第26話 エゴは新たな罪と愛を生む

 普通という概念が壊れたのは、ボク達親子だけではない。世間の様相は、荒れ果てた大地のようになってしまった。


 お父さんは、単に息子を殺しただけではない。お父さんが大学で行なった実験により、精神に異常が発生した人達がたくさんいる。その実験を面白半分に真似て、逮捕された人が現れた。


『また、《前世の記憶》の殺人事件です。××県△△市で、下校中の小学生二人を誘拐し、殺害した男が逮捕されました。逮捕された男の供述によると、男は誘拐した少女達の頭に、大量の電気を流し、死に至らしめたとのことです。犯行動機は、例の《前世の記憶》を蘇らせるためで、興味本位で模倣したと供述しています』

『同じ動機の事件は、今月だけでも四件目になりますね。殺人が未遂に終わった事件も含めれば、その倍以上もの事件数になります』

『前回の事件は、中学生がイジメの一環として行い、クラスメイトの男子生徒を死亡させましたよね。単純にただ、頭に電気を流しこむ行為自体は、さほど難しいことではありません。ですが、白鷺容疑者の行った例の実験は、専門の大掛かりな機械を使い、綿密な理論と細かい調整によって実現したものです。そのことを理解しようとしない模倣犯は、今後も現れそうですよ』

『事の発端となったのは、白鷺容疑者の例の論文ですよね。あれが、これほどまでに広まっているのは、国や学会、それに警察の責任ですよ。もっと大規模な規制をしないと』

『いや、今はネットが普及していますからね。一度発表されたものを完全に消すのは、ほぼ不可能といってもいい。まずは、ネット規制の方が重要かと』


 マスコミが面白半分に持て囃し、大々的に報道していたことも当然、問題視されている。けど、その罪を負いたくない彼らは、諸悪の根源であるお父さんや、それ以外の存在に責任を押し付けた。


 お父さんは、自分の研究の核心までは公表していなかったから、模倣犯達の実験は全て失敗に終わったようだ。学者達も、研究の全貌を暴けずにいる。今まで学会はお父さんの研究を鼻で笑うだけだったらしく、その結果としてお父さんが到達した場所まで辿り着けずにいた。完璧な再現が不可能な研究、つまり一種のブラックボックスとなっている。結局、死体の山が築かれていくだけとなった。事件が事件を呼び、一時期は日本中がこの「前世を思い出す研究」に注目した。


 けれど、前世の記憶を知ろうとするなんて、パンドラの箱を開けるようなものだ。すぐに政府や学会はこの研究をもみ消そうとしたけど、話題になりすぎたせいで、上手くいかないようだった。おかげでしばらくは、模倣犯によってワイドショーの話題が尽きることがなかった。その中で番組のゲストとして呼ばれた専門家が、お父さんの研究の成果が詰め込まれたデータについて触れていた。お父さんは、自分の研究の肝心な部分を他者に洩らしたくなかったためか、失踪するときに研究室にあるパソコンのハードディスクを抜き取っていたらしい。おそらく、そこには朝斗を三年間虐待したことで辿りついた、研究成果があると言われている。それがもしも模倣犯の手に渡ったら、この程度の騒ぎでは済まない、と専門家はもっともらしく語っていた。


 それらのニュースに埋もれるように、お父さんが怪しげな新興宗教に匿われているのではないか、と報じるものもあった。


 情報が錯綜する中、ボクは歯がゆくて仕方がなかった。朝斗の命を奪った研究。それによる、多くの犠牲者が出た。ボクはちっぽけな学生だけれど、何かできることはあるのだろうか。

 そう考えた末、一つの進路が決まった。








 それから六年後。ボクは、お父さんがかつて勤めていた大学の院に進学していた。もちろんお父さんが大学で教壇に立つはずがなく、別の教授に師事している。


 ボクが白鷺幸太郎の娘であることは、大学内にも知れ渡っていた。大罪人の娘として、ボクの顔写真(だけでなく、裸の写真も)がネットに晒されていることも知っている。下手な芸能人よりも、今のボクは有名だった。


 彼らの悪意に満ちた視線から、ボクは逃げなかった。勇気があるからではない。逃げる場所など、国内のどこにもないからだ。ボクにできることは、勉強することだけ。


 だけどボクはまだ、過去から抜け出せずにいる。過去から蜘蛛の糸のようにボクの心に絡みつくのは、ボクにとって大切で誇りにもしていた『魂の絆』だった。


 そんなある日のこと。


「……また、消えた」


 言いようのない消失感に襲われ、思わずボクは自分の胸に両手を置いた。常人には見えない『糸』の反応が、ほんの数瞬前に無くなってしまったからだ。それは、この世界でまた朝斗が死んだことを意味する。七年前のあの日から、数えきれないほどの死。それから数日後には、また世界のどこかで朝斗の反応が生まれる。その繰り返しだ。ボクにそれを止めることなどできない。


