店の戸が少し開いている。

七八才の薄汚れた着物姿の女の子が、その戸を閉じさせまいと、戸の端をしっかりと抱きかかえるようにしていた。

その傍で、もう一人の丁稚が困ったような顔で立っていた。

「旦那様。この子、動かないです」と言い、女の子の身体を捕まえて引っ張ったが、女の子はしっかりと戸を握り離そうとしない。戸が、がたがたと動いた。余り引っ張ると、引戸が外れるであろう。

大石は、さっさと店に降りると女の子の側に行き、少しの間だけ黙って女の子の顔を見つめた。女の子は必死の顔で大石を見上げている。

「どうしました？」大石が大人に問い掛けるように聞いた。この問いかけに、女の子はしくしくと泣き始めた。泣きながら女の子は、母親が病気だと言った。

「そうですか・・・お母さんは、どんな病気なのですかねえ」大石が聞いた。

「赤ちゃん」

「赤ちゃん？子供が産まれるのですか？」女の子がコクリとうなずいた。

大石は、鉢巻（はちまき）にしていた頭のタオルを取ると、女の子の頬の涙をチョンチョンと拭き、薬をあげましょうと言った。

大石が女の子に飴を握らせた。彼は、留美を振り返って「どうですか？」と、問い掛けた。

「・・・」留美は、腕を組んで女の子を見ていた。

「貴方のお父上は、産科が得意でした。教わっていますか？」大石が留美に問うた。

留美は言葉には出さなかったが、頭を振って答えた。

「そうでしょう」大石は、自分で納得したように声をだして肯くと「お供しますよ」と、留美に言った。

大石は番頭に命じて、一揃いの薬と診察用具や治療用具らしき物を取り出してきた。留美がお産に使うと言って、酒の入った徳利を頼んだ。弥一郎は、彼達の伴をすることになった。時刻は昼を二つ程をすぎていようか。未だ夕刻には程遠い。

留美が女の子の手を引いて、道案内をさせている。

大石は、大店（たな）の薬屋の主人らしくない。風呂敷に包んだ物と徳利をぶらぶら振って、物見遊山という感じである。一棟（ひとむね）向こうは、鍛治町である。鉄を鍛える音が響いて来る。女の子は、留美の手を引っ張って建物の角を曲がった。小さな石の階段が斜めについていて、塀と塀の隙間の向こうには職人達の住む長屋が見える。女の子は、この辺りに遊び慣れているのか、留美の手を離れて、ピョンピョンと階段を降りて皆を振り返った。

「近くなのか？」留美が聞くと、女の子は首を振った。階段を降りて行くと、近くに小さな祠（ほこら）があった。周囲は広々としているが－方の方に続くのは路地で、女の子は路地の方に皆を案内した。あちこちに、洗濯物が干してある。痩せ犬が皆に吠えた。

女の子が道の石ころを掴んで犬に向かって投げると、痩せ犬はサッとあばら屋の影に駆け入った。

悪餓鬼達が、棒を持って打ち合っていたり、桶の箍（たが）の輸回しをしたりして遊んでいる。彼達は、弥一郎達を見つけると皆遊びをやめ、黙ってよそ者を見た。特に弥一郎は刀を差している。

一人の子供が近くの家に駆け入ると、子供達は一斉に家の影にワッと身を潜ませた。背に子供を背負った女が、子供をあやしながら七輪の火をおこしている。老人が、庭に束ねて置いてある薪の上に腰をおろし、たばこを吸っている。彼の足元には、鶏が砂を突ついていた。

小さな通りは挨っぽいが、塵は落ちていない。ここでも江戸のお達しが生きているのである。長屋の並ぶ裏のほうの空地は、小さな菜園になっていた。田舎者の弥一郎には、大根の葉が青々としているのが分かった。野菜を見ると郷愁を覚えるのも、田舎の暮らしが性に合っていたからであろう。長屋の住人達は、猫の額程の空地でも、上手く利用して野菜を栽培していた。中には、古くなって使い物にならなくなった底の浅い桶を利用して、野菜を栽培している者もいる。野菜だけではなく独活（うど）も植えていた。

煙草を吸っている老人は、職人のようだ。煙草を吸い終わると、道具箱を肩に担いで歩き始めた。彼が弥一郎達に軽く頭を下げてすれ違い、長屋の角を曲がろうとした時、誰かとぶつかった。相手が、声を上げた。一見してヤクザ者の侍である。二人だ。彼達は道に頭をつけ平謝りに謝っている老人を、罵声を上げながら蹴っている。

「やめろ！」弥一郎が声を上げた。侍達が弥一郎を見た。彼達は、垢抜けしていない弥一郎を、田舎の腰抜け侍と思ったに違いない。肩を怒（いか）らしながら弥一郎達の方に歩いて来た。

