対峙
第50話 穢れた聖地
「……う」
混濁する精神が、次第に清浄されていく。
ゆっくりと目を開けると、異様な空間が目に飛び込んで来た。
壁中が真っ白に塗られ、窓一つない部屋だ。天井の明りが弱いせいなのか、全体的に薄暗くて退廃的な雰囲気が漂う。広さはざっと見た限り、学校の教室を四つ繋げたほどはあるだろうか。まるで、巨大な人形の腹の中にいるかのような心地にさせられる。
その部屋の前方にいるのは、並んで正座をする大勢の人間。少なくとも五十名は超えるだろう。その誰もが、白い法衣を着ていた。その統一感が、社会から切り離された異質な空気を放つ。彼らは何やら念仏を唱えながら、正面の壁に向かって頭を下げている。壁に掛けられているのは、座禅を組んでいる男が描かれた、一枚の大きな絵。その左右の隣に、絵と同じ人を形作った像が鎮座していた。
何だ、こいつら。呪術の儀式でも行う気か? ここは、一体どこなんだ?
「起きたようですね」
すぐ隣から、四十代とおぼしき女の声が聞こえて来る。気づけば僕は、うつ伏せに寝かされていた。両手を前で縛られ、さらに上から身体を押さえつけられているらしく、身動きが上手く取れない。
「ここはどこだっ?」
「……我らの安息の地だ」
どうにか首を捻って見上げた先には、真っ白い法衣を着た男がいた。守岡誠だ。
「僕らをどうするつもりだ」
「……生贄は何も知らなくてもいい」
まさに寄りつく島もない、といった態度だ。その代わりに、隣の女が見下すように溜息を吐く。
「ふん、こちらのガキも色々と質問してきましたね。うるさいガキどもです」
法衣の女は、僕の隣に寝転ぶ何かを蹴飛ばしたらしい。うめき声が漏れたことから、どうやら人間のようだ。ガキと言ったな。ということは。
身体をねじって横を向くと、由香が横たわっていた。僕と同じく大人に身体を押さえつけられているが、どうやら意識はあるらしい。僕が目を覚ましたことに気付くと、首だけこちらを向く。
「月夜君っ」
「由香。ここがどこか分かるか?」
「分からねえ。だが、どうやら、ここが『螺旋の会』のアジトのようだな」
その言葉に、女が軽く鼻を鳴らす。声を聞くだけで、傲慢な性格が透けて見えた。
「アジトなどと、俗世の穢れた言葉を使わないでほしいですね。言ったでしょう、ここは安息の地だと。まぎれもなく聖地なのです」
「聖地。ここが?」
うすら寒いほどの恍惚とした声が、僕の肌を這いずる。
何だ、こいつら。安息の地とか聖地って、本気で信じているのか?
いや、それよりも夕奈や長瀬はどうなったんだ。無事なのか? 自分の胸の中心に意識を集中させる。すると、確かな熱があった。よかった、『糸』は切れていない。まだ十数キロメートルはこちらから離れているが、徐々に近づいて来ているのが分かる。つまり夕奈は、『糸』を辿ってここへ向かって来ているのだ。
「ふふ、助けが来るのを期待している目ですね。しかし、それは無駄です。ここは、あなたの住んでいた場所から遠く離れ、隣の県にありますから。少なくとも数日のうちに、ここを警察に突き止められることはないでしょう。おっと、こんなことを言ったところで、年端もいかない幼児には理解できませんか」
余裕たっぷりに、女が笑う。『糸』の存在を知らないのだから、当然か。今頃夕奈は、警察と一緒にいるのだろうか。
「同じマンションに住む人間を、わずか数日のうちに何人も誘拐する。そんな強引極まりない犯行をしでかすんだから、隠れ場所には自信があるってわけか」
「おや。見た目よりも、ほんの少しは知恵が回るガキですね」
こんな奴らに褒められても、嬉しくも何ともないが。こちらを馬鹿にしている内心を、隠そうともしていないしな。
「由香」
そこへ、目の前に別の人間が現れる。間違いない、茂木夫妻だ。こちらも白い法衣をまとっている。
「由香、喜びなさい。お前は選ばれたんだ。崇高な研究の礎となるためにな」
「あなたの犠牲は無駄にしないわ。私達、あなたの分も来世できっと幸せになるからね」
勝手なことをヌケヌケと言う茂木夫妻。その目からは微塵も躊躇の色が見られない。
つまり、こいつらは実の娘を、父さんの実験の被験者にするつもりなのか!
