第39話 何度でも引き寄せ合い、支え合う絆

 家族で一緒にケーキを食べた後は、歯を磨いてパジャマに着替え。最後は就寝だ。夕奈に連れられ、寝室へと向かう。


 だが、ここで一つ、問題があった。


「僕が寝るところは、どこだ?」

「ここだよ」


 そう言って夕奈が指し示したのは、大きなダブルベッド。確かに、二人くらい楽に入るだけのスペースはあるが。答えが分かっていながらも、一応尋ねる。


「お前も一緒に寝るのか?」

「当然だろう? 月夜とは、いつも一緒に寝ていたんだからね。あ、ほら、また渋面になっているよ。もっとリラックスしなさい」


 薄桃色のパジャマを着た夕奈は、ベッドにそっと腰掛ける。就寝前ということで、今はあの髪飾りを解いていた。風呂上がり特有の、ふんわりとした彼女の香りが、傍らの僕を抱く。慎ましやかではありながらも、女ざかりの艶めかしさを纏っており、正直言ってけっこう色っぽい。妹の成長を、そんな形で感じてしまうとは……我ながら、兄としていかがなものか。


 昔の僕ならば、いくら夕奈が綺麗になっても、特に慌てはしなかった。それなのに今は、こいつの仕草などから「異性」を感じてしまう。昼間の夕奈の説明によれば、守岡信太の記憶が薄くなったらしいのに。


 もしかして、守岡信太の記憶を思い出したのは、あくまでもきっかけに過ぎなかったのではないだろうか。仮にもしもそうであるならば、それまで意識していなかった、夕奈の魅力に気付いてしまったのかもしれない。だが無論、そんなことを夕奈本人に言えるわけがなかった。


 そうやって居心地悪そうにしていたのがバレたのか、夕奈がからかうような笑みを浮かべる。


「何を恥ずかしがっているんだい。小学生のころまでは、兄妹で仲良く一つのベッドで寝ていただろう?」

「父さんと母さんの離婚で別れたから、中学からは一緒に寝ていなかっただろうが」

「でも、今の君は五歳児だ。母親と一緒に寝て、何がおかしいんだい」


 ぐ。確かにその通りだが。押し黙る僕を見て、夕奈は怪しく目を光らせた。玩具を見つけた猫のごとく、両手を胸の前でかまえる。


「観念するんだね!」

「うぉっ!」


 飛びかかってきた夕奈に、身体を抱きしめられる。小さな身体は、こういうときに損だ。身動きがろくに取れない。


「さあ、おかーさんと一緒に寝ようねー」

「離せぇっ!」


 抵抗もむなしく、僕は弾力のあるベッドの中に入れられる。上に敷かれているのが夏用のシーツだからだろう、そんなに暑苦しくない。夕奈も僕の隣にゆったりと腰かけた。その姿を見て、僕はふと昼間の疑問を思い出す。


「なあ、夕奈」

「ん、何だい。子守唄を歌ってほしいのかい」

「茶化すな。昼間は結局聞きそびれたが、何度生まれ変わっても、僕の人格が表に出るのは、結局なぜなんだ?」


 すると、夕奈は考えをまとめるためなのか、片手に顎を乗せた。たったそれだけの仕草が、モデルのように絵になっているのだから、美人はずるい。


「その問いに答えるためにも、魂についてもう一度おさらいしようか。昼間も言ったように、魂はあくまでも純粋な生命エネルギーに過ぎない。だから、記憶を持ち続けるためには、どうしても物質的肉体に保管しなければいけないんだ。そこで、生まれ変わって新しい肉体の器に移った際、新しい肉体の脳の倉庫に記憶を移す。そうして、前世の記憶を保ち続けているのさ」

「死ぬたびに家を引っ越して、次の家に荷物を運び入れる、みたいなものか」

「まあ、簡単に言えばそういうことだね。魂については他に、神智学という宗教的な視点でも、それと似た考えを持っているよ。神智学っていうのは、十九世紀にロシアで結成された神秘思想結社が原点なんだ。あ、こら、胡散臭いという顔をしているね」


