第16話 リートの想い=やっぱり憎めない

『あなたは戻ってこないわ! どんなに待ち続けても、戻ってこないのよ! 私は取り残されるの。一人で死んでいくのよ!』


 そう言って泣き叫ぶニアの姿に、俺は少なからず衝撃を受けていた。

 彼女は過去の記憶と今現在とを混ぜこぜにして混乱している。地震で家具の下敷きになった恐怖が、記憶の中の死の恐怖と重なってしまったのかもしれない。

 俺が戻ってくると信じられないのは、その記憶が原因なのだろう。俺は、火事の中に彼女を置き去りにしたらしいのだから。全く信じられないことなのだが。


 俺は今、ニアを見捨てるつもりなんてこれっぽちもなかった。祖母ちゃんを聖堂に預けたらすぐに戻って、彼女を運ぶつもりだった。当然すぎるほど当然にそう思っていたのだ。

 確かに昼間は派手に罵りあったし、殴り合い寸前までやった。記憶を取り戻したばかりで興奮状態だったのだと思う。しかし、今は多少気持ちは落ち着いたし、第一非常時なのだ。家は半壊状態なのだし。すぐに戻ると言った気持ちに何の迷いも嘘もない。


 俺の記憶の中の彼女は、手ひどい裏切りをした女だった。それを許したつもりも、無かったことにする気も無い。それでも箪笥の下敷きになったニアを助けることに躊躇は無かったし、揺れを感じた瞬間に思ったのはニアの無事を確かめることだった。もしも過去に火事の現場に俺がいたなら、絶対に助けに行ったはずだとも思う。

 彼女が死ぬかもしれないという場面を前にして、見捨てるという選択は俺には出来ないだろう。


――結局、憎みきれやしないんだ……俺は未だに……


 ガリッと唇を噛んだ。

 口でいくら別れるだのクソだの言ったって、心の底では彼女を切り捨てられないことを、自分自身の行動で証明してしまい、ひどくバツの悪い気分だ。

 その上、今生では仲良くやってきたじゃないか、もう過去のことは忘れてしまえばいい、ニアもすぐに忘れるさ、などと現実逃避しかけている自分が確かにいるのだ。悔しいことに。そんな甘い考えは通用しないというのに。


 ニアのこの取り乱した様子を見れば歴然としているじゃないか。身に覚えがなくとも、俺が彼女を炎の中に置き去りにして戻らなかったのは紛れもない事実なのだと。俺はニアを殺してしまったのだ。

 だから、彼女は俺を許しはしない。憎みこそすれ、再び愛情を示してくれるなんてことはないのだ。

 キリキリと胸の奥が痛い。歯噛みして、弁解したくなるのを堪える。違うんだ、何かの間違いだと言ったところで、俺にはその記憶が全くないのだから話にもならないのだから。


 行くなと言って泣くニアを俺は懸命に宥めるが、中々泣き止んでくれない。大丈夫すぐ戻るからという台詞に説得力はないようだったが、他にどうすればいいのか。

 俺は彼女の涙に焦り困り、信じられていないことや罵られることに傷つき、行かないでくれと懇願され縋られることに浅ましくも喜びを感じたり、そんな自分に驚いたり困惑したりと、要するに動揺しまくって冷静さに欠けていたようだ。

 馬のいななきを聞くまで、その存在を忘れていたのだから。


「あ…………」


 俺としたことが、間抜けもいいことだ。

 馬小屋を見つめて、俺もニアも黙りこくってしまった。馬はヒヒンヒヒンと鳴き続けている。さっきまで静かだったのに。もしかして馬も気絶してて今目が覚めた、なんてことがあるのだろうか。まあ、とりあえず声は元気そうだ。


「……いたんだったね」

「だな…………連れて来る。そのくらいならここで待てるな?」

「うん……」


 ニアは我に返ったようで、急にしおらしくなって俯いてしまった。少し恥ずかしそうに頬を両手で覆う仕草に俺は目が釘付けになって、さっきとは違う意味で歯噛みしてしまう。

 おまけに指で涙を拭いて鼻をすすりながら、チラリと俺を見上げる角度が絶妙すぎて、舌を噛みそうになった。こいつの上目遣いに俺はてんで弱いのだ。


――くっ、止めろ! 嫌よ嫌よ行かないでって泣いて縋った後に、それはイカン! 反則だ! 可愛いすぎかよ!


 少しムラっときてしまったが、バカップルモードを発動させる訳にもいかないので、取りあえず仏頂面で顔をそむけるのだった。




 俺は馬にニアを乗せ、気絶したままの祖母ちゃんを背負って聖堂に向かう。

 今考えなければならないのは、町の状況とか情報収集とか、今後の生活のことのはずだ。それなのに、ニアは今現在俺をどう思っているんだろう、なんてことばかり考えてしまう。


 箪笥の下から引っ張り出した後、思わず抱きしめてしまったが、「触んじゃねえよクソ野郎!」といつ嫌がって暴れ出すかと、内心ビクついていたのだ。が、予想に反して、彼女は余程怖かったのか俺にしがみついて泣きだした。だから、ついホッとしたというかグッときたというか、「大丈夫、ずっと側にいるから」なんてポロっと言ってしまった。じきに離婚するっていうのに。

 抱きしめながらも、ニアは助けられた手前文句が言えなくなってるだけで、本当は俺なんかに近寄って欲しくないって思ってんじゃないかと、不安は増す一方だった。


 ため息をつきつつ、トボトボと歩いていく。

 馬上のニアも時々深い息を吐くが、何もしゃべろうとはしない。

 無言のまま町の中心部に向かって進んでいくうちに、同じように避難しようとしている人が多くなってきた。今は暗くてよく分からないが、かなりの数の家が被害にあったのだろう。暗澹たる気分で歩き続け、そして聖堂へ到着した。

