第38話 月夜という希望
「ただいまーっ!」
夜八時を過ぎたころ、母さんが帰宅した。下の階の人から苦情が来ないかと心配になるほど、大きな足音を立てて居間へとやって来る。
夕奈と一緒に出迎えに行こうとした、そのとき。大きな人影が僕に覆いかぶさった。
「月夜月夜月夜月夜月夜月夜月夜月夜ぉぉっ! ただいまっ!」
母さんは僕をきつく抱きしめながら、自分の頬と僕の頬を擦り合わせた。摩擦によって、頬に火が生まれそうだ。もしも第三者が見たら、酔っ払いに幼児が絡まれているように見えるだろう。その様子を、苦笑しながら夕奈が眺めている。
「お母さん、おかえりなさい」
「ああ夕奈っ。ただいまただいまただいまただいまぁぁっ!」
母さんのターゲットが、僕から隣の夕奈へと移る。夕奈は苦笑して、頬を擦り合わせて来る母さんを抱きしめ返した。十四年経っても、まったく変わっていないな。
変わっていないのは、スキンシップだけではない。もう歳は五十代だというのに、母さんの顔は小学生のように幼い。肌は、十代と言っても信じてしまいそうな程に瑞々しく、若馬の尻尾のように束ねた長い髪も、夕奈と同じくらいに艶やかだ。一体、この若さの秘訣は何なのだろうか。
「今日もお仕事、御苦労さま。お母さん」
「夕奈は今日、大学の講義がお休みだったのよね? 月夜と一緒に過ごして、ゆっくりできたかしら」
「うん」
夕奈の話では、母さんは現在も大学病院の研究チームとして、第一線を突っ走っているのだという。十四年前にも行なっていた不妊治療の研究を、今も続けているらしい。
「でも身体の方は平気なのかい、お母さん。最近、さらに根を詰めていたじゃないか。言いたくないけど、もう若くないんだから無茶しないでよ」
「だーいじょうぶよ。ようやく、長年の研究が花開きそうなの。多少の無理をしても、平気平気」
「朝斗の精子をもとにした研究、だったね」
「ええ。あの子が残してくれたものを無駄にしないためにも、この研究を絶対に成功させなくちゃね」
僕の精子、か。十四年前のものを、今も研究に使用しているのか。当時、この家で採取したときのことを思い出し、何だか頭が痛くなってきた。母さんに協力した研究が上手くいくのは嬉しいのだが、今は恥ずかしさの方が勝る。
「ふふふ。お祖母ちゃん、月夜のためにお誕生日プレゼントを買って来たからねー」
「わ、わーい」
こぼれそうな笑みを浮かべる母さんに対し、僕は少しぎこちない返事をする。こんな調子でいいのだろうか。夕奈の方に視線だけ向けると、夕奈は母さんには見えないよう小さく頷いた。
夕奈と相談した結果、「月夜」が「朝斗」の記憶を思い出したことについて、今日のところはひとまず、母さんには明かさないこととなった。夕奈の話によれば、母さんは母さんで「朝斗」のことを未だに引きずっているらしい。「朝斗」の心が蘇ったことを知れば、混乱のあまり精神が擦り切れてしまう可能性がある。それを夕奈は恐れているようだった。今朝の夕奈の激しい動揺を思い出すと、納得できる。
もちろん僕達としても、母さんに真実を打ち明けたい。だが、こんなにも月夜に対して嬉しそうに笑いかける母さんを見ると、どうしても戸惑ってしまう。近いうちに全てを話すとしても、もう少し母さんの心に余裕のあるときにしよう、というのが二人で出した結論だった。
そうなると、僕は「月夜」の演技をしなくてはならない。夕奈から、「月夜」がどんな子なのかという話を大まかには聞いていた。とても優しいが内気な性格で、自分に向けられる敵意を振り払うことができないらしい。自分が世間でどんな立ち位置にいるのか、外の大人達の話から、何となく肌で理解しているのではないか、とのことだ。
「さあ、お誕生日をお祝いしましょうか。夕奈、ケーキは買って来てくれたかしら?」
「うん。だけどお母さん、晩御飯はいいのかい?」
「そんなの食べていたら、月夜の就寝時間に間に合わなくなるわよ」
スキップしながら、キッチンの冷蔵庫へと向かう母さん。どうやら、重度の親バカならぬ、祖母バカになっているようだ。
ケーキの入った箱を持って来た母さんは、キッチンのテーブルの上に置く。
「ふふふ、月夜はいくつになったのかしら?」
「え、えっと、いつつ」
恥ずかしそうに答える僕。……疲れるな、この演技。
「五つになったから、五本ロウソクを差しましょうねー」
