pain.


「可愛いですよね。シャノって」


「……えっと。急に走って来て、どうしたの?」


茜さす校舎の廊下。

長い銀髪を振り乱して呼び止めてきたと思えば、今度は突飛なことを言い出したメルに対し、〈シャノにとっての王子様〉は困惑とも緊張とも照れ隠しとも取れる表情を浮かべた。


「シャノと、もっとお話したくはありませんか?」


自分はどうしてこんな事を、とメルはミックスジュース状態の心を必死に整理整頓し、やがてひとつの納得――に近い仮定に辿り着く。



――もしかしてこれは、私の願い?



どうにか、シャノの願い事を叶えてあげたい。


確かにそれは昨日まで存在していなかった想いな気もするし、反対に、ずっと前から胸の奥を温め続けてくれていた気持ちでもある気がした。

もしもこれが、メル・アイヴィーの「願い」だとしたら。


「……えっと。メルさんと、じゃなくて、シャノさんと、なの?」


王子様は、ちょっと気まずそうに視線を外す。


「……どうして、私が、〈王子様〉さんと?」


純粋な青い瞳で純粋な疑問を口にするメルの前で、彼は気合を入れるように一呼吸おき、それから真っ直ぐな視線でメルと向き合った。


「僕はずっと、メルさんと、お話してみたいと思ってたんだけど」


凛とした声。混じりっ気のない視線。


……でも、そうじゃないの。私は、シャノのお願いを叶えないと。


「……あの、シャノは、とってもいい子で」


「もしかして、メルさんは僕のこと苦手、かな」


メルは、どうにか〈王子様〉にシャノへの興味を持ってもらおうと頑張っていただけのつもりだったのに、彼は水底に沈んだような声で呟いて、俯いてしまう。


訪れた沈黙が、全身にいやに纏わりついた。

やがてメルの内側で、じわりじわりと不安の嵩が増してくる。


――もしかして、私は、〈王子様〉を傷付けてしまったのだろうか。


「私は」


誤解を解こうとして、それなのに、後に続く言葉が出て来ない。


〈王子様〉は悲しそうにメルのことを見ると、優しい声で「気にしないで」とだけ言った。


初めて向けられる「願い」の籠った眼差し。


メルは色々なことが怖くなってしまって、胸が張り裂けそうになってーーついにその場から逃げ出してしまう。





###

 




〈王子様〉攻略に苦戦している間にも、メルの叶えたい願いは次々と増え続けた。


つまり、メルは大きな勘違いをしていた。


メルの叶えたい願いの正体は、「シャノの願い」ではなくて、「みんなの願い」のようだった。


――私が振りまいた願いの枠組を、私の手で叶えてあげたい。


その気持ちはメルをあちらこちらへ突き動かし、時には胸を締め付け、次の日になっても、一週間、一ヶ月経っても、消えないどころか益々色濃くなっていった。




……ああ。だから、みんな苦しむんだ。




ある日メルは、ふと思い至る。



「願い」を得て、はじめて分かったことがメルには沢山あった。


願いから目を逸らすことは、とても難しい。


逃げ道なんていくらでもあるように見えて、其の実どこへも行けなくなってしまう。


「願いの枠組」が胸の中にある限りは。

「願い」を叶えるか、それとも諦めるかしない限りは。



願いを抱える苦しさを華奢な身体一杯に背負ったメルは、今度こそ逃げなかった。


苦しくても、辛くても、頑張った。



何ヶ月もの間、その足で世界中を飛び回り、可能な限り、みんなの願いを聞き続けた。




親友がほしい。


喧嘩した弟と仲直りがしたい。


永い眠りについた愛犬と、もう一度だけ遊びたい。


誰よりも幸せになりたい。


死にたい。


人を殺してみたい。


何もしないで生きていたい。




〈王子様〉とキスがしてみたい。



メルと、お友達以上の関係になりたい。




誰かのお願いを叶える度に、笑顔を見る度に、メルはちょっと幸せな気分になれた。

叶えられないお願いはその何十倍も心に伸し掛かって、無力感がメルを容赦なく圧迫していった。




月日は流れる。



メルの足どりは重くなってゆき、美しいブルーの瞳を本物の悲しみが覆ってゆく。




みんなの願いを叶えることは、できない。




限界が近づいていた。



何が正しくて何が間違っているのか、これからどこへ向えばいいのか、メルは段々色んなことが分からなくなって、心はとっくに疲弊して、それでも壊れたオーディオのように、がむしゃらに誰かの願い事を聞き続けた。



私が、叶えなくちゃ。




「夢も、希望も、願いも、全部なくなっちゃえばいいんだ。そしたら、僕みたいな人間だって、もうちょっと楽に生きられるのに」


メルの質問にそんな「願い」で答えたのは、高架下にしゃがみ込んでいた、メルと同じ髪の色をした少年。



「だから僕は、何も望まずに生きていたい」



「……そうね。願いなんて、いらないわ」



堪えてきたものの最後は、呆気なかった。

少年のお願いがメルの意志を変えたのではない。だから、それはあくまで一つのトリガーに過ぎなかったのだと思う。しかし、少年の「お願い」は、メルの胸に積み上がったものを決壊させた。



それが、正しいのだ。メルは確信して、固く決意する。


みんなを悲しませるものなんて、要らない。




願いの枠組なんて、もう要らない。




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