「フン、一人前に二本差しか。ここは、俺遠の縄張りだ」一人が怒鳴（どな）るように言った。

「二本差し？オラのことか？」

「ほざけ！田舎侍」

「オラが田舎侍なら、おめェ達は、江戸ヤクザだろうな」

「な、なにィ！」一人が腰の刀に手をかけた。

「まあまあ、私どもは急いでおりますので、何とぞご勘弁の程を」大石が頭を下げると、相手はますます開き直った様子だ。喧嘩（けんか）になれているせいか、腰の刀の位置は確かである。

「表（おもて）の通りは、まともな方が多いですが、裏に入るとヤクザが多いですなあ」大石が言うと、彼達は癪（しゃく）にさわったようで刀を抜いた。

「これは、これは・・・」

大石の言葉に、ヤクザ者は考えることなく刀で切りかかろうとした。大石の身がスッと相手の懐に入った。男の刀を持った手がねじり上げられて、刀が路上に落ちた。もう一人も、刀を抜いて大石に飛び掛かろうとしたが、弥一郎の刀が閃（ひらめ）いた。刀の切っ先は、ヤクザ者の目の寸前を稲妻のように走った。男は硬直した。股引から小水が洩れている。恐らく、極度の恐怖心が男を捕らえたに違いない。眼前を、刀の切っ先が走ったのである。

「は、放しやがれ・・・」と、大石にねじ伏せられたヤクザ者が声を上げた。大石が手を放すと、男は硬直して立っている男に「ケッ！」と声をあげ、走って逃げ始めた。この声に硬直が解け、我に返った男も、後を追った。

「大丈夫か？」留美が老人に声をかけた。

「へい。ありがとうごぜェやした」

「あの、ヤクザ者は？」弥一郎が聞いた。

「へい。旗本のお侍で」

「侍？」

「さようで」

「ヤクザではないのか？」

「旗本奴（やっこ）でェごぜェやす」

「旗本のどら息子達でね。禄高の少ない幕臣の次男坊や二男、三男の連中が身を崩して、徒党を組んで江戸市中を闊歩しているのですよ」大石が言った。

彼達は白柄組、六法組、大小神祇組などと呼ばれるような組織を作り、現代のヤクザな組織のように市内を横行して町人達に迷惑をかけていた。

「こっちだよ」大人達のやり取りを、留美の背後に隠れて見ていた女の子が、留美の手を引いた。彼達は、最初の目的に向かって歩き始めた。あちこちの家から人の顔が覗いている。老人も再び箱を肩にして歩き始めた。

「大石殿は、柔術を習得されているのか？」留美が、再びのんびりと歩いている大石に聞くと、彼はハハと笑った。大石は起倒流という柔術の免許皆伝である。

長屋の寄り集まっている街には、いかがわしい場所もある。博打場や売春まがいの商売をしていた。そんな所に旗本のどら息子達が出入りしているのである。

日当たりの良い場所で筵（むしろ）という藁（わら）の敷物に梅が干されていた。近付くと、干された梅の甘酸っぱい香りが漂って来た。田舎から出てきている弥一郎や留美にとっては懐かしい光景である。長屋と長屋の間には小さな家があり、周囲りには広々とした畑があった。梅ノ木があるので、あそこの木から収穫した梅の実であろう。

女の子は、留美の手を引いて小さな家に入った。暗い家の中に老女の姿があった。大根の煮物の匂いがしている。小さな炉端があり、炭火の上に大きな鉄鍋が自在鉤に架けられている。

「婆！」女の子が老婆に声をかけた。

「ミ ―坊。薬？」と言い、弥一郎達に気付いたようである。老婆は這うようにして土問の方に出て来ると、頭を板の間に深々とつけて「お武家様。子供が、へへッ。申し訳ございませぬゥ、何とぞご勘弁をオ・・・」と、何か勘違いしているようである。

「あ、これ。お婆さん。私達は医者ですよ」大石が言った。老婆は恐る恐る頭を上げて弥一郎達を見た。

「お、お医者様で？」

「そうですよ」

「あれ、まッ」老婆がキョトンとして声を上げた。

「病人は？」

「へヘッ！ありがたいことで」と、老婆はもう一度頭を床につけて言い、そのままの姿勢で後ろを振り向くと、破れ障子の方に「お春さァん！お医者様がきてもろたア」と声をかけた。

女の子が板の間に上がり、とことこと歩いて行くと障子戸を開いた。破れ布団に女が寝ていて、うんうん唸（うな）っている。

「留美さん。診てやってくれますか。これは診察用具です」大石が留美に手にしていた箱を渡しながら言った。留美は黙って箱を受け取ると板の間に上がって、奥に向かった。

「さて・・・」大石が板の間の床に腰をかけて腕組みをした。何か考えているようである。老婆が木の皿に湯気の出ている大根を載せると味噌を添えて、大石と弥一郎に差し出した。