 正直言ってこのときのボクは、既に朝斗のことを諦めかけていた。今の無力なボクには、朝斗を救うことができない。その辛さから目を背けたくなっている自分が、ボクの心の中で芽生えていた。


「はあ」


 ボクは短いため息を吐いた。


 この日、ボクは自室で研究レポートを書いていた。大学の専門書やノートなどで、机上はごちゃごちゃだ。それでもどうにか真ん中の辺りだけは、スペースを空けてある。整理しなければ、とは思うのだけれど、日に日に積み上がる書類の量が増していく。


 机上の空いたスペースには、二枚の写真が写真立てにそれぞれ収められている。一枚は、高校の入学式のときに撮ったもの。もう一枚は、お父さんと母様の離婚の際に撮ったものだ。両方ともボクと朝斗の二人が写っているけれど、見比べてみると前者の方が二人とも背が高くなっていた。ボクも、ほんの少しは可愛らしくなったのではないか……中学三年間という第二次性徴期を通し、細いながら丸みを帯びた自分の身体。これなら朝斗も、ボクのことを女性として意識してくれるかもしれない。そう期待したけれど、鈍感な朝斗はまるで気付いた様子を見せてくれなかった。


 その二枚の写真と今のボクに共通するのは、銀の猫を模った髪飾りを身につけている点だ。小学生のころ、朝斗が誕生日プレゼントでボクに買ってくれた、大切な贈り物。当時、朝斗に女の子として見てほしくて、ボクは髪を伸ばし始めていた。その変化に気付いた朝斗が贈ってくれたのだ。朝斗の優しさが嬉しくて、ボクはあの日からずっと大事にしている。


「朝斗」


 いつものように、彼の妙に拗ねた声を脳内で再生する。けれど、


(――ユヴ――ナ)


 なぜか、歪んだノイズ音が混じって聞こえた。まるで、何度も何度もリピートしたテープが擦り切れてしまったかのように。


「あ、れ?」


 おかしい。慌てて脳をほじくり返しても、やはり声は雑音だらけ。それどころか、ボクの記憶の中にある、彼の仏頂面がぼやけて見える。


 そこでようやく、恐怖が氷塊となってボクの背中を滑り落ちた。声だけではない。あの温もりも、捻くれた顔も……朝斗に関する全ての記憶に靄がかかっている。必死に思い出そうとすればするほどに、霧散していく。彼の写真を毎日のように見ているのに、だ。


 まさか、ボクが朝斗と会うのを諦めようとしているから? 


 新しい記憶を積み重ねれば、その下に敷かれた古い過去は潰れていくのが道理だ。もちろん、いつまでも大切に保管される記憶もある。ボクにとって、朝斗との思い出は何よりも優先順位の高いものであるはずだ。けれど心のどこかで、「朝斗とはもう会えないから、忘れるのも仕方がない」と妥協してしまったら、その記憶から真っ先に消去されていく。このままでは、朝斗と過ごした日々の積み重ねまでも、忘却の彼方に追いやられてしまうだろう。


 死者は、永遠ではない。いくらその人の写真があっても、その人からの贈り物を持っていても、肝心の本人が現実には存在しない。だから、生者の心に繋ぎ止められなければ、簡単に消えるような脆い存在なのだ。その恐ろしい現実を必死に振り払おうと、ボクは机上にある専門書の山を床に叩き落した。


 そんな。そんな。そんな!


「嫌だ、忘れたくないっ!」


 いくら『魂の絆』で彼の存在を感知できても、いつの日か意識しなくなる時がやってくるだろう。朝斗がどこかで生き、どこかで死んでも、何も感じなくなるのだ。これほど恐ろしいことがあるだろうか。ボクは、朝斗の命だけでなく、朝斗に対する思い出、そして朝斗に対する想いまで失ってしまう。彼の写真が収められたアルバムを、何の感情も抱かずに押入れの奥に仕舞う。そんな日がやってくるのだ。ゆっくりと、けどこのままでは確実に。


「朝斗、朝斗ぉっ!」


 そんなの嫌だ。朝斗の声を聞きたい。写真ではなく、本物の彼の温もりをもう一度感じたい。どうしたらいい? どうすれば彼のあの仏頂面が見られるのだろうか。


 朝斗の顔。……同じ顔?


