第40話 魂の底でのめぐり逢い

 ……目を閉じると、意識が深い深い海の底へと沈んでいく。そこは、一面が虹色に染められていた。サンゴ礁が広がっているかのような、幻想的な景色。


「ここは」


 間違いない、輪廻転生を繰り返すたびに見ていた景色だ。またここに来てしまったのは、どういうわけなのだろう。今回はまだ死んでいないはずなのに。


 いや、待て。ここに来たということは、まさか、あの無数の前世の人格達がいるのか? 慌てて周囲を見渡すが、あの黒い塊らしきものは、どこにもいない。それでも警戒を緩めず、僕は恐る恐る辺りを散策する。


 だが、行けども行けども、目立つものは何も見当たらない。七色の世界は、地平線の彼方まで見える。


 何だ、これは夢なのか? それとも――


「おかーさん」


 前触れもなく突然、どこからか幼い声が聞こえてきて、僕の思考が中断した。恐怖のせいで、大げさなまでに肩が震え、慌てて後ろを振り返る。


 だが、あの凄まじい勢いの群れはどこにも見当たらない。


 その代わりに、まだあどけない幼児が泣きじゃくっていた。その両目はつり上がっているが、ニヒルなイメージはまるで感じられない。それどころか生まれたての子猫を連想させ、思わず庇護欲を駆り立てられる。


 たった今まで、こんな子どもの気配など、どこにもなかった。いきなり現れた、としか言いようがない。ひょっとして、この子もあの黒い群れの一部なのか? 用心する僕のことなどお構いなしに、幼児は大粒の涙を流しながら、虚空を見渡す。

 ――と。


「おかーさん、どこ?」


 その声が稲妻となって、僕の全身を駆け巡った。あまりの動揺で、足がフラつく。


 目の前の幼児をよく見ると、昼間見たアルバムの写真と同じ顔をしていた。まさか、この子は……いや、そんなことがあり得るのか?

 さすがに戸惑ってしまい、上手く近づけない。不安そうな幼子と目が合うと、気まずい空気で場が包まれた。


「もしかして、『月夜』、なのか?」


 できる限り優しい口調を心がけ、問いかける。すると、幼児はようやく僕の存在に気付いたようだ。両手で涙を拭きながら、僕の方に向き直った。


「おにーちゃん、だれ?」


 そう言われてみて初めて、僕は自分の身体が大きくなっていることに気づく。鏡がないから顔を見られないが。どうなっているんだ、僕が見ている夢に過ぎないのか?


「月夜、なんだな?」

「おにーちゃん、どうしてぼくのおなまえ、しってるの?」


 真っ赤に腫らした両目を上目遣いにし、月夜は僕を見る。小さな身体をもっと縮める姿は、まるで獅子のいる檻の中に放り込まれた小動物のようだ。いや、実際怯えているのだろう。夕奈の話では、かなりの引っ込み思案だったらしいし。


「それはだな、えっと……」


 くせっ毛の頭を掻き、頭を悩ませる僕。当然ながら、お互いに直接の面識があるはずがないので、しょうがない。


 まさか本当に、この子が僕の息子なのか? どうして月夜と対面できているのか。夕奈の話によると、月夜は僕の中で眠っているはずだ。やはり、これは夢だよな? 


「おにーちゃん?」


 全くもって友好ムードを出せない僕に対し、月夜が再び涙を溜める。まずい、何か話題はないものか。


 そうこうしているうちに、月夜が再び泣きだしてしまった。二人きりのこの状況、誰も僕らに手を差し伸べてくれない。


「おかーさん、おかーさぁんっ」


 顔を押さえた手の甲を、純真な涙で濡らす月夜。それを聞いて愚鈍にもようやく、僕はこの子の望みに気付いた。この子は母……夕奈に会いたいという、ただそれだけなのだ。


 この状況は、僕の月夜に対する罪悪感が生み出した、夢である可能性が極めて高い。十中八九、その予想が正しいだろう。だがそれでも、こんな辛そうな顔をする幼子を放ってはおけなかった。


「月夜、ごめん、ごめんな。寂しい想いをさせてしまって」


 僕は、月夜の小さな頭を撫でる。同時に、成長し始めたばかりの幼い背中に腕を回した。


「僕が、お前の居場所を奪ったんだ。ごめん。本当にごめんな」

「おにい、ちゃん?」

「今、お前のお母さんが、お前を取り戻すために頑張っている。いつか、また親子で過ごせる日がやってくる。だから、待っていてくれ」


 月夜の耳元で語りかけながら、僕は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


 仮にもしもこれが夢ではなく、現実であるとするなら。朝斗の人格があり続ける限り、この子はこのまま一人ぼっちでいなければならない。もしかすると、夕奈が一生かかっても、この子を取り戻すことはできないのかもしれないのだ。


