第05話 情欲に抗う

 帰りのホームルームが終わると、すぐに教室を飛び出す。とにかく夕奈から逃げることだけを考え、一目散に自宅へ駆けた。待っているのは、父さんの実験だというのに。


 だが自宅には、肝心の父さんがいなかった。研究室を覗くと、スーツや鞄などが消えている。どうやら、大学に行っているようだ。あんなのでも、一応は大学の教授なので、講義を受け持っている。……と思いかけ、首を捻った。今日は、午後に受け持ちの講義はないはずだった。それなのに父さんは、どうして大学へ行ったのだろうか。


 まあ、いい。とにかく、今日は実験がない、ということなのだ。部屋でゆっくりしよう。何しろ、頭の中が満杯のゴミ箱のようにゴチャゴチャになっている。ゆっくりと休憩し、考えを整理したい。


 玄関のすぐ手前にある階段を上り、二階へ。二部屋あるうちの、西日の当たる方が僕の自室だ。こまめに掃除をしているので、部屋の中は特別汚くないつもりである。机の傍に鞄を置き、隣のベッドに腰を下ろした。


「雅美姉さん、か」


 昨日脳裏に焼きついた、あの女性の映像。父さんが作った映像を見せられた、と判断したいところだ。だが、あまりにリアルで感触まで味わうことができるなんて、今の映像技術で存在するのだろうか。あれが前世の記憶だった、という意見は捨てる。そんな妄想は、父さんの脳内だけで充分だ。


 何よりも引っかかっているのは、雅美姉さんから夕奈と同じように、『糸』を感じ取ったことだった。『糸』が持つ独特の温もりは、間違えようがない。あれは本物だ。『糸』は、夕奈と僕だけを結ぶものだとばかり、今まで考えていた。だが僕達以外に、『糸』を感じることができる人間がいた、ということなのだろうか。


 いや、仮にそうであったとして。雅美姉さんと夕奈を重ねて見てしまうことは、別の問題だ。どうして僕は、あの映像の女性と現実の夕奈を同一視してしまうのだろうか。夕奈のことを考えるだけで落ち着かなくなるのは、なぜだ。


 僕は生まれてからこれまでに、夕奈を「女」として見たことがなかった。あいつは妹で、自分の半身のような存在で……とにかく、大切な存在だ。だが、そこに情欲を混ぜたことなど、天地神明に誓って一度もない。それなのに今、血液とともに全身に駆け巡る感情は何なのだろうか。


 愛おしい。抱きしめたい。愛を叫びたい――


「あー、もうっ!」


 頭の中が、夕奈と雅美姉さんの二人の顔でいっぱいになる。それらの妄想を追い出そうと、僕は思わず壁を思い切り殴った。拳が痛むが、それどころではない。


 あいつは妹だ。妹なのだ! けっして、情欲を向けて良い相手ではない。それだけは禁じられた、絶対の戒律である。


「とにかく、落ち着くまではしばらくの間、夕奈には近づかないでおこう」


 そうしなければ、僕の心がねじ切れるのが先か、夕奈を襲ってしまうのが先か。後者だけは何としても避けたい。こんなに情けなくても、僕はあいつの兄なのだ。


 ベッドの隣の机上に置かれた、写真立てを見やる。そこには、今よりも少し幼い僕と夕奈が二人で写っていた。

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