第28話 神楽崎月夜
何がどうなっているのだろうか。夕奈が大人になり、僕は夕奈の子どもになっている。しかも、その父親が僕で。ああ、もう訳がわからない。あの長かった夢といい、今のこの肉体といい……いったい、僕はどうなってしまったんだ?
混乱する僕をよそに、夕奈が台所で朝食の準備をしている。テーブルの上に置かれたのは、トーストと目玉焼きとサラダだ。
「さあ、食べよう」
席に着くよう夕奈に促されるが、彼女が指した椅子はクッションつきの幼児用の椅子だ。反論したくなるのをぐっと堪え、僕は座ろうとするのだが、椅子の足が高いせいで、軽くよじ登らなければいけない。巨人の家にいるかのような気分にさせられる。
その間にも、隣の居間のテレビで、ニュース番組が放送されていた。
『おはようございます。七月十五日、朝のニュースをお伝えします』
七月十五日? そんな馬鹿な。確か、まだ四月の中旬だったはずだ。一体、どういうことなのだろうか。まさか事故にでも逢って、今まで昏睡状態に陥っていたとか?
話にまるで付いていけない僕に対し、テレビのアナウンスがさらなる衝撃を与える。
『最初の特集です。前世の記憶を思い出す技術が発表されてから、もう十四年が経ちます。被験者となった人々は、前世の記憶によって混乱が生じ、今も重い精神病に悩まされています。研究の中心人物だった白鷺幸太郎容疑者の行方は、未だ掴めておりません。警察は全国指名手配をし、行方を追っています。警察の調べによりますと、白鷺容疑者は十四年前、息子の朝斗さん当時十五歳を実験に利用し、殺害。それが発覚したことで逃走したと思われます。現在は、新興宗教「螺旋の会」に匿われていると――』
そこでテレビの電源が切れた。夕奈がリモコンを操作したからだ。
「朝から嫌なものを見たね」
夕奈はわざとだろうか仰々しい笑みを浮かべ、キッチンへ戻って来る。だが、僕はニュースの内容に混乱せずにはいられなかった。
父さんの技術が発表されてから、十四年? あれから十四年の月日が経ったというのか? 父さんが指名手配になっているだと? それに何よりも、僕が死んだことになっているぞ。馬鹿な、十四年前に僕が死んだ? それなら今の僕は、どうして生きているんだ?
訳がサッパリ分からない。まるで、覚めない悪夢を見ているかのようだ。猛烈な頭痛のせいで、目の前が歪んで見える。
「月夜? どうしたんだい。顔色が優れないようだけれど」
(信太)
目の前にいる夕奈の呼びかけと同時に、あの甘く切ない女性の吐息が脳裏に蘇る。間違いない、呼んでいるのは守岡雅美だ。だが、なぜだろうか、以前に比べて声に靄がかかっているように、聞き取りづらい。
「熱でもあるのかな」
こちらが戸惑っている間に、心配そうな顔をする夕奈が、自分の額を僕の額と軽くくっつけてくる。まずい、こんなにも近い距離だと、また心臓が早鐘を打つぞ。落ち着け、落ち着くんだ……って、あれ? 以前なら、夕奈に近づかれると、あんなに慌ててしまっていたのに。おかしいぞ、今は全然ほとんどドキドキしない。
これではまるで、守岡信太の記憶を「忘れかけている」かのような――
「どうやら熱はないようだね。寝不足かな。昨日もお昼寝はしたんだけど。月夜、身体が重かったり、頭がフラフラしたりするかい? それとも、またあの夢を見たのかな?」
「月夜?」
さっきから引っ掛かっていた、その呼び名。それが今の僕の名前なのか?