 正直言って、自分に息子ができたなんて、まだ実感がない。だがこの子をこのまま、独りで泣かせてはいけない……そう魂が訴えていた。たとえ、この状況が夢や幻であっても、関係あるものか。


 僕の話の意味を、月夜に理解できたはずもないだろう。だが、月夜は小鼻を可愛らしく鳴らすと、なぜか泣き止んでくれた。


「おにーちゃん、おかーさんと、おなじにおいがする」

「そうか? 自分では分からないんだが」

「ぼく、このにおい、だいすき」


 舌足らずで、遠慮がちな声。だが、先ほどまでのような怯えは、少しばかり減っているようだった。おずおずと、僕に問いかける。


「おにーちゃん、おかーさんがどこにいるか、わかる?」

「……いや、すまない」

「おかしいんだ。いつもはね、ぼく、おかーさんがいるばしょ、わかるんだよ。おかーさんもわかるんだって。だから、ぼくがまいごになっても、おかーさんは、すぐにとんできてくれるの。いまもね、おかーさんが、すぐちかくにいるって、わかるんだよ。それなのに、おかーさんが、どこにもいないの。こんなの、はじめて」

「それは……」


 夕奈は、僕の生まれ変わりである月夜とも、『糸』で繋がっていると言っていた。互いの絆の証ともいえる『魂の絆』。僕が肉体の主導権を握っている間も、月夜が『糸』を感知し続けることができるとするなら。月夜は『糸』を頼りに、ずっと夕奈を探し彷徨うことになるのか。こんな場所にいても、月夜は母と会えるはずがないのに。


 月夜は不安そうに話し終えると、僕の顔をそっと見上げた。すると、何かに気づいたのか、僕と同じ目を何度も瞬かせる。


「もしかして、おにーちゃん、ぼくの、おとーさんなの?」

「どうしてそう思うんだ?」

「えっとね。おとーさんのおしゃしん、みたことがあるの。おにーちゃんに、そっくり」


 そういえば夕奈の話では、月夜は僕の写真を持ってきて、僕がどんな人間だったか尋ねてきたことがあったらしい。


「ぼくね、ときどき、おとーさんのゆめを、みるんだ。おかーさんは、わすれなさい、っていうけど。ぼくは、わすれちゃだめ、っておもうの。ぼく、おとーさんとあえなかったから」


 朝斗の人格と記憶が月夜を侵食していた、と夕奈は言っていた。月夜の人格に悪影響が出る可能性があるため、あいつは危険視していた。「月夜は、デジャヴや夢が父親のものだと自覚していない」と言っていたが、間違いだったのか。


「それとね。ぼく、おかーさんに、おとーさんのおはなし、いっぱいきかせてもらったよ。おとーさんと、おかーさん、しあわせだったって」


 そう語る月夜の無垢な瞳が、僕の胸をえぐった。


 前世の罪で汚れた僕なんかには、父の資格はないのかもしれない。愛情も注いであげられなかった。この子の誕生から今まで、ずっと見届けることさえできなかった。


 それでも。これからはこの子と夕奈の傍にいる、と夕奈と約束したのだ。


「月夜はお母さんのこと、好きか?」

「うん、だいすき」


 たどたどしい声。やはり、子猫を思わせるほど愛らしい。同じ顔をしているはずだというのに、僕とは全然違う。夕奈があれだけ子煩悩になるのも頷けるな。


「おかーさん、ぼくといるときは、すごくやさしいの。ときどき、ぼくがわるいことすると、おこるけど。でも、そのあとは、こうやって、ぎゅーってしてくれるんだよ。おしごとがたいへんなのに、ぼくといっしょにいてくれるの」


 母のことを誇らしげに話す月夜。何とも、夕奈らしい話だ。持てる限りの愛情を、息子に注ごうと一生懸命なのだろう。


「でも……おとーさんの、おしゃしんをみると、ときどき、なきそうなおかおする。ぼくといるときは、ニコニコしてるのに。おかーさん、『なきたい』っていえないのかも」


 心配そうに声のトーンを落とす月夜。あいつは、月夜の良き母であろうと頑張っている。だが、いくら「仮面」を被っていても、その奥にある素顔は脆い。傍にいる月夜も、そのことに気付いているようだ。


