第02話 守るべき日常(下)

 二時間目の授業が終わって休み時間になると、教室内で十人ほどの男子達が輪を作り始めた。中にはご苦労なことに、隣のクラスの者までいる。その中心にいるのは、他でもない夕奈だ。


「ねえ、神楽崎さん。今度の休日、俺と一緒に映画を見に行かないか。今、話題の恋愛映画があるだろ?」

「か、神楽崎は、部活に入っていないらしいじゃないか。よ、良かったら、我が野球部のマネージャーになってもらえないか」

「駅前にいい喫茶店があるんだよ。今度一緒に行かないかい」


 男子達はあの手この手の口説き文句を並べているが、自分達の下心が露骨に透けていることを自覚していないのだろうか。もちろん、夕奈は男達の欲望を理解しているのだろう、彼らの熱意に少々押され気味だ。それでも笑顔を崩さずに受け流している。


 異性からモテる人間は、美しい容姿だけでなく。その身に纏う雰囲気も他と違う。近くにいる者の本能を刺激し、惹きつけて離さないほどの魅惑的なオーラ。いわゆる、フェロモンというやつか。自覚しているかどうかはさておき、夕奈は確実に持っている。


 そんな様子を、離れた席にいる女子のグループが、冷やかな目で眺めていた。


「……何アレ、調子に乗っちゃって」

「……男漁りのために学校に来ているのかしら」

「……男って、あんな女のどこがいいのかな」


 入学から二週間しか経っていないというのに、どうやら夕奈はクラスの女子達を敵に回してしまったようだ。まあ、ああやって男子を独り占めされては、同じ女として良い感情は抱かないか。


 などといったクラスの面倒くさい人間情勢を、僕は自分の席に座り傍観していた。あまりジロジロ見ると不審がられるので、文庫本を読むフリをしながらだ。休み時間に僕の周りに寄ってくる生徒は、ほとんどいない。いわゆる「ぼっち」というやつだった。下手に僕と関わって自分まで、あの坊主頭達の標的にされたくないのだろう。


 こんな調子で高校三年間が終わるのかだろうか。胸中でそう呟いていると、夕奈がこちらの様子に気づいたようだ。


「あ、ごめん。ちょっと用を思い出したんだ」


 男子達からのラブコールを断り、夕奈がこちらに近寄ってくる。男子達は忌々しげな視線をこちらにぶつけてくるが、僕は睨み返す度胸がない。目を逸らすだけだ。


「どうしたんだい、そんなに不機嫌そうな顔をして」

「元々、こういう顔だ」

「君が考えていたことを、当ててみようか。これからの自分の高校生活に対する憂い。違うかい?」


 夕奈は少し呆れ混じりに片目を瞑った。長いまつ毛が、鮮やかな羽のように閉じる。


「悔しそうに唇を噛みしめる様子から察するに、図星だね」

「やかましい」

「まったく、せっかくの休み時間なんだから、もっと笑っていこうよ」


 情けない兄に対して軽く嘆息する夕奈。なぜか、髪飾りの銀猫までもが呆れているように見える。どうも、このアクセサリが生きているように思えて仕方がないのだが。……さすがに妄想か。


「お前こそ、あいつらの誘いを無下に断らない方がいいんじゃないのか?」

「彼らの好意は嬉しい。けれど、ああもストレートに来られると、さすがに気後れしてしまうよ。それに、今朝も君に話しただろう? ボクにも好きな異性がいるって。その人に対して、ボクなりに操を立てているんだ」


 操ねえ。昨今の中高生における一般的な恋愛生活では、あまり優先されなくなってきたと聞くが。こいつも、根っこの部分で妙にピュアだったということか。だが今の話を、他の男子達が聞いたら、大変なことになりそうだな。夕奈の片思いの相手が誰なのかを突き止め、そいつを集団で袋叩きするかもしれない。


 そうやって僕達が会話を交わしていると、クラスメイトの女子達が胡散臭い者を見る目を向けていることに気付いた。


「……ねえねえ、どうしてあの二人って名字が違うの?」

「……知らないの? あの二人の両親が離婚してるのよ」


 そのことか。今更の話題なので、僕も夕奈も特に反応しない。

 僕らの両親が離婚してから、もう三年になる。その証拠として、現在の夕奈の名字が「神楽崎」であるのに対して、僕の名字は「白鷺」だ。僕が父に、夕奈が母にそれぞれ引き取られた。

 両親が離婚し、夕奈達が我が家を出て行ったのは、僕ら兄妹がちょうど小学校を卒業するころのことだった。とはいっても母さんの仕事の都合で、二人の引っ越し先は同じ市内である。おかげで、夕奈とは週に一度街で待ち合わせをして、一緒に遊んでいたものだ。そういえば、母さんとは随分と長く会っていないな。別に避けているわけではないのだが。