「何もごぜェませんが・・・」老婆が言った。

「ああ、気にしなくていいですよ。たまたま腕の良い医者がいたから、もう大丈夫でしょう。しかし、産婆さんは来なかったのですか？」と、大石は言いながら茹でた輪切の大根を口にした。弥一郎もそれに習った。

「こちらは、お侍様でごぜェますか」老婆が弥一郎を見て言った。弥一郎は大根を口にしていたが熱かったので、口の中の大根をもぐもぐと動かしていたところである。言葉を出せないので、老婆を見て自分を指差し相手がうなずいた後、自分もうなずいて見せた。

「これは美味い大根だ」大石が声を上げた。

老婆は顔を崩し、後ろの畑で採れたばかりだと言い「産婆さんは、来ることが出来ないのでごぜェますよ」と、先ほどの大石の問いに答えた。

「ほう？又どうしてですかね？」

「それが、旦那さん。悪いお侍が来させないようにしているのでごぜェますよ」

「ほう・・・］

「この土地、これを、売れとお侍が来たそうで、はア・・・」老婆は気の抜けたように言葉を切り、自分の膝の上に置いていた木皿の茄で大根を箸に刺して取り上げ、なおもフウフウと息を吹きかけて冷ますと、女の子に手渡した。女の子は大根にかぶりついた。

「この子、お春さんの娘ですウ。名は美代でございますウ」

「ああ、それでミー坊と呼んでいたのですか。それで、どうして土地を？」大石が、女の子の名前に納得したように首を振りながら聞いた。

「それでございますよ、旦那さん。悪いお侍が、この土地に目をつけているそうで、はい・・・」

「何のためにでしょうかねえ？」大石は老婆が差し出した湯飲みに口をつけて、ああ、梅湯か、こりゃあ美味いとノンビリしたものである。弥一郎も湯飲みを持ち上げた。先ほど庭先に干してあった梅と同じ匂いがする。湯を飲むと中に入っている梅の実（み）が口に当った。梅湯にはまろやかな酸っぱさがある。

「ごめんよ！」と、声がして誰かが入って来た。腰に十手を差しているのを見ると岡っ引（おかっぴき）だろう。背後に、白柄の刀を差した若い男達が二三人ほどいた。

岡っ引きの男は、高飛車に出ようとしたが、大石を見て出鼻をくじかれたようだ。

「あ、大石先生じゃあごぜェやせんか」

「おお、留五郎さん。また十手に物言わせて、悪ですか？」

「先生。相変わらず口が悪い。最近はまともでござんすよ」と、岡っ引きの留五郎はヘヘへ・・・と声だけで笑った。

「では？　何ようですかな？」

「へい。実は、外にいるお侍達が、悪いやつに絡まれたと・・・先生ですかい？」

大石は、口の中に入れていた梅の種（たね）を湯飲みの中にぽいと戻し、留五郎を見た。相手は途端に目をそらし、手で顔をなでへへッと再び笑った。

「こりゃあ、相手が悪いィ」と、留五郎は言い立ち上がった。そこへ黒っぽい服を着た同心らしい二本差が入ってきた。留五郎はその男にさっと近付き「目黒の旦那。相手が悪い」と耳打ちした。男は目を大石に向けた。大石は再び大根を食べている。男達は去って行った。

隅の方で震えていた老婆が出て来て、腰のまがった歩行で土間に降りると玄関の戸をぴしゃりと閉めた。

「くわばらくわばら」と唱え、這うような姿勢で再び板の間に上がった。

「何事ですかな？同心が絡んでいるようですが・・・」大石の言葉に老婆は、「お春さんの亭主の伊佐吉を探しているのでごぜェますよ」と言った。

「ほう？」

「伊佐吉は、編されたのでェ、ごぜエますよ」

「ふむ」大石は、短い相槌で老婆の話に答えながら、あらましの事情を聞いた。伊佐吉は、まじめな鍛冶職人だったらしいが、この土地を狙っている連中に賭場で罠にはめられて暴力沙汰を起し、逃亡したらしいのである。

「なぜ、この土地が狙われているのでしょうね？」

老婆は、囲炉裏の炭火を吹いていた火吹竹（ひふきたけ）から口を離し、湯女（ゆな）ですよオとじれったそうに言った。

「湯女（ゆな）？岡場所（私娼窟）をつくろうとでも？」

「旦那さん。その “ でも ” でございますよオ」

「ほう」

「近頃、歩き比丘尼（びくに）も多くござんす」

歩き比丘尼とは、熊野信仰から次第に発生したものである。最初は熊野三山にいた下級の巫女が参詣人と神との繋がりを目的として、接待売春を行なっていた。やがて、巫女は歩き比丘尼として神社への奉納金を集める目的で各地に出張するようになる。そして、彼女達と交わることで熊野に参詣したと同じご利益が得られると、つじつまが合わされるようになった。

