第43話 決意する弱虫の猫
僕らが近所の保育園に入ると、あちこちから突き刺すような視線をいくつも感じた。
「……今日も来たわね、神楽崎さんとお子さん」
「……犯罪者の家族でしょう? その血を引いているんだもの、怖いわ」
「……うちの子を襲ったりしないかしら。心配ね」
どうやら視線の主は、子どもを預けに来た保護者達であるようだ。どいつもこいつも、高圧的で厭味ったらしい。友好的とはお世辞にも言えなかった。
「……今朝、そこの公園で太一君のお母さんが死んでいたでしょう。あの件も、『螺旋の会』が関わっているって話よ」
「……うわ、怖い。うっかり目を合わせたら、ウチも殺されかねないですね」
今朝の事件は、既に噂として広まっているようだ。テレビでも報道されていたらしいから、当然か。保護者達の口調は、心底恐れているというよりも、嫌味を言うための話題を口実にしているだけのように感じられる。僕の隣で保育士と話す夕奈は、一瞬顔に陰りを見せた。だが、すぐに芝居がかった笑顔に切り替える。
「それではお願いします。それと、園長先生はいらっしゃいますか」
「はい、園長でしたら今は職員室にいます。何か御用でしたら、呼んできますよ」
「少々込み入った話になりますので、できれば二人きりでお話したいのですが」
どうやら、園長に僕と月夜のことを説明するつもりらしい。対する保育士は特に疑いの色を見せない。
「それでしたら、談話室が空いております。私の方から園長に話を通しておきますよ」
「ありがとうございます」
申し訳なさそうに頭を下げる夕奈に、保育士は朗らかな笑顔を返す。
「いえいえ、気にしないでください。ほら、月夜君、お母さんがお仕事に行くよ。いってらっしゃいって言おうねー」
保育士の人が、僕の目の高さまでしゃがんだ。僕は幼い手を、夕奈に振ってみせる。これが今の僕にできる、せめてもの勇気づけだ。
「おかーさん、いってらっしゃい」
「うん。ありがとう月夜。お仕事頑張って来るね」
そう言って夕奈は、僕の頭を優しく撫でる。それから保育士の人に会釈し、園舎の奥へと歩いて行った。残された僕に、保育士が明るい笑みを向けてくる。
「さあ、月夜君。今日は何して遊ぼうか」
「えっと、お絵描き」
「そっか。じゃあ、あそこへ行って、クレヨンと紙を持ってきてね」
保育士の人が指し示したのは、教室の後ろのロッカーだ。おぼつかない足取りながら、小さな足で僕は走る。クレヨンと画用紙を取り出し、教室の隅の方に陣取った。ここなら、他の園児は来ないだろう。夕奈が迎えに来るまで、目立たないように時間を潰そう。
えっと、何を描こうかな。ここは、無難に風景画にするか。
窓の向こうに見える街並みをモデルに、クレヨンで描き塗る。クレヨンなんて使うのは、随分と久しぶりだから、使いづらい。それでもどうにか白い紙を埋めていく。そこへ保育士の女性が現れ、隣に座り込んで来た。
「月夜君、何を描いているの? 先生に見せてくれるかな。……って、え、ええっ! すごく上手いわっ。これ、本当に月夜君が描いたの?」
「……うん」
遠慮がちに頷く僕(もちろん演技だ)に、心底感心した風に目を見開く保育士の女性。
「上手いなんてものじゃない。これが五歳児の描いた絵なの? そんな、つい一昨日までの月夜君の画力とは思えないわ」
しきりに感心する保育士の女性。しまった、何の考えもなく描きすぎた。夕奈が談話室へと向かってから、まださほど時間が経っていない。さすがに、園長から保育士の人達へと、話が行き渡っていないだろう。これでは、疑惑の視線を向けられ、面倒なことになりそうだ。……と思ったのだが、保育士の女性は素直な笑みを浮かべている。
「月夜君、凄いわっ。才能が花開いたのね」
