第3話 グラスに降る雨




 その日の雨は、華奢なカクテルグラスの中に降っていました。

 みぞれ、という名前は、その姿かたちからついたのでしょうか?

 そのバァルームでは、マティニやソルティードッグなど多くのスタンダードなカクテルに、ニックネームをつけていました。

 そしてフローズン・ダイキリにつけられた名前は、みぞれ、でした。

 バァ・スプーンの差されたそのかき氷のようなカクテルを、彼女は舐めるように味わっていました。


 あの、泣きじゃくる男の子のいたカフェの日のことを思い出しながら、彼女はひとりでお酒を飲んでいたのでした。


 あの日、あのカフェで待ち合わせたふたりは、本当は性交をするつもりでいたのです。

 なんということのない火曜日の午後、互いの仕事を抜け出して、街中の高層ホテルに部屋を取り、ゆっくりと性交をする予定を彼らは立てていました。

 なんといっても夜には帰る家のあるふたりですから、会うためには昼間の時間を捻出するか、もしくは家族に悟られないような嘘をついて、週末の時間を作るほかありませんでした。

 そばにいるだけで満たされる気持ちを持っていた頃は、会社の廊下ですれ違うだけでも時めく気持ちを抱いたふたりでしたが、その頃には、性交をすることでしか、肌を合わせ、抱き合うことでしか共感する何かを得ることが難しくなっていました。


 似た者同士のふたりは、性交の場面においてもとても素敵な時間を持つことができていました。

 性の趣味趣向は人によってさまざまですが、その趣向が近いもの同士の性愛は、互いの探究心と愛情を掛け合わせて、思いもかけない深みに至ることがしばしばあります。ふたりの場合もまさにその通りで、互いの実生活のパートナーには言えなかったような性の冒険も、この相手となら進んで試してみることができました。


 あるいはその出会いの偶然は、この性愛の充実により、とても密度の濃い、また、ファンタジックな雰囲気を持ってゆくようになりました。何しろふたりは、たとえば結婚をしたり、子どもを作ったりといったような現実に定着するような将来を一切思い描きませんでしたし、また若者の恋愛のように、自意識が高まり過ぎて、上手に気持ちを伝えられないこともなかったのです。彼らの恋は、くだらない現実に足をとられなかった分、とても純粋で、美しい物語を紡いでいました。


 けれどもその日々はいつまでも続くものではないことは、先のお話でも触れたとおりです。また、立派な大人であるみなさんも、よくご存知のことと思います。

 恋の純度が高ければ高いほど、それが薄れてゆく様は悲しいものです。

 彼らの場合は、性愛が充実していただけに、最後はそれがふたりをつなぎとめるかすかな術となっていきました。言葉を交わさず、ただ、肌を交えることで伝えられる、感じあえる何事かを、必死で信じようとしていたのです。

 そのときのふたりには、当然、そんなネガティブな気持ちはありませんでした。ただ、互いの肌の心地よさを失うことだけを恐れていたのでした。


 でも、あの泣きじゃくる男の子の暴力的なまでの存在感は、そんなふたりに何かを思い出させる力をもっていました。

 それは何でしょうか?

 それは、夢から醒めさせる力でした。

 いつまでも、夢のような恋は続かないのだ、と頭だけでなく、身体にも気づかせるような力でした。


 ふたりは、ろくに言葉も交わせないような騒音のカフェの中で、互いの視線を絡めることもなく、こんなことを考えていたのです。

 すなわち、「」、ということです。

 そう。

 たかがセックスじゃないか、と気づいてしまえば、何のことはない。

 それは、波打ち際の砂の城であり、つむじ風の前の蝋燭の灯火なのです。


 たとえば映画のように。たとえばお芝居のように。

 ここで舞台が暗転して、幕が下り、クレジットロールが始まるのだとしたら、それは起承転結のきちんとついた、なかなか面白いお話だったかもしれません。ひょっとしたら何人かのお客さんに、微笑を与えることができたかもしれません。

 けれどもこれは映画でもなければ、お芝居でもなかったのです。

 現実の、お話だったのです。

 だから彼女は、みぞれ、を名づけられたカクテルを独りぼっちで飲みながら、やるせないため息をつくことになるのです。

 現実のみぞれと同じように、彼女がぼんやりと考えても仕方のないことを考えるあいだ、それはしどけなく溶けて、カクテルグラスの中でどんよりとした液体に変わってゆきました。


 ふたりがその後どうなったかは、また、次回に。





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