変異体アーデス―二つの心臓を持つ者―

玉樹詩之

第1話 色づいた雨

 春のとある日、政令指定都市でもある原笠市はらがさしに大粒で色のついた雨が降る。と言う珍事があった。それは通り雨であり、雨量も小雨程度であった。しかしその色のついた雨を浴びた人はその場で倒れこみ、奇妙な雨が止むまで動き出さなかったと言う……。


 サァーと静かな天気雨が急に原笠市に降り注いだ。遊園地でヒーローショーを見ていた人たちは、一日中晴れ予報だった天気予報を信じて誰一人として傘を持っていなかった。観客は一斉に立ち上がり、近くの事務局に雨宿りをし始めた。


「皆さん! ゆっくりと一列になって入ってください!」

「うわぁーん! こわいよママー!」

「大丈夫よ。アレは着ぐるみだからね」

「あ、すみません。コレ着たままで」


 ヒーローショーのアルバイトで怪人役をしていた神馬明人じんばあきとは、入り口が一つしかない事務局の前で雨宿りの誘導を行っていた。


「着ぐるみは脱がないと、何かと厄介だな」


 明人はそう呟くと怪人のマスクを脱ぎ、背中のファスナーを下ろして化けの皮から抜け出した。そしてそれを近くのベンチに放って持ち場に戻った。


「よし、これでだいぶ動きやすくなったな」


 それから数分、遊園地の役員、警備員が臨機応変に対応した甲斐があり、観客から来園客まで、お客さん全員の避難を完了した。


「ふぅー、終わった終わった。次は道具を片さないとな」


 小雨と言うのが幸いし、ヒーローショーに利用していた道具はそれほど濡れていなかった。明人らヒーローショー運営係は大事な道具から順にビニール袋を被せたり、袋や箱にしまったりなどをしてあっという間に片づけを終えた。そして明人も事務局に避難しようとしたのだが、ベンチに担当していた怪人の着ぐるみを置いたままなのを思い出し、入り口前で引き返した。


「あー最悪、忘れてた。先に入っててください」


 明人はそう言うと、反転して濡れた路面で転ばないように気を付けながら走った。なるべく濡れたくなかったので、足を止めずベンチとすれ違いざまに着ぐるみを拾った。そしてそのまま舞台裏に滑り込み、着ぐるみを大きなビニール袋に突っ込んだ。

 その時であった。誰もがただの天気雨だと思っていた雨は、急変を見せたのであった。雨粒は急に大きくなり、卓球のボールほどになった雨粒は、降る。と言うよりかは、落下し始めた。と言う方が正しかった。


「何だこの雨!?」


 雨粒に対しての驚きも大きかったが、それに相まって驚きを倍加させたのは、「雨に色が付いている」という事であった。

 明人は色のついた雨に驚きを隠せなかったが、それ以上に何か不気味な予感がした。なので明人は急いで立ち上がると事務局に向かって走り出した。路面に気を付けている暇も無く、無我夢中で走った。

 色づいた雨が降り始め、普通の雨は止んだ。色づいた雨は流星群のように降り注いだ。量は先ほどの小雨よりも少なく、とにかく一粒一粒が目立っており、それが原笠市内のあちこちに降り注いだ。

 傍観している人たちはただただ色づいた奇妙な雨だと思っていた。しかし明人には違って見えていた。


「この雨……。俺を追って?」


 舞台裏で着ぐるみをしまったとき、確かに赤い雨粒は垂直に落下してきていた。しかし今、事務局に向かって走り出した今、もう一度空を見ると赤い雨粒は明人の頭上を落下してきていたのであった。


「どうなってるんだ?」


 明人が赤い雨粒に恐怖していると、濡れていた路面に足を取られ、明人は無様にこけた。


「いってー」


 ヘッドスライディングのようにしてこけた明人のすぐ目の前には事務局があった。もう少しだ。明人はそう思って立ち上がろうとしたが、ふと赤い雨粒が気になって右半身を開いて空を見た。

 ――すると赤い雨粒はもうすぐそこまで来ており、明人はそれを避けようと前に這いずろうとしたのだが、時すでに遅しであった。雨粒は右胸に直撃し、その瞬間明人は気を失った。


「お、おい! 大丈夫か!」


 避難していた先輩アクターが事務局から飛び出すと、明人に近寄って脈を測った。先輩アクター豊橋博とよばしひろしは脈があることを確認すると明人を担いで事務局に向かおうと歩き出す。

 ――その時、豊橋の背中にも真っ黒の雨が当たった。


「うぐっ!」


 すると明人同様豊橋も気を失い、その場に倒れこんでしまった。

 その後数十分で色づいた雨は止み、笠原市内各地で119番通報が出されていたため、病院はすぐさま救急隊を出動させ、どこの病院も色づいた雨で気を失った急患で埋め尽くされた。


