り越えるつもりだった。その為のロープを何本も用意してある。

 仲間には子どもも含まれているので、もしかしたら全員は脱出できないかもしれない。その時は少し遠くなるが、もう一つの小さな門から強行突破することも考えていた。


 しかし、大門の鍵あったらどうだろう。

 この騒動の最中、何が起きたかまだ知らずに動揺する門番のスキを突けるのではないだろうか。北の国境警備で鍛えられた俺たちなら、警備ばかりで実戦経験の少ない彼らを倒せるだろうし。

 この鍵があれば、素早く逃げられる。壁を乗り越えるよりも数倍早く逃げられる。早く逃げれば、それだけ追手から逃れられる確率もあがる。


 俺は決断した。

 鍵をレイに届けよう。空を見上げると、農園の仲間たちの集合合図であるのろしが上がっている。もう、彼らは城壁に向けて出発しているだろう。きっと広い農園を疾走しているだろう。急がなければならない。


 厨の扉に背を向け走り出した時、ジクジクと胸が痛んだ。ニアがここに居ないことが、苦しくてならない。通用門を抜けながら、本当ならここをくぐる時は彼女を一緒のはずだったのにと、胸を掻きむしりたくなった。

 それでも俺は走った。鍵を届けなくてはと。ニアの思いを無駄にしてはいけないと。そして、レイに鍵を渡したら必ずニアを連れに戻ろうと心に決めた。


 ニアならきっと賢く立ち回り、身の安全だけは確保するだろう。もしも俺たちの逃亡に加担していたと疑われたとしても、彼女は王に溺愛されている王女だ、酷い目にあわされることは無いはずだ。

 仲間が大門の外に出るのを見届けたら、俺はニアの攫いにいく。彼女は必ず後から行く、そう言ったのだ。逃げることを諦めたわけではないのだから、俺が連れ出してあげなくてはならないのだ。

 俺は王宮の外に出、真っ暗な市街を走った。市街を囲む塀は低い。予め決めていたルートを行けば、木を登り塀も越えられる。俺は懸命に仲間を追って、走ったのだった。


――ニア! 必ず迎えにいく! だから今は自分の身を守って待っててくれ!





 で、どうなったかは、お察しの通り。

 全てはアベール王の手の平の上だったってことさ。俺は逃げられなかった。ニアを迎えにいくこともできなかった。

 ニアに会えなかったのかって? まあ、そうだな。姿だけは見れはしたけどな……。いっそ見えない方が良かった……。

 彼女と話したのは、厨の扉越しでのやり取りが最後だ。あれだってまともに顔も見ることはできなかったし、二、三言しか話してないしな。


 あ……。う。

 いや、大丈夫。ありがとうなピピ。少し頭が痛むんだけど、まあこれくらい平気だ。


 さあ、レイたちと合流してからのことを話そう。

 あの時は分からなかったけど、本当に何もかもが筒抜けになってたんだ。ルッツらの反乱も、俺たちの脱出計画も、な。

 だから、大門の外に警備兵がずらりと並んで、俺たちを待ち構えていたのも当然と言えば当然だったんだ。


 その時俺は、もしかしてニアに誘導されたのかって、一瞬思ってしまったんだ。

 だって、そうだろう。鍵を渡されたから、壁を乗り越える計画を捨てたんだ。他の門から逃げるという選択肢も。

 鍵があったからこそ、俺たちは大門からの脱出を決めたんだから。

 そしてアベール王の側からすれば、俺たちを確実に大門に誘導できれば、待ち伏せもしやすく、一人残らず捕らえられるんだ。


 く……頭、痛てぇな……。なんだろう、急に。

 ああ、大丈夫、大丈夫。


 俺たちは嵌められた、そう思っちまったんだ。

 でも同時に、ニアを疑うなんてと、自己嫌悪も感じてた。

 そう、そうなんだ。ピピが今言った通り、ニアの行動も筒抜けになっていただけだって、ニアのせいじゃないって懸命に思い直したけどな。全てはアベール王の策略なんだって。


 だけど、それなら誰が情報を流したんだ。

 今も、俺には分からない。真相を掴むことなく、俺は殺されたんだ……。





「ど、どういう事なんだ……リート」

「分からない……」


 大門を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、武装した警備兵の集団だった。門番をやたら簡単に蹴散らせたと思ったら、こういう事だったのだ。

 絶望が実体化したような気がした。アベール王国を全て囲む壁よりも、更に越えがたい圧倒的な壁だった。

 レイも俺も、仲間たちも立ちつくしてしまった。

 いくら、こちらも剣を持っているとはいえ、装備も人数もけた違いだ。おまけに三分の二は女と子どもなのだ。ここで戦って逃げ切れるとはとても思えない。

 俺たちは、両手を上げるしかなかった。


 全力で走ってきた道を、俺たちは警備兵に捕縛されて戻ることになった。武器は没収され後ろ手に縛られている。それは絶望に向かう行進だった。王のところまで連れていかれるのだ、無事では済まないだろう。

