第04話 混乱の始まり

 翌日。


「……一睡もできなかった」


 目の下にクマをつくり、フラフラとした足取りで僕は登校した。本当は今日、学校を休みたくなるほど眠い。だが目を瞑ると、あのときに見た「前世の記憶」とやらが蘇るのだ。おかげで夜中に何十回、目覚めたことか。


 あのとき見た映像は父さんの言う通り、本当に「前世の記憶」だったのだろうか。まさか、前世の記憶なんて蘇るはずがないだろう。あの研究は、所詮は父さんの妄念に過ぎない。だが、映像だけでなく、「雅美姉さん」の肌の感触まで覚えている。あまりにリアルで、身体に、いや魂に刻みつけられたかのようだった。


 教室の一番後ろにある自分の席に座り、混乱する頭を両手で抱える。そんな僕にクラスメイト達が、奇異な物を見るような目を向けているのが分かった。入学して二週間が経つが、特別な要件がない限り、皆は僕に話しかけようとしない。


 それに加え今日の場合、とにかく僕の髪が目立つ。昨日の実験のせいで、頭頂部が軽く焼き焦げてしまったのだ。今朝、洗面台の前で三十分以上、寝ぐせ直し用のスプレーなどを使ってみたのだが、残念ながら誤魔化すことができなかった。


「やあ、おはよう皆! 今日も天気がいいね」


 そこへ、煌めく笑顔を浮かべながら、夕奈が教室へ入って来た。淡い水色のスカートの裾が、花びらのように広がる。相も変わらず元気がいい。教室中が一気に華やかな雰囲気に包まれた。

 夕奈は、いつものように僕の席の前までやって来た。同時に、訝しげに細首を傾げる。


「おや、朝斗。どうしたんだい、その髪」

「……ドライヤーで焦がした」

「ドライヤーで?」


 さすがにバレバレの嘘だったか。夕奈は不思議そうに眉を寄せ、大胆にも顔を覗き込んでくる。その瞬間、全身の体毛が逆立つのを感じた。背筋に電流が走ったかのような感覚。な、何だ、この感覚は。夕奈にただ話しかけられただけだぞ!?


「大丈夫かい? 顔が青いよ。保健室へ行った方がいいんじゃないかな」


 聞き慣れたはずのその声が、今はなぜか濃厚な蜜のように甘く感じられた。おかしい。これではまるで、発情期を迎えた猫のようではないか。


 すると、不意に脳裏を別の声がよぎる。


(信太。お姉ちゃんと、キスしよ?)


 間違いない、昨日見た映像に出てきた女性だ。彼女と、夕奈の顔が重なって見える。まるで催眠術にかかったかのごとく、夕奈の桃色の唇に、僕は思わず目を奪われて――


「わぁぁぁっ!」


 我ながらすっとんきょうな声を上げ、僕は身体を引いた。力余って、そのまま椅子から転げ落ちる。


「ど、どうしたんだい、急に」

「……な、何でもない」


 後頭部を床に殴打しながら、僕はそう返すしかできなかった。しかし。


(あの唇を奪いたい)


 狂おしいまでの想いが、激しい炎となって全身を駆け巡る。馬鹿な、相手は夕奈だぞ。そんなことをするなんて、今までに一度も考えたこともない。やめろ! そう自制しようとするのに、内から沸々と燃えたぎる欲望に支配されそうになる。


「か、顔を洗ってくるっ!」

「朝斗っ?」


 感情が胸で爆発しそうになるよりも一歩早く、僕は乱暴に立ち上がる。夕奈を押しのけるようにして、僕は教室を飛び出した。心配して追ってこようとする夕奈を振り切り、廊下を駆けていく。


 ……何なんだ、一体。僕はどうしてしまったんだ? 






 どうにかして気分を落ちつけようとするが、狂おしいほどの感情は鎮まる気配すら見せない。おかげでその後、授業が始まってからも、僕は夕奈を正視することができなかった。


 自分でも何が何だか分からない。だが、このままでは危険だ。とりあえず、今はあいつから少し距離を置くしかない。

 

「朝斗、体調が優れないようだけど、だいじょ――」

「わ、悪いがトイレに行きたいんだっ」


「ねえ、朝斗。数学の宿題はちゃんとやってきた――」

「あ、先生に呼ばれていたのを思い出した。悪いっ」


「朝斗。お昼を一緒に食べよ――」

「きょ、今日は弁当を作るのを忘れた。学食に行くんだ。じゃあなっ」


 ……とまあ、こんな調子だった。苦しい言い訳だが、なりふり構っていられない。


 休み時間、夕奈が僕の傍へ来ようとするよりも、一歩早く席を立ち。そのまま授業が始まるまで、トイレに隠れ続けた。昼休みはさすがにトイレにずっといるのも怪しまれるので、昇降口前に逃れた。すると夕奈が『魂の絆』を辿って、こちらへ近づいて来るのを察知した。ならば、とその一手先を読んで、次の隠れ場所へと逃げ込んだ。