しかし、この「歩き比丘尼」のなりをして売春を公然と行う者が現れてきた。偽比丘尼達は剃髪をし、御高祖頭巾をかぶり、柄杓（ひしゃく）を持っていた。神社への奉納金は柄杓で受けられていたからである。偽比丘尼は通りを歩き、熊野信仰を楯にして通りで客を拾い、強制的に売春をした。この偽比丘尼が集まった私娼窟を比丘尼宿と呼称した。湯女（ゆな）は、湯屋形式の売春宿である。

「神田の雉子（きぎす）町にある紀国風呂のようなものですかねえ」

「旦那さん。行ったことがござんすかア」老婆が首をかしげて聞いた。

「いや、私は、その近くにある丹後守様のお屋敷に行った事があるのですよ。あの屋敷の前に紀国風呂があってですね、丹前風呂などと陰口をたたく人もいたものですからね」

「左様でござんすかア・・・」

「それで、先ほどの侍達は湯屋をつくるつもりなのですかねえ？」

「あのお侍達は、旦那さん、用心棒ですよォ。それに、お役人まで絡んで、どうなっちまったんでございましょうかねえ、世の中・・・ドッコイショ」と言って、老婆は立ち上がったが、腰が曲がっているので前かがみである。その時、奥から留美が出てくると、湯を用意して置いてくれと告げた。弥一郎は老婆に聞いて、共同の井戸まで水を汲みに出かけた。井戸は直ぐ近くにあった。

長屋の女達が井戸の周りで洗濯をしている。弥一郎が近付くと場所を空けた。井戸の真向かいでは、洗濯の手を休めて、若い女が乳児に乳を与えていた。

「水を、もらうよ」弥一郎が声をかけると、驚いたような顔をしてうなずいた。大きな乳房の乳首を含んだ乳児が、そのままの姿勢で弥一郎を見た。弥一郎は井戸の中を見た。水が近くにある。水量が豊かな井戸である証拠だ。先程の男達を使っている元締めは、この豊な水源を利用して湯屋を営もうとしているのであろう。

水は井戸の囲いの縁から、手にした桶で汲めた。桶を引上げると、桶の縁から水が井戸に滴（こぼ）れて音をたてた。

家の方に水を汲んで戻ると、老婆が既に火をおこして湯を沸かしていた。湯を沸かして水の中の雑菌を殺し、冷まして置いてから赤子の湯浴みに使うのである。

煮物の大根の匂いが部屋から消えた頃、留美が湯を持ってきてくれと言った。弥一郎と大石がぬるま湯の入った桶を持って部屋に行くと、積み重ねた布団を背にして妊婦がお産に苦しんでいた。

「どうですか？」大石の言葉に留美は一言、大丈夫だと答えた。

「座位出産ですか。さすがに山名先生の娘さんだ。座ってお産をするのは自然かもしれない。私も、勉学のために立ち会わせていただいてよろしいですか？」大石が言った。留美は軽くなずいた。

「この中に、油脂は？」と留美が、大石の持ってきた箱を手で示した。

「産道に塗るのなら、油紙にくるんでありますよ。それは、貴方のお父上が造られたものです」

留美は、油紙にくるんである油脂を手に取ると妊婦の内股を開いた。産道を赤子が通りやすくするのである。弥一郎は部屋から出た。しばらくして、赤子の産声が上がった。

留美は子供を産んだ女に、落ち着いたら湯を使うように薦めた。この頃の週間では、産後一週間ほどは湯に陰部を浸けることを避けるのが常識であったが、留美は父親の山名玄水に教えを受けていた。山名玄水は妻を亡くした産褥熱（さんじょくねつ）に一生を犠牲して挑んだ。彼は留美を育てる傍ら、イノシシを飼育し、分娩後の生殖器の状態を観察し続けた。その結果、産後に創傷した生殖器をいかに清潔にするかという事に気が付いたのである。

留美は、産後の女に躍（たらい）で湯浴みをさせた。そして、陰部に持ってきた徳利の酒をかけ塗り薬を塗り出産は終わった。

彼達は再び来た道をゆっくりと歩き始めた。夕刻が近かったので、長屋のあちこちでは夕餉（ゆうげ）の支度をしているのが見える。七輪（しちりん）を部屋の外にだし、煮炊きをしている。煙が立ち昇り、彼達の鼻をかすめた。

懐かしい匂いである。弥一郎は炭窯を思い出していた。

長屋の外れにある祠（ほこら）の近くまで帰って来ると、夜鳴き蕎麦の屋台が出ていた。表通りの灯りの多い場所で屋台を出せば良いのに、薄暗い土塀（どべい）の近くで年老いた蕎麦屋がうずくまっている。

