お絹が目を覚ますと、そこは今まで見たこともない豪華な部屋だった。床は一面清潔な畳で覆われており、三方には立派な障子があった。四隅には置行灯おきあんどんが据えられ、部屋一面を橙黄色とうおうしょくの灯がほんのり照らし出している。

 間もなく、お絹は息苦しさと手足の違和感を覚えた。彼女の口には猿轡さるぐつわが巻かれているばかりか、両手足が縄で縛られていた。そんな自分の置かれている状況を呑みこむ間もなく、お絹の背後から野太い男の声が響いた。


「おお、気がついたかえ。なるほどのう、良い目をしちょる」


 お絹が後ろを振り返ると、そこには藍色のかみしもを着た小太りの男――沼島が座っていた。両足を前に伸ばす彼の黒い瞳が、お絹の全身を隅々まで見つめる。頭の天辺から足先までを一通り見終えた中年の男は、赤茶色い舌を出すと、自身の分厚い唇をべろりと舐めた。


「ふむう、良い女じゃ。馬鹿な旗本どもは売れば金になると言うちょったが、それは勿体ないのう。どれ、わしの女になれ」


 沼島が、這うようにしてお絹へ近づく。行灯あんどんで照らされた部屋の明かりが、一瞬だけわずかに揺れた。お絹は沼島から逃げ出そうとするが、身体を縛られているためうまく動けない。声を上げようとするも、猿轡に阻まれる。

 お絹が抵抗している間に、沼島の長い影が彼女の影に触れる。獣のように荒く、熱い息遣いが、娘の耳に入ってくる。

 お絹は、目に涙を溜めながら沼島の顔を見つめた。歪んだ男の笑みが、十五歳の娘に言い知れぬ恐怖心を覚えさせた。


「年甲斐もなく若い娘に迫りなや、沼島。胸糞悪いのう」


 不意に、部屋のどこからか青年の声が響いた。それとともに、部屋を照らしていた行灯の灯がすべて消え、辺りを暗闇が包み込む。


「何奴じゃ! 無礼な、儂が誰かを分かっちょる上での狼藉ろうぜきかえ!」


 その場で勢いよく立ち上がった沼島が、声を思い切り張り上げる。だが、声の主はそれに応えない。

 聞き覚えのある声に、お絹がぼんやりと記憶を辿っていると、突如沼島が二、三度甲高い悲鳴を上げた。


いててっ、痛て! 曲者くせもの、曲者じゃあ!」


 沼島が叫びながら、左手の甲に刺さった細いとげのようなものをゆっくりと抜く。傷は浅かったものの、左手の痛みに耐えきれず、時折熱い唇の隙間から呻き声が漏れた。

 程なく、二十人ほどの侍が沼島とお絹の居る部屋へと走って来た。彼らのうち数人が左手に松明たいまつを持ち、それ以外の者は全員抜刀し、灰色の刀身を鈍く光らせていた。


「沼島様、ご無事ですか」

「部屋に入った曲者を捕えろ!」


 左手を押さえながら、沼島が侍たちへ声を張り上げる。だが、彼の周りに集まった侍たちは皆部屋の中を右往左往するばかりだった。俄かにどよめきを上げるばかりの彼らにしびれを切らした沼島は、額に青く太い血管を浮き上がらせる。


「何しゆうがじゃお前ら、しゃんしゃんせえ!」

「しかし、沼島様。曲者らしき者は、どこにもおりませぬが」


 侍の一人がそう口にするのを聞いた沼島は、松明の明かりで照らし出された部屋のあちこちを眺める。部屋の中にはお絹の他に、彼の声を聞いて駆け付けた侍たちしかいなかった。

 沼島は、その場に立ったまま前後左右を幾度も見渡す。部屋を埋め尽くす侍たちの側で、全身を紺色の毛で覆ったドブネズミが部屋の隅を横切っていく。

 しばしの間を置いて、沼島の右手を目にした若い侍が、短い悲鳴を上げた。


「沼島様、それは!」


 若い侍の声を皮切りに、侍たちの間でどよめきが起こる。沼島が何事かと思いながら足元を見ると、そこには黒色の手裏剣が落ちていた。部屋の中心に陣取る小太りの男は歯を小さく震わせながら、再び声を張り上げる。


「おのれ、最近城下を賑わせちょる『茂平』という輩の仕業か。奴を捕らえろっ。斬り捨ててもかまんっ。何しゆう、よ探せえ!」


 沼島の号令を受け、侍たちは部屋を離れ、屋敷内へ散らばって行った。沼島もまた、お絹をその場に残したまま部屋を後にする。侍たちの持っていた松明の灯が遠く離れ、夜闇が辺りを包み込む。

 お絹は、その場で長い溜息を吐いた。一応沼島の手から逃れることはできたものの、自分が未だ捕らわれの身であることには変わらない。束の間の安堵と先の見えない不安から、お絹はもう一度深い溜息を吐く。

 そんな彼女の側に、いつの間にか紺色のネズミが寄り添っていた。


「おい」


 先程の青年の声が、どこかから木霊する。どこから――? お絹がそう思いながら辺りを見回していると、ネズミは彼女の足に飛び移り、器用に肩まで登った。お絹の顔をすぐ目の前にしたネズミは、白い前歯を出しながら、小さな口を動かす。


「おい、俺だ。昼間会ったろう。沼島の手先から助けてやった恩、忘れたとは言わせんぞ」


 ネズミが発した言葉に、お絹は思わず目をみはった。この男は、まさか。そう思った矢先、彼女の自由を奪っていた猿轡と縄が、乾いた音を立てて畳へと落ちた。


「あ、あなた、モヘジさ……っ」

「大声を出すな。黙って俺の話を聞きや」


 ネズミが、低い声でお絹を威圧する。思わず口をつぐんだお絹は、小さく頷いて応じた。


「ええか、これから俺の言う通りにせえ。この汚い沼屋敷から、お前を自由の身にしちゃる」

「で、出られるがですか?」


 ああ。ネズミは一言だけそう応じると、沼島たちが出ていった障子へと一直線に駆けていった。お絹が茂平へ声をかけようとした瞬間、夜闇に紛れた忍の影が激しく揺れる。

 ふいに、お絹の眼前で炎が灯る。一瞬目を伏せ、あらためて目の前を見ると、紺色の忍装束に身を包んだ茂平が立っていた。左手には、彼の腕より一回り大きな龕灯がんどうが握られており、中で蠟燭の炎が揺れるのが見て取れた。


「もたもたしなや。行くぞ」

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