幕間
第25話 追いかけるほどに離れていき
いつの頃からだろうか。彼を好きになったのは。
幼いころのボクは、彼の背中をずっと見て育っていた。泣き虫だったボクは、いつも彼に泣きついていたものだ。そんなボクに対して、彼はいつも仏頂面で背中を貸してくれた。
甘えん坊だったボクは、いつも彼の傍にいようとした。小学校に入学して、彼と別々のクラスになったときは、不安で仕方がなかった。一般の兄妹よりも、おそらくボク達の距離は近いのだろう。ボクの心の中で一番を占めていたのは、常に彼だ。それが、当たり前だと信じて疑わなかった。
でも、彼は彼で、自分の道を進んでいる。ボクは、いつまでも彼と共に歩むことなどできない。いつの日か、彼が好きな女性と結ばれるときがやって来るだろう。そのとき、ボクは彼の幸せを心から祝福できるのだろうか。何年も何年もそう自問し続け……ようやく気付いた。ボクは、彼を「妹」として慕っている、けれど「女」としても好きなのだ……と。それが依存なのか。それとも、純粋な愛なのか。その区別ができない。
この罪深き想いを、彼に告白することができるだろうか。もしかしたら、彼に拒絶されるかもしれない。そうなったら、二人の関係が崩れてしまう。それが怖かった。儚くて、脆い。そんな不安定な危険物を、ボクは胸の内で育て続けた。
そうして迎えた、あの日。ボク、神楽崎夕奈は勇気を出して、とうとう自分の気持ちを彼に伝えた。
それが引き金となったのだろうか。程なくして、ボクの世界が大きく変化を遂げた。
ボクと彼、白鷺朝斗を繋ぐ『魂の絆』が、突如消えたのだ。朝斗と最後に別れてから、わずか一時間後のことだった。
これまでに『糸』が消えたことなど、一度もない。どんなに離れていても、どちらかが病気にかかったときだって、『糸』はボク達兄妹を繋いでいた。だから、ボクは言いようのない不安に襲われた。いくら朝斗に連絡を取ろうとしても、電話は繋がらなかった。
翌日。警察から自宅へと電話がかかってきた。その電話を取ったのはボクだ。警察は、学校を通じてこちらの電話番号を知ったらしい。
『今朝、市内のゴミ捨て場で、黒焦げになった遺体が発見されました。遺体に残されていた学校用のバッグなどから、遺体の身元が白鷺朝斗さんである可能性があります。確認のため、署の方へ――』
その言葉を聞いた直後、ボクの時間が止まった。
……何ヲ言ッテイルノダロウカ、コノ人ハ。
青ざめるボクから事態を察したお母さんが、電話を替わった。警察の指示に従って、ボク達は警察署へと向かった。
署の地下にある霊安室。そこに、朝斗がいた。頭部だけが、まるで火葬されたかのようだった。肉の焦げた独特の異臭を、ボクは死ぬまで忘れることができないだろう。
警察は、まずお父さんを犯人と疑った。お父さんと連絡がつかないことは無論のこと。加えてお父さんの自宅の自室から、荷造りした形跡が見つかったからだ。次に、ボクとお母さんが疑われた。元家族であることと、昨日朝斗が我が家を訪れたばかりだからだ。もちろんお母さんは否定した。その様子をボクは、テレビ画面の向こう側のように、ぼんやりと眺めていた。
朝斗の死。その事実を受け入れることができず、ボクは一週間学校を休んだ。飲食を一切せず、自室の椅子に座って呆然と時を過ごしていた。
(僕は、決着をつけてくる)
約束してくれたのに。
(だから、待っていてほしい)
あのとき、無理にでも彼を引き止めるべきだった。
もう彼に会うことができない。絶望に全身が包まれたとき。さらなる異常が起こった。
「朝斗……?」
まさかと思った。『魂の絆』をまた感じ取ったのだから。
気がつくと、ボクは自宅を飛び出していた。『糸』の感覚から、朝斗までの距離がそんなに遠くないと感じたのだ。ただひたすらに、『糸』を辿って走り続け。
着いた先は市内の港だった。濡れることなど気にもとめず、ボクは海水の中に足を踏み込んだ。
近い。あと少しで朝斗と会える。
期待で気が逸り、足がもつれそうになった。既に胸まで浸水していたけど、それでも突き進む。どうしてこんな場所に朝斗がいるかなんて、考えもしない。会いたい。会いたい。会いたい。朝斗に会いたい! 心を支配していたのは、ただそれだけ。
「朝斗っ!」
残りあと一メートルを切った、と『糸』が告げた。ボクは喜び勇んで海の中に顔を突っ込んだ。しかし、そこにいたのは、魚だけだ。親らしき魚と、大勢の稚魚達。そして次の瞬間、『糸』が呆気なく切れた。目の前で、ハサミを使われたかのように。
「っ?」
ボクには、何が起こったのか理解できなかった。親魚が稚魚を食べた。それだけだ。それなのに、どうして『糸』が切れる?
