第44話 残酷な選択

 夕奈が迎えに来たのは、午後六時半を過ぎたころだった。夕奈がこちらに向かってきていたことは、『糸』の反応で分かっていた。


「月夜、元気にしていたかい?」


 朝と変わらぬスーツ姿で教室に現れた夕奈は、顔を合わせるなり僕を抱き上げる。そのまま強引に自分の胸に引き寄せた。ほとんどの園児が保護者と一緒に帰ったとはいえ、まだ残っている者もいる。人目もはばからない夕奈の大胆な行為は、かなり恥ずかしい。


「く、くるしい、夕奈」

「え、何だって、月夜。ボクには聞こえないな」


 舞台女優のような仰々しい笑みと共に、夕奈は僕の耳に口を寄せた。


「……人前では、『おかーさん』と呼びなさい」

「お、おかーさん」

「よろしい」


 そうして、ようやく夕奈は僕を下ろす。保育士の人はその様子を、苦笑しながら眺めていた。他の家族も同じことをしているのか、あるいは夕奈だけなのか。……後者のような気がする。


「お仕事お疲れ様でした」

「いえ、こちらこそ今日も一日、息子を預かってもらって、ありがとうございます」


 夕奈が保育士の人と、丁寧に頭を下げ合う。それから僕の手を優しく握った。結ばれたその手に視線を向けながら、保育士が真剣な顔つきに切り替える。


「神楽崎さん。園長から、月夜君の事情は聞きました。当園は、子どもを分け隔てなく育てる、という立場を崩すつもりはありません。ですから私達保育士は全員、月夜君の味方です」

「本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」


 そう言って、夕奈は改めて深々と頭を下げた。

 どうやら明日からは、保育士の人達にフォローをしてもらえるようだ。今日一日、幼児の演技をして、かなり疲れてしまったからな。正直言って、助かる。


「さあ、帰ろうか」


 親子二人で保育園を出て、すぐ隣にある駐車場へ向かう。真夏とはいえ、もう日が沈みかけているせいか、駐車された車はほとんどない。そんな中、端で隠れるように、夕奈の自転車が駐輪してあった。


「さて、と。家に帰ったら、七時ごろか。早く夕食を作らないといけないね。今日はハンバーグだよ。朝斗は好きだったよね? ちなみに、月夜も大好きなメニューなのさ」

「ほう」

「あの子が、美味しそうにハンバーグを食べる姿。それを見ていると、ボクもつい笑みがこぼれてしまうんだ。もう、その場で抱きしめたくなるくらいに、可愛くてね」


 幼児が旨そうに食事する姿というのは、愛らしいものだ。それが血の繋がった息子なら、なおさらのことだろう。


 わざとらしいまでに明るい夕奈の口調から、僕は彼女の心の揺らぎを察した。


「本題はそれじゃないんだろ」


 僕がそう言うと、夕奈は喘ぐように口を開いては閉じた。薄く張った氷の上に、一歩を踏み出すべきか、迷っているかのように。それを見上げる僕の方も、夕奈が何を言いたいのか、何となく気付いていた。だから、そっと背中を押してやろう。


「僕なら大丈夫だ、言えって」


 僕の言葉で、少しは胸が軽くなったのか。夕奈は頷き、深呼吸を一つした。それから、真剣な面持ちでこちらを見つめてくる。


「ボクはやっぱり、『月夜』の人格を取り戻すための研究をするよ。同時に、『朝斗』や他の人格を完全に眠りにつかせるための方法を探す。次に生まれ変わっても、二度と前世の人格が出てこないように。今朝、君に叱咤してもらって、今度こそ覚悟を決めた」


 夕奈は、僕の手を強く握り締める。今日一日ひたすら迷いぬき、このことを決断したはずだ。兄と息子を両天秤にかけての二者択一。辛い選択をさせたことを、僕は改めて思い知った。


 夕奈の艶髪がぬるい風でなびく。彼女の表情には、苦衷が色濃く滲んでいた。


「ごめんね、朝斗。ボク、ワガママを言っているね」

「そんなことはない。それでいいんだ」

「『ぼくを、うんでくれて、ありがとう』か。こんなダメな親なのにね。でも、そんなことを言われてしまったら、母親としては頑張るしかないじゃないか」


 夕暮れの中で瞬く一番星を見上げながら、夕奈は念じるように呟く。痛みを乗り越えようとするその美貌を見上げながら、僕は改めて思う。


 こいつと、いつまでも寄り添いたい。月夜にこの身体を返してからも、二人の行く末を見守りたい。その願いが胸の内で強まっていくのを感じる。もしかすると、それこそが夕奈の告白に対する答えの、大きな鍵なのかもしれなかった。


 と、そこへ水を差すように、携帯電話の着信音が鳴り響いた。


「長瀬さんからだ。何の要件だろう」


 細首をかしげながら、夕奈がスーツのポケットから携帯電話を取り出した。


「はい、もしもし神楽崎です。……うん……え……そん、な……本当なのかい!?」


 相槌を打つごとに、夕奈の表情が凍りついていく。長瀬からの声は僕に聞こえないが、どうも良くない報せらしい。しばらく話しこんだ後、夕奈は電話を切る。


「何の話だったんだ?」

「……お母さんが、何者かに誘拐された」


 思わず耳を疑う。何かの冗談かと思いたかったが、夕奈の声は大まじめだった。


「大学病院から帰る途中、複数の男によって車に押し込められ、連れ去られた……って。目撃者から話を聞いた限りでは、犯人グループの中に例の守岡誠の姿もあった。他にも、お母さんの同僚の研究者達も誘拐されたらしい」

「そんな」


 守岡誠が誘拐に手を貸していた、ということは。つまり犯人グループは、例の「螺旋の会」とかいう新興宗教の連中なのか? 


「とりあえず、一度家に帰ろう」

「だが、このままじゃ母さんは、父さんの実験に利用されるぞ!」

「けど! ボクら一般人には何もできないんだよっ」


 いつになく声を荒げる夕奈。それからすぐに我に返り、静かに息を吐く。


「とにかく、家へ帰ろう。お母さんのことについては、長瀬さん達警察に任せるしかない」


 夕奈はしゃがみ込んで、僕をぎゅっと抱きしめた。その目に溜まった涙をぐっと堪え、声を絞り出す。


「もう、これ以上大切な人を失うのは、嫌だよ」


 十四年前、「朝斗」の死を目の当たりにした夕奈は、自分の家族を失う恐怖と自分の無力さを知っている。それに『螺旋の会』といえば今朝、近所に住む人間が連中によって殺されたばかりなのだ。最悪の可能性が、頭の中で渦巻いているに違いない。

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