「あ……」


 そのとき、ボクは閃いてしまった。それは、毒入りの甘い林檎のような悪魔の囁き。倫理に背く行為。それでも、ボクは縋りついた。







 ボクは、また自分のエゴに勝てなかった。

 重い罪が一つ増え。それと引き換えに、ボクはかけがえのない宝物を得た。








 それから月日がさらに過ぎた。


「おかーさん」


 自宅の台所で洗い物をしていると、舌足らずな声に後ろから呼ばれた。振り返り下に向けた視線の先には、幼い子どもが立っている。


 この子こそ正真正銘、ボクの息子。神楽崎月夜だ。愛しい、我が子。


「何だい、月夜」

「あした、なにかあるの?」


 ボクは、すぐ傍にあった布巾で手を拭く。それから、月夜と同じ目線まで屈んだ。


「どうして、そんなことを思ったんだい?」

「えっとね、おばーちゃんが、おでかけするまえにいったの。『明日は月夜のお誕生日だから、プレゼントを買ってくるね』って」


 本当は明日、月夜を驚かせようと思っていたのだけれど。


 ボクが思わず笑みをこぼすと、月夜は不思議そうに目を瞬かせる。その双眸は「ボク達両親」と同じく、ツリ上がっていた。でも、月夜から剣呑な雰囲気など全く感じられない。それどころか、生まれたての子猫のように無垢で愛くるしかった。


「おかーさん。『おたんじょうび』ってなぁに?」


 月夜は明日で、五歳になる。言葉を段々と覚え、様々なことに疑問や興味を抱き始める年頃だ。


 ボクは、月夜の小さな頭を優しく撫でた。


「月夜が生まれた日のことだよ。月夜が生まれて来てくれたことを、ボク達が『ありがとう』って言うんだ」

「ありがとう? おかーさんも、おばーちゃんも、ぼくがうまれたのが、うれしいの?」

「もちろんだよ。月夜が笑顔でいてくれるから、ボク達は毎日頑張ることができるんだ」


 ボクがそう言うと、月夜は自分の小さな胸に両手を重ねた。まるで祈るように。


「そう、なんだ」


 それからしばらくの間、月夜は何やら考え込み。再びボクと見つめ合う。


「ぼくもね。おかーさんと、おばーちゃんに、いいたいことがあるよ」

「うん? 何だい」

「えっと、それは、ないしょ。あした、いうね」


 月夜は顔を赤らめ、遠慮がちに微笑む。愛らしい表情でそう言われてしまったら、追求できないではないか。ボクは苦笑して、もう一度我が子の頭を撫でた。


「お母さん、明日はお仕事がお休みなんだ」

「え、じゃあ、おかーさんと、ずっといっしょにいられるの?」


 僕の言葉に、月夜は幼顔を輝かせる。その愛らしさにボクは思わず笑みをこぼし、頷いた。


 ここ半年、まともな仕事の休暇を取ることができず、休日に月夜と過ごす時間を割くことがあまりできなかった。せめてこの子の誕生日だけでも、と無理やり有給をねじ込んだのだ。


「ごめんね。寂しい思いをさせて」

「ううん。ぼく、さみしくないよ。おかーさん、おしごとでつかれてるのに、おうちにいるときは、ずっとぼくといっしょにいてくれるから。……でも」


 月夜はふと顔を曇らせ、こちらを見つめる。


「ぼくね、おかーさんがしんぱいなの。だって、ぼくがおやすみしてから、よるおそくまで、おしごとがんばってるの、ぼくしってるよ。こないだ、おねつがでてるのに、おしごとにいったのも、しってる」

「月夜……」

「おかーさん。あしたは、ゆっくりねてたほうが、いいよ。ぼく、いいこで、しずかにしてるから」


 仕事のせいで疲れていても、ボクは月夜の前で弱音を見せないようにしていた。この子に、余計な心配をかけたくない。だけど子どもは、親が思っている以上に親をよく見ている。月夜は賢い子だ。ボクの虚勢など、お見通しなのだろう。

 だからといって、今以上に月夜の優しさに甘えてよいわけではない。ボクはその場に屈んで、月夜を正面からそっと抱きしめた。


「大丈夫。お母さんはね、月夜にいっぱい元気をもらっているんだよ。だから、毎日お仕事を頑張ることができるのさ。だから、心配しないで」

「……ほんと?」

「本当だとも」


 力強い声でそう言うと、月夜はほっとした様子で顔を綻ばせてくれた。その控えめな表情が、たまらなく愛おしい。


 朝斗が死んでから、既に十四年が経っていた。寂しくない、と言えば嘘になる。でも今のボクには、かけがえのない息子がいてくれるのだ。





 朝斗の血と『魂の絆』を継いだ月夜。

 どうか、この子が健やかに育ちますように。

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