「それとね。これは、おとーさんだから、おしえるね。こんど、ぼくの『おたんじょうび』なの」

「そうか」

「ぼく、おかーさんに、いうんだ。『ぼくを、うんでくれて、ありがとう』って」


 その言葉に僕は驚きを隠せず、抱きながら月夜を見つめる。それに対し、月夜の目はどこまでも純真そのものだ。無理をしているようには見えない。


 産んでくれて、ありがとう。


 月夜は、自分がどんな立場にいるのか、なんとなく肌で感じ取っている。夕奈はそう言っていた。心ない言葉を浴びせられ、時にひどい仕打ちを受けることもあるという。幼いとはいえ、自分の血と誕生を呪ってもおかしくはない。それなのにどうして、無垢な声で言えるのだ。


「おかーさんと、おばーちゃんは、おそとで、ひどいことをいわれてる。きっと、ぼくのせいなの。このあいだ、しらないひとに、『ぼくがうまれたせいだ』っていわれたんだ」


 違う。お前のせいじゃない。お前が背負わなくてもいい重荷なんだ。そう言いかけるが、月夜の言葉に遮られる。


「ぼくがしんだら、おかーさんと、おばーちゃんは、えがおになれるかな。おかーさんに、そういったの。そうしたら、おかーさん、すごくおこった。そのあと、いったの。『つきよは、おかーさんの、おつきさまだ』って。ぼくのおなまえは、おつきさまなんだって。『おかーさんが、どんなにいたくても、つらくても。つきよが、あかるくしてくれるんだ』っていって、ぎゅーってしてくれたの」


 夕奈にとって、今の世界は冷たい夜そのものだ。無情な人間ばかりの中、夕奈は絶えず不安と闘っている。その中で、優しい月明かりを照らしてくれるのが、大切な息子なのだろう。


 世界の戒律を壊す手助けをした父親。

 近親間で子を産んだ母親。


 だが、親がどんなに罪深くとも、生まれてきた子に罪はないはずだ。

「だからね。こんどは、ぼくが『ありがとう』っていうの。こんなぼくでも、おかーさんに、ゆうきをあげられるのなら。ぼくは、いきたい」

「月夜……」


 僕は恥じた。後ろ向きでいじけてばかりいる自分を、強く恥じた。

 こんな幼い我が子が、自分の境遇を悲観していない。愛する家族のために、強くあろうと心に決めている。


 奥歯を強く噛み、負の感情を砕いてから、僕は笑顔を作ってみせる。


「じゃあ、お母さんとまた会えたら、月夜はとびっきりの笑顔になろうな。お前が笑顔でいると、お母さんも明るくなれると思うから」

「うん」


 遠慮がちに頷く月夜。夕奈とまた会えたら……その日が一日も早く来ることを、僕は祈ろう。それが、「朝斗」の人格の消滅を意味しても。


 生物は生まれ変わったら、次の人格にバトンを渡して繋いでいく。それが輪廻転生のルールだ。だが、「朝斗」の記憶が月夜にこびり付いているということは、言い換えれば僕がバトンを握って、意地汚く離していない状態でもある。前世の人格として、父親として、今度こそ月夜にバトンを渡さなければいけない。


 僕は月夜の父親だ。その実感がないのなら、これから得ようと努力すべきではないのか。


 本当は泣き虫な夕奈が、心に鞭を打ち頑張っている。母さんだって、心が折れてしまいそうになるのを我慢している。全ては、月夜の笑顔が見たいからなのだ。

 ならばこんな僕でも、家族のために何かできることがあるのではないか。世界を滅茶苦茶にした僕でも、誰かが笑顔になるための手助けをできるのではないか。

 変わりたい。後ろ向きな自分から、少しでも前へ進みたい。


 ……そう決意したところで、ふと気付く。なぜだろうか。前世から持ち越した「あの問い」の答えに、少し近付けた気がする。昼間もそうだったが――この子のことを考えていると、長年深く考えようともしなかった大事なことを、不思議と再認識させられるのだ。


 それでも、あともう一歩足りない。解きかけのパズルに挑戦しているかのように、もどかしかった。


 いやいやいや、今はそれよりも、この子に伝えるべきことがあるだろうが。余所事を考える頭を強く振り、月夜に向き直る。


「月夜、お前の」


 言いかけた、その時。突然、真上から無数の光が注がれた。それらが大きな腕となって無理やり僕の身体を掴む。僕はいとも簡単に月夜から引き剥がされてしまう。


「くそっ、まだだ、待ってくれっ。月夜っ!」


 僕は右手を伸ばす。月夜もその手を握り返そうとするが、無慈悲にも届かない。


「お、おとーさんっ!」


 どんどん月夜の姿が小さくなっていく。くそっ、せめてあと一言だけ、大事な言葉をかけてあげなければっ。あらんばかりの声を張り上げる。


「いいか月夜、お前の傍には、愛してくれる人達がいる。どんなに苦しくても、支えてくれる人達がいる。だから、『僕』の記憶に惑わされないでくれ!」


 その言葉を最後に、僕の意識が遠のいていく……。

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