第六章:独り者同士

「いや、夕べは大変だったよ。櫓台の上なんてあっついし、蚊はブンブン来るし、蛙の鳴き声はうっつぁしいしで居眠りなんてしたくても出来ねえよ」

 年の頃は三十近い、痩せこけた、目の下に隈を作った男はボリボリと腕や脚を忙しく掻きながら夏の朝の空に向けて大きなあくびをした。

「そんなにひでえのか」

 やはり三十路みそじの迫る年配の、こちらは幾らか小肥りの男も苦い顔で続ける。

「俺は今晩なんだけど、庄屋様は俺らみたいな独り者に見張り番を多く回すって言うしさあ」

 独り者、という言葉を耳にすると、痩せこけた方の男の目にも一瞬、陰りが差した。

 しかし、次の瞬間にはおどけた風な、どこか淫猥な笑いを浮かべる。

「お前、お稲とはどうしたんだ?」

 さりげない調子だが、隈を作った目は探りを入れる風に光った。

「いやいや」

 小肥りの男は苦笑いして手を横に振る。

「あいつは後家ごけを通す気なんだろ」

 後家、と精一杯蔑みを込めて口にする丸い顔にも好色な影が一瞬、通り過ぎた。

「昔っから器量自慢だしな、あれ」

 ゲラゲラ笑う痩せこけた男をよそに前を向き直った小肥りの男はふと驚きの声を上げる。

「おい、あれ」

 行く手では抜けるように白い肌をした背の高い若者とこの夏空の下で雪靴を穿いた娘が連れ立って歩いてくるところだった。

「お早うございます」

 素吉は歩み寄りながら雪のように白い顔に微笑みを浮かべると年長の二人に会釈した。

「お早うございます」

 隣のおゆきも小さな浅黒い面に精一杯笑顔を作って頭を下げる。

「ああ」

 三十路近い男二人は足を勧めつつ揃って困惑した声を出すと、小肥りの佐平さへいの方は思い出した風に続けた。

六出むついでから来た娘っ子ってのはおかな」

「おゆきと言います」

 名乗りながら、各々の洗濯物を入れた洗い桶を手に遠く通り過ぎていく村の女たちの冷ややかな眼差しを受けた娘の顔は凍り付く。

「こりゃ、えらい別嬪べっぴんだなあ」

 痩せこけた弥吉やきちが冷やかす風な、しかし、どこかに刺すような皮肉を込めた声で自分より頭半分背の高い若者に告げた。

嫁子よめこが来て良かったな」

 素吉は飽くまで穏やかな笑顔を崩さずに応じる。

「今は怪我してうちで養生してるだけで……」

 最後まで若者に言わせずに痩せこけた独り者は隈を作り血走った目を年少二人に向けて言い放つ。

もんあいにも縁はあるんやのう」

 あはは、と乾いた笑いを付け加えた。

「こいつのおっか余所者よそもんだったけど、あれは青女峰あおめみねから出て来たもんだったって皆、言ってるぞ」

 おゆきに向かって告げる弥吉の言葉に頭抜けて背の高い、肌の白い素吉の面が凍り付く。

 沈黙した四人の間に道脇に咲いた山百合の香りが生々しく流れ込んできた。

「親父も妙な死に方したよな」

 固まった若い二人をせせら笑う弥吉の腕を小肥りの佐平が慌てて引っ張った。

「こいつ、夕べ寝ずの番して疲れてるから、どうか堪忍してやってくれ」

 おゆきと素吉がどちらからともなく早足で歩き出し、佐平も弥吉の腕を引いてその場を後にする。

「おっかねえや」

 ジージーと鳴き始めた油蝉の声に混じって遠くから響いてきた嘲笑に若者と娘は足を進めながら目を伏せた。


 *****

「皆、賊が来るって脅えとるからよそから来たあんたに辛く当たるんよ」

 濡れた洗濯物の入った桶を抱えたお稲は苦いものを含んだ声でおゆきに語る。

「こんな小娘に目も合わさず口も利かんのはあんまりだと思うけど」

 それぞれの家に早足で戻っていく村の他の女たちの後ろ姿に自身もまだ若いお稲の面に怒りが走った。

「春先にうちの亭主が賊に殺された時も、『町に物売りに行かせたあんたが悪い』と」

 抑えた声だが怒りに震えている。

「不運に遭った者にはお前が馬鹿だからと踏みつけに来る人ばかり」

 おゆきはまるで自分が責められたように抱えた洗い桶に目を落とす。

 一番上に重ねられたのは男物の服だ。

