第9話 そして胸が震え
年の瀬が近づいてきた。
定期試験が終わると、みんな急に浮足立ってくる。一大イベントを前にして、うきうきそわそわと落ち着かなくなるのだ。
生徒たちが心待ちにしているもの、それは冬至の日に行われる舞踏会だった。日頃あまり顔を合わす機会のない男子と女子が交流できる数少ない行事であり、年頃の生徒たちにとっては見逃せないイベントである。
この舞踏会でパートナーになってくれるようにと、男子は女子に申し込みのカードを贈る。そして、女の子たちは何枚カードを貰ったか、誰をパートナーに選ぼうかと、華やいだ顔でキャッキャウフフと話し合うのだ。
学園の中では女の子は希少価値が高いので、基本あぶれることはなくお気楽なものだ。必死なのは男子の方で、趣向を凝らしたカードを用意したり贈り物を添えたりするらしい。
それだけ必死にアピールしても、学園在籍中一度もパートナーに恵まれない男子も結構いるというのだから、世の中は厳しい。
私のもとにもお誘いのカードが届くようになってきた。やはりカルナの名は影響力が強いようだ。
しかし、私が待っていたのはミランからのカードただ一枚だった。よく知らない男の子とダンスなんてできない。だからミランと踊りたかったのだ。
でも彼からのカードは来なかった。日に何枚も、名前も覚えられない程届くというのに。
毎朝毎夕ミランと顔を合わせているのに、私はカードの話題を口にはできなかった。催促していると思われたくなかったのだ。ミランが既に意中の人にカードを贈っているかもしれないから。私のお守役をしなくてはと気を遣わせて、その人を諦めてしまう、なんて事態にだけはしたくなかったのだ。
近頃のミランはとても疲れているようだし、毎日登下校の付き添いをしてもらっているのに、これ以上迷惑はかけたくなかった。
ミランからカードが来なかったら、もう舞踏会は欠席しようと思っていた。
お昼休みの話題は舞踏会のことばかりだった。もう一週間後に迫っていたから、それも仕方のないことだったけど、私には少し気の重い話題だった。
私は何気なさを装って、楽しそうに話している友人たちの輪からそっと離れ、一人図書室へと向かった。
その途中で、不意に背後から声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのは学長だった。ビクリと肩をすくめてしまう。入学以来時折、声をかけられるのだが、正直あまり会いたい相手ではない。
学長はそんな内心には気づかぬようで、ニコニコと笑って私の目を覗き込んでくる。
「学園にも慣れたようですね。学長として、ニアさんが御勉学に励まれるようにこれからも良い環境を整えてゆきますから、遠慮なく何でも言って下さいね」
「あ、ありがとうございます」
学長の顔のあまりの近さに、思わず後退ってしまう。
優しく声をかけてくれるしいつも笑顔なのだが、私はどうしても彼に好意を抱くことができなかった。
ミランが言っていたのだ。私が入学するまでの学長のお気に入りの生徒はリートだったと。それが手のひらを返したように、私の機嫌を取るような態度に変わってしまったらしいのだ。いくら父から頼まれたのだとしても、あまりの変わり身の激しさだと思う。
シベリウスからカルナに乗り換えた学長の尻の軽さに、ミランは呆れながらも敵方につかれるよりはマシだからと、一応受け入れてはいたが。
私が学長に良い感情を抱けないのは、そういった事に加えて、なんだか妙に馴れ馴れしい態度のせいだった。先ほど後退った分、彼は距離を詰めて来る。
「もうすぐ舞踏会ですね。ニアさんの華やかに着飾った姿を見れるのが楽しみですよ」
「……は、はい」
笑顔を引きつらせて逃げ腰になっていると、不意に学長の手が伸びてきて私の髪を撫でた。生温かい指先が微かに耳に触れ、ゾワリと私は震えあがった。
「嫌!」
学長の手を振り払っていた。
ザザッと後ずさり、助けを求めるように周囲に目を走らせる。廊下の先に、丁度教室から出て来た人影が見えたことにホッとする。
学長はといえば、顔色一つ変えていない
「あ、失礼したね。髪に枯れ葉がついていたんでね。中庭の葉が窓から入ってきたんだろう」
「…………」
「驚かせてしまってすまなかったね」
声をかけて来た時と同じ笑顔でそう言った。そして小さな枯れ葉をポケットにしまうと、学長は去っていった。
私の思い過ごしだろうか。学長の顔はまるで何かに心酔しきった狂信者のように見えた。
平和な私の学園生活の中で、はっきりと不快なものがあるとしたら、それはシベリウスではなくむしろこの学長なのではないかと思うようになっていた。
夕刻、いつものように帰り支度をして馬車寄せに向かったが、ミランはいなかった。どんなに忙しくてもいつも先にきて、私を決して一人にしないように気遣ってくれていたのだが。
特に今日は学長のことを、ミランに早く話したかったので、彼の姿が見えないことにとてもガッカリしてしまった。
しかし、上級生はきっと舞踏会準備などで忙しいのだろうと、私は玄関ホールのベンチに腰かけて本を読みながら彼を待つことにした。