どうやら、全く疑われていないようだ。それはともかく、褒めてもらえるのは嬉しいのだが、これはさすがに恥ずかしい。返してもらおうと必死に手を伸ばすが、大人と子どもの身長差のため、まるで届かない。
「これなら十歳の子が描いたって言っても信じるわ」
ぐ。十歳、ですか。「朝斗」は享年十五歳だったのに。
「ちょっと見て下さい、この絵を!」
「あら上手。誰が描いたの?」
「月夜君ですよ! 今さっき描いたばかりなんです」
「本当に? 本当に月夜君が描いたの? 信じられないわ」
騒ぎを聞きつけた他の保育士の人達が集まって来た。みんなが驚き、感心する。
「この絵は、今日の帰りにお母さんに見せてあげましょうね、月夜君」
心からであろう笑顔に、僕は頷くしかない。
「あれ、どうしたのかな月夜君。ムスッとしたお顔して。珍しいね」
「あ、なんでも、ないよ」
まずい、つい地が出てしまった。笑顔、笑顔、と。
それにしても、この絵を夕奈に見せるのか……。夕奈は、僕の絵の下手さをよく知っている。この絵を見たら、喜ぶよりも先に苦笑するだろう。
絵を取り上げられ、一人残された僕。仕方がない、これ以上絵を描くのはやめておこう。他に何をして時間を潰そうか。と、後ろから誰かに背中を蹴られ、思わず前のめりに倒れる。振り返ると、五人の幼児が立っていた。顔つきを見た限りでは、全員が月夜よりも年上だろうか。
「おい、月夜。先生に褒められたからって、いい気になってんじゃねえぞ」
男児が僕の胸倉を掴み、睨む。当然ながら、あまり迫力はないが。同時に他の幼児達も、僕をゾロゾロと取り囲んだ。どいつもこいつも、見るからに世の中を舐めていそうな顔をしている。もちろん、偏見だが。
「なあ、いつもみたいに月夜で遊ぼうぜ」
「今日は何して遊ぶ?」
「一昨日みたいに、サンドバッグにしよう」
ワイワイと好き勝手に言い合う幼児達。
どうやら月夜は、根っからのいじめられっ子だったらしい。夕奈の話では、亡くなった村上氏の息子からも、イジメを受けていたという話だし。それに先ほども、園児達の親が月夜や夕奈の悪口を言っていた。それを園児達は、家で聞いているに違いない。子どもは親の言動をまねる。親が月夜の悪口を言えば、園児達も月夜をバカにし、苛めてもいい存在だと思ってもおかしくはない。
「やっちまえ」
リーダー格らしい男児の号令で、園児達が僕への攻撃を開始する。僕を羽交い絞めにし、身動きできないところへ腹を殴った。
僕も「朝斗」だったころ。言いたいことを上手く言えず、クラスメイトから疎んじられ、距離を置かれていた。だから心ない攻撃が、どんなに当人の心を抉るのか身に沁みている。
「やめて、よ」
僕は願い出るが、いじめっ子達はそれを嘲笑する。
「うるせえ、お前は大人しく俺達のサンドバッグになっていればいいんだ」
「キャハハ。お前は、俺達のオモチャなんだからな」
文字通り玩具を壊すような感覚で、いじめっ子達は僕をリンチする。攻撃をガードしようとするが、肝心の手の自由を奪われているせいで、それもできない。腹を殴られ、金的を受け、顔をなぶられる。
「見ろよ。こいつ、弱っちい猫みたいな顔してるぜ」
「ホントだ。祖母ちゃん家で飼ってる猫を蹴飛ばしたら、同じ顔するぞ」
「泣き虫の猫だ。おい、ニャーって鳴いてみろよ。そしたら、許してやるぜ。はははっ」
いじめっ子の一人が、僕の顎を乱暴に掴む。人間が、ペットに対して上下関係を叩き込むように。昔、似たような罵倒を、誰かに浴びせられた覚えがある。当時の僕は、やられるがままだった。今度も同じく蹂躙されてしまうのか。
そうやって諦めかけたとき。脳裏に夕奈の言葉が蘇る。
(それでも君には、あの子と一緒の時間を、ほんの少しでいいから過ごしてあげてほしいんだ……っ!)
