お絹の目の前が、突然真っ白になる。陽光の如き白い閃光を前に、彼女は瞼を強く閉じた。眩い光は一瞬だけ強い光を放った後、花火のようにたちまち消え去っていく。

 そして、お絹はうっすらと瞼を開く。日の光に目が慣れていくとともに、彼女は自分が今置かれている状況を前に、唖然とした表情になる。


「えっ、えっ。な、何で」


 お絹は、青年の腕の中にいた。

 素早く地面を蹴り、街中を目に見えない速さで駆けていく彼の腕の中で、お絹はきょろきょろと辺りを見回す。建ち並ぶ家々が、彼女の視界から流れるように消えていく。

 目の前の状況を飲み込めないまま、上を見ると短い無精ひげを生やした青年の顔が見えた。お絹は彼に声をかけようとするが、それよりも先に男の口が動く。


「あの、こ、ここわ……」

「下手に喋りなや。舌噛むぞ」


 淡々と告げる青年を前に、お絹は困ったような顔を浮かべる。彼女の表情をちらと目で捉えた青年は、かかとを短い間隔で蹴り続け、走り続けていた足をぴたと止めた。腕に抱えていたお絹をその場に立たせると、小さく嘆息する。

 やがて、お絹は少しずつ冷静さを取り戻す。周囲に建っている小さな家と屋敷、路地と水路の形から、彼女は見覚えのある町の姿を少しずつ思い出していく。


「ここって……もしかして宝永町ほうえいちょう? あれ? あたし、つい今まで播磨屋はりまやの町におったのに」


 眼前に佇む新堀川しんほりかわ、中の島を挟んでさらに奥にある鏡川かがみがわを眺めながら、お絹がぽつりと呟く。播磨屋町はりまやまちから宝永町までは、およそ十町ほどの距離がある。馬でも使わない限り、どれだけ早く走っても四、五分はかかる。だが、先ほどの騒動からはまだ一分程度しか経っていない。お絹が信じられないと言わんばかりの様子でいると、青年が溜息交じりに口にする。


「おい。上士どもから助けてやったのに、お礼の一つも無いがか」


 背後から聞こえてきた青年の言葉に、お絹は素早く振り返る。そのまま、彼女は男に向かって深く頭を下げた。


「あっ、ありがとうございました。危ないところを助けて頂いて……」

「まったく。この土佐じゃあ、郷士が上士の機嫌を損なえばどうなるかぐらい、分かっちゅうろう。気をつけや、小娘」


 す、すいません。そう言うと、お絹はもう一度深く頭を下げる。対する青年は、長い黒髪を乱暴に掻きつつ、もういい、とぶっきらぼうに応じた。その様子を目にしたお絹は、両手を胸の前に持って行くと、青年の顔を真っ直ぐに見つめる。


「本当に、何とお礼すればいいか……あっ、あたしの名前、お絹と言うがです。すいません、あなた様のお名前を聞いても」

「すまんが、俺には名乗る名前が無いがじゃ」

「それでは、あなた様を何と呼んだら」

「へのへのもへじ」


 へのへの……? お絹の脳裏に、顔の落書きによく使われる七文字が踊る。困惑した顔を浮かべるお絹の姿を見た青年は再び溜息を吐くと、『モヘジ』で良い、と呟いた。


「モヘジさん、このたびは本当にありがとうございましたっ」

「そんな何べんも『ありがとう』言いなや。繰り返し言われちゃあ、ありがたみが薄れるろう」


 すみません。お絹が小声でそう漏らすと、『すみません』も聞き飽きたちや、と青年――モヘジが告げる。彼の言葉を受けて、お絹がしょんぼりしたように眉をハの字に歪ませた。

 それから少し間を置いて、モヘジはところどころが垢でうっすらと汚れたお絹の着物を一瞥し、乾いた唇を動かす。


「俺と話すときは、別に敬語もいらん。変に気遣われるのはこそばゆい。それよりも、お絹とか言うたな。商人あきんどをしゆう割に、なかなか売れちょらんかったようじゃが」

「そ、それは……」

「地面に落ちてたお前の売り物、さっき少しだけ見たが、ありゃあかなり鮮度が落ちちゅうぞ。あと所々腐っちょった。去年は飢饉があったち言うても、見てくれが良うない物は誰も買わんちや。もっと工夫して売ってみいや」

