螺旋は死者の山を築く

第41話 新たな犠牲者

「起きて、起きるんだ」


 身体を優しく揺すられ、僕はゆっくりと目を開いた。視界の真正面には、端麗な顔を強張らせた夕奈がいる。昨日から変わらぬパジャマ姿だ。


「いいかい、君の名前は何というんだい?」

「……何を今更」

「いいからっ」


 夕奈の黒曜石の瞳は、あくまでも真剣そのものだ。重い眼をこすりながら、僕は仕方なく答える。


「白鷺朝斗だ」


 すると、夕奈はようやく胸を撫で下ろした。まだ脳が起きていないこちらには、まるで話が読めない。上半身をゆっくりとベッドから起こしながら、夕奈を見上げる。


「一体、どうしたっていうんだ?」

「どうしたじゃないよ、まったく」


 呆れ返ったようにため息を吐いた夕奈は、僕を自分の胸に引き寄せた。彼女自身が生まれつき持つ、清楚な芳香に僕は包まれる。


「今の君は記憶の倉庫の鍵が壊れている、という話を昨日しただろう。今の君の魂は、とても不安定なんだ。いつ他の人格と混ざってもおかしくないんだよ」


 この特殊な状況が、いつ終わってもおかしくない。「さよなら」も言えずに、また夕奈の前から姿を消してしまう恐れがある。そう再認識すると同時に、僕の脳裏を昔の記憶が過る。


 十七年前、父さんと母さんの離婚で離ればなれになったとき。「また会おうね」と僕達は約束を交わした。長期の休みの度に会いに行っていたが、別れるときにはやはり「また会おうね」と言った。それでも会える時間が足りないと感じていたのだろう。同じ高校に受験合格できたときに、こいつは至福の表情を浮かべていたのだ。ずっと一緒にいられることを、心から喜んでいた。


 そのわずか数週間後。僕は「待っていてほしい」と言って、夕奈と別れた。それなのに、約束を果たすことなく死んでしまったのだ。


「すまなかった」

「本当に申し訳ないと思っているかい?」

「ああ」


 そう言うと、ようやく夕奈は僕を離してくれた。彼女の流れるような長い黒髪に、窓から差し込む柔らかな陽光が滑る。銀猫の髪飾りは、いつものように彼女の髪に添えられており、眠そうに顔を前足で洗っていた。


「さあ、早く起きないと、保育園に遅刻してしまうよ」


 そういえば、そんな予定だったな。覚醒しきっていない脳を起こすため、幼顔を軽く手で叩く。


 夕奈が寝室を出て行き、僕もベッドから出る。それから、すぐ傍の机上に頑張って手を伸ばし、置かれている写真立てを手に取った。昨日も見た写真。「朝斗」が夕奈と一緒に写っている写真だ。


 僕は過去の人間。本来、時の止まった写真の中で存在するはずの男。

 この時間は本来、月夜が歩むべきものだ。それなのに僕は、月夜の現実を奪って存在している。そのことを、改めて胸に刻んだ。


(おとーさん)


 ふと、夢の中で会った月夜の幼い声を思い出す。はたして、あれは本当に夢だったのだろうか。それとも――


「朝斗? 朝ごはんができているよ」

「ああ、今行く」


 キッチンに入ると、母さんの姿はなかった。仕事で既に家を出たようだ。僕らは二人で朝食を食べ、トントン拍子で歯磨き。次は着替えだ。


 ……なのだが。


「おい、これはないんじゃないのか」


 保育園の制服に着替えた僕は、思わず文句を漏らす。

 僕が着ているのは、半袖の服だ。上下ともに水色に染められており、幼い身体にフィットしている。だが問題は、胸につけられた名札だった。赤いチューリップを形作った、実に子供っぽいデザイン。『さくらぐみ かぐらざきつきよ』と平仮名で書かれていた。水色の服と合わせると、かなり目立つ。さすがに、これは恥ずかしすぎるぞ。