夕奈は、こんな僕が存在することを望んでくれている。ならば僕は、あいつに何をしてあげられる? 一見強そうで、実際は脆く、そしてひた向きに足掻き続けるあいつに。
思い出せ。あいつは誰を守るために、歯を食いしばって生きてきた? 何を支えにして、今にも泣き出しそうな心に鞭を打ち、前を向いて歩いてきたんだ?
(おとーさん)
魂にそっと触れる、あどけない声。
月夜。僕と、夕奈の息子。
あの子と夕奈は、母さんと共に、世間の冷たい目に耐えながら生きている。その原因は、僕が父さんの実験に「嫌だ」と言えなかったからだ。全ての元凶は、僕の精神が弱かったせい。それは、揺るぎようのない事実だった。
いや、だからこそ……だからこそ、僕も強くならなければいけないのだ。守りたい存在を、今度こそ守るために。自分を変えたい。あの子を抱きしめながら、そう強く思ったばかりだろうが。
(だからね。こんどは、ぼくが『ありがとう』っていうの。こんなぼくでも、おかーさんに、ゆうきをあげられるのなら。ぼくは、いきたい)
勇気なら、僕ももらったはずだ。あの夢の中で、確かに受け取った。それなのに、いつまでも情けない姿を晒していられるものか。
夕奈、月夜。僕は誓う。今度こそ、弱い自分という現実と向き合って、前へ進むと。
「僕は……」
そうだ、胸の奥から決意を吐き出せ。
「ん? 何だよ、月夜。何か文句でもあるのかよ。それとも、皆の前で泣いちゃうか?」
「僕は、変わるんだっ!」
教室内に轟くほどの声で吠え、己の心を奮い立たせる。
沸き立つ勢いに身を任せ、後ろから羽交い絞めにしている園児の足の甲を、思い切り踏みつけた。それから脛を蹴りつける。
「いてっ、何すんだ」
歳が違うとはいえ、所詮は同じ幼児の力。加えて、こいつらは完全に油断をしているから、僕が暴れたらどうにか振りほどける。続いて、自由になった手で、目の前に立つ男児の腹を思い切り殴る。鍛えられていない腹筋なので、たやすく拳がめり込んだ。一発は一発だからな。お返しだ。
さらに僕は、リーダー格の男児に飛びかかった。マウントポジションを取り、顔を殴る。子ども特有のふっくらとした柔らかい頬に、僕の小さな拳がえぐり込んだ。
「ぐぶっ!」
さっき、僕のことを弱っちい猫と言ったな。大人しい猫でも、人間に対して反旗を翻すときがある。爪を立てて、牙を剥くこともあるのだ。
「こいつっ!」
「やったなっ!」
いじめっ子達も、まさか月夜が反抗するとは思っていなかったようだ。しかし、自分達のリーダーをやられては、黙っていられないらしい。僕の攻撃を止めようと、後ろから背中を蹴ったり顔を殴ったりする。それでも、僕は止まらない。
「こらー、止めなさいっ」
騒ぎに気付いた保育士の人が仲裁に入る。仕方なく、僕らは喧嘩をやめた。
「君達、また月夜君をいじめていたの?」
「ち、違うよ、先生。月夜の方から殴って来たんだ」
「先生も見たでしょ。月夜が殴ってたところ」
保育士の人に、園児達が偽の事情を説明する。もちろん、普段の月夜の性格を知っているなら、そんな嘘を信じるはずがない。だが、保育士の人にも公平性というものがある。
「月夜君、本当?」
「え、あ、えっと」
僕がどう説明しようかと内心迷っていると、予期しないところから助け船がやってくる。
「先生。オレ――じゃなくて私、月夜君が苛められるところを見ました」
「由香ちゃん」
先生が振りかえった先にいたのは、一人の女児だった。昨日、自宅を訪れてきて誕生日を祝ってくれた由香だ。
「オレ――じゃなくて私、全部見てました。この子達が月夜君を羽交い絞めにして、お腹を殴ってたところを。そうしたら、月夜君が反撃に出たんです」
