捨てられた子供

 昔の行動で、後悔している事はたくさんある。


 しかしその中でも、トップクラスで後悔しているのは学生時代に起こした過ちだった。

 その頃の俺は、就職活動が思っていたよりも上手くいき、卒論もそれとなく終わらせていたせいで暇を持て余していた。

 普通だったら、そういう時は社会人になるための準備を進めるべきだったのに、あろうことか俺は調子に乗った行動を取ってしまった。


 合コン、合コン、合コン、毎日の様に遊びまった。

 時には、気に入った人をお持ち帰りして楽しんでいた。

 全く考え無しだった俺は、酔っぱらったままで厚意に及んだ時もあった。


 そして、すぐにそのツケがまわってきた。





「嘘だろ……妊娠?」


 俺は驚いて、開いた口がふさがらなかった。


 前に遊んだことのある女に呼び出された時は、何の用かと面倒臭く思っていた。

 しかし待ち合わせの喫茶店で、顔色の悪い女に言われた話。

 それはいつかは起こりうることだったのに、絶対に起こらないと思っていた事だった。


 妊娠した。

 たった、その一言に込められた破壊力はすさまじい。

 目の前で別に膨らんでいない腹をさすっている女は、静かに涙を流し始める。


「まだ産婦人科に行ったわけじゃないから、確定したわけじゃないけど。検査薬でやった時は、陽性だったの……」


 涙をゆっくりと拭いながら話す姿に向かって、それは本当に俺の子なのかという、無神経な質問は出来なかった。

 それでも態度には出てしまったみたいで、俺はにらまれる。


「私っ、恋人とかいないしっ。心当たりがあるとしたら、あなたとの合コンだからっ。お互い凄く酔っぱらっていたから、細かい事覚えていないでしょ?」


「……まあ、そうだけど」


 そう言われると、確かにそうだった。

 一緒に合コンをして、ホテルに入った所までは覚えているけど。

 気が付けば朝だったし、俺は彼女を置いてさっさと先に帰ってしまった。


 だから悪いけど、呼び出される前までは全く覚えていなかった。

 それなのに妊娠だとの言われても、正直困る。困るし、俺にはどうしようもない。


 俺は気づかれないように、女を盗み見た。

 顔はタイプじゃないし、可愛いとは思えない。

 こいつと付き合う事はおろか、結婚なんて全く考えられなかった。


 だから涙を流し続ける女を見て、考えに考えて最低の行動をした。

 俺は財布を取り出し、何枚か万札をテーブルに置く。

 そして女に言い放った。


「あのさ、悪いんだけど堕ろしといてくれない? 結婚とか無理だし、産まれても困るし。それじゃあ、俺用事があるから」


「えっ。ちょっと待って!」


 言いたい事だけ言うと、制止の声も聞かずに喫茶店から出た。

 泣き叫ぶ声が聞こえた気がしたけど、俺は戻る事は無かった。


 それから彼女が結局どうしたのか、俺は知らない。

 共通の知人もいないから、聞く事も無かった。





 俺があの時渡した金が、堕胎をするのに全く足りないと知ったのは、それからしばらくの月日が経ってからだった。


 現在の俺は大手の会社に就職して、そこで知り合った美人の彼女もいる。

 数年前とは比べ物にならないぐらい、真面目な生活を送っていた。

 女の妊娠話は、もう過去の事だと割り切っているし、今会ったら謝罪の一つでもしようという気持ちになっている。

 きっと彼女も幸せな生活を送っているだろうから、お互いに思い出さないためにも会わない方が良いのかもしれないけど。


 そろそろ彼女とも結婚を考えているし、子供だって欲しい。

 過去の事に縛られていたら、前に進めない。

 プロポーズの場所や、脳内でシミュレーションをしている時、顔がちらつく事もあったけど特に何も思わなかった。

 俺は着実に、未来へと向かっていた。





 これから、彼女にプロポーズする。

 前々から準備をして、周囲にも協力を頼んでようやく今日を迎える事が出来た。

 俺はポケットに指輪の入ったケースがあるのを確認すると、待ち合わせ場所のレストランへと走っていた。


 まさか、こんな日に限って残業をさせられるとは思ってもみなかった。

 会社の人は理解してくれたのだけれど、取引先の人に指名されたら行くしかない。

 別に今日じゃなくても構わなかった打ち合わせを済ませた時には、レストランの予約時間が迫っていた。

 俺は慌てて彼女に少し遅れるかもしれないと連絡し、出来れば間に合ってくれないかと走っている状況だった。


 彼女からは焦らなくてもいい、という返事が来ているけど、これからプロポーズしようとしているのに遅れたら心象が悪いだろう。

 だから運動不足の体に鞭を打ち、頑張っているのだ。

 こういう時に限って、タクシーが捕まらないのは運が悪い。


