第30話 人格の椅子取り

 ……その瞬間、脳裏を奇妙な映像が過ぎる。


(月夜)


 夕奈が「僕」を抱っこしながら、母性に満ちた眼差しと共に微笑みかけている。服のボタンを外し、内から乳房を露出する彼女の姿からは、不思議といやらしさが感じられない。「僕」は、彼女の乳房に遠慮がちに触れ、その乳首を吸っていた。


(今日も、たくさん飲んだね。ほーら、「けぷっ」ってしよっか)


 夕奈が「僕」の背中を優しく摩ると、「僕」は小さくげっぷをした。


(よぉし。オシメも替えたし、お昼寝しようね)


 夕奈は「僕」を抱いたまま、子守唄を歌いだす。ゆったりとしたメロディを聞いているうちに、胸があたたかくなってきた。


 ああ、こういうのを安らぎと呼ぶんだな。


 そんなことを実感しつつ、「僕」は瞼を閉じていく。



             ◆◆◆



「……さと、朝斗!」


 肩を何度も揺らされて、僕は我に返った。目の前には、困った顔を浮かべた夕奈がいる。


「どうしたんだい、急にボーっとして」


 周りを見渡すと、そこは先程から何の変化も見当たらない研究室の中だった。僕自身は、ベッドの上に座っている。夕奈に抱っこをされてもいないし、母乳を飲んでもいない。


「もしかして、何か異常があったのかい?」

「あ、ああ」


 僕はつい先程見た白昼夢を説明する。夕奈は何度か頷きながら、何やら思考を巡らせた。


「もしかすると、それは赤ん坊だったころの月夜の記憶なのかもしれないね。さっき、君と月夜の記憶が混ざり合おうとしている、と言っただろう? その影響で、あの子の記憶の欠片を見てしまった可能性がある」

「それって、大丈夫なのか?」

「悔しいけど、『今のところは』としか言いようがないね。一つだけ確かなことは、今の君がかなり不安定な状態であるということだよ」


 それから夕奈は一呼吸置き、説明を再開する。


「さっきの話に戻るけど、あくまでも仮説は仮説だよ。それに、どうやって起こせばいいのか、その方法が分からない。何しろ現時点では、判断材料が圧倒的に足りないんだ。これから詳しく君を検査していくよ」

「魂っていうと、オカルトっぽくて科学的じゃないぞ。死んだら、記憶を保管している脳みそもなくなるだろ。なのに、どうして前世の記憶を持っていられるんだ?」

「まあ、そう言いたくなる気持ちも分かるけどね。記憶というのは本来、魂に刻まれていくものだ。けれど魂は、あくまでも純粋な生命エネルギーに過ぎないから、それだけで長期間存在することはできない。放っておくと記憶は霧散してしまう。そのため、存在し続けるためには、どうしても物質的肉体という器が必要なんだ。そこで魂の保管場所が脳というわけさ。死ぬたびに、魂はそれまでの記憶を全て持って、次の記憶倉庫に移動する。だから前世の記憶や人格を失うことなく、現世を生きるボク達の脳に入っているんだよ」

「……そういうものなのか」

「少なくともボク達研究者の間では、それが前提で話を進めているよ。でも、生まれたばかりの赤子は、どんな動物であれ脳が未熟な状態だ。だから当然、記憶を入れる倉庫が狭く、運び入れられた前世の記憶も、満足に整理整頓されていない。そのせいで時折、倉庫から記憶が漏れてしまうこともある。さっき話した『前世の記憶を持つ幼児』が現れるのは、それが原因の一つなのではないかとも考えられているよ。年月と共に前世の記憶を忘れていくのは、肉体が成長して脳も大きくなっていくことで、少しずつ記憶を整理整頓できていくからなんだろうね」


「はぁ」


 説明が何だかよく分からず、相槌も詰まってしまう。


 そんな僕と向き合う夕奈は、ふわりと微笑む。慈愛に溢れた大人の笑みだ。それを間近で見て、この十四年で美しさに磨きがかかったな、と思った。これなら子持ちであっても、周りの男は放ってはおかないだろう。見とれていると、不意に声が脳裏を過ぎる。


(あなたの子どもを産ませて下さい)


「~~っ!」


 魂に深く刻まれた声が再生され、僕は急激に顔中が沸騰するのが自覚できた。今の声は守岡雅美のものではない。僕が、「朝斗」が死ぬほんの少し前に聞かされた言葉だ。現在よりも若い夕奈の、熱い抱擁と真剣な声。


 まさか、あの言葉を覚えていたから、僕の息子を産もうと考えたのではないだろうな。いや、こいつならあり得る。実の兄の子を産むのは、社会的に厳しいことだろうに。母さんは、それを許したのか? だが、僕の精子を保管していたのは母さんなのだから、母さんの許しがないと人工授精は不可能だろう。倫理の壁を壊すほどの強い想いを、夕奈はずっと抱いていたのだ。


 それに対して僕には、提出をずっと待ってもらっている宿題がある。


 夕奈のことを、妹として「だけ」見ているのか、あるいは女であるとも捉えているのか。それとも、第三の答えがあるのか。


「おや、どうしたんだい。急に悶えて」

「い、いや、何でもない。……しかし、お前に息子ができたのは、どうにか納得するとしても。その子が僕の息子か。やっぱりどうも、しっくり来ないな」

「まあ、それは仕方がないことだね。でも、動かしようのない事実だから、受け止めてもらうしかないよ。おっと、ふふ、今度はその仏頂面。やっぱり『朝斗』にそっくりだね。さすがは親子だ」


