第四章:麓の村
「もっと休んでればいいのに」
服の破れ目を縫い合わせて糸を切ろうとする娘に若者は言いかける。
「何もせずにいるわけにいきませんから」
針山に針を刺しながらおゆきは楽しい夢から覚めたように寂しく微笑んだ。
「もう足の怪我も大したことないので今日はあたしがお洗濯します」
立ち上がった瞬間、走った痛みをぐっと堪える。
若者は案じる風にその様を見守っていたが、ふと思い当たった体でおゆきに先回りして土間に駆け寄る。
「これ、良かったら履いて」
踝までの丈はある、古びた藁編みの雪靴を出す。
「これなら怪我した足も覆えるから」
改めて土間に並べられると、雪靴は若者本人の草履よりもう少し小さな足を入れるべき大きさだ。
「ありがとうございます」
礼を言いつつ、おゆきは並んだ二足を見詰めた。
「俺のお
「わざわざすみません」
「腐らすより使う人がいてくれる方がいい」
時を経た靴は、気味悪いほどぴったり娘の傷付いた足にはまった。
「川の洗い場は俺が教えるから」
洗濯物の入った洗い桶を先回りするように持つと、若者は粗末な家の戸を開ける。
朝日というにはやや高く眩しい光と共にむっとするような熱気が流れ込む。
おゆきは思わず額に吹き出た汗を拭った。
「普段はちょっと行った所の川岸で皆、洗ってるんだ」
白面に晴れやかな笑いを浮かべて話す素吉の後について外に出ると、蒸すような暑さに包まれる。
生い茂った夏草の青臭い匂いが辺り一帯に立ち込めている。
「暑いですね」
今まで二人でいた家内の涼しさが嘘のようだ。
青々とした空の下、まるで道しるべのように山百合が点々と鮮やかに白い花を咲かせている。
「ここは盆地だから蒸すって皆、言うんだよな」
相手はまるで他人事のような口調だ。
おゆきは前を行く素吉の襟元から抜き出た太く長い首に見入る。
透けるように白い肌には汗一つ見えない。
首ばかりでなく、質素な着物の袖から出た手にも、粗末な草履を履いた足にもだ。
あたしは真っ黒に日焼けた顔してもう雪靴の中まで汗まみれなのに。
これは本当に自分と同じ血の通った人なのか。
答えの代わりに道脇に花開いた山百合の香りが生々しく通り過ぎていく。
「待て!」
前方から飛んできた甲高い声におゆきは我に帰る。
「待って!」
八つか九つの男の子が背中で揺られて泣き出した赤子にも構わず一心に駆けてくる。
「太吉……」
おゆきは思わず足を止める。
近付いてくる相手は涙目の顔を真っ赤にして叫ぶ。
「でんでん太鼓!」
前を歩く素吉もふと振り向いた。
近くの川を鮮やかに赤く彩色を施した小さなでんでん太鼓が音もなく流れていく。
おゆきは弾かれたように雪靴の足で河原に降りるとバシャバシャと濡れるのも構わず川瀬に入った。
小さな日焼けた手に流れてきた玩具を受け止める。
「これね?」
すっかり水を吸って重くなった雪靴の足で河原に上がる。
「ありがとう」
手の甲で涙を拭った男の子の顔は改めて見直すと弟とは違う。
「お
濡れた玩具を服の袖で忙しく吹きながら背中の赤ん坊を示した。
赤ん坊はまだ指をくわえてぐずりつつも目を閉じて兄の肩に小さな頬を擦り付けている。
「
遅れて河原に降りてきた素吉が少年の頭を撫でた。
「ありがとう」
若者はどこか寂しい笑顔で膝から下をずぶ濡れにした娘に告げる。
「俺が先に気付けば良かったのに」
「お姉ちゃん、どこの人?」
涙が引くのと入れ替わりに吹き出した汗を拭いながら少年はふと気付いた風に怪訝な顔つきになる。
「何で雪靴履いてるの?」
おゆきの雪靴からはまだじんわりと水が滲み出て川原の石を黒く濡らしていく。
「よその村からうちに来たお客さんだよ」
素吉は優しく答えて付け加えた。
「足を怪我してたからうちの雪靴を履いてもらったんだ」
今度はおゆきが日焼けた顔に寂しい笑いを浮かべる番だ。
「素吉兄ちゃんの所のお客さんなんだ」
素吉兄ちゃん、と口にした少年はそれで一気に安心した体で人懐こい笑顔になった。
背中の赤ん坊もようやく心地良くなったらしく安らかな寝顔になる。
「じゃ、俺は向こうで草取りがあるからまたね」
素吉とおゆきに向かってでんでん太鼓を振ってカラカラ鳴らすと、赤子の妹を背負った太平は弾んだ足取りで遠ざかっていく。
「あの子らのお父、春先に亡くなったばかりなんだ」
でんでん太鼓の鳴る音が遠ざかり、川のせせらぎが浮かび上がって聞こえ出すのをしおに歩き出した若者は呟いた。
「そうですか」
おゆきは俯いて頷くしかない。
*****
「暫くは男衆が交代で
「いつ来るか分からんしねえ」
川の洗い場で語り合っていた女たちはふと手を止めて新たに現れた二人に目を向ける。
「お早うございます」
固い面持ちの女たちに素吉は穏やかに声を掛けた。
「初めまして」
おゆきは強いて笑顔を作る。
「六出村から来ましたおゆきと申します」
「六出……」
女たちはますます強張った顔つきで二人に尖った目を向けた。
「あんた、一人で里から逃げてきたの」
集まった中では幾分若い、しかし素吉やおゆきよりは明らかに年嵩の女が尋ねた。
「はい」
おゆきは俯いた。
じっとり濡れた雪靴からはまだ僅かに水が滲み出ている。
「うちの亭主もこの春、山道で賊に殺されたんよ」
幽かに潤んだ目で頷く女の顔には、先程でんでん太鼓を追い掛けてきた太平と似通った面影があった。
「じゃ、そろそろ行くかね」
険しい眼差しを向けていた内の誰かが声を出すと、それぞれの洗濯物を洗い桶に収めた女たちは移り出す。
素吉とおゆきはただ立ち尽くすしかない。
夫を亡くしたと語った女だけが二人の前に立ち止まった。
「今夜から男衆は交代で賊の見張りするから」
若い二人を案じる風に見やると、声を潜めて告げる。
「何かあったらうちに
日焼けて荒れた手でそっとおゆきの肩を叩く。
「家に女一人は不安だから」
「ありがとうございます」
二人の女は潤んだ眼差しで互いを見交わした。
「ありがとう、お
素吉は低い抑えた声で応える。
「それじゃ」
振り向いて囁き合っている近隣の女たちに目を走らせると、お稲は早足でその場を後にする。
川のせせらぐ音が響き、生い茂る雑草の青臭い匂いと湿った土の匂いが漂ってくる。
「普段はここで洗濯してる」
屈み込んで洗い出した素吉の背中が呟いた。
「俺一人のだけだから、すぐ終わるよ」
おゆきは静かに隣にしゃがむ。
「明日からはあたしがやります」
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