「はぁっ、はぁっ、間に合ってくれっ!」


 レストランに、何度も足を運んでいて良かった。

 これで迷っていたら、絶対に間に合わなかったはずだ。

 俺は腕時計を見てギリギリいけそうなのを確認すると、更にスピードを上げた。



 もうすぐでレストランが見えてくるはず。

 そんな所まで来た時、向かっている道の先に女の子が立っているのが見えた。

 両手で顔を覆っていて、泣いているみたいだった。

 俺はそれを確認して、走りながら色々と考えた。

 放っておくべきか、話だけでも聞くべきか。

 考えた時間は数秒にも満たなかったけど、結論はなかなか出せなかった。


 でも顔を覆ったまま、しゃがみ込んでしまったのを見てしまったら、立ち止まるしかない。


「はあっはぁっ! ……どうしたの? お母さんとはぐれちゃったのかな?」


 女の子の脇にしゃがみ込んで、優しく話しかける。

 しかし泣いているばかりで、まともな返事が無い。

 俺は早くしてくれよと、苛つきながらも更に話しかけた。


「お母さんの名前は分かる? 分からないのなら、一緒に交番に行こうか。用事があるから最後まで付き合えないけど、交番の前に行くまでなら案内できるよ」


 話す事が出来ないなら、一緒に交番に行けばいい。

 それが駄目だとしたら、悪いけどこのまま放っておくしかない。

 時計を、もう一度見た。

 もうそろそろ、どうにかしないと間に合わなくなる。

 俺は焦り始めて、女の子の肩を掴んでしまった。


「ねえ、どうしたの?」


 しかし、その手は掴む前に空を切る。

 そして女の子の姿も、どこかに消えてしまった。


「……は? えっ?」


 俺は体勢を崩して、その場に倒れこんだ。

 そんな姿をあざ笑っている声、それは女の子のもので。

 最後に言葉を言い残して、それから何も聞こえなくなった。





 俺は不思議な気持ちと、気味の悪さを感じながら食事をしていた。


 あれから女の子の姿を見つけられることなく、幻でも見たんじゃないかと思う事にした。

 そうでもないと、説明がつかなかった。

 だからすぐにその場から立ち去り、レストランへと向かった。

 運の良い事に、何とかギリギリ間に合って、彼女もあまり怒らないでくれた。

 俺は何度も謝り許してもらうと、さっそく彼女を中へとエスコートした。


 レストランは料理もおいしくて、雰囲気も良い。

 彼女も気に入ってくれたみたいで、不機嫌そうだった顔も笑みを浮かべるようになっていた。

 これは、プロポーズも期待できるんじゃないか。


 俺はいつ指輪を渡そうかと、タイミングを見計らっていた。

 そうなると料理の味も分からなくなってきて、彼女との話も上の空になってしまう。

 でも、いつもだったら目ざとく指摘するはずの彼女が、全く気付いていなかった。

 珍しいとは思ったけど気にする余裕も無くて、俺はずっと指輪ケースの入ったポケットを触っていた。



 ここだ。

 そう思ったのは、彼女の世間話も尽きてきて無言になり始めた時だった。

 俺はケースをポケットから取り出し、机の上に置こうとした。


「あのっ」


「あのさっ……あっ、いいよ。何かな?」


 声を出したタイミングで、彼女も話しかけてくる。

 俺は何て間が悪いんだと呆れたけど、先に話す様に促した。

 彼女は視線を左右にさ迷わせて考えこんでいるかと思ったら、ゆっくりと話を始める。


「えっとね。驚かないで聞いて欲しいんだけど……私、子供が出来たみたいなの」


「生理が遅れているから、もしかしたらって思ったからね。検査薬で調べてみたら、陽性だったの。病院に行かなきゃ何とも言えないけど、出来ているはずだと思うよ」


 照れたように笑う彼女。

 でも俺は、口を大きく開けたまま何も言う事が出来なかった。

 頭の中に浮かぶのは、先ほどの女の子の言葉。


『おとうさんは、わかやまたけし。おかあさんはいいだあずさ……ちがうや、まえしまほのかだよ。あははっ』


 和歌山武は俺の名前。

 飯田梓は、昔に振った妊娠した女の名前。

 そして前島ほのかは、今目の前にいる彼女の名前だ。


 こんな偶然の出来事が、起こるわけがない。

 それじゃあ、さっきの女の子は……。


 俺は、出しかけた指輪ケースを床に落とした。

 そして幸せそうに微笑む彼女のお腹を、いっさい見られなかった。





『捨てられた子供』

 ・若気の至りで出来てしまい、育てられないと堕胎させられた子供。

 ・彼等は生まれる前から泣き叫び、親を求める。

 ・その声は届かない。

 ・しかし、復讐をされた時に思い出すのだ。自らの過ちを。

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