第5話 下町育ち
拝啓 向俊様
私は後宮に入って半月以上過ぎましたがいかがおすごしでしょうか?
あなたはいったいどこに派遣されたのでしょうか? それすらわからないのがもどかしく思います。
私は後宮で元気にやっております。ただ、私はとうとう後宮の洗礼を受けてしまったようです。
と脳内でついついやってしまうがそんなことをしている場合ではない。
小蘭は叱責されるだろうと震えていた。
妃の洗いものは女官や下女の仕事である。だが、たいてい質のいい物は女官自ら下女に頼むことなく自ら洗う。品物が駄目になり怒られる羽目になるのは、女官だからだ。
上等な絹の衣が……なんてこと……。これ一枚で私の饅頭何個分の売上なんだろうと脳内でついつい饅頭でいったいいくつ分など考えてしまうのは琳明の悪い癖だ。
高いものが駄目になってしまったという事実に手が震えた。
震えた手で、小蘭から衣を受け取り状況を確認する。
差し出された絹はぱっと見で泥がべっとりと一度広範囲についたことがわかる。
土下座をして頭を床にこすりつける小蘭の手は真っ赤で、何度も絹が傷まぬように時間をかけてこの水の冷たくなった時期に丁寧に何度も洗ったのだろうすっかり赤くなってしまっていた。
それにしても、かなりシミの範囲が広い。
シミがついて台無しなことは一目瞭然だが、広げて商品の状態を思わず確認してしまう。
こんな風に派手な汚れなど自分でつければすぐにわかるし、そもそもここ最近は見事な秋晴れの日が続いていたから、こんな風に広範囲の泥汚れなどはわざと泥水でも作り衣を浸しでもしない限りつかない。
琳明はたった一つの答えにたどり着いた。
ついにやってきた『下級妃賓いじめ!』琳明はついに覚悟していたことが起こってしまったと震えた。後宮は特殊だ、あの美しい王からの寵愛を受けようという思いやお越しになられない苛立ちが渦巻いている。
よりによって、その被害が私が賜った中で一番高価だと思われる淡い薄紅色の衣だとは敵もなかなか目が利くものだ。
淡い色が美しかったものだが、こんな風に泥のあとが残ってしまっては妃として後宮にいる今着ることは出来ない。
「小蘭、顔をあげなさい」
「はい」
ゆっくりと、蒼白な顔で小蘭は顔をあげた。
「寒かったでしょう、そのままでは手がひび割れます。これから冬が来るから今からそれでは大変よ」
もったいないが、私へのいじめの後処理をしてくれたわけだから、しかたあるまいと琳明は私物の軟膏を取り出すと小蘭の手と足に塗るように言う。
『できるだけ薄く伸ばして使いなさい』と言いそうになったがそこはグッと呑み込む。妃の位に仮とはいえおさまっているにも関わらず、ちょいちょいケチが顔を出してしまう。此処までくると悲しい性である。
それにしても、私の絹の衣が……一体これ1着でいくらすると思っているのか。
上の身分の妃ならともかく、たぶん最底辺の妃である琳明が新しく衣をおねだりなどしてもこの質の物など買ってもらえない。
後宮には物売りが月に何度か来る、でもそれらは上の妃が先に買い物した後下の位の妃のところにくるものだから、いいものはなかなか回ってこない。
それに、好きな物を好きなだけ妃だからと買えるものではない。おそらく妃ごとに使ってもいい予算というのが公にされてないが決まっているのだろう。だから、これと同じくらいの上等の物を琳明が再び手に入れるのはかなり難しい。
第一、後宮から出た後こんな上等な絹の衣など琳明は着る場所がないので、もっぱらお買いものといえば、市井に帰った後も使えるような茶器や陶器にしぼって買っていこうと思っていたのに。
駄目だどう考えても同じものなど手に入りそうもない、とりあえず、駄目になった衣は染め直しを検討しよう。しっかりと濃い色に染めるのは金がとてもかかるし無理、となると、色は今より中途半端に色身が濃い程度の色合いとなってしまうから、淡いものに比べると価値が落ちるが何かの席で着ていくものがないというのは避けないといけない。
もともと私の後宮への滞在が身分不相応なのはわかっているけれど、上等な絹の衣の価値が半減したことで仕方がないこととはいえがっくりと肩が落ちてしまう。
でも、そこで黙っている琳明ではなかった。
嫌がらせしている相手を知らないといけない。じゃないと媚も売れないし、対策がとれずやられっぱなしになるからだ。
これ以上私の高価な物がむざむざと価値を下げられたのではたまったものではない、本来であればしたたかにやり返したいところだが、いかんせん琳明は身分が低い。
ここは、うまいことおだてて私を狙い嫌がらせするのを止めるまで行かなくとも回避しないといけない。
「小蘭、香鈴すみませんが、しばらくの間二人は席をはずしてくださる」
そういって琳明の宮から追い出すと、二人の女官服の予備をちょいっと拝借すると窓からシレッと外へ出た。
ここしばらく、後宮を回ってみてわかる、女官だけでもかなりの数がここにはいる一人くらい知らぬ顔がまぎれたところでわかるまいと。
このまま黙っていられますか……。
誰の仕業であるかは実にあっけなくわかったのだ。
下女が話しこんでいたのだ、『饅頭姫のどなり声は聞こえたのか?』と。
おそらくもクソもなく、饅頭姫というひどいあだ名の姫は私のことだろう。
人生でこんなひどいあだ名がつく日がこようとは、しかも妃になってからだ。身分の低い妃など裏ではこんなものなのだろう。
ちゃんと薬屋の娘と訂正してれば、薬姫とかだったかもしれないのにとか関係のないことを思っているわけではない。
どなり声は聞こえなかったなど、イライラする話は続く。身分の高い妃の女官かと思えば、誰の付き人にもなってない下女の仕業とかやってくれるじゃないの……。
琳明はぺろりと舌で自分の唇をなめた。
こちらは、他の妃と違って下町育ちの、商人あがりだ。敵が自分よりも格上ならばごまをするか損を出さぬように逃げるが。自分と同等、それ以下となれば邪魔な奴は蹴落とすものである。
現に、琳明は弟に店を譲るつもりはなく、兄弟間でさえ蹴落としあいがあったのだから。
どうしてくれようかと腸が煮えかえったのがわかる。聞きたい情報は十分に集まったので琳明は自分の宮へと踵を返した。
下女ごとときでは、あの駄目にした衣の代金など払えるはずもない。となると、スッキリするには相応の仕返しをしなければいけない。
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