二章
理想の朝食
「忠宏兄ちゃん、朝だよ!」
身体が揺さぶられ、暗闇の底にあった意識が浮上する。
どこかまだボヤける意識の中、瞼を少し持ち上げると目の前には幼い少女がいた。
可愛らしい顔立ちをしており、黒い髪をポニーテールに纏めている。
それは、ここにはいない叔母である沙苗さんの娘である七海。つまりは、俺の従妹だ。
そんな七海が、朝を迎えて俺を起こしにきたようだ。
しかし、昨日は夜更かしをしてしまったからとても眠い。
「んー……もうちょっと寝とく」
「えー! もう朝ご飯できてるよ! 一緒に食べようよ!」
七海から背を向けるように転がると、七海は再び俺の身体を揺すってくる。
しかし、まだ眠気のある俺からすれば、力のない七海の揺すりは心地良い揺り籠のよう。
むしろ、俺の目を覚ますどころか、ゆっくりと意識が底に沈んでいっている。
ああ、いいぞ。このまま眠ってしまおう。
「えいっ! タオルケット抜きだ!」
俺がそんな風に思っている間に、七海は俺の纏っているタオルケットを剥いだ。
とはいえ、今の季節は夏。
急に冷える夜でもなく、クーラーのついていない今ではタオルケットなどあってもなくても変わらない代物だった。
多分、ドヤ顔を浮かべているだろう七海に、反応することなく俺は目を瞑り続ける。
「む~」
すると、今度は七海がどこか悔し気に唸りながら移動してきた。
目を瞑っているので視界が見えないが、まさか直接的な手段で睡眠を妨害しようと考えたのか。
七海の気配を感じて最大の弱点である脇を締めて警戒していると、枕をすっぽ抜かれた。
突然頭の位置が変わり、布団に落ちてしまったために微かに呻き声が漏れる。
これは確か、母さん必殺の枕抜き! 七海に伝授していたのか。
「えへへ、これならどう?」
「ふっ、まだまだ技のキレが甘いな七海」
「ええ?」
自信満々の笑みを浮かべているだろう七海に言うと、戸惑いの声が聞こえた。
必殺技を伝授されたようであるが、所詮は心優しい十歳の少女。
母さんに比べればパワーも容赦も足りないな。
母さんであれば、こちらの顔面を蹴り抜くような容赦のなさで枕を蹴るのだ。
ダルマ落としのように頭が布団に落ちる衝撃波勿論、頭を蹴り抜かれるのではないかという殺気がある。
それに比べて、俺に配慮しながら手で抜いた枕抜きなど手ぬるいとしか思えないな。
しかし、そんな事を言ってしまえば七海がムキになってやりかねないので丁寧に教えてやらない。
適当な理由をでっちあげる。
「俺は枕が抜けただけで眠れなくような男じゃないんだ」
「嘘! 七海だったら、枕なくなったら眠れないよ!」
「まあ、そういう訳で俺を起こそうとしても無駄だよ。ゲームをして夜更かししたからまだ眠いんだ。今日はそっとしておいてくれ」
「むむむ、朝ご飯は皆で食べるルールなのに!」
すまんな、七海。今日ばかりは見逃してくれ。
「ん? ゲーム?」
心の中で謝りながら目を瞑っていると、七海がそんなことを呟きながら移動した。
遠ざかる足音からついに諦めてくれたのだろうか。
そう思っていると、急に後ろからゲームの音楽が聞こえてきた。
どこかお祭りチックな軽快な集会所の音楽。
そう、昨日は夜遅くまで定晴や礼司とモンモンハンターをやっていた。
眠りにつく寸前までやっており、電源を消したりするのも面倒だったのでスリープ状態にして寝た。
そのせいで、テレビをつけてコントローラーのボタンを押すと、すぐに再開できるのだ。
もしかして、テレビの音量などを大きくして、俺は起こそうとしたのだろうか。
中々有効的な戦略であるが、俺のすぐ傍にはノイズキャンセル機能が搭載されているイヤホンがある。
東京と言う名の騒がしい場所では、心地よい音楽や時間を過ごすにはノイズキャンセルイヤホンが必須。特に俺のはノイズキャンセル機能に拘っているので、かなりの防音性を誇っているのだ。
ただのゲーム音なんかで屈する程、東京の荒波を越えた社畜は甘くは……
「起きないなら、モンモンハンターのセーブデータ消す」
「ちょっと待ったあああああああああああああああああああっ!?」
七海の無慈悲な言葉に俺は、即座にイヤホンを放り投げて起き上がった。
「起きる! 起きるからそれは無しで! 頼むから、俺の努力の結晶であるセーブデータを消すのはやめてくれ!」
そこには百二十八時間もの記録があるんだ。
「じゃあ、ちゃんと起きて朝ご飯食べる?」
「うん、起きたし、食べる食べる」
俺が即座に頷くと、七海は残酷な手段を取った悪魔とは思えないような、柔らかい天使のような表情で笑った。
「わかった! えへへ、じゃあリビングに行こう?」
「お、おう」
七海に手を引かれて、俺は素直に部屋を出る。
セーブデータを人質にとられたせいか、俺の眠気はさっぱり吹き飛んでいた。
純粋だからこそ容赦のない子供の戦法。正直、侮っていた。
下手したら母さんより容赦ないかもしれないな。
俺はそんなことを思いながら、階段を降りた。
◆
「忠宏兄ちゃん、起こしてきたー!」