「蕎麦でも食べて帰りますか？」大石が言った。

蕎麦を注文しながら「表の通りほど、商売になるのではないですか？」と大石が屋台の爺さんに聞いた。

屋台の爺さんは、腰を屈（かが）めて蕎麦の丼に蕎麦を盛り込んでいたが「へい・・・」と返事を返しただけである。

「愚問でしたか・・・」大石の言葉に「所場代が要りますんでございます」と、爺さんがしわがれた声で小さく答えた。

「所場代？」

「へい。明るい表通りは所場代を取られるのでございます」

「ほう・・・」爺さんの差出した蕎麦の丼を受取りながら、大石は不思議そうな顔をした。

「江戸は、てェへんだ」弥一郎が蕎麦に七味唐辛子を振掛けながらつぶやいた。

大石は蕎麦を一口し、汁を飲んで又、蕎麦を口にした。彼の蕎麦を食べる音は心地よい音を立てた。

「ところで・・・」と、大石は箸を止めた。そして、言った。「役人は取り締まらないのですか？」

「へい。それが旦那様。数年ほど前までは、表の通りで商売ができたのでござんす」蕎麦屋の爺さんは曲がった腰を持ち上げて背を伸ばし、右手で左の肩をポンポンたたきながら言った。

「今は？」大石は、再び箸を止めて聞いた。

「白柄組の縄張りでござんすよ。銭を払わないと、商いが出来ません」

弥一郎は、残りの蕎麦を箸で持ち上げると、するすると啜って、汁を飲み干した。七味唐辛子が舌に触れた。蕎麦を食べ終えた三人は、大石の薬問屋「龍石堂」に向かった。

龍石堂は、表通りでも繁華街にある。弥一郎達が、奈良茶飯屋の近くまで帰ってきた時、大手を振って歩いている数人の若者達を見た。

「江戸では、取り締りをしないのですか？」弥一郎が大石に開いた。

「奉行所は、取り締っているはずですがね。相手が旗本の息子達ですので手を焼いているのでしょう」

「先程の長屋の方は？」

「ああ、あれは何とかしなくては。あのような場所まで湯女（ゆな）の宿ができるのは、チト、おかしゃ」と大石は、語尾を茶化した。

「風呂屋ではないのか？」留美が言った。

「湯女の湯は、私娼屈ですよ。吉原のように公に営業しているのではなく、岡場所と呼ばれていますよ」

「岡場所？」

「それは、湯女（ゆな）とか比丘尼（びくに）が売笑している場所でしてね、公儀も暗黙の了承をしている。ただね、犯罪に結びつくことが多いし、女性にとっても辛い場所でしょうなあ」

「あめりかは・・・」弥一郎がポツリと言葉を洩らした。

「アメリカを、ご存知ですか？」と、大石が弥一郎の言葉に振り向いた。

「オラは、しらねェですよ。あめりかでは庶民が選んだ人が奉行所の役人や将軍をしている、と松本先生が言った」

「ほう・・・松本先生。その方は？」

「オラの剣術の先生ですよ。先生はあめりかに行ったことがある」

「本当ですか？羨ましい。では、多分幕府の使節がアメリカに行った時に同伴されたわけでしょうねえ」

「でっけえ（大きい）音ばかりだつう事です」

「音ですか？」

「二つも三つもでけェ音だと先生は言った」

「何に比べてですか？」

「江戸の、その、火事場の音の比ではねェそうです。大筒の音や、それに越後（えちご）、いや違ったな、艶字（えんじ）・・・とか、黒船を動かすヤツらしいですが、そらァ、大きい音らしいです」

「ああ、エンジン」

「それ、艶字でなく円陣（エンジン？）、その音が、かなりでけェそうです」

「エンジンですか・・・見てみたいですねえ・・・」

「大きなカラクリだそうで。家一軒ほどの大きさだと先生は言っていたな・・・」

「なるほど・・・」大石は腕を組んで歩いていた足を止めた。

「どうされました」

「うん、いや、何。私達も、大筒などよりもエンジンに輿味を持ちたいですね。あの大きな海に黒船を動かして来るのですから、そりゃあすごいものでしょう」

「大石殿は、どうして円陣（エンジン）と言うものをご存知か？」留美が聞いた。大石は、心持ち足元を見るような格好で歩き始め、ふふと含み笑いをした。

「後で、面白いものをお見せしますよ」と大石は子供のようにはしゃぎ、足を速めた。彼の姿が、大店の軒先に釣り下げられている提灯の光の中で揺れた。通りには未だ多くの人が行き交っている。

大石は自分の店の龍石堂に帰ると、弥一郎と留美を自分の部屋に案内した。戸を開けた中に入ると、まるで鋳掛屋（いかけや）のように色々な鋳物の筒や釜の形をしたもの、とにかく変な形の鉄や鋼、それに木や皮で出来た変な形のものが所狭しと置いである。