 科学的根拠のなさそうな話なので、僕は疑わしげな視線を送るしかない。対する夕奈は、大学の講義をするような口調で説明を続ける。


「この神智学において人間の魂には、遥か太古の昔の過去世に生きていたころまで、記憶が情報として蓄積されているとされている。彼らの考えの中で人間は死後、肉体恒久原子、情緒恒久原子、識心恒久原子の三種のデータを放出するらしい。それらが次に転生する胎児の中へと入り、前世の人格の情報データを新しい肉体に移すっていう流れさ。とはいっても普通に生きている間、表層意識で前世の情報を自覚することはない。でも、その人の人格や好みなどの形成には、無意識層に存在する前世からの蓄積記憶が影響しているんだ」

「何だかよく分からんが。とりあえず魂と記憶の引き継ぎについては、科学以外の分野でも似たような結論に至っているってことか」

「そういうこと。前世の記憶の存在が立証されてしまった現在、ボク達科学者と宗教学者は以前に比べて、ずっと親密になっているんだよ」


 そう言いながら夕奈は、パジャマと同じ薄桃色の枕の位置を調節する。


「それらのことを踏まえて、話を進めていくよ。お父さんが、どこまで前世の記憶の真理にたどり着いたのか、細かいことまではさすがに分からない。お父さんの実験で側頭葉を弄った結果、君の脳だけでなく魂そのものの在り方まで変化させてしまった可能性がある。本来、無意識層で留まっているべき前世の人格達が、何度生まれ変わっても強制的に表層意識へ出るように、ね」

「それは父さんの思惑通りなのか? それとも、偶然の産物だったのか」

「さすがに、お父さんに直接質問しなければ分からないね。で、話を戻すけど。さっきの君の例え方で表現するなら、引っ越し先の玄関の鍵という、魂に元々備わっている機能そのものを破壊された、といったところかな。鍵がかかっていないわけだから、君の魂に刻まれた何千何万という前世の人格が、いつ記憶倉庫の中から出てきてもおかしくない。というのが、ボク達学者がこの十四年の研究を経た結果、立てた推論だ」


 膨大な人格が一か所に集められていて、そこの扉に鍵がかかっていなかったら、外へ溢れ出していく、ということか。あの虹の世界で何度となく僕を襲ってきた、あの黒い塊はもしかすると前世の人格達の集合体だったのかもしれない。


 それに、巨大な腕に飛び移ろうとした際に、僕が突き飛ばしてしまった、あのバレーボールサイズの球体。あれが僕の来世となるはずだった、魚や草などの人格だったのか?


 夕奈は肩まで伸ばした艶髪の先を、指で遊びながら説明を続ける。


「それでも『朝斗』の人格が優先的に表層意識へ現れるのは、きっと『朝斗』が確固とした精神を形成しているからだと思う。『生きたい』という本能はどんな生物も持っているものだ。でも、君がこれまで生まれ変わってきた生物達は、まだ生まれたばかりで精神が幼かった。つまり、自我がごくごく薄く、『何が何でも生きたい』という本能を自覚し、コントロールすることができていないんだ。植物にそれほど強い自我が備わっているとは、考えにくいしね。そんなよちよち歩きの相手と『朝斗』が、肉体の主導権を決めるための椅子取りゲームをしたら、『朝斗』の方が圧倒的に有利だよ。簡単に本来の肉体の持ち主である人格を吹き飛ばして、椅子を手にいれてしまう」

「言い換えると、今朝起きるまで『月夜』がこの肉体を動かせていたのは、それまで椅子取りゲームに勝っていられたからなのか。ん、いや、ちょっと待て。人間だって生まれたばかりは自我が薄いだろ。それなのに、どうして今朝まで僕が椅子取りで……こういう言い方は嫌だが、その、勝てなかったんだ?」

「それはだね。今さっき『朝斗』の方が圧倒的に有利とは言ったけど、前世の人格と現世の人格が椅子取りゲームをすれば、当然ながら現世の人格の方にアドバンテージがある。何しろ、本来の肉体の持ち主だから、肉体との相性が一番いい。そこへ、前世の人格達が椅子を横取りしようと押しかけて来る。それなのに、昨日まで『月夜』が肉体の主導権を握っていられたのは、あの子がアドバンテージを使って、精いっぱい食い止めていたから。まだ自我の薄い幼児のあの子にそれができたのは、奇跡としか言いようがない。それほどまでに、今の君の魂は不安定なんだよ。今の君も、完全に主導権を掌握できているわけではないと思う」