海の中から顔を出し、ボクは放心するしかなかった。
そのわずか数日後、『糸』は再出現した。
それを感じ取ったボクは、慌てて奔走する。けど嘲笑うかのように、すぐに『糸』から伝わる安らかな鼓動が消えた。そうかと思うと、それから数日後にはまた『糸』が出現する。『糸』からの反応がある時間は数分から数時間、最高で一日とバラバラ。でも、その全ての機会をボクは逃し、朝斗と巡り会うことができなかった。
苛立たしいことに、『糸』が再出現するにつれ、次第に朝斗との距離が遠くなっていくのが分かった。町内、地区内、市内、県内へと次第に伸びていく『糸』。具体的な距離まで感じ取ることができることが絶望となり、僕の背中にジワリと圧し掛かってきた。
そのおかげというべきか、ボクはようやく冷静さを取り戻した。
朝斗は、一体どうなってしまったのだろうか。どうして、『糸』の反応が切れたり繋がったりするのだろうか。そう思案し、ようやく先日の海での一件が脳裏に蘇った。
朝斗は、お父さんの実験に巻き込まれていた。お父さんの研究は、前世の記憶を蘇らせること。前世の朝斗はボクと姉弟の関係だった、と朝斗は言っていた。なぜ相手の女性がボクだと分かったのか、それは『糸』の繋がりを感じ取ることができたからだという。
前世でも、ボクと朝斗は『魂の絆』で結ばれた関係だった。そうなると、朝斗が死んで生まれ変わっても『糸』の反応があるのは、あり得ないことではない。
つまり、あの『糸』からの反応は、朝斗が転生したという知らせなのか。すぐに『糸』の反応が消えるのは、朝斗が生まれ変わってすぐに死んでいる……しかも何度も何度も。
あの日、海で親魚に食べられていた稚魚。あれも朝斗だった、のかもしれない。そう考え、ゾッとした。仮に、その予想が正しいとすれば。朝斗は今も、あんな簡単に命を落とし続けていることになるのだ。
一方で学校に復帰したボクは、針の筵に座らされているかのような毎日を送っていた。
「犯罪者の娘が学校に来ないでよ。気持ち悪い」
名も知らない他クラスの生徒にそう言い切られたのが、きっかけだ。それから程なくしてボクは、クラスメイト達から陰湿なイジメを受けるようになった。汚れた雑巾で顔を拭かれたり、髪の毛の先に火をつけられたり。さらには学校で飼っていたウサギを目の前で殺され、まだ体温の残る躯を口に含ませられたこともあった。どうやらボクは、以前から女子生徒達から嫌われていたらしく、イジメに参加していたメンバーは、女子の方が多数だった。
「ほら、早く脱がせなさいよ」
「い、いいのかよ。さすがにヤバいんじゃ」
「今更怖気づいてんじゃないわよ。さあ、早くしなさい!」
イジメがエスカレートすると、ボクはトイレの個室に無理やり連れてこられた。イジメの主犯となっていた女子生徒にけしかけられ、男子生徒がボクの制服を剥いた。ボクの裸は写真に撮られ、携帯電話を通じて学校中に広まった。強姦をされなかっただけでも、良しとすべきか。そう自嘲するしかなかった。
「神楽崎と目を合わせたら、俺達にまでとばっちりが来るぞ」
「近づかない方がいいぜ」
以前は明るく接してくれていたクラスメイト達も、ボクから距離を置くようになった。先生達も見て見ぬフリをしていた。それどころか、ボクの裸の写真をパソコンに保存する先生もいたようだ。
