第10話 遠い遠い日の記憶
夢を見ていた。とても懐かしく感じられる夢だった。
その場所は、古びたアパート。ここで「彼ら」は生まれ育った。
(ただいま、姉さん)
(おかえりなさい、信太)
夕焼けで空が赤く染まったころ。学校から帰宅した「彼」を待っていたのは、アパートの外階段に腰掛けた「彼女」だった。水色のワンピースと、白い陶器のような肌との組み合わせがよく似合っている。病弱にも見えるほどの細い体つきと、控えめに微笑むその優しい顔立ち。淡い栗色の髪が、そよ風になびいていた。
(どうだったの? 今日の試合は。スタメンに入れたんだったよね)
(聞いてよ。九回まで二点差で負けていたんだけどね。一アウトでぼくの打席が回ってきて、大逆転のタイムリーを打ったんだ!)
興奮気味の「彼」の話を、まるで幼子を包み込む母のごとく、「彼女」は聞いてくれる。
そんな二人のやり取りを僕、白鷺朝斗は古いビデオを見るかのように眺めていた。これは、明らかに「白鷺朝斗」の過去ではない。もしや僕の視点を通して動く少年は、先日見たあの「信太」なのだろうか。それに目の前のこの女性は、「雅美姉さん」か。
(ふふ、信太が野球を始めるって、初めて言い出したときは、お姉ちゃん驚いたよ)
(確かに、小学生のころのぼくは、お世辞にも運動神経が良くなかったからね)
(あれから八年も経つのかぁ。信太、人一倍頑張っていたものね)
(はじめのころは、父さんにキャッチボールの相手を頼んでいたっけ)
(ボールを取り損ねて、顔にぶつけたときなんて、お姉ちゃん心配だったんだよ?)
(姉さんは、ずっと応援してくれていたね。おかげで、どれだけ勇気をもらったことか)
(そんな、大したことをしてないよ。今日だって、ここでただ祈ってただけだし。信太が無事に試合を終えられますように、って)
幼いころの思い出を回想しながら、二人は照れくさそうに笑う。その会話を聞いていた僕の胸に、何とも言えない切ない感情が滲んだ。
この二人にも、幼いころからの思い出の積み重ねがある。ずっと傍らで手を繋ぎながら、人生を歩いていた。互いに励まし合い、一方が泣きたいときは片割れが胸を貸す。目に見えなくとも、強い絆で結ばれている。……僕と夕奈のように。それとも世の兄弟とは、皆そういうものなのだろうか。
(そういえば、信太。今朝、出かける前に言っていたね。『今日の試合で活躍したら、私に大事な話がある』って)
(良かった、覚えていてくれたんだね)
信太は咳払いを一つし、雅美姉さんを見つめる。
(姉さん。落ち着いて聞いてほしい)
(うん)
(姉さん。好きだ)
想いを限界まで濃縮したその言葉に、雅美姉さんは大きな結晶のような目を丸くする。それから、再び優しい微笑みを浮かべた。
(お姉ちゃんも、信太のことは好きだよ)
(そうじゃなくて!)
もどかしげに両手を震わせ、信太は階段を一段上った。その分、雅美姉さんとの距離が近くなる。
(ぼくは、男として、姉さんのことが好きなんだ! 物心ついたときから、姉さんだけを見ていた。ずっと姉さんの背中を追いかけていたんだ)
(信太、分かっているの? 私達は血の繋がった姉弟なんだよ?)
(分かっているさ! 僕はもう、姉さんのことを好きだ、っていう想いを誤魔化すことができないんだ!)
(信太……)
信太の真剣さを察したのか、雅美姉さんは口を閉じた。視線を弟から離し、何かを考え込むように自分の胸に両手を置く。信太は、けっして返事を急がさなかった。そうして、そのまましばらくの時が流れ。雅美姉さんは、再び小さな口を開いた。
(信太は、お姉ちゃんとの繋がりをどう思うの?)
(繋がり……ぼくと姉さんが、どこにいても居場所が分かる、この『糸』のことだね。ぼくは、これを運命だと思っている。生まれたときから、姉さんとずっと一緒にいられるように、神様が授けてくれたんだって)
(うん。お姉ちゃんも、そう思う。お姉ちゃんは、いつだって信太のことを考えてるよ。信太の心臓の鼓動が、この『糸』を通して伝わってくるみたいで。幼稚園のころ、信太が遊園地で迷子になったときは、信太の不安をお姉ちゃんも感じた。お姉ちゃんが運動会で走っているときは、信太がすぐ傍で一緒に応援してくれているみたいだった)
雅美姉さんは、信太を真っ直ぐに見つめた。信太も、それを正面で受け止めた。
(そして今も。信太の精一杯の勇気が、お姉ちゃんにも分かったよ)
雅美姉さんは階段から立ち上がると、信太の腰に両腕を回した。
(嬉しいよ、信太。ありがとう)
(姉さん……」
信太は、雅美姉さんを抱きしめ返す。強く、激しく。
(生まれ変わっても、ずっと一緒にいようね)
その言葉を最後に、「僕」の目の前が真っ白になった……
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