「工夫して、って」


 モヘジの歯に衣着せぬ物言いに、お絹は顔を顰めた。頬をぷっくりと膨らませながら、お絹は不満げに尋ねる。


「それじゃあ、モヘジさんは商いをやったことあるが?」

「あるさ。俺がまだ小さかった頃じゃ。小便臭い餓鬼の売り物はいらん、と言われた記憶しかないが」

「じゃあ、モヘジさんだって売れちょらんかったがや。そんな人にあたしの商売をどうこう言われとうないわ。あたしはもうここで大丈夫やき、失礼します」


 早口でそう言うと、お絹は踵を返して通りを歩き出す。おい、待て。モヘジが呼び止めるのも聞かず、彼女は通りを西へと曲がり、そのまま裏路地へと消えて行った。

 モヘジは小さく嘆息すると、お絹とは反対の方角へと歩を進めた。通りを東へと進む。視界に映る五台山ごだいさんの景色を遠目に眺めていると、どこからかしわがれた男の声がモヘジの耳に響く。


「どんな風の吹き回しじゃ、真昼間から女子なぞ助けおって。放っておけばいいものを」


 モヘジは、すぐ左手にある裏路地へと目を向ける。昼間にも関わらず、夜のごとき深い影が差し込むそこへ、モヘジは語りかける。


市之丞いちのじょうか。どうしたち、俺の勝手じゃ。そんなことより、仕事か」


 モヘジは裏路地の影を見つめたまま、目を逸らさない。すると、影の中で二つの鈍い眼光がわずかに瞬く。


「ああ、今宵は沼島じゃ。商人や貧しい者から事あるごとに金をせびり、身売りや賄賂も厭わん、上士の風上にも置けん悪党じゃ。女子供にも刀を抜くことでも有名な奴ぜよ」


 市之丞と呼ばれたしわがれた声の主は、淡々と告げる。姿を見せない彼の言葉を耳にしたモヘジは、口角に不敵な笑みを浮かべると、影に向かって得意げに言い放つ。


「沼島かえ。さっき、そいつの手先に会ったばっかりじゃ」

「何じゃと。ならばお主、彼奴等きゃつらに顔を見られちょるやないか。いかんぞ、おんしゃあ」

「大丈夫じゃ。そんなに吠たえなや。何とかなるろう」

「……まあいい。暮六つ時に、沼島の屋敷で落ち合おう」


 そう告げる市之丞の声を聞いたモヘジは、気配の消えた影を一瞥し、そのままどこかへと歩き去って行った。



***



 お絹は狭い裏路地をとぼとぼと歩いていた。腹から音が鳴り、半身をにわかに震わせる。悲鳴を上げる身体を宥めるように、彼女は骨ばった手で自らの腹を擦った。


「お腹空いた……今夜の飯、どうしよう」


 結局今日は何一つ儲けを得られなかったばかりか、大切な売り物をすべて地面にばら撒いてしまった。今晩の糧どころか、明日以降も食べていける保障はない。

 あの時、上士二人とぶつかりさえしなければこんなことにならなかった。お絹の脳裏に幾度もその考えが浮かぶも、最早後の祭りだ。無くなってしまったものは仕方ない。とりあえず今夜を凌げる食い物を探さなければ。お絹はゆっくりと、足を前へ進める。

 その時だった。お絹の後方から突如大きな影が現れたかと思うと、男の大きな手が彼女の口を塞いだ。お絹は息ができない苦しさに悶えながら、手足をじたばたと前後に動かす。だが、そんな抵抗もむなしく、お絹はその場で崩れ込んだ。


「見つけたぞ、さっきの郷士の女じゃ。こんなところにおったがか。探すのにめったちや」

「こんななりでも、とりあえずは金になる。沼島様もさぞ、喜ばれることじゃろう」


 上士の男たちが口々に話すのを聞きながら、お絹は静かに気を失った。

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