第09話 長瀬の兄

 帰りのHRが終ると同時に、僕は鞄を掴んで教室を飛び出た。夕奈に捕まらないためだ。生徒指導の先生の目を気にする余裕もなく、廊下を走りぬける。下駄箱で靴を履き替える時間さえ、もどかしい。昇降口を出て、いざ外へ。


 今日をしのげば、明日は土日の連休だ。二日間は、夕奈と顔を合わせずに済む。


「上手く撒かないと――」

「誰を撒くっていうんだい?」


 後ろから肩を掴まれ、僕は驚愕のあまり身体が石像と化した。この余裕に満ちたアルトの声は、聞き間違えようもない。


「ゆ、夕奈」

「やあ、朝斗。一分二十秒ぶりだね」


 固まった僕の前に、夕奈が回り込む。その表情は、小憎らしいほどに爽やかな笑顔だ。


「ふふん、ボクらには『魂の絆』があるからね。それでも昨日、ボクから逃げ遂げたのは、褒めるべきなのかな」


 散々逃げていたから、前もって警戒されていたのか。たじろぐ僕の腕を、夕奈がしっかりと掴んでくる。その手を通じて、電撃が脳まで伝わってきた。僕は慌てて振りほどこうとするが、夕奈の力も相当のものだ。


「さあ、一緒に帰ろう」

「きょ、今日は用事があるんだ」

「嘘だね。君の嘘は分かりやすいんだから」


 ぐ。長い付き合いのせいで、こちらの誤魔化しなどお見通しか。


「あの、神楽崎さん。廊下を全力で走るのはダメだって、先生が怒っていましたよ」


 遅れて後ろから、おっとりした少女の声が聞こえて来る。長瀬だ。全くもって悪びれた様子を見せない夕奈は、銀猫の髪飾りを撫でながら長瀬の方に振り向いた。


「やあ。長瀬さんも一緒に帰らないかい?」

「すみません、今日は迎えが来ていますから」

「迎え? ああ、お兄さんと一緒に大学へ行くんだったね」


 と、話をかき消すかのように、地割れにも似たエンジン音が鳴り響いた。あまりの重低音のせいで、こちらの足元まで震撼する。


「何だい、この轟音は。先生方の車、ではなさそうだけれど」

「間違いありません。兄が迎えに来てくれたんです」


 兄? この重奏を轟かせている主が?


 長瀬の後に続いて校門へと向かう。すると、そこには一台の鮮やかな蒼色に彩られた、超重量バイクが停まっていた。あれはもしかして、V型八気筒エンジンによって排気量が八〇〇〇CCを超えた、などと最近テレビで注目を浴びていた、怪物バイクではないだろうか。暴れ狂う双輪の猛獣を制御下に置くために、吸気系や駆動系などの全面強化が施されている、と専門家が興奮しながら語っていたっけ。排気口からどす黒い煙を獰猛に吐き出すその様は、鋼鉄の獅子を連想させる。こんな化け物は日本の公道よりも、銃弾飛び交う戦場を走らせた方が似合いそうだ。


「おーい、紗枝。早く行くぞ」

「兄さん。そんなに大きな音を立てていると、学校の人達に迷惑がかかります」


 困った顔で窘める長瀬には、恐怖の色が全く存在しない。それどころか、深い愛情に満ちた視線をドライバーに送っている。


 すると、ドライバーが蒼のヘルメットを脱ぐ。中から現れたのは、野性味溢れる顔つきの若い男の顔だった。歳は二十歳くらいといったところだろうか。金色の髪を逆立て、猛禽類のような笑みを浮かべる。おまけに、派手な色合いのバイク用レザースーツを身に纏う様は、部下を引き連れて夜の湾岸道路を荒らしに行きそうだ。


 この暴走族の頭みたいな風貌の男と、大和撫子な長瀬が兄妹なのか。この異様なアンバランスさは、ベタな漫画じみていて呆気にとられてしまう。長瀬の兄だと知らなければ、長瀬を拉致しに来たと勘違いしていただろう。


「お、そこの二人は、紗枝の友達か?」

「え、えっと」

「はい、長瀬さんとは仲良くさせていただいています。あ、申し遅れました。ボクは神楽崎夕奈といいます。こちらは、兄の朝斗です」


 男とバイクに気圧されている僕に代わり、夕奈が明朗な笑みと共に会釈する。僕を紹介する際、彼女が名字を言わなかったのは、説明すると少々面倒だからだろう。その隙に、僕はジリジリと夕奈から距離を取っていく。


「いつもありがとうな。こいつはこの通り、おっとりしているっていうか、引っ込み思案だからさ。高校で友達が出来るか、兄としては心配だったんだ」

「に、兄さん」

「何だよ、お前が世話になっている友達なんだろ? となると兄貴としては、オレもちゃんと挨拶をしておかないとな」


 それから長瀬のお兄さんは、僕を指差した。フランクな口調から一転して、殺気が込められた視線で僕の胸を射抜いてくる。


「それから、そっちの男子」

「え、あ、僕のことか?」

「そうだ、君だ。君はもしかして、うちの妹を狙っているんじゃないだろうな」


 至極真面目な顔で、長瀬のお兄さんは言う。まずい、目を逸らしたら殺される。あれは鷹が獲物を追う目だ。


「いやいや、そんな下心は持っていない――いません」


 下手な敬語を付け足し、猛アピール。長瀬のお兄さんの目が、さらに鋭くなる。まずい、回答を間違えたか?


 すると、長瀬のお兄さんの表情が、豪快な笑顔に切り替わった。


「いやー、ごめんな。大事な妹に男が寄りつくんじゃないか、って心配しているもんでな。何しろ、こいつはスタイルがいいし、顔もけっこう綺麗だろ?」

「に、に、兄さん!」

「紗枝。男選びは慎重にしろよ? いい加減なやつを家に連れてきたら、オレはそいつをぶっ飛ばすからな」


 顔を真っ赤にする長瀬を、長瀬のお兄さんは愛おしげに見つめる。

 助かった、のか? 思わず腰を落としそうになるのを、どうにか堪える。僕のそんな内心は、周りの連中には気付かれていないと思う。少なくとも、夕奈以外には。


 長瀬のお兄さんは、頑丈そうな歯を見せて笑う。

「じゃあ、紗枝。後ろに乗れ。教授の実験開始まで、あと三十分くらいしかねえんだ。早く大学へ行くぞ」


 長瀬はヘルメットを被り、遠慮がちにお兄さんの後ろに跨る。バイクの威圧感のせいで、まるで人食いトラに騎乗しているかのようだ。


「それでは白鷺君、神楽崎さん。さようなら」

「うん、また来週、会おうね」


 轟音とともに、二人を乗せたバイクが走り去っていく。その姿が見えなくなったところで、僕らは感想を言い合う。


「……全然、似ていない兄貴だったな」

「そうかい? 鼻筋なんて、そっくりだったけど」


 似ていないだろ。特に性格が。呆れる僕に、夕奈が話を振ってくる。


「そういえば、朝斗。お母さんが君に会いたいと言っていたよ」

「母さんが?」

「うん。研究に協力してほしいってさ。なんでも、思春期の男性が必要らしいよ」


 母さんは、父さんとは別の大学の医学部で、研究者をしている。研究内容は、不妊治療。その分野ではかなり有名であるらしく、医療関係のテレビ番組で何度か取材されているのを見たことがある。


「ま、まあ、時間があったらな」


 あまりごねると身体を密着されそうなので、適当に濁す。夕奈は少し不満そうに口を尖らせたが、それ以上何も言ってこなかった。

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