階段を降りてリビングに入るなり、七海が報告するように元気よく言う。
「ご苦労様、七海ちゃん。なんだか忠宏のすごい悲鳴が聞こえてきたけど、枕抜きでどうやって起こしたの?」
「おばさんから教えてもらった枕抜きが利かなかったから、モンモンハンターのセーブデータ消すって言ったの」
「あら、それは盲点だったわ。私も今度起こす時はそうしようかしら?」
「できるだけ起きるんで、それだけは勘弁してください」
一番の弱点が部屋中にあるせいで、今後俺が朝ご飯の前に二度寝をすることは無理そうだな。
「できるだけじゃなくて、ちゃんとよ。働いてないからこそ、ちゃんとした生活リズムをしないと。頑張った分、休むのはいいけど今後に差し支えるような生活はダメよ」
いくら仕事を辞めて好きにできるからといって、ダラダラとした生活をしているといずれはする社会復帰ができなくなりそうだからな。
無職だからこそ、健康的な生活が基本。
この悠々とした時間を楽しむためにも、不健康ではいけないからな。
「朝飯は全員で食べるのがうちのルールだからな」
椅子に座って新聞を読んでいた父さんが、どことなくカッコつけながら言う。
どこか古臭いルールにも思えるが、そのお陰で俺達は毎日健康的な生活を送れている。
縛られることは面倒ということも側面もあるが、人間は適度に縛られる方がいいのかもしれないな。
「はーい」
反省の返事をしながら席に座ると、七海が満足げに笑いながら隣に座った。
「今日も美味しそうだね」
「ああ、そうだな」
目の前のテーブルには、豚汁、ししゃも、漬物、冷ややっこ、卵焼きが並んでいた。
ただ、起きただけで既にこれだけの料理があるというのは、実家暮らしというのは本当に幸せだ。いや、正確には料理のできる母さんがいるということだな。
誰かに作ってもらえた温かな食事があるだけで嬉しい。
湯気の立つ食事を眺めていると、母さんがご飯の入った茶碗を持ってきてくれた。
「はい、ご飯よ」
「ありがとう! おばさん」
これで理想の豚汁定食が完成だ。
料理が揃い、母さんが最後に座ったところで父さんが新聞を折り畳む。
「それじゃあ、食べるか」
「ちょっと待って。朝の連続テレビドラマがはじまるわ」
「あ! 本当だ! 急がないと!」
父さんが手を合わせて食前の挨拶をしようとしたところで、母さんがふと思い立ったかのようにリモコンを操作する。
ああ、朝のこの時間はいつもドラマをやっているからな。
働いていた頃は、生活リズムがバラバラだったせいで観れたことがないが、実家に帰ってからは毎日観れるようになったな。
お陰で俺もすっかりドラマの虜になってしまって、続きが気になっている。
リモコンの操作が終わって番組が切り替わると、出鼻を挫かれて微妙な顔をしていた父さんが改めて手を合わせる。
「それじゃ、いただきます」
「「「いただきます!」」」
いただきますをしたら、早速温かな湯気を上げている豚汁をすする。
「はぁ……」
温かな味噌の汁が身体の中に入っていき、思わずホッとした息が漏れる。
ちょうどよい味噌加減。何十年も味わってきた一番慣れ親しんだ母さんの味だ。
どれだけ接待で高級な店に同伴しても、自慢癖のある上司に連れられても味わうことのできない。
俺にとっては高級店よりも、ここの豚汁の方が美味く感じられるな。
豚汁をすすってホッとすると、次は香ばしい匂いを上げているししゃも。
コンロの中でじっくりと火を通されたそれを箸で掴み、頭から食べる。
パリッとした食感と少し強めの苦み。続けてもう一口食べると、程よい塩加減のししゃもの味がする。
頭から食べると、この苦みとししゃもの味が重なっていいんだよなぁ。
ししゃもの塩気を味わいながら、次はホカホカのご飯。
ししゃもの塩気とご飯が合う。
特にご飯は、ここで獲れた新鮮なものを食べているので、一粒がかなり甘くて美味しい。
ご飯を味わうと、また豚汁をすすって、箸休めに漬物を食べて、甘めになっている卵焼きを食べる、
うん、これこそが俺の理想の朝食だ。
「美味しいね」
「ああ、理想の朝食が食べられて幸せだな」
心からそう思えたせいか、家族の前なのに恥ずかしい台詞が出てしまったな。
すると、母さんはどこか嬉しそうに微笑んだ。
それからからかうような笑みを浮かべて、
「父さんは無言だけど美味しくないの?」
「も、勿論、美味しいぞ! いつも美味しいご飯をありがとな、香苗」
「うふふ、よかった」
どこか恥ずかしがりながら言う父さんの台詞を聞いて、母さんが一層嬉しそうな表情を浮かべた。
さすがに普段は飄々としている父さんも、このような台詞を言うのは気恥ずかしいようだ。
「おばさん、ご飯お代わり!」
「俺も」
七海に便乗して頼むと、母さんは機嫌がいいからか気前よくご飯をついでくれる。
家族四人で朝食を食べる。
こんなまったりとした時間が、仕事を辞めた今の俺の日常だ。
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