 そんなに普段から、機嫌が悪そうな表情を浮かべていただろうか、僕は。顔を両手で触るが、イマイチ自覚が湧かなかった。


「月夜は、ボクにとって愛しい愛しい一人息子さ。それは自信を持って言える。だから、できることなら、君にもあの子に会ってあげてほしいところだよ。あの子も喜んでくれると思う。もちろん、それができたら、苦労はないけれど」

「『月夜』の人格を、目覚めさせることができたとして。二つの人格が互いに意識を通じ合わせるのは、できるものなのか?」

「難しい問題だね。一つの肉体に二つの人格が存在する、というのは精神に負担をかけてしまう。下手をすれば、まだ幼い月夜の心では耐えられず、人格そのものが変わってしまうかもしれない。それだけは避けたいんだ」


 そう言って夕奈は、僕の肩をそっと抱き寄せた。おいおい、距離が近いぞ。って、あれ、ちょっと待て。「朝斗」のころは夕奈に近づかれると、守岡信太の記憶が頭を過ぎ、あんなに慌てていた。それなのに、どうして今は平気なのだろうか。


 ……まさか、本当に守岡信太の記憶を忘れかけているのか?


「なあ、夕奈。『朝斗』だったころは、お前とこんなに距離が近いと、動悸が異常に激しくなっていた。なのに、今はどうして普通にしていられるんだ?」


 僕の質問を受けた夕奈は、肩まで伸ばした艶髪を掻きあげる。十四年前は腰まで伸ばしていた髪だが、今のようにバッサリと切った姿も似合っていた。髪飾りの銀猫が軽く欠伸をしている。


「『朝斗』がお父さんの実験で前世、つまり守岡信太の記憶を思い出したころのことだね? 慌てふためく朝斗を見て、ボクは拒絶されたようで哀しかったな」

「だが、今はそんな気持ちにはならないんだ」


 夕奈は「ふむ」と深く息を吐いてから、僕を見つめる。


「これは、お父さんの実験に参加した人達を調べたことで、導き出された仮説なんだけどね。彼らはお父さんの実験によって、前世の記憶と人格が無理やり起こされていた。その結果、前世の記憶や感情に苦しんでいるのは、前世の人格が肉体を乗っ取ろうとしているからなのではないか。というのが、ボク達研究者の推論だ。さっき話した、前世の記憶を覚えている幼児達の多くは、あくまでも記憶をおぼろげに持っているだけ。でも、前世の人格が本格的に肉体を乗っ取ろうとしたら、人格が完全に形成されていない幼児の場合、その子の人格が簡単に侵食されてしまうだろうね。そうして二つの人格と記憶が混ざり合って成長してしまう」

「……ゾッとする話だな」

「一方、確固とした人格を持つ大人が、肉体の主導権を握っている場合は違う。簡単に席を譲らないから、複数の人格が椅子取りゲームのように、一つの肉体の主導権を激しく奪い合うんだ。そうして複数の人格と記憶が混ざり合っていくうちに、脳はパンクしてしまい、最悪の場合には廃人となってしまう恐れがある。十四年前の君の場合は、それに限りなく近い状態だったんだと思う」


 思い返せば、守岡信太の記憶を思い出した当初は、自分が自分ではないような感覚に襲われていた。あれは、肉体の主導権を奪われそうになっていたからなのか。だが、今度はその僕が、この肉体の主導権を月夜から奪っている。


「月夜は朝斗の記憶の欠片を、夢やデジャヴという形でぼんやりと見ていた。さっきの君のようにね。でも、守岡信太のことについては、何も知らないようだった。つまり、月夜との椅子取りゲームを最後まで激しく争っていたのは、朝斗だけだったんじゃないかな。でも、守岡信太をはじめとする他の人格達が、また椅子取りゲームに復活する可能性は十分にある。今の君の魂は、通常と違ってひどく不安定な状態だからね。簡単にいえば、大脳皮質という記憶の倉庫が、お父さんの実験によって鍵を壊された状態なんだ。何かおかしいと感じたときは、すぐにボクに言うんだよ。いいね?」


 つまり、守岡信太の記憶と感情があまり表に出てこないのは、彼の人格が大人しくしているから、ということか。その代わりに暴れているのが、『朝斗』の人格というのがややこしい話だが。


 そこまで考えて、ふと気付く。


「おい、ちょっと待て。じゃあ何度生まれ変わっても、僕の人格が表に出るのは、なぜだ? 鍵を壊されたっていっても、それはあくまでも『朝斗』の肉体での話だぞ。死んだら違う肉体に移るんだ。生まれ変わったら脳は当然違うし、鍵も新しくなるはずだろ」

「そうだね。これも仮説になるけど――」


 と、そこへドアをノックする音が割り込んできた。もしかして、大学の関係者だろうか。僕は邪魔にしかならないので、ここは大人しく話を打ち切る。


「どうぞ、開いていますよ」


 夕奈が柔らかく返事をすると、ドアが開かれる。入って来たのは、鋭い眼光を放つ女性だった。

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