第14話 白状

 その後、家族の人が迎えに来て、長瀬は早退した。彼女の異常は、あっという間にクラスの皆の耳に入ったらしい。休み時間になると、その話で持ちきりだった。


「……美人でも、あれはさすがにドン引きだぜ。ヤバいクスリをやってるんじゃねえか?」

「……中学のころも、あんな感じだったんじゃねえの?」

「……家族全員、頭がおかしいって話だぜ」


 クラスメイト達の噂は、信憑性のないものばかりだ。人間という生き物は、何歳になっても噂話と憶測が大好きであるらしい。


 そうして迎えた昼休み。僕は特別校舎の三階の一番奥にある、男子トイレの個室に駆け込んだ。考え事に集中したいから、落ち着いた場所がいい。その点、この辺りは人通りが少なく、生徒達の話し声もあまり聞こえてこなかった。みんな、授業を終えて各自の教室へと戻って行ったようだ。


 長瀬の異常な姿を見て、僕はあの映像を思い返していた。『魂の絆』を持った、雅美姉さんとの思い出。彼女は本当に、夕奈の前世だというのか。


 父さんは、信太と雅美姉さんが十七年前に自殺したと言った。自殺の原因は何だったのだろうか。父さんはそのことについても、何か知っているような口ぶりだった。だが尋ねたところで、面倒くさがって答えてはくれないだろう。そうなると自分で調べるか……あるいは、実験によって記憶をさらに「思い出す」しかない。


 だが長瀬のような被害者人が出た以上、実験に協力することには反対だった。これ以上の犠牲者を増やすべきではない。あの実験は危険だ。きっと父さんは、大学での実験結果をもとに、家でさらなる実験を行うつもりであるに違いない。雅美姉さんとの映像をもっと思い出せば、僕も長瀬のように精神が壊れかけてしまうだろう。今でさえ、夕奈のことを想うだけで、狂おしいまでに胸が締め付けられるのに。


 いや、大事なのは僕よりも、他の犠牲者のことだ。三日前の実験に参加した人間は、二十名ほどと聞く。その人達は大丈夫なのだろうか?


 と。


「ここにいたねっ!」


 急に上から叫び声が降って来て、僕は思わず見上げた。個室のドアの上から、柳眉を逆立てた夕奈が覗きこんでいる。しまった、考えるのに夢中で、肝心の夕奈の行動を把握するのを、すっかり忘れていた。彼女は『魂の絆』で、どこにいても僕の居場所を知ることができるのだ。


「お、お前っ、馬鹿かっ。ここ男子便所だぞ!」

「馬鹿は君だよ! 早く出て来なさい!」


 夕奈はかなりのご立腹のようで、普段は柔らかなアルトの声を鋭く尖らせている。昼休みで人通りが少ないとはいえ、こんなところを誰かに見られたら、何と噂されるか分からない。しぶしぶ、僕は個室のドアを開けた。


「まったく、四日前からずっと、ボクから逃げているね。どうしてなんだい」

「に、逃げてない」

「嘘だね。金曜の昼休みと下校のとき以外は、ずっとボクから逃げていたじゃないか。電話を何度もかけても、出てくれないし。ボクが君を探そうとすると、さらに離れようとするし」


 離れようとする僕の一手先を読み、夕奈は僕を正面から抱きしめる。その黒曜石の瞳は、辛そうに潤んでいた。それを見た僕は「しまった」と思ったが、時既に遅し、全身の毛が逆立っていく。そんなこちらの状態など知る由もなく、不安げに僕の耳に口を寄せる。


「ボク、何か君に悪いことしたかい? もしもそうなら、はっきりと教えてほしい。きちんと謝るから」

「な、何もしてない。だから、早く離れ――」

「じゃあ、何で逃げるのさ」


 まずい。何か上手い言い訳を思いつかないかと、思考を巡らせる。


「それは……」

「さあ、全て白状してもらうよ!」


 夕奈は、お互いの顔と顔がくっ付くほどに近づけ、真っすぐな目で睨みつけてくる。その真剣な表情が、僕の中でさらなる情欲を燃えたぎらせた。息が荒くなり、体中が熱く漲っていく。


 もう、限界だっ。

 理性の鎖が砕かれた僕は、衝動的に夕奈の腰を抱きしめ返した。そのまま乱暴に、彼女をトイレの壁に押し付ける。


「え、あ、朝斗?」


 困惑の声をあげる夕奈を、僕は無視した。マグマのごとく湧き出る感情に突き動かされ、妹の潤った唇を貪る。その奥に、自分の舌を無理やりねじり込んでいく。


「く――っ!?」


 新鮮なゼリーを思わせる、柔らかくも弾力のある感触。捥ぎたての甘い果実の味わいだ。さらに、そこから漏れる苦しげな喘ぎが、たまらなく官能的だった。


 そんな兄の突然の暴挙に対し、夕奈は混乱で脳を支配されたようだ。挑戦的につり上がった目を丸くするその表情は、獣に襲われて狼狽する生娘そのものだった。それでも、この状況から逃れるために、僕を無理やりに押し出そうとする。だが、この狭い個室では、さすがに上手くいかないらしい。その必死な姿がまた、僕の本能に電流を走らせた。


(もっと味わいたい)


 悪魔の囁き声が、脳の奥から浸食してくる。ここで身を委ねれば、心が楽になれるだろう。だが、その先にあるのが破滅であることは明らかだった。


(お前だって、こうなるのを願っていたはずだ。しゃぶり尽くせよ)


 違うっ、僕はこんなことなんて、望んでいない。夕奈には笑顔でいてほしいのに、僕が壊してたまるか!


