その3 リストラ男とブランコと蛇


 絵川幸男えがわさちおは自宅から二駅離れた駅前にある、児童公園のブランコを漕いでいる。


 理由は無い。


 仕事がないから、なくなったから、なくされてしまったから、そうしているだけ。

 

 自身が20年以上も身を粉にして尽くしてきた会社は、粉飾決算の責任を、いち経理課長に過ぎない絵川に全て押し付けた。有り得ないことだが、それがまかり通った。国を代表する一流企業のスキャンダル。会社自体を潰すわけにはいかない。強い力が働いた結果、絵川が一切合切をひっかぶることになった。それも懲戒解雇で、だ。

 この件は当然全国ニュースにもなった。自宅をマスコミに取り囲まれたりもした。マスコミは次の新鮮なネタに食いついているようだが、ご近所では今もなおこの話題で持ち切りらしい。


 大学生の一人息子は殊勝にも学費は自分で稼ぐ、とアルバイトをはじめた。

 結婚以来専業主婦をやっていた妻さえ、伝手つてがあるのだ、とパートをはじめようと面接を受けようとしている。


 絵川だけが、ただ、二駅先の公園でブランコを漕いでいる。 

 かれこれもう2週間にもなる。

 朝、出勤時間に家を出て公園にやってきて、昼時には、今も妻が持たせてくれる弁当を食べ、定時までブランコを独占している。


 実際に、何度か通報もされた。

 通報を受け、職質をかけてきた警察官らに洗いざらい自分の現状をぶちまけてやると気まずそうに一言二言注意じみた言葉をかけて立ち去っていった。


 そして、もはや誰も絵川に干渉してくる者はいない。


 はずだった。


「絵川、幸男さま、ですね?」


 見知らぬ男だった。

 蛇を思わせる目鼻立ち、人の体温が感じられない立ち姿。

 スーツ姿のきちんとした身なりだったが、異様な男だった。

 少なくとも真っ当な職業の人間ではない。


「マスコミの方ですか? 例の件で話せることはもう何もありませんよ」

 紋切り型の拒絶を示してやった。

 というか、絵川は詳しいことは何も知らないのだ。本当に。なにひとつ。重要なことは知らされていなかった。誰も信じはしなかったが。 


「フフ、そう邪険にせずとも」


 男はチロリ、と蛇のような舌を見せ、嗤った。


「わたくしは蛇神へびがみと申します」

 慇懃に差し出される名刺をサラリーマンの習性でつい受け取ってしまう。

 会社名どころか電話番号もメールアドレスも書かれていない名刺だった。

「わたくし、絵川さまに依頼があって参りました。勿論、報酬はお支払いいたしますよ。ええ存分に」


 現在、無職且つ無収入の絵川は、報酬と言う甘言に心惹かれる自分の弱さに自覚的になり、身構えた。ブランコを握る手に力が入り、鎖が手に食い込んだ。


 妻も息子も家計を助けようとしているのに、自分は。

 などと考えて、厄介事に巻き込まれでもすれば余計に迷惑をかけてしまう。

 ここは慎重に。慎重に。

 今以上の不幸はないだろうと思いつつ、油断はできない。


 昏い眼で蛇神と名乗る男をぎらりと見開いた両目でねめつける。

「話くらいは、伺いましょう。蛇神さん」

「結構。お話の後で、ご判断ください」

 蛇神は逆に、すぅ、と目を細めた。餌にかかった蛙を見る目であった。


「わたくしの所属している組織はですね、御社――ではないですね、絵川様はすでに在籍しておりませんので、兎も角、かの企業にダメージを与えたいと画策している次第なのです」


「蛇神さん。君の、所属組織は名乗れないのかね」

 嫌味たっぷりの絵川の問いを蛇神は飄々と、まさしく蛇のように避ける。

「お教えすると、絵川さまにも危害の恐れがございますので。ご家族ともども、ね」


 絵川は短く舌打ち。だが、ここで会話を打ち切れない。この男が、家族に危害を及ぼす可能性はあるのだ、今、こうして話しただけであっても。

 これ以上の不幸はありうる。ここが最底辺だと思っていたら上げ底だった、など。


「蛇神さんは、君の組織は私に何を求めるつもりだ? 見ての通りのリストラ男だぞ。金も力も何も持っていない。長年の不健康が祟って体にもガタが来ている」


「そう卑下するものではありませんよ、絵川さま。その体か知識を、わたくしどもに供与いただきたいのです。そのいずれかで1億円お渡しします」


 体か? 知識? 1億だと?


「かの企業に、絵川さま御自身が物理的な損害を与えることをご希望なさるようでしたら、その体を、わたくしどもの組織に一任していただき、企業価値の毀損をお望みのようならば、その知識を。わたくしどもはどちらでも、ええ、どちらでも一向に構いません」


「前者の意味がわからない! 物理的な存在とはどういう意味だ?」


 そのままの意味です、と蛇神の笑みが深くなった。

 耳まで裂けているかのような、笑顔。


「あなたが、かの企業を、に、なる。それだけのことです」


 蛇神は創造主でもあるかのように、いとも簡単に言ってのけた。だが、常人離れした彼の雰囲気は、妙な説得力をその言葉に纏わせてもいた。


「体か、知識か。ああ、知識の方は絵川さまの覚えている範囲の会計情報と役員がたの大まかなスケジュール程度で十分ですよ。それで1億です」


 常識的に選択の余地の無い二者択一。普通に考えて前者は論外。だが後者を選べば? 最小限のリスクで1億が得られる。情報提供者としての名前を残すリスクをどう勘案するか。それだけの話だ。その筈だ。


 だが、絵川は気付いた。気付いてしまった。


 否。

 それ以上がある、と。


「最後の質問をさせてほしい、蛇神」


 絵川は蛇神を呼び捨てにした。とある、大きな覚悟とともに。

 蛇神の笑みが一層深く、大きくなった。


「体と知識、両方を提供する場合は、私は幾ら貰える?」

「!」

 蛇神の糸目が見開かれた。

 蛇に喰われるだけの蛙だと思っていたが、誤算だった。


 これは、とんだ毒蛙だ。


 蛇神は金額を応えず、ただ賛辞の拍手を贈った。

 パチパチパチ、と空気の乾いた公園に拍手の音が響き、風にまかれ、消えた。


「素晴らしい」

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