 横取り。まさにその通りだ。僕はこの肉体の主導権を強奪しただけにすぎない。昨日までも、ずっと月夜の精神を攻撃していた。


 そんな僕の内心を読んだのだろう、夕奈は慌てて言葉を付け足す。


「あ、いや、朝斗が悪いって意味じゃないよ。……ごめん、言い方が悪かった」


 しょんぼりする夕奈を見て、さすがに僕もバツが悪くなった。空気が淀みそうになるのを止めるため、話を進めることにする。


「夢やデジャヴを見たり、人格が混ざり合おうとしたりするのは、その椅子取りの争いが激しくなっているってことなのか?」

「うん、おそらくね。容易に椅子を奪える相手なら、そこまでする必要はない。でも、確固とした精神を持った人格が相手だと、そう簡単にはいかないのさ。だから、少しずつ精神を浸食することで、じっくりと主導権を握ろうとするんだ。夢やデジャヴはその影響だと思うよ」


 その果てに脳がパンクし、精神が崩壊するのか。かつての僕は浸食され、今の僕はそうまでして、息子の肉体の主導権を握ろうとする。「生きたい」という本能がそれだけ強く、意地汚いのだな、僕は。


「だが、成長した人間の人格っていうなら、守岡信太だって同じだろ。それよりさらに前世を辿っていけば、さまざまな生物の人格がたくさんある。それなのに、どうして僕の人格が優先的なんだ。……うん? 人間以外の生物なのに、『人格』っていうのはおかしい気もするな」

「うん、と、どう説明すればいいかな。さっき言ったように、幼い人格よりも成長した人格の方が、椅子取りで有利だ。それを踏まえた上で、『朝斗』が何度も椅子取りに勝ち残れたのは、『朝斗』が熟成された人格の中で、現時点において一番新しいからなんじゃないかな。つまり『朝斗』の人格が、記憶倉庫の中でも入口に近いところにいるから、スタートの時点で有利なんだよ。そんな状態でよーいドンをしたら、『朝斗』の勝率が高くなるだろう? けれど、守岡信太は『朝斗』の一つ前世の人格だから、記憶倉庫内で彼の人格が納められている場所も、入り口にかなり近いと思う。もしかしたら、ボクが月夜を妊娠する約六年前――つまり八年間の輪廻転生で何度となく行われた椅子取りゲームでは、守岡信太や他の人格達が勝ったケースも何度かあったのかもしれない。『朝斗』がそのことに気付いていないだけでね」


 あの虹の世界での出来事を思い出す。黒い塊は、皆「生きたい」「肉体がほしい」と叫んでいた。それらから逃げることが、椅子取りに勝つことを意味していたのか? その生と死の繰り返しのせいで、僕の精神は擦り切れるほどになっていた。夕奈の推論が正しいなら、自分が椅子取りゲームに負けていたことにも気づいていなかったのかもしれないな。つまり、あの黒い塊に飲み込まれたことも、何度かあったわけだ。想像しただけでも、背筋がゾッとする。


「そんなに競争が激しいなら、昼間お前が言っていた『月夜の人格だけを起こす』っていう案の実行が、難しくなるんじゃないのか?」

「そうなんだけどね。それを何とかするのが、ボク達研究者の仕事さ。出来る限りの手を尽くすよ。でもね、これだけは守ってほしい。明日の朝、目覚めたときに自分を保っていてくれるかい?」

「え?」


 輪をかけて、意味の分からないことを言い出したな。自分を保つ、って。だが夕奈の表情は真剣そのもので、僕を真っ直ぐに見つめてくる。


「記憶の倉庫の鍵がかかっていない。ということは放っておくと、他の人格達が次々と倉庫から出てきて、月夜の身体を乗っ取ろうとする恐れがある。椅子取りゲームはまだ終わっていないんだ。今晩肉体が眠りにつき、次に目覚めるときには、『朝斗』と『月夜』のどちらの人格が起きているのか。それとも、全く別の人格が肉体を支配しているのか。そんな不安定な状態である可能性が高いんだよ」


