第23話 そして、魂は巡る

 魂が流転する。「白鷺朝斗」を構成する肉が溶けていく。その代わりに感じるのは、母の胎内にいるかのような、あたたかさ。


 恐る恐る目を開ける。見渡すと、一面に淡い虹が広がっていた。サンゴ礁に満ちた海の中にでもいるかのような、煌びやかな景色。あまりに幻想的で、思わず見惚れてしまいそうだった。


 自分の身体を見ると、手足はちゃんとある。それなのに、肉体の重みは感じない。


 ついさっきまで、僕は父さんの研究室にいたはずだ。そこで実験体にされて……まさか僕は死んだのか? ここは死後の世界なのか? 僕はこれからどうなるんだ? それらの疑問に答えてくれる者は、誰もいない。


 だが、それ以上考える時間は与えられなかった。


(助ケテ!)

(苦シイ!)

(死ニタクナイ!)


 気がつくと真っ黒い塊が、後ろからこちらに押し寄せてきていた。その山ほどに巨大で凄まじい迫力に圧倒され、僕は思わずうめき声をあげる。


「あ、あ、あ」


 それは、激しい渦を巻く大潮だった。まるで、一つの狭い牢の中に無理やり押し込められていた罪人達が、格子を解かれて飛び出してきたかのようだ。悲哀と苦痛で満ちた膨大な数の声の主が群れとなり、こちらになだれ込んでくる。


(生キタイ!)

(死ニタクナイ!)

(肉体ガホシイ!)


 生物が生まれながらにして持つ、根源の渇望。狂乱に満ちた絶叫だった。


 何だ、あれは。まさかあれも、父さんのイカレた実験で見せられている、幻覚か何かなのか? いや、そんなことはどうでもいい。あれらに捕まったら、僕も一気に飲み込まれる。そう、本能がそう告げていた。背筋が粟立ち、奥歯が震えてガタガタと音を立てる。


 そうだ、早く、早く逃げないと!


「嫌だ、死にたくない!」


 無数の嘆き達から背を向け、僕は無我夢中で走った。虹の世界はとにかくだだっ広く、建造物や登れる場所なんて一つも見つからない。それでも、諦めて足を止めることはできなかった。


 僕には、待ってくれているヤツがいる。あいつと約束したのだ。こんな訳の分からないところで、死んでたまるものか。


 後ろを振り向く余裕はなかった。あれが悪霊なのか悪魔なのかも分からないが、そんなことは知ったことか。あれはヤバい。それだけで十分だ。ペース配分も考えず、僕はひたすら駆けていく。


 だが、向こうの方が速い。みるみるうちに追いつかれるのが、背中越しでも分かった。全速力で走っているせいで、体力の容量があっという間に残り少なくなっている。くそっ、どこかに隠れる場所はないのか。


 焦りと恐怖で脳が埋め尽くされていくところへ、さらなる異常に襲われた。


 虹に覆われていた空が裂け、その割れ目から光り輝く長い腕が伸びてきたのだ。人間、いや違う。樹齢千年の樹木を思わせるほどに太く、まるで神のごとき荘厳な威圧感を放っている。


「くそったれ!」


 僕は藁にも縋る気持ちで、輝く腕に向かって飛びかかった。巨大な腕の掌の部分に、どうにかしがみ付く。


 その瞬間、肩に何か柔らかな物が当たった。


(ッ!?)


 バレーボールくらいの大きさの球体が、僕に突き飛ばされていった。同時に悲鳴にもならない程のか弱い鳴き声をあげる。まずい、と感じた僕は慌てて片手を伸ばすが、間に合わない。謎の球体が、七色に煌めく地面に落ちていく。


 そんなことなどお構いなしで、巨大な手が僕の身体を包み、持ち上げた。もしかして、本当はあの球体を掴むつもりだったのではないのか? 


「お、おい、あれも連れて行かないのか!」


 僕は巨大な腕に向かって大声をあげるが、相手はまるで聞こえた意思を見せない。球体が悲しげに転がるが、そこへあの黒い塊が津波となって覆いかぶさる。球体は為す術もなく飲み込まれてしまった。


 巨大な腕に掴まれた僕は、UFOキャッチャーのように機械的な動きで、真上に広がる天の裂け目へと運ばれていく。その下では、黒い塊が呪詛にも似た叫び声をあげていた。


(アレダ、俺達モアレニ乗ルンダ!)

(クソッ、今度モ駄目ダッタ!)

(モウ、コンナトコロハ嫌ダ!)


 そんな嘆きを無視し、巨大な腕は天の裂け目を抜ける。裂け目は分厚い監獄の門となって、無慈悲に閉じた。


 一体、どこへ連れて行かれるのだろうか。


 虹が消え、眩いまでの光が目の前を覆った。

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