「素吉のおっかさんだって優しい人だったのに」

 隣のお稲の声におゆきもハッとして目を上げた。

 向こうの田畑では、村の男たちに混じって図抜けて背の高い、透けるように肌の白い若者が立ち働いていた。

「子供の頃、雪道で迷った時にあのお母さんが助けてくれたわ」

 お稲は眩しくなる陽射しを見上げてまなじりを拭う。

「雪みたいに色の白い、綺麗な人だった」

 若者の姿に見入る小娘をよそに若後家になった女は青々と聳え立つ向こうの山を仰いだ。

「今でもあの人は山の女神様だったんじゃないかと思うわ」

「そうですか」

 おゆきは今度は自分の雪靴の足に目を落として答える。

「じゃ、あたしはここで」

 山百合の咲く道を連れ立って歩いていた女二人はそこで別れると、それぞれの家に戻っていった。


 *****

「今日は笠を何とか最後まで仕上げました」

 湯気立つ粥を器に注いで手渡しながら、おゆきは小さな浅黒い面に精一杯笑いを浮かべた。

「どうもありがとう」

 素吉は飽くまで穏やかに微笑んでいる。

 その面も、太く長いくびも、粗末な着物から抜き出た長い手足も、昼間強い陽射しに晒されて野良仕事をしていたのが嘘のように滑らかに白い。

 そもそも、あたしが一人でいたさっきまでは蒸し暑かったこの家の中が、今は急に秋風が吹いたように涼しいのだ。

 微かに肌が粟立つのを覚えながら、おゆきは立ち上がって笠を手に取った。

「ちょっと、合うかどうか試しに被ってみて」

 素吉は白い手で受け取ると背丈に比して小さな漆黒の頭に自ら笠を被せる。

「ちょうどいい」

 相手からはごく静かな声で肯定の返事が来たにも関わらず、娘の顔は凍り付いた。

 笠で影になった男の顔は、透き通った水色の両の目だけが炯々と輝いている。

「どうした」

 パッと笠を取ると、囲炉裏の火の照らし出す素吉の瞳は平生の焦げ茶色であった。

「ごめんなさい」

 おゆきはむしろ安堵した風に笑って笠を受け取る。

「ちょっと足の傷が痛くて」

 物問いたげな男に背を向けると、もう血の滲まぬ布を巻いた足で急いで囲炉裏の向こうに移った。


*****

 ゲコゲコゲコゲコ、グルル……。

 灯りを消した囲炉裏の間には昨夜と変わらぬ蛙の鳴き声が響いてくる。

「どうしてあたしを助けたんですか」

 娘は囲炉裏の向こうに横たわる男の背に訊ねるというより、むしろ自らに問い掛けるように微かな声で呟いた。

「あの時、禁を破って青女峰を登って逃げたのに」

 おゆきは洗い晒した粗末な服を纏った、しかし、青女峰で目にした男と同じく広い素吉の肩を見詰める。

「山の裏から黒い煙が上がっているから『お前が見に行け』って言われてさ」

 粗末で窮屈そうな衣を纏った背中がぽつりと答えた。

 ゲコゲコゲコゲコ、グルル……。

 大勢で嘲り笑うのに似た蛙の鳴き声に掻き消されそうな程秘ひそかな声が続く。

「山道を暫く行ったらまだ新しい鎌や鍬が落ちていた」

 おゆきがふと目を移した土間の片隅には、二本の取っ手を僅かに覗かせた行李が忘れ去られたように置かれていた。

「きっとまだこの近くに人がいるだろうと少し登った所に倒れていたんだよ」

 つと男の声がどこか父親じみた、温かな潤みを帯びた。

「立ち入るのが禁じられているのはもっと上の方だから、そんなこともう気にすんな」

「そうですか」

 娘はそう答えるより他はない。

「本当に、ありがとうございます」

 振り向かないままの相手の背におゆきは真っ直ぐ見詰めて告げた。

 ゲコゲコゲコ、グルル……。

 再び蛙の鳴き声が二人の間を流れていく。

「明日、俺が見張りの番だから」

 再び秘かな調子に戻った素吉の声は続けた。

「君は夜にはお稲姐さんの所へ」

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女神の山 吾妻栄子 @gaoqiao412

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