「……せっかく兄離れできる機会だったのに、わざわざ同じ学校を選ぶなんて。正直言って気持ち悪いよねえ」

「……うんうん。普通、この歳にもなって自分の兄貴にベタベタしないって。あんなの異常だよ」

「……二卵性っていっても、結局は双子なんでしょ? 鏡に映った自分をずっと見つめているようなものじゃん。あの二人、ナルシストなのかな?」


 クラスメイトの女子達の勝手な声に対し、夕奈は美貌を曇らせた。


「本当に大切な人と生き別れになったら、どうにかして再会したいと願うのは自然なことだと思うんだけどね」

「僕に怒られても困るぞ」


 異常。

 僕達兄妹の仲の良さを、そう見る者は少なくない。何しろ母さんですら、「この子達に将来、恋人がちゃんとできるのかしら」などと危惧していたほどだ。それほどまでに、僕達二人の距離は近いのだろう。だが当人としては、どうも自覚がなかった。何しろ母さんの腹の中、いやさらに遡ればまだ互いが一つの受精卵だったころから、僕達はずっと一緒にいたのだから。それに今更、余所余所しくなるのも違和感がある。僕達にとっては、これが「普通」の状態なのだ。

 ……そんな僕にとって最近の心配事は、「夕奈に彼氏ができたら、そいつとどう接すれば良いのか」というものだった。


「同じ高校に受験合格して、君とまた一緒の学校に通えると確定したときの喜びは、もう格別のものだったよ。しかも、同じクラスになれたなんてね」

「普通は、血縁者同士は同じクラスにならないよう、学校側が手を回すらしいがな。お互いに名字が変わって、住所も違うから気付かれなかったのか」


 僕達は両親の離婚後、「同じ高校を目指そう」と誓い合った。お世辞にも学校の成績の良くない僕は、必死で受験勉強をしたものだ。努力の甲斐があり、こうしてまた一緒に過ごすことができるようになった。


 だが、新生活を送るうちにつれ、徐々に一つの問題が浮かび上がってきた。

 それは、僕達が早くもクラス内で浮いている、ということだ。

 当然ではある。片方は、愛想がなくてパシリにされている男。もう片方は、男子にモテモテで女子に総スカンの女。そんな二人が実の兄妹で、同じクラスにいる。しかも、この通り仲が良い。なるほど、周りからは確かに、奇妙な関係に見えるかもしれない。


 そんな現状をどう思っているのか、夕奈は自分の薄い胸の前で、祈る仕草をする。


「ボク達には、この『魂の絆』がある。これがある限り、この世界のどこにいても、ボク達は互いに引き寄せ合うんだ」

「言っていて恥ずかしくないか」

「全然」


 満面の笑みで夕奈が指しているのは、今朝も僕が利用したあの『釣り針』と『糸』の件だった。僕達は、それらを『魂の絆』と呼んでいる。僕達は一本の切れない糸で繋がっているのだ。

 現在も糸は存在しているが、クラス内の誰もそれに気付いた様子はない。他人には見ることも触れることもできない、不思議な糸だ。

 こいつのおかげで、お互いの居場所を大まかな距離で、いつでも把握することができる。例えるなら、お互いに発信器をつけているようなものだ。僕達は物心つく前から、この力を意識していた。科学的には証明できないだろうが、五感に加えたもう一つの力である。


 幼いころは、他の人間にも備わっているのだと思っていた。だが、その話をすると、大人達は子どもの空想と決めつけ、同年代の子どもからは嘘つき呼ばわりされたものだ。そうして小学校に上がるころになって、ようやくこの力が僕達だけのものだと認識した。それからは、二人だけの秘密となった。


「幼いころにボクが迷子になっても、いつも朝斗が見つけてくれたっけ。懐かしいね」

「そういう昔話はあまりするな。恥ずかしい」

「いいじゃないか、二人の思い出なんだから」


 ソッポを向こうとする僕の肩を、夕奈は親しげに叩く。

 相手に用事があって探す際には、便利な能力ではある。時折、一人になりたいときには、邪魔くさいと思うこともあるが。


「ひょっとして、世の中の双子は皆、この力があるのかな」

「さあな」


 よくテレビのバラエティ番組などで、双子が持つ不思議な能力についての特集が行われている。常人ではありえないほどに息がピッタリだったり、どちらか片方が怪我をすると遠く離れた場所にいるもう片方も、同時に同じ怪我をしたりなど。僕達の場合は、この力を授かって生まれたのだろう。


「この力がいつまでも、なくならないといいね」


 夕奈のその声は、教室内の喧騒で掻き消えていった。






 うちの高校は、丘と呼ぶにはあまりに高い山の頂上に建てられている。学校が山全体の土地を買い取っているおかげで、土地の使い方も贅沢だった。例えば、運動部のためにグラウンドは三つ、それとは別にテニスコートは八面もある。他にも剣道場や弓道場、柔道場などを統合した大きな武道場が、体育館と並び建っていた。学校側がかなりの投資をしている甲斐があってか、野球部をはじめとして、運動部の多くが全国大会の常連だ。学校の隣には生徒寮も存在しており、運動部の部員の多くが住んでいる。各自の部屋の窓に鉄格子が備え付けられているのは、厳しい練習に耐えかねて脱走を企む生徒が後を絶たないからだとか。まあ、コンビニすら存在しない陸の孤島で毎日扱かれていたら、誰だって一度は逃げたくなるはずだと思う。


 それに対して文化部や僕達帰宅部は、登下校のために山を行き来している。山の麓に駅があるので、大半の生徒がそこから通っていた。この長い坂をこれから三年間も上り下りするかと思うと、正直言って高校の選択を間違えた気がしてならない。


「神楽崎さんはいるかっ!」

「ねえ、神楽崎さん、これから時間空いているかい?」


 放課後になった途端、多数の男子達が教室へ押しかけてきた。一緒に下校しよう、いや一緒の部活に入ろうなどという熱烈な誘いである。

 しかし。


「本当に申し訳ないけど、お断りさせていただくよ」


 それら全てを夕奈は笑顔で断り、僕と二人で帰ることを選択した。夕奈に手を引かれる僕の背中には、嫉妬の視線が無数に突き刺さっていた。


 それらを毎日体験するたびに思うのだ。

 果たして、僕と夕奈はつり合っているのだろうか――と。


 僕は夕奈と違い、はっきり言って地味だ。愛想が致命的にないし、いつまでもウジウジと悩む癖がある。そのせいで相手は絡みづらいらしく、幼いころから友達は少なかった。おかげで今ではパシリだ。こんなヤツが、いつまでも夕奈の傍にいてよいのか。


「こら、朝斗っ!」

「お、おうっ?」


 耳元で名前を呼ばれ、ようやく僕は我に返る。気が付くと、校門を出てからけっこうな距離の坂を下りていた。僕の傍らには、桃色の艶唇を尖らせる夕奈がいる。せっかくの一緒の下校なのに僕が上の空なのだから、怒るのも無理はない。


「まったく。朝斗、君はまた自己嫌悪していただろう」

「そんなことはないぞ」

「嘘だね。朝斗は、すぐに自分を卑下したがるんだから。妹のボクにはお見通しだよ」


 夕奈はそのしなやかな手で、僕の胸を軽く突く。同時に、優しく甘い匂いが、僕の鼻孔をくすぐった。けっして香水によるものではなく、こいつの肢体に生まれつき備わっている香りだ。


「すまん」

「まったく。もっと自信を持てばいいのに。下を向いてばかりいないで、前を向いて歩きなよ。そうすれば皆だって朝斗のことを、今よりもっともっと好きになってくれるはずさ。あとは、その不貞腐れた顔をどうにかすれば、女子にもモテるだろうね」


 木々の間から差し込む穏やかな夕陽が、夕奈の自信たっぷりな笑顔を照らす。名前が示す通り、こいつには夕暮れの光がよく似合っていた。


「お前こそモテるんだから、男を作ればいいだろう」

「お断りだね」


 即答する夕奈に、僕は呆れるしかない。

 そういえば、今朝告白した相手に、『好きな人がいる』って言って断ったんだよな。あれは誰のことを指しているのだろうか。一緒に暮らしていたころは、男の影など全く存在しなかった。別々の中学校に通っていたころは、甘酸っぱい恋愛の一つや二つしていたのかもしれない。気になるが、さすがに妹の恋路にまで首を突っ込むのは、兄として野暮な気もする。


「それに、ボクはエゴイストだからね。男の人にとって重荷になると思う」

「そうか?」


 まあ、多少は強引な女ではあるが。エゴイストというほどではないだろう。


「その様子じゃ当分、お前の花嫁姿を見られそうにないな」

「ボクの花嫁姿、朝斗も見たいのかい?」

「ああ。お前の未来の旦那よりも先に、できれば一番に見たいくらいだな」

「ふふっ、そうか」


 夕奈は口元を緩ませた。だが、ほんの少しだけ寂しそうに見えたのは、僕の気のせいだろうか。


「残念ながら、ボクの花嫁姿は見せてあげられそうにないね」

「どうしてだ?」

「ボクが今好きな人とは、絶対に結婚できないからさ」


 絶対、か。そこまで言い切るのなら、よほどの相手なんだな。もしかして、既婚者とか、あるいは同性か? 訝しむ僕に対し、夕奈は遥か遠くを眺めるように目を細める。


「でもね、もしも結婚できるなら。そのときは、ボクがプロポーズするつもりでいるんだ」

「その台詞は決めてあるのか?」

「うん。『あなたの子どもを産ませて下さい』だよ」

「それはまた、大胆だな」


 そう返すと、夕奈は照れ臭そうにミルク色の頬を掻いた。とびっきりの秘密を告白したからだろうか、そっと視線を逸らされてしまう。何だ何だ、まるで僕が告白されたかのようではないか。


「花嫁姿といえば、お父さんにも見せてあげたいな。お父さんは息災かい?」

「あ、ああ。どうにかな」


 急に話を変えられたものだから、言葉に一瞬詰まった。


「お父さんと別れてから、随分と経つね。朝斗とは、ちょくちょく会っていたけれど」


 僕らの両親が離婚してから、もう三年になる。だが離婚後、一度も夕奈は父さんと会っていない。あの人は、別れた娘にわざわざ会ってくれるような人間味はないからな。かく言う僕も、母さんと会っていないのだが、僕の場合は特に会う用事がなかったからだ。詳しい説明は省くが、母さんはとにかく暑苦しい人で対応に困るし。


「お父さんと久しぶりに、話をしてみたいところだけれど。無理そうかな」

「仕事で忙しいみたいだからな」


 そう誤魔化してはみたが、夕奈に気付かれなかっただろうか。僕が、夕奈の希望が叶わないよう祈っていることを。


「ん?」


 と、そこへ後ろから、自転車に跨った女子高生達が三人、僕達を追い抜いていく。そのスカートの奥から、太ももが見え隠れした。ああいうムッチリとした足も、男としては興奮するものだ。


「朝斗? 目がいやらしいよ」

「え、あ、いや、これはその」


 傍らを歩く夕奈の視線が一気に氷点下に下がり、僕の血流を冷やす。髪飾りの銀猫までもが軽蔑の眼差しを送ってきている、と錯覚してしまった。


「まったく、相変わらず君はムッツリスケベだね。言っておくけど、女性は男性のそういう視線には敏感なんだよ」

「う、すまん」


 さすがにバツが悪い。公衆の面前で妹にこんな説教をされるのも、かなり情けない話だ。


「そんなに女性の足を見たいなら、ボクの足を見ればいい。他ならない君になら、少々視姦されるくらいは、兄妹のよしみで許してあげるよ」


 そう言って夕奈は、スカートの端を摘まんでヒラヒラさせる。その奥で、スラリと伸びた細い太ももが覗いた。モデルかグラビアアイドルと見間違えてしまいそうなほどに、魅惑的な美脚だ。世の男達が見れば、思わず生唾を飲むだろう。


 だが。


「アホか。妹の足を見て、興奮するわけがないだろ」


 僕は呆れ半分でそう言い切った。

 よく間違えられがちだが、僕はこいつのことを性的な目で見たことなど一度もない。断じて、ありえないのである。グラビアアイドルに負けない肢体を持っていようと、あくまでも夕奈は妹なのだ。肉親に欲情するほど、僕は飢えていない。それだけは譲れない僕の基本スタンスであり、僕なりの倫理観だった。もしもその垣根を取り払ったとき、僕達の関係は崩壊してしまうだろう。


 まあ何というか、夕奈と僕は男とか女とか、そういう次元を超えた関係なのだ。それを具体的な言葉でどう表せばよいのかは分からないが。


 僕の言葉に対し、なぜか夕奈はしょんぼりと肩を落とした。もしもこいつが髪飾りと同じ猫だったなら、一緒に尻尾を丸めて耳を垂れさせているだろう。


「むぅ……やっぱり魅力ないのかな、ボクって」

「そんなことは言ってないだろ。クラスの男子達なんて、いつもお前を見てだらしなく鼻を伸ばしてるぞ」


 などといった会話を交わしているうちに、坂を下り終えて駅前まで辿り着いた。気が付くと学校を出たときに比べ、日が少し傾いている。最寄りの駅があるのは、下山してすぐ先の場所だ。山の上と違って、田舎なりに家々が立ち並び、スーパーやコンビニなども存在していた。かき入れ時の夕方だからか、どの店も賑わっており、駐車場もほとんど満席に近い。

 現在、夕奈と母さんが暮らす家は、ここから上り線で十駅ほど乗り継いだ先にある。一方の僕の住む家は逆方向にあり、下り線に乗らなければならない。だから、この駅でひとまずのお別れだ。


「じゃあ、また明日」

「ああ」


 夕奈は名残惜しそうに手を振り、上り線のホームへと歩いて行った。人込みの中に消えていくその背中を見送りながら、僕は改めて胸に刻む。


 ……あの笑顔を守れるなら、この身体は惜しくない、と。

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