 

 聖堂もガラスが割れたりしていたが、建物自体は強固な石造りであったため、倒壊の心配もなさそうだ。

 中には灯りが煌々と灯されていて、怪我人や家が潰れてしまった人たちが既に何人か避難していた。

 俺たちもその仲間入りをして、壁際の一角に陣取り祖母ちゃんを寝かせるのだった。


「祖母ちゃん、怪我は無いみたいだな」

「うん」


 外傷はないが、未だに気を失ったままなのが気になる。医者に診てもらった方がいいだろう。続いて、ニアの足の様子を見ると、赤く腫れあがっていたが骨に異常はなさそうだった。

 俺は聖堂関係者が配ってくれた毛布を貰ってくると、ニアに渡した。

 とりあえず今は寝て、朝になったら医者を探しに行こう。


 祖母ちゃんの隣でニアが丸まるのを見てから、俺は聖堂の外に出た。

 聖堂前の広場を、多くの人が怪我人や家財道具を背負って右往左往していた。その様子をぼんやりみながら、俺は煙草に火をつける。

 もう日付は変わっているだろうが、今日は色々あり過ぎた一日だった。想定外のことだらけだった。初めての結婚記念日だったというのに。

 ディナーは散々だったし、ニアに贈るはずだったプレゼントも無駄になった。人気の仕立て屋に注文していた、あのウエディングドレス。もう用なしになってしまったから、食事の後もう他の人に売ってくれと言いに行ったのに、金を払ってそのまま預かっていてくれと頼んでしまっていた。

 俺はまだ式を挙げていないことがずっと気になっていたんだ。ニアのドレス姿がどうしても見たくて、ディナーの後でもう一度プロポーズして結婚式を挙げようと言うつもりだったのだ。

 あのドレスは無事だろうか。店が倒壊していたら、ドレスもきっと無残な姿になっていることだろう。


――いやいや、今更ウエディングドレスの心配しても仕方ないって……。もう、アイツが着ることはないドレスなんだし……。


 煙草の煙を大きく吸い込み、スゥーっと吐き出す。軽い酩酊感を味わいながら、空に昇ってゆく煙を見つめた。

 まったくやり切れない。

 仕立て屋を出たあと、村はずれの草地まで全力で走った。そして木の枝を見つけると、がむしゃらに素振りを繰り返して時間を潰した。酒を飲む気にもなれなかったのだ。

 また一服煙を吸い込み、大きく吐く。

 ズンと身体が重くなる気がした。身も心も疲弊しきてっていた。


――そういや、ピピは今頃天界とかいうとこにいんのかな。神様と相談してるんだろうか。この状況、なんとかなればいいんだがな……


「リート、どうしたでしゅか?! ニアは何処でしゅか?!」

「のわぁ?!」


 いきなり、足元で聞き覚えのある声がした。

 驚いて思わず二、三歩後退り、聖堂の壁にぶつかり強か頭を打ってしまった。

 うぐぐと呻いてしゃがみ込むと、あわあわと慌てて近寄ってきたピピが頭をよしよしと撫でてくれた。


「大丈夫でしゅか?」

「んあ、大したことない。って、いつの間に帰ってきたんだよ。ちゃんと天界に戻って神様と話してきたんだよな?」

「あ、はい。それはもちろんでしゅ。それよりリート、お家が潰れちゃってたので、ピピびっくりしましたでしゅ。呼びかけても返事もないし、少し中を覗いたけど誰もいないようでしたので、どこに行ってしまったのかと……死んでしまったのかと……」


 目を潤ませてピピが見つめている。

 あの家の惨状をみたら、彼女がビビるのも無理はない。


「で、探し回ったんだ? でも、よくここにいるって分かったな」

「一生懸命、リートとニアの匂いを嗅いできたのでしゅ!」

「…………犬?」

「ち、違いましゅ!」


 口を尖らせるピピの頭をわしゃわしゃとかき回して、俺は笑った。ピピの顔が見れて本当に嬉しかった。心から安堵していた。

 情けない話だが、この小さな天使に全幅に信頼を寄せてしまっていた。彼女にこの状況を何とかしてくれと頼もうというのではない。ただピピの笑顔が側にあるだけで、俺の心が救われるような気がするのだ。

 地震のことをかいつまんで話し、それから俺は少し迷った後、ピピに一つ質問をした。


「なあ、ニアの記憶の話聞いたんだろ? 火事がどうとかいうやつ。……俺、全然覚えてなくてさ。教えてくれないか?」


 ピピは少し首をかしげて考えていたが、すぐに小さく頷いた。


「そうでしゅね。お話してもいいとは思うのでしゅが、その前にリートが思い出した前世のお話を聞かせてもらってもいいでしゅか?」

「ああ、俺の記憶か……。ニアはこっちのことは覚えてないんだよなあ……」

「あい、そうでしゅ。お二人とも別々の過去世を思い出してしまわれて……。ピピが神様から聞いてきたお話と、お二人の記憶のすり合わせは明日ニアが起きてからしましょう。今はまず、リートのお話しをピピに聞かせて下しゃい」


 ピピはイニシアチブを取れる、お利口さんな幼女だった。

 思わずポカンと口を開いてしまったが、俺はすぐに煙草の火を消し頷いた。ピピと並んで聖堂の壁にもたれて座り、前世の記憶を語り始めるのだった。

 それは苦々しくて、でも今でも胸を熱くさせる恋の記憶だった。


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