「これは・・・？」弥一郎の言葉に大石は再びうふふと笑みを浮かべた。

「薬の調合か」と言う留美の言葉に、大石は頭を振って否定し、「薬は番頭に任せてあります」と、今度は頭を掻いた。チヨンマゲが歪んだ。

「エンジンを作っています」と、大石は言いながら近くにあった小さなカラクリを持ち上げた。筒状の物に小さな水車が繋がっているように見える物だ。

「私は、ペルリ（ペリー提督）が、浦賀に上陸した時、たまたま幕府の医師としてアメリカ製品の展示を見る機会にめぐまれましたのですよ。その時に見た、小さな機関車のエンジンに魅了されましてね。それで、自分も作ってみようとしているわけですが、なかなか上手くゆかない」と、大石は一方の壁の方に行き、柱の・・・はっきりとは見えなかったが多分隠し棚のような所から巻紙を取出してきた。

「これ、これ・・・」大石が言葉を詰まらせて巻紙を広げると、絵図が現われた。

「これは、秘密に描いてもらったエンジンの絵図ですよ。幕府の役人の目に触れないように描いてもらったのですがね」

水車や天秤棒、筒、とにかく今まで見たこともないようなカラクリの図である。

「これは、和銅（わどう）殿が考案されたようですよ」と大石が言ったが、和銅とは多分蒸気エンジンの考案者であるジェイムス・ワットの事であろう。ワットを和銅「わどう」と覚えたのである。ワットが蒸気エンジンを作り上げる前にパパンやニューコメンなど、多数の蒸気エンジン考案者がいるが、大石に図を描いて与えた者は、出来るだけ簡単な、しかも常識的なエンジンとしてワットのエンジンを図にしたに違いない。なぜなら、既にワットの蒸気エンジンは古い部類に入っていた。

「大石殿、これを作るおつもりか？」と言う留美の言葉に、大石は子供のように顔をほころばした。大石は、二人を案内して庭に面した戸を開いた。そこは広い土問で、中央には先程の絵図で見たカラクリと同じような物が置いであった。

「これは？」留美が指さした。

「エンジンです」大石が言った。

「動くのか？」

「さて・・・あと、一歩で出来上がるのですがj はたして動くかどうか・・・」大石が腕を組んだ。

「円陣（エンジン）か・・・」弥一郎がため息をつくように言った。

「いいですか。黒船はエンジンで動いているのですよ。あの、大きな船を動かして大きな海を渡って来るのですよ。風ではなく蒸気で動くカラクリが世の中を変えている」

「世の中を変えている・・・」

「そうです。弥－郎さん。もう、腰に刀を差している時代ではなくなるでしょう」

「はあ・・・」弥一郎は気の抜けた返事を返した。江戸に出て、剣で身を立てようとした出鼻をくじかれたような思いだ。

大石が土間に降り立った。彼は、つかつかとエンジンと言うカラクリの方に近寄ると、手で筒の一部をペタペタと叩き「元気かなあ？」と話しかけた。

「蒸気で、どうやって動くのだろう？」弥一郎の言葉に大石は、近くのガラクタの中から変なものを取り上げた。彼は、卍のように配列されている筒の中に水を入れた。卍の中心部は短い大き目の筒で両側には軸が出ている。卍の軸を木の枠にかけ、大石は大きな蝋燭に火をつけて下に置いた。

「何だ、これは？」留美が土間に降りながら開いた。

「まあ、見ていてください」大石はニコニコ微笑みながら腕を組んで卍の物体を見守っている。

やがて卍の先から湯気が出始めた。

「さあ、蒸気が出始めました・・・」蒸気は次第に勢いを増し、卍がブルブルと震えたと思うとクルリクルリとゆっくり回転を始め、次第に速度を増して回り始めた。

「回る回る」弥一郎が驚いたように声を上げた。

「これは、誰も知っているカラクリですよ。日本にだつてあった。しかし、これでは使い物にならない。力がないのです。そこで、西洋人は筒の中に蒸気を入れて動くようにした」

「筒？」

「飯釜（はがま）です。飯が炊け始めると蓋が動くでしょう？あれですよ。あの動きが力を作る、はい・・・」大石は自分で納得した。

一月ほどが経ち、弥一郎は久し振りに千葉道場に行った。道場主の千葉栄次郎は、弥一郎に師範代の席を用意していた。

「斎藤殿の流派は甲源一刀流、千葉も一刀流です。剣技に近いものがあります」と、栄次郎は言った。

弥一郎は、とにかく練習がしたい。座って見守るのではなく、竹刀を打ち合いたいのである。彼は、防具をつけると誰彼と無く練習を始めた。初心者でも免許皆伝の者でも、それぞれに練習の良い相手になる。初心者の竹刀は無骨に動いて来るが、弥一郎の竹刀が受けて、新たな受けの道を模索する。免許皆伝者の竹刀は鋭く弥一郎に襲い掛かって来る。弥一郎は三十名程と竹万を交えた。流石に喉の渇きを覚えた。そこに、巨大な体躯が立ち塞がった。山岡鉄太郎である。