由香の説明は、幼児とは思えない理知的な話しぶりだ。自分のことを「オレ」と言いかけるのは、妙に引っかかるが。身にまとうそのワイルドなオーラは、十歳から十五歳ほど年上に感じられる。
「おい由香、関係ないやつは引っ込んでろ」
「そーだ、そーだ」
いじめっ子達がブーイングを飛ばすが、由香は全く聞こえていないかのように無視をする。それを見かねた保育士の女性が、間に割って入った。
「ほらほら、喧嘩しないで。みんな、仲直りしましょう。こんなときは、どうすればいいんだっけ?」
「……ごめんなさい」
見るからに嫌嫌といった風に、いじめっ子達は僕に謝罪の言葉をかける。仕方なく、僕も頭を下げた。それを見た保育士の女性が「うんうん」と頷き、その場はとりあえず収まった。まあ、こんなことで完全に解決したはずがない。いじめっ子達もこちらを睨んでいるし。禍根を残したまま皆が解散し、教室中に散らばっていく。それを見計らってか、先ほどの由香が僕に駆け寄って来た。
「ごめんな、月夜君。オレ――じゃなくて私、止めようと思ったんだけどさ。その前に、月夜君があの子達にやり返したから、チャンスを逃しちまった」
「あ、うん。それはいいけど」
何だか、不思議な少女だ。どう見ても可愛らしい女の子なのに、まるで男子が女装させられているかのような雰囲気を持っている。なんというか、物心つくかどうかの女の子にしては、やや荒っぽいのだ。その一方で、先ほどの保育士の人に対する説明ぶり。本当に幼児かと疑いたくなるほどの聡明さだった。一体、どれがこの娘の本性なんだ?
「一緒に遊ぼうぜ、月夜君」
そう言って、由香が幼い手を差し出して来る。月夜にとって大切な友達であるのなら、僕がここで二人の仲に亀裂を生じさせるわけにはいかないな。気弱そうな笑顔を作り、由香の手を握り返す。
「う、うん。由香ちゃん、遊ぼ」
「何しようか。積み木かな?」
由香に手を引かれ、僕は教室の隅へと向かった。積木置き場では、既に何人もの幼児達がそれぞれの作品を作っている。
そんな様子を眺めていた保育士の人達が、疑うように首をひねっているのが見えた。
「……由香ちゃん、ここ一カ月でえらく雰囲気が変わったね。急に男の子っぽくなった」
「……さっきの月夜君にも驚かされましたよ。まさか、あの子が喧嘩するなんて」
「……何ていうか、最近の由香ちゃんも今日の月夜君も、すごくぎこちないわよね」
「……まるで、二人とも突然、心だけ大人と入れ替わったみたいですよね」
「……あはは、まさか。でも、急に大人びたわね。月夜君の画力も恐ろしく上がったし」
内心ヒヤヒヤしつつ、僕は由香と一緒に積み木を取りに行く。すると、由香が何でもない風にこちらに振り返った。
「さっきの喧嘩を見てて、思ったんだけどさ。月夜君、一昨日までと比べて、いきなり心が強くなったな。絵もすっげー上手くなってるし。気づいてたか? 絵を描いてるときの君、普段からは考えられないくらいの、すっげー仏頂面だったぜ。君のあんな顔、見たことねえよ。なのに、描き終えて大人と話しているときは、コロッと大人しい子どもの顔になってた。でも、無理して子どものフリをしてるような、違和感がバリバリだ」
「え、それは、その」
「今の君は、本当にあの月夜君か? まるで、前世の記憶を思い出したみたいだぞ」
荒々しい笑い声。僕は、背筋が凍るような感覚に襲われた。……何だ? この子は何を言っているんだ。戦慄する僕に気付いているのか、いないのか。由香はニッと笑う。少女のものとは思えない、獣のような野性味のある笑みだった。
「何てな。さ、積み木しようぜ」
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