あまりの身勝手な話に我慢できず、僕は口を挟む。
「あんた達の娘だろ、どうして危険な目にあわせようとする」
「私達は、来世を幸福に生きたいの。そのためなら、他の全てを捧げてもかまわないわ。次の人生には、それだけの価値がある」
茂木妻の表情は、恍惚としたものだ。自分達の言動に、全くの疑問を抱いていないようだった。
「自分の来世のために、他の人間を犠牲にするのか!」
「うるさい! ガキが偉そうに説教をするな。大人の抱える苦しみが分からないから、そんなことが言えるんだ。他人に足を引っ張られ、裏切られ、嘲笑われた経験がないガキに、俺達の気持ちが分かるものか」
隣に立つ茂木夫が、わめき散らす。寝転がっている僕の頭を、ブーツで思い切り踏みつけた。
「皆、現世で辛い目に会っている。だから、来世でこそ幸福になりたいんだ。それのどこが悪い。私達は、現世で他者に踏みつけられて生きている。だから、来世では他者を踏みつけてでも、幸福になる権利が俺達にはあるんだ!」
茂木の周囲にいる他の信者達も、「そうだ、そうだ」と同意の声をあげた。どいつもこいつも、自分達の行いが正当だと信じ切った目をしている。どうやら、本当に「来世で他者を踏みつけてでも、幸福になる権利」とやらを、自分達は持っていると本気で考えているようだ。そのためなら、いくらでも手を汚す。不気味なまでに一体化した彼らの表情を見て、僕は反吐が出そうだった。
「そんなことっ」
僕が言い返そうとすると、僕を上から押さえつけている守岡がそれを遮った。
「茂木……お前達には、次の任務が与えられた」
「任務、ですか? 聞いていませんが」
「ああ……決定したのは今朝だが、肝心のお前達に告げるのはこれが初めてだ」
ボソボソと聞き取りづらい声。対する茂木夫妻は、欠片ほども疑いを抱いていないようだ。それを知ってか知らずか、守岡は淡々と告げる。
「お前達には……次の実験の生贄になってもらう」
「――え?」
その可能性はさすがに予想もしていなかったのだろう、茂木夫妻は揃って目を点にした。一方、他の信者達は前もって聞かされていたのか、特に驚いていないようだ。
「は、ははは。じょ、冗談ですよね、守岡さん?」
「……俺は冗談が嫌いだ」
「だ、だって生贄のために、このガキを連れて来たんでしょう。それに私たちは、娘の由香まで捧げると進言したんですよ。今回は、これ以上の生贄はいらないはず」
「……無論、このガキどもは今日の生贄に使う……それとは別で、だ」
鋭い氷刃のごとき守岡の眼差しに心臓をえぐり抜かれ、茂木夫妻の膝が小刻みに震えた。
「ここ最近の成果によって……博士の研究はさらなる飛躍を遂げられた……近々、今までよりもさらに大きな実験をなさろうとしている……そのためには、成人した生贄が何人か必要だ……生贄の調達はするが、警察が捜査の網を張っているせいで限度があるだろう。……そこで、お前達に白羽の矢が立った」
「そ、そんな。私達は今まで、組織のために貢献してきたんですよっ!」
「神楽崎恵美をさらうことは……お前達にも知らせてあったはずだ……それなのに、実行部隊を動かして……神楽崎恵美と同じマンションに住む人間を拉致したのはお前達だ。あの女が女優として有名で……マスコミが近所で騒ぎたてることは、容易に予想できたはずなのに、な」
なるほど、村上氏を拉致したのは茂木夫妻の独断だったわけか。失態を犯した者には、すぐ罰を与える、と。だが、そうまでして母さんや僕を拉致した理由は何だ? 確か、マンションでの襲撃の際、僕のことを「交渉材料」と表現していたな。
「……博士の次の実験には、若い男女の肉体が必要だ……特に、子を産むための強い母体がな……昨日拉致した女は、普段から不摂生な生活を送っていたらしく、身体が壊れかけていた……そのせいで不適格だっだが、幸運にもお前達は適格と判断された……今までご苦労だったな」
守岡が顎をしゃくると、茂木夫妻の背後に四人の男が現れる。当然、茂木夫妻は逃げようとするが、それより一手早く男達が茂木夫妻の両肩を掴んだ。
「……連れて行け」
法衣の男達は茂木夫妻を連れ、部屋を出て行く。もがく茂木夫妻を引きずる様子は、奴隷を連行する奴隷商人を連想させる。あまりに哀れで、僕にはかける言葉が見つからない。
「い、嫌だ、嫌だぁっ!」
「助けてぇっ!」
茂木夫妻の惨めな叫びが、部屋の中に残された。彼らの末路についてなどまるで興味はない、と言わんばかりに、守岡は部屋の扉に背を向ける。
そうして、法衣の内から一枚の写真らしき物を取り出した。
「……これで、博士の研究がさらに推し進められる……そうすれば、お前達とまた会えるんだ。信太、雅美、伸子……もうすぐだ。もうすぐだからな」
こみ上げる喜びを喉元で堪えるように、守岡は震える声で呟く。
床の上に転がされているこちらからでは、写真の中身を覗くことができない。だが、誰が写っているのかは容易に想像できた。
守岡が持っているのは、三十年以上も前に死んだ自分の家族の思い出。息子と娘は自殺し、妻は病で逝った。残された守岡が今でも、その写真を大事に持っているということは、彼はまだ過去に囚われていることを示している。
「お前達の笑顔が見たい……もう一度、お前達と生きたい……そのためなら俺は、どんな犠牲でもはらってやる……」
守岡は、愛おしげに写真を抱く。鋭く、深みのある瞳の奥、冷たい鋼を思わせる印象の向こうに、狂気すら感じられるほどの深い愛情が垣間見えた。このまま進めば、この男は深い地獄の底までも堕ちていくだろう。
どうする、今この場で守岡信太のメッセージを伝えるか。迷いがトグロを撒いて、僕の脳裏に巻きついていく。早くしないと、ここにいない母さんの命が危ういのではないか。それに隣にいる由香も、いつまで生きていられるか。
焦りで口を滑らしそうになり、血が滲むほど唇を噛み締めることで堪える。
いや、まだだ。まだ、そのときではない。守岡信太は、父さんが一緒にいる状況で話さなければ効果はないだろう、と言っていた。おそらく、チャンスは一度きり。失敗すれば、家族を侮辱されたとして、僕は守岡に殺されるかもしれない。だからこそ、父さんが来るのを待つんだ。
歯がゆさと苛立ちで、心がねじ切れてしまいそうだった。
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