 夕奈に説明され、ようやく僕は理解した。この肉体を動かしているのが僕であるのは、奇跡のような現象なのだ。明日目覚めたときには、全く別の人格がこの肉体を掌握していて。そうしたら、もう二度と夕奈と言葉を交わすことができないかもしれない。


「運よく『月夜』の人格に交代してくれたら、問題ないんだがな」

「それは、そうだけど。ボクは、このまま眠るのが怖い。今の君の魂は、いつ精神が崩壊してもおかしくない、不安定な存在だから」


 夕奈は声を湿らせた。これ以上夕奈に心配させないために、僕は慎重に言葉を選ぶ。


「案外、明日の朝も僕は阿呆面して、お前と『おはよう』って言うかもしれないさ」

「そう、だね。……うん」


 僕の話に納得はしていないだろうが、夕奈はぎこちなく頷いた。


「そういえば昼間、言っていたよな。月夜とも『糸』を感じていたって」

「うん。あの子を妊娠したときから、ずっとね」

「ずっと疑問に思っていたんだ。結局、『魂の絆』って何なんだろうな」


 幼かったころ、僕達兄妹は自分達が持つ『糸』を、他の人間が持っていないことに疑問を抱いていた。母さん達に尋ねても(父さんは面倒臭がって、話を聞いてくれなかった)、不思議がるだけ。結果、自分達だけの特別なものなのだと結論付けた。幼かった夕奈は、「朝斗といつでも繋がっている」と喜んでいたっけ。当時の僕はというと、お互いの居場所が分かるなんて便利だ、などという程度しか考えていなかった。それだけ『糸』の存在は、あって当然のものだったのだ。


 守岡信太の記憶が前世のものだと確信したのも、この『糸』が最大のきっかけだ。輪廻転生と『魂の絆』。この二つには何か関係があるのだろうか。


「月夜とは、ずっと『糸』で結ばれているのを感じていた。だから、月夜が『朝斗』の生まれ変わりだと信じていたよ。あの子を妊娠する以前にも、別の場所から『糸』を感じていた。けれど、何十回も切れては繋がってを繰り返していた。あれは、遠いどこかで君が死んで、転生していたことを意味するんだろうね」


 何十回、何百回もの死。思い出しただけでも、ぞっとする。月夜として転生していなければ、僕の精神は摩耗し、消えてしまっていたかもしれない。


「僕が守岡信太だったころも、『糸』を感じることができた。もしかすると、そのさらに前世でも、『糸』は存在していたのかもしれない」

「そうだね。『魂の絆』については、ボクも色々と調べた。けれど。結局、確たる答えは得られなかったんだ。だから、これはあくまでも確たる根拠のない推論になるけど、いいかい?」


 僕が頷くと、夕奈は静かに息を吐く。


「前世の記憶について調べていくと、その中で興味深い例があったんだ。ある仲の良い恋人達が、事故で意識不明の重体になった。その間、二人は一つの夢を見ていた。長い眠りから覚めた二人は、互いが見ていた夢について語った。すると、その夢の多くに共通点があったんだ。その夢で二人は遠い外国、それも二人が聞いたことがないような国で、夫婦として暮らしていた。さらに話を進めていくと、夢の中での互いの顔、趣味、癖、会話の内容までかみ合っていたのさ」


 そんなことがあり得るのだろうか。僕はつい懐疑の念を抱いてしまう。


「えっと、潜在意識による記憶のいたずら、っていうのとは、違うのか?」

「イアン・スティーヴンソン博士の論だね。確かに、以前に二人がその情報を知っていた可能性はあるよ。一緒に見たテレビ番組の内容を、潜在記憶として脳の片隅に置いてあり。事故のショックか何かで、その記憶を自分達のものと勘違いしただけなのかもしれない」

「その考えの方がまだ現実的だな」

「そうだね。でも、その記憶が真実である可能性だってゼロじゃない。前世で愛し合った二人が、生まれ変わってもまた巡り合った。そういった恋愛ドラマのような例は、世界中でいくつもあるんだ。強い縁がある者同士は、転生しても引き寄せ合う。さっき例に挙げた神智学でも、同じことを言っているよ。親兄弟や夫婦といった深い関係だった者同士は、生まれ変わっても似たような関係になるってね。そのために、『糸』は存在するのかもしれない。それがボク達二人の場合は偶然か特別か、常に感じ取ることができるんじゃないかな」