 ……運び込まれた患者は皆、一日ぐっすり眠ると何事も無かったように起き上がった。それは明人も同じであった。


「う、うぅーん」

「明人? 起きたの?」

「うん? 誰だ?」

「私よ、分かる? 戸木田朝美ときたあさみ

「あ、朝美か……」

「良かった! 記憶はしっかりしてるのね」


 明人のお見舞いに来ていたのは、幼馴染であり、今はフリーライターをしている戸木田朝美であった。活発な性格で、職業柄いつもメモ用紙とペン、それにカメラを持ち歩いている。見た目としては動きやすそうな服装を好み、髪も常に短めであった。


「俺……随分寝てたのか?」

「うーん、どうだろ。とりあえず丸々一日は寝てたらしいよ」

「一日!? ってててて」

「ちょっと、いきなり起きない方が良いよ。まだどんな症状か分からないんだから」

「分かってないのか?」

「あ、えぇーっと、私の予想よ!」

「えぇーなんか怪しい。まぁとにかく今は信じておいてやるか」

「そうそう、私を信じて寝ていなさい」

「分かったよ。たまにはゆっくりさせてもらうかな」


 明人の全身は気だるく、飛び起きてでもアルバイトに行きたいところではあったが体が言うことを聞かず、明人はそのままベッドに体を埋めた。

 朝美は乱れた白いタオルケットを綺麗に直すと、椅子に置いていたハンドバッグを持った。


「それじゃあ、私取材あるから」

「おう、来てくれてありがとな」

「いえいえ。早く元気になれよ~」


 朝美はそう言って病室を出ようとするのだが、何かを思い出したようで立ち止まった。


「あ、そうだ。あんたが通ってた大学の教授さんが、起きて動けるようになったら大学に来てくれってさ。じゃ、ちゃんと伝えたからね~」

「おい、ちょっと。俺が一番仲良くしてた教授だよな?」

「そうそう、多分その人。病室の前に立ってただけでさ、私が横抜けようと思ったら突然伝言頼まれちゃってさ。っと、時間ヤバいから行くね!」

「お、おう、気を付けろよ!」


 朝美は慌ただしく病室を後にすると、妙な静けさが病室を満たした。窓外には綺麗な桜が咲き誇っており、明人はそれをしみじみと眺めた。これまで健康で元気な生活を送ってきた明人だが、初めての入院で少し気が弱っていたのであった。

 丸々一日眠ってしまっていたこともあり、明人はなかなか寝付けなかった。気だるかった体も徐々に回復していき、逆に今すぐにでも動きたい気分になってきた。明人はせっかく綺麗にしてもらったタオルケットを蹴とばして、ベッドから足を下ろした。あの色づいた雨が降っていた日に持ってきていた所持品は全て病室のテーブルに置いてあり、スマートフォンと財布はポケットに入れ、ショルダーバッグを右肩に下げて病室を出た。

 病室を出ると真っ先に受付に向かった。するとそこには丁度先生らしき人も立っており、明人は走ってその輪の中に入った。


「すみませーん。お世話になりました」

「おぉ、君は一昨日の染色雨せんしょくうを浴びた子だね?」

「染色雨?」

「そうか、すまんすまん。今は色のついた雨をそう呼んでいるんだ」

「そうだったんですか」

「それで、何か用かな?」

「あ、えっと外出したいんですけど」

「おぉー、そうか。元気になったなら大丈夫ですよ」

「本当ですか!? その出来ればもう退院したいんですけど……」

「そのことなら気にする必要はない。お金も取らないし、好きなタイミングで退院していいことになっているからね」

「そうなんですか!? それじゃあ」

「分かった分かった。そう焦るな。この書類にサインだけしてもらっても良いかな?」

「はい!」


 明人は白衣に包まれた先生が取り出した紙にサインをし、無事退院することとなった。荷物もその当時持っていたものしか運び込まれておらず、短い手続きで明人は退院した。

 病院を出た明人は、朝美が言っていた教授のもとに行くため一度帰宅することにした。運のいいことに病院から出ているバスが丁度自宅付近を通るので、明人はそのバスに乗ってボロアパートに帰った。

 明人の部屋はボロアパートの二階、一番奥の二〇四号室になっていた。鍵を開けて部屋に入ると、すぐに風呂に向かった。一日中寝ていたせいか頭も痒く、体も汗でねばついていたのだ。

 風呂を終えた明人は綺麗で臭くない新しい服に着替え、鏡の前で身支度をした。ドライヤーで雑に髪を乾かし、その日限りの無造作ヘアにすると、平均よりは少し目立つ顔を洗顔し、それが終るとすぐに自宅の鍵を閉めてアパートの階段を下り、アパートの共有駐輪場にある自分の原チャリに乗って卒業した原笠大学に向かって走り出した。

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