事件への発展
第12話 大切な思い出
お世辞にも目覚めの良い朝とはいえなかったが、居間でテレビをつけると、そんなことなど吹き飛んでしまった。長瀬が参加したという実験が、どうやら成功してしまったらしいのだ。
『志堂大学の白鷺幸太郎教授は、前世の記憶を思い出す研究を二十年以上に渡って行なってきました。今回の実験では、二十名の学生が参加し、その半数以上がこれまでに体験した覚えのない記憶のフラッシュバックに襲われた、とのことです。その記憶を収めた映像というのが、こちらです』
『これは草むら、でしょうか。あ、見てください、カエルを飲み込みました。この動き方は、どうやら蛇のようです。この映像が正しいとするなら、被験者の前世は蛇ということになりますね』
『こちらの映像は、空を飛んでいます。花の蜜を吸っています。どうやら、蜂のようですね。前世と言っても、多種多様のようです。この映像を見てどう思われますか、コメンテーターの長下さん?』
『私は、前世の記憶なんて、あり得ないと思いますよ。この白鷺教授の研究は、これまで学会に全く認められていませんでしたからね。彼が、学会の鼻つまみ者だったという話も聞いています。ですから、今回の実験だけで手放しに褒め称えるのは、さすがにまだ早いというほかありません』
『そうですか。ですが、これからさらなる研究を踏まえれば、世界にも認められる日があり得るのかもしれません。まだまだ不確かな分野ですからね。今後の研究に期待しましょう』
テレビで流れているのは、おそらくfMRIで読み取られた夢の録画映像なのだろう。あの父さんが、よくテレビ局に情報を貸し出したな。マスコミに散々、研究をバカにされていたのに。わざわざ公開実験をしたのも、注目を少しでも集めたかったからか。実験に参加した人も多かったみたいだし、大学側にお願いして宣伝にかなり力を入れたようだ。こうして大々的に報道されたら、大学側から今後の研究費を多めにもらえる可能性も、十分にあり得るだろう。今までは随分と、予算の締め付けを食らっていたらしいから。
それは良いのだが。せっかくの土曜の朝だというのに、テレビでは各局がそろって同じニュースを放送している。今日はよほど、他に報道するニュースがないのだろう。普段なら、こんな怪しさ全開の話をテレビで大々的に報道するはずがない。まあ、それだけ世の中が平和といえるのかもしれないが。
ため息を吐きながら台所に行き、いくつもの猫の顔が刺繍されたエプロンを身につけ、朝食の後片付けをする。それを終えると、二階の自分の部屋に入り、学習用机の椅子に腰かけた。これもけっこうな年代物になったよな。
と、机の端に立てかけられた、一枚の写真立てが視界に入った。それは、先日も見た写真だ。そこに写っているのは、今よりも少しだけ幼い僕と夕奈だった。目を閉じれば、あの時の記憶をすぐに思い出せる。
……あれは三年前。離婚が決定し、母さんと夕奈が家を出た当日のことだ。
その日も、夕奈はあの銀猫の髪飾りを身につけていた。
(いやだ、朝斗と離れ離れになるのは、絶対にいやだよっ)
我が家の玄関口。そう言って、夕奈が後ろから僕に抱きつく。現在よりも一回り幼い彼女。それでも彼女自身が発する宝石のごとき輝きは、このころから健在だった。
一向に僕から離れようとしない夕奈に、母さんが困った風にため息を吐いた。
(夕奈、聞き分けのないことを言わないで。お母さんも悲しいけど、これはもう決まったことなの)
(そんなの、お母さんとお父さんが決めたことでしょう。ボクは朝斗とずっと一緒にいるっ)
夕奈が大粒の涙を流しながら、僕の胴に回した手に力を込めた。完全に駄々っ子だ。このやり取りは、離婚が決定してから毎日行われていた。
僕と夕奈は、母さんのお腹の中にいたころから、ずっと一緒にいた。手を繋いだり、夕奈に抱きしめられたりしていた。だから、その仲を引き裂かれるなんて、特に夕奈にとっては許容できる事態ではなかったのだろう。もちろん、僕だって同じ気持ちだった。
長瀬にも以前話した通り、当時の夕奈はとにかく寂しがり屋で泣き虫だった。小学校に入学したとき、別々のクラスになったのを知って、教室の前で泣き喚いたくらいだ。とにかく僕にベッタリで、僕の後ろから離れようとしなかった。話し方も、現在のように大げさなものではなく、よく涙声になっていた。
(仕方がないわね。どうしたらいいのかしら)
夕奈と母さんの引越しの荷物は、既に業者の人に頼み、新居に運んでもらってあった。もうこの家に二人が住むことはできない。
僕も、離婚と引っ越しには嫌だった。だが、これ以上母さんを困らせるのもダメだ、と分かっていた。僕の背中から離れようとしない夕奈に、できる限り優しく話しかけた。
(夕奈)
(……朝斗?)
