第五章:夏の陽は焼けて

「ありがとう」

 強まる陽射しに素吉は眩しげに目を細めた。

 洗ったばかりの手拭いを干しながら振り向いたおゆきは一瞬、身を凍らせる。

「俺の分まで洗わせて」

 陽に透かされて一瞬水色に見えた男の瞳は、元通りの、自分と同じ焦げ茶色だ。

 おゆきは小さく息を吐いて微笑んだ。

「いいんです、二人分だけだし」

 大きな男物の着物を新たに広げて竿に干しながらおゆきの笑顔が寂しくなる。

「うちでは弟たちがすぐ汚すからこの倍は洗濯物がありましたから」

「おい」

 不意に飛んできた野太い声に若い二人は思わず振り向いた。

「六出から逃げてきた娘ってのはお前か」

 四十がらみの、村男にしては幾分良い着物と草履を履いた、腹の突き出た赤黒い顔の男が近付いてくる。

「これは、庄屋様しょうやさま

 素吉は頭を下げつつ、おゆきを守るように少しずつ前に出た。

 並外れた長身のせいか、そんな所作をすると酷く窮屈に見える。

「おゆきと言います」

 おゆきは洗濯物から手を放すと、素吉の隣に並んで中年男に頭を下げた。

「おゆき、か」

 庄屋は赤黒く肥った顔の、裂き傷めいた細い目で余所者の若い娘を眺める。

 おゆきは背筋に微かな寒気を覚えた。

 この庄屋様はむろんあの髭面の山賊とは別人だが、こちらの顔から体まで舐め回すような目付きには似通った何かが感じられる。

 と、その眼差しがおゆきの足元で止まった。

「なして雪靴穿いとる」

 疑問より侮蔑の色濃く滲む語調だ。

「両足に怪我しとるので」

 先んじて毅然とした声で応えたのは素吉だった。

「そうか」

 頷いて返す声は先程より嘲りを含んでいる。

「おのおっかさんと同じ『おゆき』なんて名前の割には真っ黒な娘だなあ」

 四方に聞かせる風に嗤いながら肥って二重になった顎で新参者の小娘を指し示した。

 若い二人は表情を消した面持ちで立ち尽くす。

「まあ、それはそれとして」

 ふと笑いを止めて中年男は細い目の奥を冷たく光らせながら続ける。

「うちの村も賊に備えることにした」

「はい」

 素吉は従順に頷いた。

「今晩から村の男は交代で見張り櫓に寝泊まりする」

「はい」

 そういえば、先刻会った村の女たちもそんな話をしていた。

 男二人が話す傍らでおゆきは思い出す。

「今晩は川向うの弥吉やきち、明晩は佐平さへい、そして明後日あさってはお前だ」

「はい」

「お前みたいな一人者には他より多めに見張りしてもらうつもりだったんだがな」

 庄屋は切り傷じみた鋭い目で若い百姓に言い放つ。

「やれるだけやります」

 素吉は押し殺した声で頷いた。

「じゃ、今日も精出してやれや」

 中年男は自分より頭一つ分背の高い素吉とその隣のおゆきに声だけは鷹揚に告げると、着物の背を見せて立ち去る。

 後ろ姿になると、脂肪太りした体つきがいっそう目立った。


*****

「じゃ、俺は向こうの畑に行ってくるから」

「面倒かけて、ごめんなさい」

 鋤を手にして告げる素吉に土間で新たに藁を編み出したおゆきは俯いて答えた。

「気にすんな」

 若者は広い肩でカラカラと笑うと苦い声で付け加えた。

「あの人はいつも目下にはくさすことしか言わねえんだ」


*****

晩飯ばんめしなら俺が作ったのに」

 おゆきのよそった粥の椀を受け取りながら、素吉はどこか戸惑った風に告げた。

「まだ外で働けない分、おうちのことは出来るだけやります」

 おゆきは静かだが確かな声で応えると、自分の椀には相手の半分ほどの粥を注ぐ。

「笠はまだ途中ですけど、草履は一足編めましたから、良ければ使って下さい」

 土間にはまだ形としては三割ほどの笠と一足の入念に編み込まれた藁草履が置かれていた。

「ありがとう」

 湯気立つ椀を啜りながら男は続ける。

「俺が作るよりうまいよ」


 *****

「それじゃ、明日も早いから」

 若者は朗らかに笑って告げると、囲炉裏ごしに並び敷いたむしろの片方に横になった。

「お休みなさい」

 両足にまた新しく布を巻き直したばかりの娘も控え目な声で答えてもう片方の莚に体を横たえる。

 ゲコゲコゲコゲコ……グルル。

 狭い家の居間に外から蛙の騒がしい鳴き声が響いてくる。

 ゲコゲコゲコゲコ……グルル。

 人が集まって一斉に嘲り笑う声に似た騒音が二人の間を絶え間なく往き来する。

「あなたのおっかさんもおゆきというんですね」

 女は喧騒に紛らすほど幽かな声で呟いた。

「ああ」

 男の後ろ姿の広い肩が答える。

 その確固とした声の響きに語り掛けたおゆきの方が覚えず目を円くした。

「俺がちっちゃい時に行方知れずになったけど」

 素吉の背中は飽くまで淡々と続ける。

「吹雪の晩にたった一人で村から姿を消したから、きっともう生きてないよ」

 蛙の鳴き声が喧しく聞こえてくる夜の闇の中、おゆきは囲炉裏の向こうに横たわる振り向かない男の背を見つめ続けた。

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