「斎藤殿。一手、御指南をお願いしたい」デカイ声が、あたりに響いた。皆その声に練習の手を止め、二人に注目した。前回の試合では、竹刀が折れて勝負が中断されている。剛の山岡に、弥一郎がどのように相手をするか興味があった。

「おらァ、喉が渇いた」弥一郎が面をつけたまま答えた。

「えっ？」山岡は意表を突かれて声を上げた。先ず今まで、相手を申し込まれた者が喉の渇きを訴えたりはしなかった。

「水を飲んでからじゃあいけねェか？」

「あ、ど、どうぞ・・・」山岡がギクシャクと納得した。

弥一郎は水を飲むために、道場の外に出た。面を外すと、首筋や額に風が触れてくる。柄杓で水をすくい軽く口に含んだ。山の小川を思い出す。草の緑に覆われた小さなせせらぎは、耳を澄まさないと聞こえない。小さく細く、自然に逆らうことのない流れである。その小川の流れのように、相手の力に逆らうことなく剣を動かすことだと、剣の師である松本三之丞は言った。

・・・そうだ、松本先生の剣技を山岡さんに試してみよう。彼の剛剣にはこれしかない。弥一郎は嬉しくなった。久しぶりに闘志が湧いて来た。練習をして来た技（わざ）を試す機会が来たのである。己の持つ剣先に精神や力の総てを集中し、相手の剣に合わして腕を軽く出す。剣をポイとだしな。肘を倒すだけで良いよと、松本三之丞は言った。弥一郎は、この教えを受けた後、何度も何度も工夫を重ねて来た。松本先生の腕前までは到達していないだろうが、自分なりに満足できる程度に練習をして来た。要は、反射的に身体が動くことである。山岡は適任の相手だ。彼の剣は剛剣で、しかも速い。

弥一郎は、道場に引き返した。既に面、小手を付けた山岡が正座して待っていた。弥一郎は面を付けた。山岡の大きい身体が弥一郎を直視している。弥一郎は可笑しくなった。間違いなく、山岡の剛剣を軽く受けられるであろう。ふと、前を見ると山岡の眼光が彼を射た。

栄次郎が、審判を勤めた。

双方は蹲踞（そんきょ）の礼をして構えた。山岡が裂帛（れっぱく）の気合をあげた。長く太めで、重い竹刀が太い手にがっちりと握られて弥一郎を睨んだ。弥一郎は動かない。山岡の竹刀が弥一郎の喉元を標準に捕らえた。と、弥一郎が弥一郎の持つ竹刀の切つ先に隠れた。山岡は、一瞬不審に思ったが相手は照準にある。山岡は飛び込んだ。得意な突きである。

山岡は自分が負けたことを、栄次郎の「一本！」と言う声で知った。どこを叩かれたのであろうか？　相手の竹刀が自分の身体の一部に当たったことを感じなかった。それに全身で入れた突っ込みが止まってしまっている・・・（はて？）と、山岡は思った。まるで、空気を相手にしたような思いである。

「もう一手、お願い致す！」山岡は叫んでいた。弥一郎が竹刀を構えた。

山岡は、捨て身の覚悟で竹刀を上段に置いた。弥一郎が竹刀を立てて抱え込み、脇を閉めた。山岡は打ち込んだ。弥一郎は握りの間でこれを受け、竹刀をねじった。山岡は流石に竹刀の動きに慣れていた。彼は首を傾けた。弥一郎の竹刀が彼の面の上をすれすれにかすめ去った。弥一郎が後ろに飛びのいて、竹刀を構え直す。山岡は、正眼に竹刀を置いたが、呼吸を乱していた。このようなつかみ所のない相手を知らなかった。

弥一郎は面の中から、相手を見た。呼吸を乱している山岡に打ち込むつもりはなかった。しかし、単に隙をつくって一本を取らせるのは、相手の自尊心に触るであろう。山岡は、多分、上段からの面撃ちに来る。

山岡の声が「面！」と上がった。辺りの空気がゴォ！と勢いついたような音を立てて竹刀が弥一郎の面に振り下ろされた。

弥一郎は、それでも十分な余裕があった。彼は考えていた。受けて、竹刀を折ることである。

竹刀を折るには、適度の角度で山岡の竹刀を受けて、押し上げなければならない。弥一郎は受けた。弥一郎の竹刀が折れて、山岡の竹刀が走る。弥一郎は身体をひねったが、竹刀は彼の右肩をかすった。

