SHINOBI ~日下茂平物語~
天神大河
第一話 陰謀渦巻く沼の島
一
今から昔、江戸時代中頃のこと。
「おうお
「へえ、そりゃあたまげた。けんど『くろの屋』はのう、去年の飢饉のときに米を自分だけ独占して、わしらにはちっとも売ってくれんかったろう。自業自得じゃい」
「ほうじゃのう。茂平は、わしらにとっちゃあ義賊じゃ」
年寄りたちの会話を小耳に挟みながら、十五になったばかりの若い娘――お
「野菜、魚、いらんかねえ。安うしちゃるき、
声高にそう言いながら、お絹は骨ばった両手に野菜と魚とをたくさん詰めた桶を持って、通りをあちこち歩き回っていた。だが、朝から休みなく歩き続けているにも関わらず、品物は一個も売れていなかった。
もうじき日が暮れるというのに、これでは一銭も儲けが出ない。そう思ったお絹はその場でつと立ち止まり、小さく溜息を吐いた。
その時、彼女の前に何か巨大な影が現れたかと思うと、どん、と大きな音を立ててぶつかった。
お絹の華奢な身体が、地面へと崩れ落ちる。それと同時に、彼女の手から離れた桶が土の上を静かに転がりながら、辺りに大量の野菜と魚を散らばらせた。
「こりゃ、そこの
「
立派な羽織を着た二人の男は、うつ伏せに倒れ込んだお絹の姿を見下ろし口々に罵声を浴びせる。対するお絹は、伏せた体勢のまま素早く足腰を動かし、正座の形を作った。そのまま頭を地面に着けると、両手を頭の前に持って行く。
「申し訳ありません、申し訳ありません」
高い声を震わせ、お絹はただその場に平伏する。幾度も顔を地面に擦り付ける彼女を尻目に、取り巻きの男たちが小声で口にする。
「おい、ありゃあ
「わしら郷士が上士に逆らうだけでも
「女子供の粗相にも容赦はせん方じゃ。あの女子は気の毒じゃが、わしらじゃどうにもできんちや。くわばら、くわばら」
取り巻きの男たちがそんな会話を交わしている間に、上士の男の一人が、お絹の長い黒髪を乱暴に掴んだ。土で汚れた彼女の顔を前に、二人の男は下卑た笑みを浮かべる。
「この女子、わしの羽織に泥を塗りおった。斬って捨てちゃろうか」
「まあ待ちや。恰好こそ悪いが、顔だけはよう出来ちゅう。どこかへ身売りでもすりゃあ、高い金になるろう」
口々にそう告げる彼らを前に、お絹は言い知れぬ恐怖から眉を歪め、目に涙を浮かべた。
その時、彼女の眼前に突如黒い影が現れたかと思うと、上士たちは小さく呻き声を上げて後ずさった。
いったい何があったのか。三人が影の姿形をはっきり捉えるより先に、気だるげな低い声が辺りに響く。
「ええ加減にしいや、上士ども。折角の団子が不味くなるろうが。見ちゃおれん」
そう口にする影の姿が、徐々に鮮明に映る。お絹と変わらない年頃と思しき、若い青年だった。薄汚れた黒衣を纏った彼は、右手に握った串を口元へ持って行くと、そこに刺さっていた緑色の団子を口に含んだ。青年が噛むのに合わせて、肩まで伸びた黒髪もゆっくりと上下する。
「おんしゃあ、一体何をするがじゃ!」
「無礼者め、控えろ!」
口々にそう言いながら、上士たちは青年の前へ近づこうとする。そのうちの一人が刀の柄に手を掛けたところで、黒衣の男は頬袋に団子を入れたまま、お絹の方へと向き直る。
「おい、お前。逃げるぞ。しっかり捕まっちょれ」
お絹がその言葉に応える間もなく、青年の大きな手が彼女の背に触れた。その瞬間、辺りに土煙が立ち込める。突然の出来事を前に、二人の上士と、周囲に集まっていた取り巻きは思わず目を伏せた。
そして、彼らが再び目を見開いた頃、つい先程まで居たお絹と青年の姿は、きれいさっぱり消え去っていた。
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