 俺が逃げようと言いだしたばっかりに、返って仲間を窮地に追い込んでしまった。弁解の余地もなく、ただ兵士たちに促されるまま、俺は重い足を引きずって歩いたのだった。


 宴の最中に隠れ忍んでいた中庭に、俺たちは全員連れてこられた。乱暴に小突かれてひざまずくように命令される。

 庭の隅には山とつまれた死体。謀反を起こした貴族たちのなれの果てだ。血に濡れて、恨めし気な顔がこちらを見ていた。

 女や子どもたちは悲鳴を上げ抱き合い、思わず俺も息を呑んでいた。

 庭から続く広間には明々と灯りが点り、王と大勢の兵士たちがいた。彼らは謀反人の処刑を行っていたのだ。幸いにして、そこにニアの姿はなかった。


 ドスンと何者かの倒れる音がした。それから、こちらに背を向けていたアベール王がくるりと振り返る。その顔は、その全身は、返り血の朱に染まっていた。

 背中に冷水を浴びせられたかと思った。

 仲間内に緊張が走る。恐ろしさに泣きだす子どももいた。

 にっこりと微笑みながら剣を投げ捨て、俺たちを眺めるアベール王が、心底不気味でたまらなかった。

 王はまだ酔っているのか、ほんのりと赤い顔をしていて、身体が少し揺れていた。しかも鼻歌まじりだ。何事かを近くの兵士に命じ、また別の兵から新しい剣を受け取った。


 兵が、捕らえていた謀反人を広間から庭へと連れ出した。ぐったりとして自分で歩くこともできない男と、怯えきって震えが止まらない男の二人だった。

 そしてアベール王もゆっくりと広間から出て来た。

 この中庭で処刑するつもりなのだろう。

 俺たちの目の前で。見せつけて恐怖を煽ろうと。なんて腐り切った性根なんだと、反吐が出そうだ。

 二人の男のうち、ぐったりしているのはルッツだった。毒のせいで息も絶え絶えで、顔色は死人の如くだった。真っ先に殺されたかと思っていたのに、まだ生かされていたのだ。


「こんな夜中に随分走り回ったようだな。ご苦労なことだ。何処にも逃げられぬというのに」


 項垂れる俺たちを見ながらくすくすと笑う王の前に、震える男が引きずり出された。怯えて取り乱し命乞いをするが、無情にも兵士たちに押さえつけられる。

 アベール王は握った剣を彼の頭上にかざした。男の嘆願など少しも聞いていなかった。

 ルッツは押さえつけられる仲間を呆然と見つめている。抵抗や反抗ができないというよりも、最早その気力を全て失ってしまっているようだった。彼は絶望に支配されていた。

 その時、俺は唐突に彼が生かされていた理由に気が付いた。全身の毛が逆立つ思いがした。王は、ルッツの目の前で彼の仲間を一人づつ、次々に処刑していったのだ、と。リーダーである彼に、仲間の死を見せつけていたのだ、と。


「リートというのはどいつだ?」


 アベール王が歌うように言った。

 俺は全身の血が凍るような気がした。

 やはり何もかもが筒抜けになっていたのだ。


「貴様たちのリーダーなのだろう?」


 言った瞬間、剣は振り降ろされ、一刀で男の首は胴から離れたのだった。

 俺の身体が強張り、破裂しそうなほどに心臓が暴れていた。仲間たちの荒い息遣いに囲まれ、アベールの兵士たちの鋭い視線に晒され、王の残虐を目にして、俺の緊張はピークに達していた。

 だが、リートは自分だと名乗りでるのに、絶対に声を震わせて堪るものかと、懸命に息を整えた。

 二度大きく息を吐き、そしてキッと顔を上げる。

 隣にいたレイが俺を肘で小突き、小さく頭を振った。やめろとその目が言っていたが、今名乗らなければ俺をあぶりだす為に、仲間に危害が加えられるだろう。それだけは避けたかったのだ。


――ルッツの例がある。アイツは、絶対にみんなを殺して俺を苦しめてから殺すつもりなんだろう……。名乗った瞬間に殺されないなら、まだ勝機はある……。みんなを殺されてたまるか。

――ごめん、ニア。少し遅くなる。必ず行くから待っててくれ。


 ルッツが王の前に連れてこられた。

 彼の頬は涙で濡れていた。恐怖ゆえか悔しさゆえか、それとも絶望ゆえなのか、俺には分からない。ルッツの目には、もうこの世の何も映っていないような気がした。


「これで最後だ。もう一度だけ聞くぞ。リートはどいつだ」


 アベール王は、俺たちを眺めて回している。ほんのりと笑っているのが、無性に腹立たしかった。

 腹にぐっと力を込め、勢いよく立ち上がった。


「俺だ。俺がリートだ!」


 お前のような鬼畜に俺の心は絶対に屈したりしない、誇りは捨てないと、歯噛みして睨みつけたのだった。

 大門で縄をかけられたとき、剣を取り上げられたが、一つだけ奴らは見落としていたのだ。

 ブーツの中に隠していた短刀は、今、俺の袖の内側だ。

 腕を縛る縄も、もう既に緩めてある。

 決して諦めるものかと、俺は唇を噛みしめたのだった。

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