だが、しばらくして足音を響かせてやって来たのはミランではなく、なんとリートだった。走ってきたらしく、少し息が上がっている。
「久しぶりだね、ニア」
驚いて立ち上がり、私は本を落としてしまった。
リートは素早くそれを拾い、手渡してくれた。
どうしてだろう、いつもは帰りの生徒が何人もホールを通り過ぎるのに、今日に限って誰もいない。身体がカチンコチンに固まってしまう。警戒心丸出しで尋ねる。
「な、な、なんの、ご用で……」
「あのさ、とって喰いやしないから……。返事を貰いにきただけなんだけど?」
返事ってなんのことだろうと、目をぱちくりしていると、リートはクスリと笑った。
「ああ、やっぱり届いてなかったんだ。君にカードを贈ってたんだけどね。毎日出しても返事が来ない上に、今日どっさり返されたもんだからさ」
そういって、自分の鞄を開いて見せてくれた。分厚い本と一緒に、二十通近いカードが束になって入っていた。宛名はニア。
「まあ……」
驚いて、私はまぬけにもポカンと立ちつくしてしまった。なぜリートが私にカードを贈るのか、意味が分らなかった。
「さすがにカルナ邸には届けられなくて、女子部の事務職員に預けたんだけど、君には届かなかったようだね。何度もくれぐれも必ずって念を押したのに! しかもだよ、君に食べて貰おうと思って美味いって評判のカヌレやマカロンも添えてたのに。一体誰のお腹に入ったもんやら」
リートは早口でしゃべり続けた。
カヌレにマカロンか、食べたかったな。
「試験が終わってから、ほぼ毎日カードを贈ってたんだ。今日こそ返事が来るんじゃないかって、そわそわしっぱなしだったよ。あ、大丈夫。君がわざと無視してたんじゃなくて、そもそも届いてないんだろうって薄々分かってたから。まあ、
しゃべる程にリートの頬は上気していく。
「悪意なんてないんだ。君と踊りたいだけなんだ。歓迎パーティで初めて君を見てから、頭から離れなくなってしまって……。本当はあの時も君と踊りたかったんだけど、ミランに邪魔されちゃったからさ。今度こそ君を誘おうと思って」
リートはゴクリと唾を飲んで、それから大きく深呼吸した。
「ニア、俺のパートナーになってくれないか?」
じっと私を見つめて来る。
もう、胸がドキドキと鳴りっぱなしで、私はどうしたらいいのか分らなくて、目を逸らしてしまった。
なぜ彼が私にダンスを申し込んでくるのか、本当に分からなかった。
「エ、エマは? 貴方なら他にもいくらでも踊りたいっていう女の子はいるでしょう? 私の父はカルナ伯爵なのよ」
「俺が踊りたいのは君だけだよ」
リートはひざまずいて私の手を取り、恭しくお辞儀をした。
そして上目遣いで私を見つめる。
「本当はとても迷った。歓迎パーティでのことも、父の耳に入った時は随分叱られたしね。カルナと慣れ合うんじゃないって。だけど、俺には俺の考えがある。この学園を変えたいって思っている。だからあの歓迎パーティの時のように、今度は君と踊れば……。いや、違うな。ただ、俺は君と踊りたいんだ。大人たちの都合のせいで、諦めたくないんだ。叶わないとしても、思いだけは伝えたかった。……ニア、俺と踊ってくれないか? それからもしも許されるなら、ずっと君の隣にいさせて欲しい。父に逆らう覚悟はできてる……」
そういって、私の手の甲に唇を落とした。その唇はとても熱くて、震えていて、私の胸まで大きく震わせてしまった。
*
「しょ、しょれはその時ニアもリートのことを好きになった、ってことなのでしゅね?」
ピピが目をキラッキラさせて尋ねてきた。ニア
リートが本当に私を好きだったかどうかなんて、今となっては分からないのだ。第一、この時彼は「好き」という言葉は使っていなかったのだし。
「やっぱりお二人結ばれる運命だったのでしゅ! やっぱり前世でも惹かれ合っていたのでしゅね」
「違うよ。惹かれ合ってなんかないもん」
「でもドキドキしたって言ったでしゅよ。隠し事はしないのでしょ。本当のこと言わないとダメでしゅよ」
ピピはメッと私の顔を覗き込んでくる。
ぷにぷにのほっぺをぷくーっと膨らませて、プンプン怒ってみせたって、可愛いだけで全然怖くないから、つい笑っちゃう。
「……まあね。確かにあのときは、不覚にもときめいちゃったけど……」
気は進まなかったが一応仕方なく不本意ながら嫌々渋々、認めた。
父親に逆らってでも、なんて言われたらそりゃくらっときちゃうわよ。
束でカードも貰っちゃったし、話題になってる本と猫の絵のついた可愛いしおりもくれたし、この時はお菓子は無かったけど今度くれるって言うし、それも珍しい外国のお菓子だって言うし、いっぱいあるって言うし、すごく美味しいって言うし、好きなだけ食べていいって言うし。
別に食べ物につられた訳じゃないけど、押しに押されてついOKしちゃったのだった。
私のこと、そんなに好きなのかなってついつい思っちゃったのだ。
リートがシベリウス家の息子だってことも、関係ないような気になっちゃって。
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