「どうしたんだい、月夜。自分の気持ちは、ちゃんと言わなきゃダメだよ」
「……違う。僕は月夜じゃない」
「ん?」
「僕は、朝斗だ。お前の兄貴の、白鷺朝斗だ!」
椅子からどうにか下り、僕は必死に訴える。だが、夕奈は苦笑いで返した。
「朝斗は君のお父さんだろう? さては、また例の夢を見たんだね? 大丈夫、あれはただの夢だよ。君は忘れていいんだ」
「だから違うんだ。僕が分からないのか。僕とお前は『魂の絆』で繋がっているだろ」
「うん、繋がっているね。それがボクら親子を結ぶ絆の証だ」
愛おしげに僕の頭を撫でる夕奈。その手は細く可憐なものだったはずなのに、今はとても大きく感じられた。
彼女はどうしても僕を「朝斗」ではなく、「月夜」という名の子だと認識するようだ。ならば、「朝斗」しか知らないことを説明し、納得してもらうしかない。
「夕奈、聞いてくれっ」
「うん? 何でも話してごらん」
草原で咲き誇る一輪の華のように、美貌を綻ばせる夕奈。心が痛むが、今はその余裕を揺さぶらせてもらう。
「お前は五歳のとき、僕と一緒に近所の林へセミ捕りに行っただろう。そこで僕は一匹も捕れず、お前は二匹捕まえた。このままじゃ父さんと母さんに報告できない。そこでお前は、自分の捕まえたセミのうちの一匹を、僕にあげると言いだした。でも僕は、それを断った。兄貴としてのプライドもあったが、それ以上にお前の優しさだけで十分だったからだ。それで押し問答になり、結局お前は二匹とも離した。僕らは空っぽの虫カゴを持って、帰宅した」
僕がまくし立てると、慈愛に満ちた夕奈の黒曜石の瞳が、戸惑いの色に染まる。髪飾りの銀猫も目を丸くした。
「それは、ボクと朝斗だけの秘密で、まだ月夜には話していないはず……え、え?」
よし、効果は抜群のようだ。一気に畳みかけよう。
「他にもあるぞ。あれは小学二年生のとき、二学期最後の日。成績表を見せ合いながら、二人で家へ帰ろうとしたとき。お前は自分の成績表を風で飛ばされ、田んぼの中に落としてしまった。そこで僕が田んぼの中に入って、成績表を取って来たんだ。お前に成績表を渡した直後、僕は田んぼの土に足を取られて、前のめりにコケて。全身泥だらけになってしまった。母さんには、僕がふざけて田んぼの中に入ったって誤解され、叱られた」
「え、え、え? ど、どうして君がそれを――」
最後に、これはトドメだ。
「そして、高校一年生のあの日。お前は、僕のことを好きだって言ってくれた。お前の部屋で僕は押し倒され、お前とキスをした」
一気に言い切ったせいで、少し息切れがする。だが、そんなのかまいはしない。
「これで、信じてくれるか?」
手ごたえを感じながら問う。だが、夕奈の答えは予想を裏切った。目の前にあるものを認めたくない、と言いたげな色が声に混ざる。
「月夜、お母さんにまた夢のお話をしているんだよね? わざと君のお父さんのような話し方をしているんだよね?」
「違う。本当なんだ、夕奈」
僕はさらに一歩詰め寄る。だが、夕奈はひび割れた仮面のごとく、顔を強張らせた。
「そんな、まさか、前世の記憶に人格まで浸食されてしまったなんて。……いいかい、君は月夜だ、月夜なんだ! いくらおかしな夢で見ても、それは君自身の記憶じゃないんだよっ。しっかりするんだ!」
夕奈は強く言い聞かせるような口調で、僕の両肩を強く掴む。前世の記憶? 僕が前世だと? 思わずこちらも混乱してしまいそうになるが、それどころではない。
「夕奈、信じてもらえないだろうが、お願いだ。話を聞いてくれ!」
「そうだ、精神科の病院に電話しなくちゃ。深刻な人格障害が起こっている。精神安定用のお薬も飲ませないと!」
「夕奈。落ち着いて、僕の話に耳を傾けてくれ。本当に僕はお前の兄、白鷺朝斗なんだ」
美しい顔を青ざめさせた夕奈を、僕はどうにか宥めようとする。だが夕奈は聞く耳を持ってくれない。
「嘘だ、嘘だっ!」
夕奈は僕の肩から手を離し、血の気が引いた顔を覆い隠した。その指を一本一本解くように、僕は辛抱強く語りかける。
「夕奈。最後にお前と別れるとき、お前と約束しただろう。『待っていてくれ』って」
「……」
「僕も、お前に会いたかった」
その言葉が引き金になったのか、夕奈は慌てて寝室へと飛んでいく。かと思うとすぐに戻ってきた。
