第21話 その決意は……

 それから程なくして、僕は神楽崎家を出た。母さんは帰ってほしくないようだったが、こればかりは仕方がない。


 外はもう、夕暮れから夜へと変わろうとしていた。マンションの入り口前で、夕奈と別れようとする。すると、彼女は名残惜しそうに僕の制服の袖をつまんだ。


「朝斗。あの家に帰ってはダメだよ。あそこにいたら遠くない将来、朝斗が壊れてしまう」


 不安げに僕を見つめる夕奈が、正直言っていじらしかった。舞台女優のような笑顔の仮面が外れたままだ。濡れた瞳。風に揺れる、艶やかな黒髪。抱きしめたら折れてしまいそうなほどの、細い腰。素顔を見るとこいつは、こんなにも可愛らしいのだと、今更ながら気付かされる。


 正直言って、先程の告白に上手く応えてあげられる自信は、まるでなかった。僕の返答次第では、彼女を傷つけてしまうだろう。だが、この内から溢れて来る愛おしさだけは、守岡信太の記憶ではなく、白鷺朝斗の現実だと思いたかった。それが兄としての感情なのか、男としての愛情なのかは別として。


 僕は、夕奈のことをどう思っているのだろうか。いつぞや自覚した問題が再浮上する。


 妹? 女? それとも……


 その問いの答えをはっきりさせるためにも、僕はもう一つの自分自身の問題に立ち向かわなければいけない。


「朝斗。警察に全部話したら、ボクらと一緒に暮らそう? きっとお母さんは賛成してくれると思う」


 その言葉には直接答えず、僕は夕奈の手を握り返した。


「僕は、決着をつけてくる」

「朝斗」

「だから、待っていてほしい」


 そう言って、僕は夕奈と別れた。彼女の儚げな視線を、背中に感じながら。







 そう、決着だ。


 十七年前、前世の僕は父さんから死という手段で逃げた。現世の僕も、ひたすら耐えるという選択で、現実から目を背けていた。だが、それらは間違っていたのだと、今なら言える。本当は、戦うべきだったのだ。夕奈に勇気をもらったのか、濁っていた心が清浄された気がした。恐る恐るだが、前へ一歩踏み出せる。


 多くの犠牲者が出た、今回の実験。その事態を引き起こした罪を背負う者として、やるべきことがある。


「……はい、はい。それでは、今からそちらへ向かう、じゃなくて、向かいます」


 話を終えた僕は、携帯電話の通話を切った。相手は地元の警察だ。警察には、「父親から虐待を受けている」という簡潔な説明だけをした。詳しい説明はこれからだ。


 これで完全に、父さんを売り渡す形になった。母さんや夕奈に任せてはいけない。他でもない僕が、しなければならないことなのだ。もちろん、こんなことで罪が軽くなりはしないが。


 電車で地元の駅に着くと、空は既に闇で染まっていた。夕奈が住んでいる地域の駅と違い、夜の七時を過ぎると、ここでは改札口ですれ違う人もいない。駅前にまばらに建つ個人商店達に目を向けると、どこも今日は営業終了のようだった。何とも清々しいまでの田舎町だ。


 父さんは今頃、大学から帰宅して、研究室にいるのだろう。僕の帰りが遅いことにイラつく、父さんの顔が目に浮かぶ。だが普通の親のように、「息子が事故に遭ったのかも」などと、心配するような性質ではない。警察や学校に相談する可能性など、もっての外だ。そんな時間があったら、怪しい研究に少しでも費やす。それが父さんという人間である。そういう意味では、こちらも安心して警察署へ向かうことができる。


 足取りはお世辞にも軽いと言えなかった。それでも、前へ進むしかない。


 すると。


「遅かったやないか。どこをうろつき回っとったんや」


 粘ついた声が後ろから耳に入ってくる。……聞きたくない声だった。


「と、父さん!?」


 振り返った先にあったのは、間違いなく父さんの顔だった。ハイブリッドカーの助手席の窓から顔を出し、こちらを睨みつけてくる。


 あの父さんがわざわざ駅前の駐車場に車を停めて、僕を待ち構えていたなんて。さすがに想定をしていなかった事態だ。だが、父さんはこんな車を所持していない。誰が運転しているんだ?


「貴重な実験の時間を、無駄に消費しよって。まあ、ええ。早ぅ車に乗れ」


 父さんは、僕が従うと信じて疑っていないらしい。ここで車に乗れば、あの邪悪な研究に手を貸すことになる。


 ……言え。


 思わず弱気になりそうになる自分の心に、鞭を打つ。


 言え、言うんだ! 情けない根性無しのお前にできる、決意の表明を!


「……行かない」

「なにぃ?」

「行かないって言ったんだ」


 僕は父さんを睨み返した。いつも文句を言っても、結局は奴隷のように従っていた自分との決別だ。


「もう二度と、実験には協力しない。僕は父さんのモルモットじゃない。一人の人間だ!」


 三年前からずっと言いたかった、だが勇気がなくて言えなかった言葉。


 僕の反抗に対し、予想通り父さんは激高した。皮肉げに釣り上がった目尻をさらに吊り上げ、濃厚で甘ったるい唾を飛び散らせる。


「何を寝ぼけたことをぬかすんやっ。お前は死ぬまでワシのモルモットや。ワシの研究のためだけに、生かしてやっとるに過ぎへん!」

「父さんの妄念にはもう、うんざりだ! もうこれ以上、父さんの実験に加担して、犠牲者を作りたくない! そんなに研究がしたいなら、研究室に閉じこもって、父さんが自分を被検体にすればいいだろ! 誰も巻き込まずに、一人でやっていてくれ!」


 そう叫ぶと、僕は踵を返す。駅の改札口まで行けば、駅員がいる。他人の目がある場所ならば、父さんも迂闊に手を出せないだろう。


「待てぇっ、この馬鹿息子がっ!」


 だが、後ろからけたたましい父さんの声と共に、車の後部座席が左右一斉に開かれる。中から飛び出してきたのは、スーツ姿の男達。暗がりのためにスーツの柄までは分からないが、その顔には見覚えがある。先日、自宅を訪問してきた『螺旋の会』とかいう連中だ。


 男達が大砲の弾のごとく、地面を蹴って駆けてくる。僕も必死に逃げようとするが、見る見るうちに距離を詰められていった。後ろから肩を掴まれたかと思うと、アスファルトの地面に叩き付けられる。抵抗する間もなく、背中越しに両腕の関節が完全に決められてしまった。


「ぐっ!」


 必死にもがいても、まるでビクともしない。ならばと大声をあげようとするが、一手早く口の中に布を放り込まれる。


「博士、確保しました」

「よっしゃ。とっとと、ここから離れるで」


 僕を車の後部座席へと放り込むと、車は勢い良く発進した。

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