 科学者とは思えない、あやふやな話だな。まるでロマンチストの夢物語のようだ。そんな僕の内心を読んだのだろう。夕奈は拗ねた風に唇を尖らせる。


「仕方がないだろう。何しろ、物的証拠なんて何もないんだからね。でも、その話が真実であるのなら。前世、つまりボク達が守岡姉弟だったときに、よほど強い縁が生まれたのかもしれない。あるいは、さらに前々世だったのかも」

「強い縁、か」


 何度も何度も死に。心が完全に壊れかけ。その果てで、十四年ぶりに僕達は巡り合うことができたのだ。それだけは、素直に感謝すべきことなのかもしれない。


 現世の自分が死に、次に転生したら、来世の自分にバトンを渡す。バトンを渡された者は、『糸』を感じ取ることによって、同じくバトンを渡された「来世の夕奈」と引き寄せ合う。そうして続いていく縁こそが、輪廻転生というシステムなのだろう。


 そんな途方もない話を、僕はゆっくりと噛みしめた。


 すると隣の夕奈が寝転びながら、僕を抱きしめてくる。香水ではない、彼女自身が持つ優しく甘い匂いを、僕は小さな胸いっぱいに吸い込んだ。


「朝斗」


 夕奈のしっとりとした声が、耳元をくすぐった。僕は内心戸惑いつつも、耳を傾ける。


「ボクらは守岡信太と守岡雅美だったころも、こうして二人で寝ていたのかい?」


 夕奈は囁きつつ、僕の耳に自身の唇をふわりと触れさせた。濡れた感触とともに、不安げな震えが伝わってくる。


「ああ。幼いころから、ほとんど毎日一緒に寝ていた」

「そっか。不幸な最後を迎えた二人も、少なくとも一緒にいるときは幸せだったんだね」


 父さんに二人の秘密について脅され。実験の道具にされ。精神を病んでしまっても。二人で一緒に寝ているときだけは、二人の心は安らかだったようだ。


「ボクもね、朝斗と一緒に寝ているときは、とても心が安心したんだ。お母さん達の離婚で、朝斗と離れ離れになってからは、一人きりのベッドがとても寂しかった。一人で寝ても、ちっとも心が穏やかになれなかったんだよ?」


 小学生のころの夕奈は毎晩、僕を抱きしめて眠っていた。夏場はさすがに暑いので離れろ、と邪険にあしらったら、不服そうにしていたっけ。まるで甘える子猫のようだった。


「『悲劇のヒロインを気取っている』っていう、村上さんの指摘は間違っていないのかもしれない。朝斗の死後のボクは自分の殻に閉じ籠り、一人でいじけてばかりいた。我ながら、呆れるほどに弱くて醜い女だよ」


 己の胸に針を一本ずつ埋め込むような口調で語る夕奈。おそらくこいつ自身、以前から気にしていたのだろう。昼間、村上氏にあんなことを言われ、己の脆さを再認識させられたのかもしれない。


 村上氏は、夕奈の想いを「依存」と切り捨てた。互いにもたれかかり合い、片方を失えば一緒に倒れてしまいそうなほどに、脆弱な精神。まさに、僕達の関係性を表す言葉だった。そういった意味では、彼女の言葉は正しい。


 しかし、だ。夕奈は失って倒れてから、また立ちあがれたのである。一度崩れ落ちて砂と化した心をかき集め、歩き出す。それがどんなに大変で、どれだけの勇気を必要とすることか。


「確かに、お前は弱いかもしれない。だが『仮面』をつけて、弱い自分と闘っているだろ。昔、お前は『強くなる』って僕に約束してくれた。それを今は息子のために、守ろうとしてくれている。弱いなりに足掻いて、前へ進もうとしているんだ」