「月夜、この問題を解いてっ」
夕奈は卓上から朝ご飯を退かせ、代わりに分厚いプリントの束を僕の目の前に置いた。
「な、何だよ、いきなり」
「いいからっ!」
夕奈の剣幕に圧され、僕は仕方なくプリントの表紙をめくった。そこには自動車やケーキ、猫、ミカンなどの絵がたくさん描かれている。
『この中で、同じ絵を円で囲みましょう』
何だ、これ。幼稚園児用の問題ではないか。何が狙いなんだ? 思わず夕奈の方を見上げると、厳しい目つきで睨み返された。その殺人現場での鑑識を思わせる目が、どんな小さな痕跡も見逃すまいと、プリントを凝視する。
『リンゴが三個ありました。二個食べると、残りはいくつあるでしょう』
『徳川幕府を開いたのは、誰でしょう』
問題は小学生低学年向けから、次第に難解なものへとステップアップしていく。プリントの後半は、中学生向けの問題だった。
『次の因数分解を解きなさい』
『次の原子記号と、化学反応式を書きなさい』
それらをどうにか全て解き終える。壁に掛けられた時計を見やると、テスト開始から三十分ほど経っていた。
「できたぞ」
「貸してっ!」
僕がシャーペンを置くと同時に、夕奈は僕からプリントの束を引っ手繰った。鬼気迫った目で回答欄を通して見ていく。
「……月夜が、単に前世の記憶らしき話をするだけなら、外部から得た情報を自分が体験したことのように語っているだけ、とも考えられる。性格や口調も、本人が自覚的であれ無自覚的であれ、それっぽく振る舞うこともできる。解離性障害になっている可能性もある」
「お、おい、夕奈?」
「……でも、高校一年生レベルの学力は、さすがに幼児が演技できる範疇を超えている。これらの問題は、どれも月夜に見せたことがない。だから、あらかじめ覚えておいた答えを丸写しすることもできない。それに加えて筆跡。間違いなく、朝斗の字の癖だ。人間は、自分が書いたことのない字を書こうとすると、どうしてもぎこちなくなってしまう。月夜はようやく平仮名を覚えたばかりだ。でも、こちらの答案用紙に書かれた字は、どれも明らかに書き慣れていると見られるもの。一朝一夕でどうにかなるレベルじゃない」
夕奈はブツブツと早口を唱えていく。科学者が自分の頭の中にある理論を、必死に組み立てていくかのようだった。その先に辿り着いた答えが恐ろしいのか、彼女は顔を青ざめさせる。
「そうなると、本当に前世の人格に浸食され尽くしてしまった……? 最悪の事態は想定していたけれど、よりにもよって今日、現実になるなんて。でも、認めるしかないのか?」
夕奈は両手を震わせ、プリントを床に落とした。さらに力なく膝をつき、揺れる瞳で僕を見つめる。
「君は……本当に、本当に朝斗なのかい?」
夕奈は僕の顔に己の顔を寄せ、恐る恐るといった風に僕の頬を撫でる。今にも壊れそうなガラス細工に触れるかのように。
「ああ。僕だ」
「そんな……朝斗ぉっ! 馬鹿っ、どうしてあのとき、死んでしまったんだい!」
「すまなかった。としか言いようがない。本当にすまん」
夕奈は嗚咽を漏らしながら僕を抱きしめ、僕の頬と自分の頬を重ねた。彼女の涙が、僕の頬を濡らす。
「朝斗、君は人格が完全に目覚めたんだね? でも、昨日までそんな兆候が見られなかったのに、どうして今朝になって急に」
「人格? 目覚める? よく分からないが、とりあえず言えるのは、今朝起きるまでの記憶が全くないってことだ。その『月夜』、だったか? そっちについては全然知らない」
「記憶が、ない?」
僕は夕奈の耳元で、膨らんだ疑問の数々を一気にぶつける。
「なあ、夕奈。今のこの身体、ええと『月夜』っていう子は何者なんだ。僕の息子ってどういう冗談だ。それに、父さんが指名手配されているっていうのは、何の冗談だ。超展開すぎて、まるで訳が分からないぞ」
「……分かった。ボクが知っていることは全部話すよ」
夕奈は僕から腕を離し、泣き腫らした目をこすった。涙でいっぱいの顔になってしまったが、それがかえって生ある美しさに華を添えている。
「まず君、『白鷺朝斗』は十四年前に確かに死んだ。解剖医の話では、特に頭部が焼き焦げていて、損傷がひどかったらしい」
まあ、あれだけの電流を頭に流されたのだから、死んでもおかしくはないか。あのときの苦痛を思い出し、背筋に冷たい感覚が走る。