母さんがロウソクにライターで火を灯し、夕奈がキッチンと居間の蛍光灯の電気を消す。わずかな灯りだけの暗闇の中、僕らはそれぞれの席に腰かけた。
「さあ。ハッピーバースデートゥユー、ハッピーバースデートゥユー、ハッピーバースデー、ディア月夜ぉ。ハッピーバースデートゥユーっ!」
祝いの歌を終え、僕はケーキに灯った火に息を吹きかける。幼児の肺活量では上手く一度で火は消えず、息継ぎをしてようやく消えた。
夕奈と母さんが大きな拍手をし、穏やかな笑顔で僕を包む。
「おめでとう、月夜」
「本当に、大きくなったわね」
母さんは涙ぐんでいる。よほど孫の成長が嬉しいらしい。最初は人工授精について反対していたというが、生まれてしまえば可愛い孫なんだな。
部屋の照明を再びつけながら、母さんは大きな両目を細める。
「日に日に、朝斗に似てくるわね。ムスッとした顔をすれば、朝斗と瓜二つになるんじゃないかしら」
母さんから見ても、「朝斗」は仏頂面をしていたのか。自分の愛想のなさに、今更ながら呆れる。今は母さんの前なので、どうにか控えめな笑顔を作っているが。表情の硬さを見破られはしないかと、内心はヒヤヒヤしている。
「朝斗もこの場にいたら、どんなに喜んでくれるかしらね……」
そう言った後で、母さんは「しまった」という顔をした。だが時既に遅し。先ほどまでとは打って変わり、キッチンが気まずい雰囲気に包まれる。
やはり母さんも、「朝斗」の死から立ち直れていないのだ。この不安定な様子では、まだ真実を明かすべきではない。だが、「僕はここにいる」と言ってあげたら、どんなに楽だろうか。
母さんはマシュマロのような頬を涙で濡らしながら、声をあげて泣く。
「ごめんなさい、ごめんなさい、月夜、夕奈。私、最初は月夜の誕生を上手く喜べなかったの。双子の兄妹で人工授精するなんて、神様に対する冒涜なんじゃないかって。世間に顔向けできないんじゃないかって」
神に対する冒涜。確かに、その通りかもしれない。夕奈が叶えた願いは、倫理的に許されないことだ。だが、それでも月夜は無事にこの世に生を受けた。
「でも、この子が元気に成長するのを見ているうちに、可愛くて仕方がなくなったの。朝斗とあなたの血を引くこの子が、愛おしくてたまらないのよ」
母さんは、隣の席に座る僕の頭を、自分の薄い胸に抱き寄せる。
「月夜。他の人がどんなにひどいことを言ってきても、忘れなさい。あなたが生まれてきたことは、私達が祝福するからね。だから、あなたの中で流れる朝斗の血を誇りなさい」
母さん。僕には、息子に誇ってもらう資格なんてない。いつまでもウジウジしていて、ぶっきらぼうで。夕奈や母さん、そして月夜を現在も苦しめているのだ。本当ならこの場で土下座をし、懺悔をしたかった。
「そんなことないよ」
夕奈が母さんの隣から、優しく語りかけてくる。僕の考えていることが見透かされているようだ。
「『君』は不器用で、人との接し方が上手じゃない。けどボクらは、『大切な人を大事にしたい』っていう、『君』の想いの強さを知っている。そんな『君』がこの世で生きていることは、ボクらが祝福する。だから、自分を卑下しなくてもいいんだ」
それは月夜に向けた言葉のはずだ。だが同時に、僕宛ての言葉のようにも聞こえた。
僕の人生はずっと、卑屈な調子だった。自分を貶し、遠慮ばかりして、ずっと同じ場所で立ち止まっていた。そのせいで、とんでもない過ちをしでかしてしまった。父さんを止められず、みんなを不幸にしたのだ。
そんな僕の自責の一手先を、夕奈が読む。
「大丈夫。『君』が生まれたときの、ボクらの喜びを知らないから、そんな風に考えてしまうんだ。『君』がいてくれるから、ボクらは頑張ることができる。『君』は、ボク達の希望なんだよ」
包み込むような柔らかい声。夕奈の言葉が、乾ききった喉に水を流し込むかのように、全身に染み渡るのを感じる。月夜の存在が、どんなに二人の心の支えになっているのか、ほんの少しだけ分かった気がした。
「……うん」
「よし、いい返事だね。さあ、ケーキを食べようか」
夕奈は明るい笑みを広げ、キッチンから包丁を取り出す。それから、ケーキを丁寧に切り分けた。
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