「うんうん、よく似合っているね。あとは、その仏頂面を何とかしよう。保育園で怪しまれるよ」


 僕の頭を撫で、夕奈が鷹揚に頷く。くそっ、何なら自分がこの格好をしてみろ。一方の夕奈は、昨日と同じく格好いいスーツ姿だった。


「早くしないと遅刻してしまうよ」


 文句を断ち切られ、強制的に玄関から追い出された。夕奈に手を握られ、エレベータでマンションの一階へ。途中、すれ違った人間達がみんな色めき立っていることに気づく。


「……聞きましたか、例のニュース」

「……当然よ。マンション内どころか、この近所一帯がその話で持ち切りなんだもの」

「……怖いねえ。まさか、このマンションで、ショッキングな事件が起きるなんて。しかも犠牲者があの人だろ?」


 詳しいことまでは聞き取れなかったが、お世辞にも明るい話題とはいえないようだ。


「朝から何ともきな臭いね」


 そう話しながら、マンション入居者専用の駐輪場へ入る。夕奈の自転車は、駐輪場内の一番奥に停めてあった。昨日と同じく僕を後ろの席に乗せ、夕奈は座席にまたがる。


 駐輪場を出ると、マンションの前をマスコミらしき人間達がうようよしているのが見えた。何やらインタビューを受けている住民もいて、僕達はその脇を抜けていく。


「おい、見ろよ。神楽崎夕奈だ」

「チャンスだ。よし、インタビューしてこい!」


 僕達の存在に気付いた記者が近づいてくるが、夕奈は無視をした。相手をすると、面倒なことになりそうだからな。人込みをかき分け、広い道路に出る。


「そういえば、この近所に公園があるんだ。昨日会った、由香ちゃんを覚えているかな? あの子が、よく月夜を遊びに連れて行ってくれる場所さ」


 そう言って夕奈が指し示した先には、けっこう立派な広さを持つ公園があった。ブランコや滑り台などの遊具が見えるが、それらに囲まれた中心地は青いシートによって覆われている。さらに、入り口には黄色いテープが張られ、中に入ることができないようだ。その入り口前に群がっているのは、マスコミだろうか。カメラを向けられた女性が、マイクを片手に何やら話していた。


「何だ、あれ」

「どうも穏やかではなさそうだね。どうやら、あれが話題の中心地のようだ」


 そう言いつつ通りすがろうとすると、黄色いテープの向こう側から一人の女性が出てきた。見間違えでなければ、昨日も見た顔だ。夕奈も自転車を停止させる。


「神楽崎さん、それから白さ――月夜君。おはようございます」


 長瀬は昨日と同じくスーツ姿だった。彼女が放つ硬いオーラに影響されたのか、夕奈の顔つきも真剣味を帯びる。


「朝から事件かい、長瀬さん」

「はい。少々、お時間をいただいてもよろしいですか」


 そう言いながら、長瀬は人だかりから少し離れたところに歩いていく。夕奈と僕は自転車を降り、手で引きながら後に続いた。

 そうして着いた場所には、数台の車が停められていた。鑑識らしき人達が忙しそうに、道具を車の中に運び入れていく。もしかして、あれは現場検証で得た物なのだろうか。その隣では、刑事らしき人達数人がプチ会議を開いている。


「ここなら、大丈夫ですね」

「もしかして、誰か亡くなったのかい?」

「はい。まだ解剖をしていませんが、おそらく死因は電気ショックによるものでしょうね。それも通常ではありえないほどの数値の電気を、肉体に注がれたかと思われます」


 サラリと恐ろしいことを言いきる長瀬。


「現場の周りには、電気ショックを与えるような物はありませんでした。これは事故でも自殺でもありません。殺人かと思われます」

「かといって、あんな場所で派手な殺人をしたら、目立つよね。そうなると、犯人は別の場所で被害者を殺害し、わざわざ公園へ運んで棄てた。ということかい?」

「ええ、十中八九そうでしょう。まだ断言はできませんが、『螺旋の会』による事件と酷似しています」


 その単語を聞き、思わず僕は顔を強張らせた。電気ショックによる殺人。『螺旋の会』。つまり、父さんが関わっている事件なのか。

 だが、現場検証中の刑事が、一般人にペラペラと話して良い話なのだろうか。あるいは、「夕奈は専門の学者の立場で、『螺旋の会』事件について長瀬に協力している」と昨日言っていたから、これも情報交換となるのかもしれない。


「もしも、彼らによる犯行であるのなら。例の『実験』で殺し、用済みとなったから捨てた、ということになるね」

「ええ。今年だけで言えば、これで四件目です。毎年、十件ほどの事件が起きていますが、被害者の住所や死体が捨てられていた場所は、どれも国内に散らばっています。向こうの拠点がバレないようにするため、捜査陣営をかく乱させる狙いがあるのでしょうが」

「さすがに、これ以上は推測になるけどね」

「それと、遺体の傍には、被害者のものと思われるバッグが捨てられていました。中にあった免許証から、被害者はおそらく村上美里という女性だと思われます。DNA鑑定などはこれからなので、確定ではありませんが」

「村上、美里?」


 夕奈が、耳を疑うように名前を繰り返す。それを見て、僕も記憶のどこかに引っかかりを覚えた。どこで聞いた名字だったか。

 そんな僕達に対し、長瀬は重々しく頷く。


「はい、神楽崎さんと同じマンションに住む女性です。彼女については昨日、何者かによって誘拐されたとの被害届が出ていました。その件については、ご主人から事情聴取を行いました。なかなかに名の売れた女優の方が被害者ということで、今朝のニュースでも報道されていたかと思われますが」

「……残念ながら、今朝はニュースを見ていなかったんだ」


 夕奈は、信じられないといった表情を浮かべている。そんな彼女を見て、僕もようやく思い出した。昨日、『螺旋の会』に入りたいと言っていた女だ。僕は声しか知らないが。


「目撃者の証言によると、村上さんは街のとあるバーで一人、酒を飲んでいたそうです。担当マネージャーの話では、仕事の都合により今朝の飛行機の便で、成田へ行く予定だったそうですが。そのまま日付が替わるころまで飲んだ後、タクシーに乗ろうとしたところへ、何者かによって拉致されたとのことでした。その件については、バーの客などの複数の目撃者がいますので、ほぼ確実です」