「本当に、僕は死んだんだな」
「うん。遺体はお母さんが引き取った。今は、神楽崎家のお墓で眠っているよ」
自分の死を聞かされるのは、何とも奇妙な心地にさせられるな。最後に父さんの実験に参加させられてから、本当に十四年の月日が経っているのか。
「父さんは?」
「お父さんは、朝斗を殺した容疑で指名手配を受けている。その後も逃走を続けながら、人体実験を繰り返しているらしい。お父さんの人体実験に利用された人は、皆生きて帰って来られないんだ。けど、匿っている人がいるらしくてね、十四年経っても捕まっていない」
それから夕奈は、バツが悪そうに僕から目を背けた。
「最後に。今の君、『神楽崎月夜』は、確かに『白鷺朝斗』の息子だ。君は『朝斗』として死に、我が子に生まれ変わったんだよ」
「僕の、息子……って」
改めて言われても、現実とは到底信じられなかった。何しろ、全く身に覚えがないのだ。
それにこの身体は、どうやら四、五歳といったところだろう。仮に、十四年前に僕と夕奈がそういう行為をして、夕奈が赤子を身ごもっていたとしても。年齢の計算がまるで合わないではないか。
さらに、父親の僕が自分の息子に生まれ変わった、ってもう訳が分からない。そんな馬鹿げた話、聞いたことがないぞ。
「『月夜』を身ごもったときから、ボクは『魂の絆』を感じていた。そのおかげで、『月夜』は『朝斗』の生まれ変わりなんだって、ずっと確信していたんだ。でも生まれて来た『月夜』は、君とは全く違う人格の子だった。本当に、生まれてから今までの記憶がないのかい?」
「ああ、気が付いたら今朝、ベッドの中にいたんだ」
それは間違いない。あの長い夢から覚めたら、いきなり十四年経っていたなんて。浦島太郎になったような気分だ。それに、僕に子どもができたとは、実感がまるでなかった。しかも、よりにもよって、自分の子に生まれ変わったって……無茶苦茶だ。それに第一、僕が死んだ後に僕の息子を妊娠するなんて、辻褄が合わない。
「僕とお前は、そういう身体の交わりを一度もしたことないだろ。それなのに、どうして僕の子どもができるんだ?」
「それは……」
夕奈は、罪状を宣告された被告人のように、肩まで伸ばした艶髪を震わせた。
「朝斗。君は、自分の精子を採取して、お母さんに提供していただろう? あれを使ったんだ。六年近く前に、ボクは君の精子を人工授精し、『月夜』を産んだ」
人工授精。なるほど、それならどうにか納得ができそうだ。だがまさか、母さんの研究のために提供した精子を、そんな形で使われるとは思っていなかった。それで今日が五歳の誕生日、ということか。しかし、なぜ夕奈はそうまでして、僕の子を産んだのだろうか。
「君は前世の記憶が、時折フラッシュバックすることがあったって、昔ボクに話してくれたよね。月夜もそれと同じように、『朝斗』の人格と記憶を時折、夢で見ることがあったんだ。ボクは精神科に連れて行くなどして、注意深く見守っていた。でもまさか、今日という記念すべき日に突然、『朝斗』の人格と入れ替わるなんて。できれば、あってほしくなかった」
「その月夜って子に会いたいか?」
「当たり前だよ。たった一人の、かけがえのない息子なんだからね」
夕奈は、僕の頭を撫でながら立ち上がる。
「さあ、次はボクが質問する番だ。月夜を身ごもるまでも、君との『魂の絆』の繋がりを時折感じていたけれど、すぐに消えてばかりいた。それはどういうことか、何か知っていることはあるかい?」
「それは」
「ボクは、そのたびに探し回っていたんだよ? 君が姿を変え、この世界のどこかにいるんじゃないかって」
魂の繋がりを感じては、すぐに消えていた……そう言われてみて、何十、何百回もの生と死の繰り返しの夢を思い出す。あれは本当に夢だったのか?
「ええと、それはだな」
そう言いかけたところで、間抜けな音がキッチンに響き渡った。僕の腹の音だ。完全に話の腰を折られた形となり、夕奈は弱弱しく苦笑する。
「まあ、つもる話はたくさんあるけれど、その前に。朝ごはんにしようか。あ、君もまだ手を洗っていないだろう」
夕奈は僕の頭から手を離すと、台所の蛇口を捻って自分の手を洗った。
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