「くそっ、一体どうしてしまったんだ、僕は!?」


 思考がぐちゃぐちゃになり、僕は苛立ちのあまり髪を掻き毟る。まるで自分が、身内を襲う色情魔になってしまったかのような気分だった。夕奈を視界に入れるだけで、あいつの声を聞くだけで、あの映像に出てきた雅美姉さんとやらの顔がチラつく。馬鹿な、あれはただの夢だぞ。そう自分に言い聞かせようとするが、心臓の鼓動が鳴りやまない。「もっと愛したい」「もっとキスをしたい」「もっと抱きしめたい」という欲求に支配されそうになるのだ。だが、そんなことを犯してたまるものか。もしも理性のタガが外れたら、僕らの関係は粉々に壊れてしまうだろう。


 そうして迎えた五時間目の休み時間。夕奈が席を立とうとすると、クラスメイトの女子があいつを捕まえた。


「神楽崎さん、ちょっといいですか?」

「うん? 君は確か、長瀬紗枝(ながせさえ)さん、だね。何か用かい?」

「あ、覚えていてくれたんですね」

「うん。入学式の日に、ホームルームで自己紹介があっただろう? あれで一応、クラスメイト全員の顔と名前は覚えたんだ」


 夕奈は僕の方に一瞬視線を向けたが、長瀬の話に乗る。よし、これならこちらが逃げるまでもないだろう。


「……長瀬か、けっこう可愛いな」

「……バッカ野郎、神楽崎の方が断然イケてるだろうが。胸はないけど」

「……いやいや、長瀬も捨てがたいぜ。地味だけど、メガネを取ったらけっこうな美人なんじゃねえか」


 離れたところで夕奈達を眺めながら、クラスの男子達が好き勝手に批評する。夕奈達のところにまで、声が届いているだろうか。


 長瀬のことなら、僕も少しは知っている。このクラスの中で唯一の、同じ中学出身だからだ。残念ながら、話す機会は多くなかったが。

 長瀬は、三つ編みの黒い髪が印象的な少女だ。小さなレンズのオシャレなメガネ。その奥で優しげに細められた目は、彼女の淑やかな魅力を何倍にも増大させている。背は、夕奈よりも頭一つ分高いだろうか。女子にしては長身だが、不思議と威圧感などは感じない。それどころか、とてもおっとりとしていて、見る者の心を落ち着かせる和やかなオーラを醸し出していた。

 そして何よりも目につくのが、あの胸のふくらみ。たわわに実った水蜜桃が、制服の布地を内側から限界まで押し出している。僕もまあ、一応は年頃の男子なので、さすがにあの迫力ある胸部には驚かされる。その点において、とてもとても慎ましい夕奈とは大違いだ。


「あのですね、白鷺君のことなんですけど」

「朝斗のことかい?」

「はい。白鷺君と神楽崎さんが兄妹だって聞いたんですけど、本当ですか?」

「うん、本当さ。ボクらの名字が違うから、分からなかったんだね? でも、この目が何よりの証だろう?」


 そう言って夕奈は、自分の皮肉げに釣り上がった目を指差す。それを見て、長瀬は嬉しそうに手を叩いた。その仕草の一つ一つが奥ゆかしい。兄としては、夕奈にも見習ってもらいたいくらいだ。


 その一方で、長瀬が動くたびに、彼女の豊満な胸が制服からこぼれそうなほどに揺れている。男子生徒の目には、猛毒だ。長瀬自身も、自分に欲望の眼差しが送られてくるのを感じたのか、すぐに恥ずかしそうに両腕で胸を隠した。その羞恥心に満ちた振る舞いがまた、男子生徒達の心をくすぐったらしい。彼らは鼻の下をだらしなく伸ばし、周りの女子生徒達から白い目を向けられている。


「……む」


 男子だけでなく夕奈までもが、なぜか長瀬の胸を凝視し始めた。その黒曜石の瞳には、嫉妬と羨望の色が入り混じっている。


「あ、あの、神楽崎さん?」

「あ、すまないね。話の腰を折ってしまった。それで、朝斗に何か用があるのかい?」

「は、はい。私、彼と同じ中学校だったんですけど、なかなか話す機会がなくて。こうして高校でも同じクラスになったから、これを機会に仲良くなれたらな、って思ったんです。でも彼、シャイでしょう? 妹の神楽崎さんを通じてなら、上手く話ができるんじゃないかなって。他人任せなのは分かっているんですけど」

「なるほど、そういうことだったのか」


 得心がいったように、夕奈は頷く。それから、こちらを見て笑みを深めた。


「それなら、善は急げだね。ボクも、ちょうど朝斗と話がしたかったところなんだ」


 やばい、捕まる。慌てて逃げ出そうとしたところで、運良くチャイムが鳴り響いた。長瀬が残念そうに細眉を下げる。


「授業が始まっては、仕方ないですね」

「うん。また、機会をセッティングするよ」

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