第2話 生命科学部教授

 平刃壱夜ひらばいちや教授。彼は三十歳の若さで原笠大学生命科学部教授となった天才である。そしてそんな彼こそが明人を呼んだ張本人でもあった。


「平刃教授、俺に何の話があるんだろ……」


 明人は大学のもうすぐそこまで来ていた。大学前にある大きな交差点の信号待ちで明人はこんなことを呟いていたのだ。

 信号は青になり、明人は原チャリを走らせて交差点を過ぎると左に構える大きな大学、原笠大学に左折して入った。適当な場所に原チャリを駐車すると、鍵を抜いてそれをポケットにしまい、平刃教授がいると思われる研究室に向かって歩き出した。

 卒業生として大学のデータベースに名前が残っている明人は、受付の女性に自分の本名をフルネームで伝えると、難無く入校許可証を貰うことが出来た。明人はそれを首にかけると一度外に出て、別館、と言うよりかは旧館と呼んだ方がふさわしい場所に向かって歩き出した。と言うのも、確かに今向かっている場所は別館なのだが、明人が四年生の時に本館が一新してしまったことにより、改修工事を施されなかった別館は旧館と呼ばれるようになったのであった。

 旧館は本館からずーっと右奥に行った場所にあり、旧館にたどり着くまでには結構な距離を歩く破目になる。ようやく旧館がある場所にたどり着くと、まずはツタが大量に絡まったゲートが迎え、それを過ぎると木造建築で長屋のような旧館がひっそりと建っている。

 旧館には俗に言うマイナーなサークルや研究室が集められていた。そしてその旧館の最奥の部屋で研究を行っているのが平刃壱夜であった。

 明人は旧館の軋む木戸を開け、土足を許されている廊下を渡って一番奥の部屋前にたどり着いた。そのドアには薄汚れたネームプレートがかけられており、そこには「生命科学研究室」と書かれていた。

 コンコンコン。明人は平刃がいると思われる研究室のドアをノックした。すぐに返事は無く、明人がもう一度ドアをノックしようとしたとき。


「入りたまえ」


 と、冷静沈着な声が明人を促した。


「失礼します」


 明人はそれに従って恐る恐るドアを開け、背中を丸めて机に向かっている平刃の横に立った。


「平刃教授?」


 明人がそう言って顔を覗き込もうとすると、声に反応した平刃がいきなり顔を上げた。平刃の後頭部が明人の顔面目掛けて飛んでくると、明人は体をのけ反らせてそれを躱した。


「おぉ、君か。よく来てくれたな、神馬明人」


 平刃はそう言うと立ち上がり、入り口から少し歩いた場所にある一人用のソファに腰かけた。そしてテーブルを挟んだ向かいにある長ソファに座るように明人を顎で使った。明人はそれをいつもの調子で受け止めると、ソファに座って教授の話を待った。


「君は確か色のついた雨、染色雨を浴びて入院していたんだよな?」

「はい、そうっすよ。今退院してきたところです」

「そうか、それはよかった。実はな、あの染色雨が降った日、あの雨に紛れて小さな隕石がこの原笠市に落ちてきていてな。私としてはその岩石に付着して地球外生命体がこの地球に降って来たと推測しているのだよ」


 平刃は両膝の上に両肘を立て、組んだ手の上に顎を乗せてそう言った。


「はぁ、それでどうするんですか?」

「その隕石を取りに行きたいのもそうなのだが、まずは君の体を調べさせてもらおうと思ってね」


 平刃はそう言うと、ソファから立ち上がって明人に近付いた。


「ちょ、なんすか? 怖いんですけど……」


 平刃はじりじりと明人に近寄ると、明人の右胸に手を伸ばした。


「ちょっと! 何考えてるんですか!」


 明人はソファの端まで逃げ、何とか平刃の魔の手から逃げた。


「なんだ、何故逃げる? 病院では危険が無いと言われたのかも知れないが、もう一度私が診てやろうと言っているのだぞ?」

「いやいや、大丈夫ですよ。この通り元気なんで」


 明人はソファから立ち上がり、両腕を回して見せたりジャンプをして見せたりした。


「ふっ、そうか。まぁいいだろう。それなら先に隕石調査に付き合ってもらうまでだ」


 平刃はそう言うと、自分のノートパソコンが置いてあるデスクに向かい、オフィスチェアに腰かけてノートパソコンを見入った。


「何してるんですか?」

「隕石が落ちた場所を調べている」

「え、知ってるんじゃないんですか?」

「分かるわけが無いだろ。隕石と言っても本当に小さな石だ。地道に落下地点を割り出すしかない」

「じゃあまだしばらくかかりそうですね」

「そうなるな」


 明人と平刃の会話が途絶えた瞬間、微かに叫び声のようなものが旧館まで届いた。


「……今何か聞こえました?」

「ん? 私には何も聞こえなかったが?」

「うーん、何か悲鳴のようなものが聞こえたんですけど」

「そうか、では少し見に行ってみるか」

「はい、そうしましょう。研究室に籠っているのも良くないですからね」

「ふっ、それは関係ないだろう」


 平刃がノートパソコンの電源を落としたのを確認すると、明人はドアを開けて先に廊下に出た。少しすると平刃もドアを開けて廊下に出てきた。平刃は研究室の鍵を閉め、白衣のまま旧館の廊下を歩いて外に出た。


「そのまま出るんですね」

「そうだ。これが私の正装だ」


 旧館を出てツタまみれのゲートを抜け、二人は散歩気分で大学の入り口まで移動した。するとやはり大学付近で何かが起こっているようで、大勢の大学生が校門に近付いて交差点の方を見ていた。