(毎日、メールしよう。電話もしよう)
(……メールだけじゃいやだ。電話だけじゃ、声だけじゃいやだ)
(週に一度、会いに行くから。な?)
そこまで案を出すと、背中越しの夕奈は黙り込んだ。僕は振り返り、彼女の苗木を思わせる細い腰を強く抱きしめ返した。
(朝斗は、ボクがいなくなっても平気?)
(平気なもんか。できるなら、ずっとずっとお前の傍にいたい)
夕奈は僕の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。当時も身につけていてくれた銀猫の髪飾りも、尻尾が寂しげにうな垂れている。
(ごめんね、朝斗。ボク、ワガママで。いつも朝斗に迷惑ばかりかけてたよね。ずっと、朝斗に手を引いてもらってばかりいた。本当にごめんね)
(そんなことはない。僕はいつだって、お前に勇気をもらっていた。お前はたった一人の、大事な妹だからな。僕にとっては、相棒みたいなものだ)
(相棒?)
(そう。世界で一番大事なやつってことだ)
異性に愛の告白をするかのように断言する僕。夕奈は鼻をすすりながら、僕の服の袖をくしゃくしゃに掴んだ。
(なあ、夕奈。一緒に写真を撮ろう)
母さんに撮影役を頼むと、快く承諾してくれた。
家の門の前で、僕と夕奈は隣に並んで立つ。夕奈は、僕の左腕に自分の腕を絡ませて。
(はい、じゃあ撮るわよ。はい、チーズ)
母さんがシャッターを押す直前。事件は起きた。
いきなり夕奈が、僕の頬に口づけたのだ。
(っ!?)
完全に不意を突かれ、焦る僕。だが、バッチリと撮影されてしまった。母さんの方を見やると、苦笑している。
(夕奈、お前)
イタズラをされたと考えた僕は、少し怒った口調で夕奈の顔を睨む。だが次の瞬間、全身の動きが止まってしまった。
夕奈が泣き腫らした目で、ぎこちなくだが笑っていた。女は涙があると一層美しくなるというが、本当らしい。その顔はまるで小さな花の妖精のようで、当時の僕は一瞬見惚れてしまった。
(ボクも、もっと強くなるよ。朝斗が心配しなくても大丈夫なくらいに、強くなる。だから、とりあえず。……また会おうね、朝斗)
そう言い残し、夕奈は母さんと共に家を出て行った。
……この写真に込められているのは、そんな思い出だ。
「何を思って、あんなことをしたんだか」
写真立てを机上に戻し、僕は呆れを込めて息を吐く。あの日の行動の意味を、夕奈は今でも教えてくれない。
そうして改めて思う。僕は、あの離婚後から急激に、弱さを隠せなくなった、と。
幼いころの僕は、夕奈を庇護する立場にいた。そうすることにより、弱い自分をどうにか奮い立たせ、ちっぽけな心に鞭を打っていたのだ。大事な夕奈を守りたいという強い想いで、自分の震える足を無理やり支えていた。だが、離婚で夕奈と別々に暮らすようになると、一人では周りの人間に立ち向かえない。夕奈の言う「最高のお兄ちゃん」とは、僕が必死に作った張りぼてに過ぎなかったのだ。
一方の夕奈は、次第に明るい性格になっていった。離婚前は控えめな性格のせいで目立たなかったが、現在は持ち前の華やかさを存分に発揮している。「強くなる」という言葉は本当だったのだ。残されたのは、卑屈で愛想の悪いガキだけ。強く、同時に美しくなっていく夕奈を見るたびに、自分が情けなくなる。
僕は、夕奈が言うような頼れる兄ではない。それでも僕は、夕奈を守りたい。……そう言い聞かせてきた三年間だったが、それは醜く自分勝手なエゴに過ぎないのではないのか。「夕奈のため」と言いながら、本音は僕が父さんに逆らうのを恐れているだけではないだろうか。それは、醜い偽善でしかない。
避けられない決断を迫られている。それだけは確かだった。
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