「ああああああああっ!」


 廊下にまで響き渡るほどの声を叫び、僕は夕奈から飛びずさった。その勢いでトイレの便座に尻が当たり、倒れこむようにして座り込む。増大化する欲望を外に投げ捨て、理性で感情に蓋をした。

 気付くと、制服のワイシャツが、汗でびっしょりと濡れていた。校庭を全力疾走した直後以上に、息が荒くなっている。


「あさ、と?」


 夕奈が恐る恐る声をかけてきた。彼女も息を弾ませており、顔が蒸気している。


 とうとう、やってしまった。血の繋がった妹を襲ってしまったのだ。唇に残った感触が猛烈な後悔へと変化し、僕の身体に巻きついて支配してくる。


「……すまん」


 謝って済む問題ではないことは、分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。


「一体、何があったのさ、朝斗。こんなのおかしいよ。今の朝斗は、自分の意思でやっているようには、とても見えなかった。ひょっとして、誰かに脅されたのかい?」


 つい先ほど襲われたばかりだというのに、夕奈は暴漢魔本人を純粋に心配する。その優しさが、かえって痛かった。いっそ罵倒してくれた方が楽だろう。

 こうなってしまったからには、もう全てを白状するしかない。観念した僕は、深く息を吐いてから顔を上げた。


「場所を変えるぞ」











 喧騒で埋め尽くされた普通教室棟と違い、特別教室棟の三階は人通りが極端に少ない。昼休み中ということも大きな理由なのだろう。その中で僕達は、トイレを出てすぐ隣にある空き教室に入った。ここは以前、夕奈が男子生徒に告白された場所だ。


「ここなら大丈夫だろう。さあ、話してもらうよ」


 そう言われても、どこから話せばいいものか。僕はシミの残る天井を見上げた。


「父さんが、前世の記憶を思い出すための実験をしているのは、お前も知っているだろう」

「うん、お父さんはそのことに昔から夢中だったね。そのせいで、お母さんにはよく怒られていたっけ。でも、こう言っては何だけど、前世の研究はお父さんの妄想じゃないのかい」

「いや、信じがたいが、残念ながら違う。ここ連日のテレビの報道を見ただろ? 研究が成功しそうなんだ。僕はずっと協力していた」

「協力していた?」


 夕奈はオウム返しに聞き返す。僕は重々しく頷いた。


「離婚の際、父さんが僕を引き取ったのは、実験の被験体になる人間が必要だったからだ。つい最近まで、父さんの研究に協力したがる人間はいなかったからな」

「そのために、朝斗が犠牲になったっていうことなのかい? どうして、そんな大事なことを今まで教えてくれなかったのさ」


 中学時代、離れ離れになった夕奈と毎週会うたびに、僕は全てを告白してしまいたかった。だが、母さんや夕奈まで世間から後ろ指を指されてしまうのが、たまらなく怖い。そんな僕の弱さが、結論を先延ばしさせていた。結果として、関係のない長瀬にまで被害が及んでしまったのだ。


「実験が成功したのは、つい最近のことだ。僕も、前世の記憶とやらを思い出している。ずっと幻覚だと信じたかったが、今は否定できない」


 夕奈の問いを避け、僕は説明を続ける。夕奈は訝しげに眉根を寄せた。


「それが、朝斗がボクを避ける原因になっているのかい? 分からないな。仮にその話が本当だったとしても、朝斗にとってはあくまでも前世のことだろう? 今のボク達とは関係がないじゃないか」

「関係があるんだ。記憶の中で、前世の僕は一人の女性と恋人同士だった。その相手とは、『魂の絆』で繋がっていた。つまり、姿かたちは変わっていても。夕奈、お前ということになる」

「そんな」


 夕奈は、信じられないと言いたげに、その皮肉げに釣り上がった目を見開いた。当然の反応だろう。僕だってこの立場にいなければ、「お前の妄想だ」と一蹴するに違いない。


「長瀬も言っていたが、実験によって見た記憶は、普通の映像だけじゃない。その感触まではっきりと覚えている。だから分かるんだ、その『魂の絆』を。前世のお前のぬくもりを。前世の僕らは、愛し合っていた。だが、父さんの話では、十七年前に自殺したそうだ。原因は分からない。父さんは前世の僕らについて、何か知っているようだったが、詳しくは教えてくれなかった」

「自殺……」


 夕奈は二の句を言えないようだ。僕は両手をわなわなと震わせる。


「もちろん、あの映像も父さんの話も、デタラメだと信じたい。前世なんて嘘っぱち。その方が現実的な発想だろう。しかし、真偽はどうであれ。お前を見ていると、あの映像に出て来る女性とダブって見えることだけは確かだ。お前を抱きしめたい、もっと愛したいという欲求に駆られる。さっきのように暴走することもある。このままでは溢れる感情に溺れて、お前を壊してしまう恐れがあるんだ」

「でも、でもっ!」


 夕奈は何か反論したいようだったが、言葉にならない。そこへ話を打ち切るように、チャイムが鳴り響く。夕奈の必死な声を背中で聞きながら、僕は自分のクラスの教室へ向かった。


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