長瀬さんは療養のため、しばらく休学していた。何度かお見舞いに行ったけど、家族の人にボクが名乗ると、すぐに家から追い出された。無理もない。ボクは、長瀬さんと長瀬さんのお兄さんを追い込んだ男の娘なのだから。
一緒に暮らすお母さんも、職場でひどいイジメを受けていた。大人の場合、地位を利用したパワハラもより一層悪化する。それにお母さんは実年齢よりも遥かに若くて綺麗な容姿の持ち主だから、セクハラも陰湿なものだった。まるで見てきたかのように断定したのは、実際にボクが一度だけ偶然現場を目撃したからだ。お母さんは絶対にボクの前で弱音を吐かなかったけど、本当は精神がまいっているはずだった。
敵意を剥き出しにするのは、学校や職場の皆だけに留まらなかった。街ですれ違う人々が、ボク達母娘に非難の視線を突き刺してくる。マスコミは朝斗やお父さんとの関係を、面白おかしく脚色して報道する。どこでアドレスを知ったのか、携帯電話には罵倒のメールが毎日のように届く。
そうした厳しい現実が、ボク達親子の心を摩耗させていった。
「夕奈。また出かけるの?」
朝斗の死から一年が過ぎようとしたころ。ボクがいつものように『糸』を追いに行こうとすると、お母さんに呼びとめられた。
「夕奈。病院の先生がおっしゃっていたでしょう。あまり外を出歩かないようにって」
この頃のボクは、精神科の病院に通院していた。毎日、朝斗を探しに行くボクの姿が、まるで夢遊病者のようだと、お母さんが心配したのだ。
「ねえ、夕奈。朝斗は死んだのよ。辛いでしょうけど、そろそろ受け止めなさい」
お母さんの声は疲れ切っていた。お母さんも、本当なら全てを投げ出して自殺してしまいたかっただろう。ギリギリで踏み止まっていられたのは、ボクがいたからなのだと思う。
「……ううん。お母さん、朝斗は生きているよ。この世界のどこかで」
虚ろな目でボクは言う。その言葉が最後のタガを外したのか、お母さんはボクの頬を思い切り叩いた。何度も何度も、ボクの頬が腫れあがるまで。ボクを一発叩くたびに、お母さんの目から涙がこぼれた。
「夕奈っ、現実から目を背けるのはやめなさい! このままじゃ、廃人になってしまうわよ。私は、あなたまで失いたくないの!」
その言葉を最後に、お母さんは倒れた。顔を蒼白に染め、息もか細くなっていた。
「お母さんっ!?」
慌てて呼んだ救急車の中で、お母さんは魂が抜けたように眠っていた。検査の結果、医師は、お母さんが自律神経失調症なのだと診断した。そこでようやく、ボクは自分がどれほどお母さんを追い詰めていたのかを実感した。
ボクは、自分のことばかり考えているエゴイストだ。その弱さが、お母さんや生前の朝斗を苦しめていた。
(ボクも、もっと強くなるよ。朝斗が心配しなくても大丈夫なくらいに、強くなる)
お父さんとお母さんが離婚したあの日、朝斗と約束したのに……ボクはいつまで経っても弱虫のままだった。
(人が前世の記憶を忘れて生まれ変わるのは、今の現実を生きるため。ボクはそう考えている。いつまでも前世の柵に囚われていたら、現世を生きるどころではなくなる)
朝斗には偉そうにそう言ったのに、ボクが誰よりも過去に囚われているのだ。このままでは良くないことだけは分かる。
その日から、ボクは『糸』を追うことをやめた。
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