「やっぱり何かあったみたいですね!」

「そのようだな」


 明人と平刃は走ってその現場に近付いた。大学生の群衆を抜け、校門を過ぎて交差点の方を見ると衝突事故か何かが起こっているように見えた。


「事故。ですかね?」

「だが何か様子がおかしいぞ」


 明人と平刃が交差点のど真ん中で止まっているトラックに注視していると、トラック以外の乗用車から慌てて飛び出してくる人々を視界の端に捉えた。


「走って何かから逃げてるのか?」

「分からん。もう少し近づいてみないことにはな」

「じゃあ近づいてみましょう」

「おいおい止めておけ。何に巻き込まれるか分かったもんじゃないぞ?」

「それでも気になるもんは仕方ないですよね!」


 明人はそう言うと交差点の真ん中に向かって走り出した。


「やれやれ、彼が行くなら私も行くしか無かろう」


 そうは言うものの平刃は嬉しそうに微笑むと、明人の後を追って交差点に向かった。

 明人と平刃が交差点に着くと、交差点のど真ん中には一台のトラックと、そしてそれに撥ねられたと思われる一人の青年が道路に突っ伏していた。


「救急車を呼ばないと!」


 明人はすぐにスマートフォンを出し、119番通報をしようとするが平刃がそれを止める。


「待て、よく見ろ」

「何を待つ必要があるんですか! 早く救急車を……」


 明人はスマートフォンの操作をしながらも、平刃が言う通りに倒れていた青年の方を見た。すると先ほどまで道路に突っ伏して倒れていた青年は、両手を地面について立ち上がろうとしてた。


「トラックに撥ねられたんだよな……?」

「この状況からしてそれは間違いないはずだ」


 この緊急事態に二人は目を丸くしてその青年の動向を伺ってしまった。

 青年は腕の力で上半身を持ち上げると、ちょうど四つん這いのような体勢になって動きを止めた。


「と、止まった……」

「これは救急隊の前に警察を呼んだ方が良さそうだな」

「そ、そうですね!」


 明人は表示されている電話番号を消し、110と数字を入力して発信ボタンを押した。


「もしもし! 原笠大学前で交通事故があって! はい、はい、そうです。いえ、人身事故なんですけど、はい、それが、事故に遭った人が起き上がろうとしていて、はい、よろしくお願いします」


 明人は通報を終えると通話終了ボタンを押し、再び青年がいる方へ眼を向けた。


「警察はすぐに来るのか?」

「はい、すぐ出動してくれるそうです」

「そうか。……少し話は変わるが、あの青年、どこかで見た覚えがあるのだが、君は分かるか?」

「彼ですか? 俺は会ったこと無いと思いますけど……。いや、待てよ」


 明人は青年の正面に回り込み、しゃがんで青年の顔を確認した。


「あっ! 豊橋さん!」


 なんと事故に遭ったのはアルバイト先の先輩である豊橋であった。明人は知り合いだと分かるや否や豊橋に近付いて応急処置をしようとしたのだが、何からすればいいのか分からずおろおろとしていた。すると四つん這いになっている豊橋が、急に右手を伸ばして明人の肩を掴んだ。


「だ、大丈夫ですか!?」


 明人は肩に乗せられた腕を掴んで豊橋の頭を見た。


「神馬……はなれろ……」

「え?」


 明人は豊橋の小さな声を上手く聞き取れず、聞き返すが豊橋は明人の肩に手を乗せたまま動かなくなってしまった。


「豊橋さん! しっかりしてください!」


 明人は豊橋の意識が飛ばないように声をかけ続けたが、豊橋の意識が戻ることは無く、明人が自分の肩に乗っている豊橋の手をどけようとした時であった。突如として豊橋の手に力が入り、明人の肩をがしりと掴んだ。

 明人がそれに答えようと声を出そうとしたとき、目の前でうずくまる豊橋の背中が縦にパックリと割れ、そこから黒い液体が流れ出てきた。


「な、なんだこれ……」


 明人はその場から逃げようと豊橋の手をどけようとするのだが、死後硬直のように豊橋の手は固まってしまい明人は目の前で起きる恐怖を前にして逃げ出すことが出来なかった。

 そして豊橋の全身は背中から流れ出た黒い液体に包まれ、人間ではない違う何かに変異してしまった。

 刺々しい甲虫のような黒い装甲を纏い、豊橋では無くなった何かは明人の肩を掴んだまま立ち上がり、左手を握りしめて振り上げた。


「何をしている! 避けろ、神馬明人!」


 その様子を遠くで見ていた平刃は、人間では無くなった何かが立ち上がるまでその異変に気が付かなかった。それを見た平刃は明人を助けるために走り出した。

 しかし肩を掴まれた明人は、人間の力とは思えぬ拘束を受け、成す術が無かった。すると黒い拳が明人の左胸に向かって振り下ろされた。

 ――鈍い音とともに明人は十数メートル吹っ飛んだ。更にそのパンチの衝撃で心臓が止まり、明人は白目をむいてぐったりと倒れた。


「神馬明人! しっかりするんだ!」


 平刃は息を上げながら明人のもとに駆け寄った。そして体を真っすぐにして寝かせ、首の動脈で脈を測った。……明人の脈は止まっていた。


「おい! 神馬明人! 戻って来い!」


 明人は口の両端から真っ赤な血を流し、すでに息も止まろうとしていた。平刃は近くに心肺蘇生装置が無いか探したが、パッと見でそれを見つけることは出来ず、自分がやるしかない。と覚悟を決め、白衣の袖をまくって心肺蘇生に入ろうとした時であった。ビクッ。と、明人の体が微妙に跳ね上がり、パッチリと黒目を開いたのであった。

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