「それまで！」栄次郎が声を上げた。弥一郎は折れた竹刀に視線をあてた。見事に折れている。山岡の剣の強さだ。

両者は姿勢を正し、互いに礼をして下がった。山岡は、面を外すと汗が額を滴り落ちるのを感じた。短時間に、このように多量の汗をかいたのは初めてである。

「荒幡（あらはた）殿」山岡は、稲垣とともに静かに試合を見守っていた同僚の荒幡道之助に問い掛けた。

荒幡が側に来た。

「拙者は、最初の相手の受けが分からなかったが・・・」山岡が布切れで汗をぬぐいながら聞いた。

「左様。斎藤殿は松本殿の剣技を使ったようでござる」

「とは？」

「いや、何。拙者は一度だけ松本殿の技を見る機会がありましたが、あの時と同じです」

「？」

「実は、はっきりとは分からなかったのですが、斎藤殿は貴殿の動きに対して一歩も動かなかった様でござる・・・千葉先生（栄次郎）は、決まったと判断された」

「ふむ・・・」山岡は無性に水が飲みたいと思った。彼は立ち上がると道場から出て水瓶の置いてある所に立った。門人が水の入った柄杓を差し出す。山岡はゴクゴクと一気に飲み干して目を上げた。蒼い空が広がっている。

「・・・」山間は、広い空と、弥一郎の剣の動きが似ているように感じた。未だ、彼の身体には弥一郎の空気のような剣の動きが残っていた。

「空か・・・」なるほどなと、山岡は思った。力と技でも、かなわないものは自然の動きである。山岡は自分の動きが自分を打ち負かしたことに気付いた。弥一郎は、何もする必要がなかったのである。山岡は弥一郎に親しみを持った。

弥一郎は、練習が終わると薬問屋の龍石堂に帰った。店は開いていたが人影がない。どこからか変な物音が聞こえて来る。彼は、刀の柄に手をかけ、腰を落として物音のする方に歩んだ。方角は、大石の住居の方である。土間を抜けて、もう一つの建物の方に歩むと、店の従業員達の後姿（うしろすがた）が固まって見えた。彼達は、大石がカラクリを作っている土間の方を覗き込んでいる。

弥一郎は、中庭の方に出て大石の部屋の方に歩いた。近付くにつれて、変な音が聞こえてきた。シュウ、シュウ・・・コン、コン、シュウ・・・と言うような聞きなれない音である。壁に付いている小さな格子窓から中を覗いた。留美と大石の姿が見え、近くでカラクリがもうもうと蒸気をはいていた。蒸気が吐き出されるたびに、天秤棒のような物が右左と傾く。

「留美・・・」弥一郎が声をかけたが、カラクリがうるさいので聞こえないようだ。

「る・み」もう一度、言ってみた。今度は声が届いたのか留美が振り向いて、弥一郎を認めると格子戸の方にやって来た。

「弥一郎。帰ったのか」

「うん。あれは、何でェ？」弥一郎は、あごで示した。

「あれか。エンジンが動いているのだ」

「円陣？あれが、か・・・動いている」

「中に入ってこないのか？」

「おらァ、ここでいい・・・危なくねェのか？」

「しらぬ。輪が回っているのだ」留美の言葉に、弥一郎は彼女の背後に目をやった。大石の立っている側の輪がくるりくるりと回っている。

「すげェな・・・すげェ湯気と、音だ」

大石が、弥一郎に気付いて格子窓の方にくると、彼に薪を持って来て下さいませんかと言った。

弥一郎は、軒下に積まれている薪の束を両脇に抱えると、反対方向のまで歩いて行き中に入った。

「どうもすみません」大石は弥一郎から薪を受け取ると、数本の薪を抜き取り、竈（かまど）の中に投げ込んだ。

シュウ、シュウ、シュウと動くカラクリは、蒸気で動いているようだ。音に合わせて、一方から湯気、が出ている・・・と、シュ・・・ポォ・ポォ・ポォ・・・と変な音、がしてカラクリの動きが止った。

大石が慌てて、カラクリのあちこちを直したが動かない。湯気だけがシュウ！と噴き出ている。

「飯釜（めしがま）の様だな」と言うと、大石は笑って「そとの釜は飯釜を使ったのですよ。それに、こちらは、特別に鍛冶屋で造ってもらった筒。鍛冶屋町が近いので何かと便利、あっ、そうそう、あの、女の子の母親はどうなりましたでしょうかね？」大石がカラクリを修理しながら言った。

「母親は、大丈夫だと思うが、よし、見に行ってこよう」留美が言った。

「オラも、行くぜ。けどよ、腹減った」

「侍だろう？」

「侍でも、腹は減る」弥一郎の言葉に大石は領き、店の者に大きなおにