輪廻の糸に絡まった猫

白河悠馬

現代編

プロローグ

第01話 守るべき日常(上)

 高校生活は人生全体の中では短い時間だが、大切な思い出となる。最初にそう言ったのは、どこの誰なのだろうか。


 校庭に植えられた桜の木々が、その花びらを散らせ。多くの新入生は、新生活に戸惑いながらも、新しい仲間達と笑顔を交わしている。彼らからすれば、青春の一ページが、さぞや色鮮やかなものとなっていることだろう。


 だが、僕こと白鷺朝斗(しらさぎあさと)の場合は、お世辞にも明るいスタートを切ったとはいえなかった。


「お、白鷺。ちょうど、いいところにいた」


 朝の澄み切った校舎の空気が、明るい喧騒に包まれていくころ。登校して下駄箱前で外靴を脱いでいるところへ、誰かに後ろから肩を乱暴に叩かれた。振り返った先には、坊主頭の男子生徒がふんぞり返っている。歌舞伎俳優みたいな目つきに、角ばった輪郭の顔。さらに、制服のブレザー越しでも視認できる、分厚い胸板の持ち主だ。大学生と自称しても十分に通じそうだが、これでも一応は高校一年生で、僕のクラスメイトだった。


 坊主頭は、見下した笑みを浮かべながら、今度は僕の胸を無遠慮に小突く。


「俺の代わりに日直の仕事、やっとけよ」

「どうして僕が」

「あ? まだ自分の立場を分かってねえのか」


 同い年とは思えないほどの、ドスのきいた声。柔道の推薦で入学したという実力を誇示するかのようで、その迫力に僕は思わず身を縮ませた。その露骨なビビりようが面白かったのか、坊主頭は冷笑を浮かべながら、外靴を自分の下駄箱に放り込む。その隣に立つ男子生徒は、こいつの友人だ。


「あいつが新しいパシリか?」

「そ。これで八人目だ」


 そんな軽口を叩き合いながら、坊主頭達は階段を昇って行った。僕はただ、その背中を見送ることしかできない。

 あいつらのグループは気の弱い生徒を狙い、片っ端からパシリにしている。一昨日あいつらに目をつけられた僕は、体育館倉庫に連れて行かれ、自分の立場というものを身体に刻みつけられた。僕よりも先にパシリになった生徒の中には、担任に報告した者もいたが、その後すぐに体育館倉庫行きとなった。彼の話によると、僕のように仕事を押し付けられるなんてことは、まだまだ序の口なのだという。金を巻き上げられたり、女子生徒の前で裸にされたり。さらには、部活でしごかれたストレスを拳に込めて、八つ当たりすることもあるのだとか。


 このままでは三年間、あいつらの食い物にされるだけだ。それが分かっていても、恐怖に負けてしまう。

 僕は逃げるようにして一階の男子トイレに駆け込んだ。洗面台の蛇口を勢いよく捻り、水を手ですくって顔にぶっかける。正面の鏡を睨むと、情けない面をした自分の顔が映っていた。


 皮肉げにつり上がった目。覇気の欠片も感じられない仏頂面。毎日欠かさず手入れをしているはずなのに、あちこちに跳ね上がった癖の強い毛。これでは、薄汚れた野良猫と同じだ。


 ズボンのポケットから無地のハンカチを取り出して、濡れた自分の顔を拭う。その間にも、何人もの生徒達が和気あいあいと談笑しながら、廊下のトイレ前を通り過ぎていく。この高校に入学して、早二週間。多くの生徒達は新しい仲間を作り、新しい生活を楽しんでいる。

 新生活は、最初が肝心。その言葉を、僕は身を持って実感させられていた。







 暗い表情のまま男子トイレを出る。


 すると、ふと胸の奥が軽く引っ張られるような反応を覚えた。例えるなら、海に沈んだ釣り針にアタリが来た、という感覚が近いだろうか。僕の中でこの感覚は、五感と同じくらい自然に存在しているものだった。


 ああ、あいつが登校してきたんだな。


 そう思いながら、廊下を進んでいく。うちの学校の職員室は三棟ある校舎のうち、一番西の校舎に存在している。校舎と校舎は廊下で繋がっており、一番東にある生徒用下駄箱からは、それなりに距離があった。構造上の問題があるような気がしないでもない。


「失礼します」


 職員室の扉をそっと開け、中に入る。まだ先生達は数えられるほどしかいない。多くの先生が、部活の朝練を見に行っているからだろう。うちの担任の席も、もぬけの空だった。僕は、職員室にわざわざ長居したがるようなタイプの人間ではない。担任の机上に置かれた黄色の日直日誌を回収し、とっとと退散する。


 その間に、『釣り針』はどんどん上へ離れていく。この『釣り針』を引いているのは、魚ではなく一人の生徒だ。しかし、僕達の教室があるのは、生徒用下駄箱がある一番東の校舎である。特別教室があるこちらの校舎に、こんな朝から生徒が来る理由は、職員室以外にないはずだった。


 もしかすると、あいつも誰かに用事を頼まれたのかもしれないな。それなら、手伝ってあげた方が良いだろう。


 そうと決めた僕は、片目を瞑る。そうして、自分の胸から繋がっている『糸』の存在を意識すると、離れたところから『釣り針』の在り処を確かに感じた。……距離にして二十メートル、高さはこの校舎の三階か。このように、『釣り針』のおおまかな位置とそこまでの距離を、僕は感じ取ることができる。


 『糸』を頼りに廊下を進む途中で、職員室へ向かう生徒達数人とすれ違う。だが、胸から糸が伸びているなどという奇怪な人間に対して、別に不思議そうな反応をされなかった。それも当然のことで、普通の人間にはこの不思議な『糸』の存在自体が見えないし、触れることもできないのだ。


 そうして辿り着いたのは、校舎の一番端だった。ここは現在、空き教室になっているはずだが。不思議に思いながら扉を開けると、ちょうど一人の男子生徒と入れ違いになる。


「……ちくしょう、脈アリだと思っていたのによぉ」


 がっくりと肩を落として、沈んでいる男子生徒。まるで、受験で第一志望校を落ちた学生のような落ち込みようだ。だが、教室の奥から別の声が聞こえてきて、すぐに僕の意識はそちらに移る。


「やあ、朝斗。おはよう」


 一人の女子生徒が満面の笑みを浮かべながら、キレのある颯爽とした動きでこちらに歩み寄って来た。皮肉げにつり上がった両眼が、僕の顔を嬉しそうに見つめている。その表情は、まるでお気に入りの玩具を発見したチェシャ猫のようだ。

 そんな彼女の口調は、僕が来るのを分かっていた、とでも言いたげだった。いや事実、完璧に分かっていたのだ。僕の胸から伸びている『糸』は、この少女へと繋がっており、彼女が『釣り針』そのものだったのだから。


「わざわざ会いに来てくれるなんて、嬉しいよ。胸がこう、キュンとするね」

「お前、そういうセリフをよく恥ずかしげもなく言えるな」

「ふふ、自分の想いをオープンにしているだけさ」


 女子生徒……神楽崎夕奈(かぐらざきゆうな)は、芝居がかった口調と、両手を広げて身振り手振りを混ぜながら言った。同時に、腰まで伸ばした艶やかな黒髪が、柔らかく揺れる。まだこの高校に入学して二週間足らずだが、この美貌に早くも注目する男子生徒は少なくないらしい。


 そうか。それなら、あの男子生徒の目的も予想できるな。


「あの男とは、何の話をしたんだ?」

「ん、気になるかい。単刀直入に『付き合ってほしい』と告白を受けたから、『好きな人がいるので無理だ』と返答させてもらったのさ」


 告白を受けたばかりだというのに、随分と落ち着いているな。まあ、こいつらしいが。


 夕奈は自分の黒絹の髪に添えられた髪飾りを、愛おしげに撫でた。猫を模ったシルバー製のアクセサリは、高校生にしては少々子供っぽいデザインとも感じられる。だが、大人びた雰囲気を持つ彼女と組み合わせると、そのアンバランスさがなぜか不思議な魅力を生んでいた。


「それよりも、朝斗。その手に持っているのは日直日誌だよね。ボクの記憶が正しければ君は先週、日直の仕事を終えたばかりのはずだけど」

「いや、大したことじゃない」


 素っ気ない僕の態度に、夕奈は細い眉を軽くしかめた。その表情は、人懐っこい猫が機嫌を軽く損ねた様子に似ている。


「相変わらず、君は嘘をつくのが下手だね。双子の妹のボクに、隠し事は無理だよ。もしかして、誰かに押し付けられたのかい?」


 夕奈は軽く詰問するように、人指し指の腹を僕の胸にくっつける。僕はさらに誤魔化そうと口を開き、やめた。こいつと口論をしても、勝てる可能性が見当たらない。


 こいつの言う通り、僕達は双子だ。兄が僕で、妹が夕奈。

 全然似ていない気がするのは、華やかさの有無のせいだろうか。


「仕方がない。残りの日直の仕事を、ボクも手伝おう。さあ、早く!」


 言うが早いか、夕奈は僕の手を握った。そのまま僕は引っ張られ、空き教室を出ていく。

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