「そんな」

「神楽崎さんは、彼女について何かご存知なんですか」


 話を振られた夕奈は、辛そうに眉を寄せた。


「実は、彼女は昨日ウチに来ていてね。相談を受けていたんだ」

「相談、ですか」

「うん。『螺旋の会』に入りたいから、彼らとコンタクトを取れないか、と言われたんだ。そんな方法を知っているはずがないから、断って追い出してしまったけど……あのとき、長瀬さんに連絡を入れていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」


 そう切り出し、夕奈は昨日の話を包み隠さず説明した。その表情には、後悔と自責の念がごちゃ混ぜになっている。


 そうして話を全て聞き終えた長瀬は、安心させるように夕奈の肩に手を置いた。


「神楽崎さんに責任はないと思います。神楽崎さんと会ったのは、昨日のこと。それからわずか数時間後に彼女は誘拐されて、翌朝に遺体となって発見されたんです。ですから、彼女が自ら『螺旋の会』と接触を取ろうとしたのではなく、向こうが一方的に標的としただけ、という可能性の方が高いです。このことについても、ご家族や知人の方から話を聞いてみることにします」

「……ありがとう、長瀬さん」


 そこまで夕奈が呟いたところで、二人の間に四十代近い男が割って入った。まず目についたのは、短く刈り上げた黒髪だ。恰幅の良い体つきをよれよれのスーツで覆い、年季の入った黒い革靴を履いている。通勤電車の中に一人はいてもおかしくはない、まさにサラリーマンといったイメージだった。


「長瀬。そのくらいにしておけ。いくら『螺旋の会』事件に協力してもらっているとはいえ、まだ伏せるべき情報もある。それに、子どもに聞かせていい話でもないだろう」

「はい、申し訳ありませんでした、警部補」


 長瀬が背筋を伸ばし、敬礼する。どうやらこの男が上司らしい。その後ろで他の刑事らしき男が、茶化すように口出ししてくる。


「そいつは、あの白鷺幸太郎の娘なんだ。話が筒抜けかもしれねえっつーの」

「おい、失礼なことを言うな。だまっとけ」

「へいへい、すみませんでした」


 警部補に睨まれ、軽薄そうな刑事が引っ込む。彼のように考える人間がいるのは不思議ではない。むしろ、近い距離で接してくれる長瀬の方が、奇異な存在なのだろう。夕奈のスーツの裾を掴みながら、僕は大人達の会話を静聴する。すると、警部補の男が厳つい笑顔を浮かべ、僕の前にしゃがんだ。


「坊や。久しぶりだな。おじさんの顔を覚えているかな」

「は、はい」


 久しぶりということは、この刑事とは顔見知りなのか。夕奈が『螺旋の会』事件に協力しているのなら、当然と言えば当然だが。それなら、なおさら今の僕に違和感を抱かれかねないな。


「飴はどうだ? イチゴ味だ」

「あ、ありがとう――ございます」


 僕は気弱な口調を心がける。だが、敬語が下手糞であることも手伝って、我ながらぎこちない。警部補の男から飴を受け取り、頭を下げる。僕のその対応に、警部補が感心したように眉を上げた。


「ははっ、礼儀正しいな」

「礼儀だけは、どうにか叩き込んでいますから。でもこの通り、内気なのが悩みの種なんですけどね」


 まだ表情が硬い夕奈が、僕の頭を撫でる。昨日、ケーキ屋でも似たような話をしていたな。月夜を紹介するときに使う、お決まりのセリフなのかもしれない。僕の本性を知っている長瀬は、複雑そうに目を伏せている。警部補はそれに気付かず、破顔一笑した。


「はっはっは。これくらいの歳なら、十分すぎるほどだ。うちの息子にも見習わせたいくらいだな。では、我々はこれで失礼。また何かあったら連絡しますよ」

「はい」


 大人らしく、夕奈は警部補達に頭を下げた。それから自転車の後ろの補助椅子に僕を乗せ、再出発する。僕は後ろ髪を引かれ、死体発見現場となった公園に視線を向けた。……あの死体も、僕が関わった犠牲者なのだ。そのことを胸に深く刻まなければいけない。夢に出てきて、恨み節を吐かれてもおかしくはないだろう。


 これ以上の被害者を出さないためにも、一刻も早く『螺旋の会』を潰し、父さんの妄執を止めなければいけない。


「長瀬さんはああ言ってくれたけど。村上さんが亡くなったことについては、やっぱりボクにも責任があると思う」

「夕奈」

「ボクがあのとき、村上さんにきちんと怒って、警察にも知らせていたら。彼女は昨晩、一人でお酒を飲みに行かず、家で過ごしていたかもしれない。そうすれば、誘拐されずに済んだ可能性がある。うかつだった」


 こちらからは、自転車をこぐ夕奈の背中しか見えない。だが、彼女が自己嫌悪で表情を曇らせているのは、僕にも容易に想像できた。腹立たしいことに、僕には慰めの言葉も思い浮かばないし、上手く励ます自信もない。せめて何か、他の話題に逸らそう。何かないものか……


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る