 僕が死んでからの夕奈は、魂の抜けた人形のようだった……そう長瀬は言っていた。彼女の話では、夕奈が再び笑えるようになったのは、月夜の存在があったからだという。月夜は「朝斗」が残した、たった一つの絆だったのだろう。夕奈と母さんは幼い月夜と共に、この冷たい世界を生きてきた。夕奈が息子のために前へ進もうと決め、たとえ見せかけであっても強くなるためにつけた仮面。だが、その仮面は古い心の傷によって、既にひび割れている。


 月夜を産んだきっかけは、確かに夕奈のエゴであり依存であったに違いない。だがエゴはイコール愛がない、というわけではないと僕は思う。夕奈は、月夜に精いっぱいの愛情を注ごうとしていると語っていた。それは昼間見たアルバムや、昼間に何度か見た月夜の記憶の欠片からも、いくらか伝わってきた。最初は、親としての義務や贖罪の心があったとしても。兄に抱いていたエゴに近しい愛は、子に向ける無償の愛へと変化していったのだと信じたい。――「依存」から大きな一歩を踏み出し、身体を張って息子を守ろうとする。そのひた向きな姿こそが母親なのだから。


 ならば、僕は。


「僕が言うと説得力がないが、親子っていうのは、お互いに支えあう関係なんじゃないのか。月夜に勇気をもらって、お前は月夜を守る。それも愛情とか絆の形だろ」


 精一杯の幼い力で、彼女の手を握った。もう離さない。そんな想いを込めて。


「僕達は、守岡信太と守岡雅美だったころから、ずっと一緒にいた。血の繋がった姉弟として。それが、白鷺朝斗と神楽崎夕奈という双子になって、再会できた。白鷺朝斗が死んでも、こうして神楽崎月夜として生まれ、もう一度再会できた。僕達にはいつでも、この『魂の絆』があるからな。僕は、お前達親子とずっと一緒にいると約束する」


 目を閉じれば感じ取ることができる、あたたかい『糸』の存在。たとえ幾度も輪廻転生を繰り返しても、この『糸』を辿る。僕達は何度だって巡り会い、傍にいることができるのだ。この偶然を科学的に証明しなくてもいい。僕達が今ここにいることこそが、一番大事だと信じたかった。


「だから月夜の人格を取り戻す研究、頑張れよ」

「……うん。頑張るよ」


 夕奈は力なくだが、頷いてくれた。


 傷つきながらも歩みを続ける彼女に、僕は何をしてあげられるだろうか。


(あなたの子どもを産ませてください)

(この想い、誰にも疑わせないよ。たとえ、相手が前世のボクであってもね)


 十四年前、僕が「朝斗」だったころ、夕奈が言ってくれた言葉。後にも先にも、異性から告白されたことなど、あのとき一度きり。それも相手が、双子の妹であるこいつ。おかげで、魂に深く刻みつけられてしまった。


 夕奈は、あの告白の返事を、心のどこかで今でもまだ待っているのかもしれない。そうだとするならば、待って、待ち続けて、月夜を産んだのだろう。


 それに対して僕は、きちんと答えを返すべきなのか。今更蒸し返すのは自分勝手なのかもしれない。それでも、「朝斗」が消える前に、こいつに少しでも希望を残してあげたかった。けっして、小さな自己満足などではなく、兄としての望み……のはずだ。


 だが、問題は、僕が夕奈のことをどう想っているか、それをはっきりさせることである。

 夕奈は、ずっと僕の傍にいてくれた。僕も、こいつを大切にしたいという気持ちに、偽りはない。しかし、その根源が何なのかを突き詰めなければいけないのだ。僕にとって、夕奈はどんな存在なのか。それこそ、夕奈に対するせめてもの贖罪……いや、そうではない。告白に贖罪で答えるなんて失礼だ。


 この答えは、僕がこいつのためにできる感謝と誠意。「白鷺朝斗」として、長年こいつと寄り添って生きてこられたことに対して、「ありがとう」の言葉と共に贈る返事だ。僕の息子を産み、今まで愛し育ててくれた妹へ向けて。


 そうやって僕が懊悩している間に、夕奈は部屋の灯りを消す。それから、僕を抱きしめながらベッドに横になった。まだ「朝斗」が小学生だったころ。毎日が平和だった当時に、戻ったような気がした。

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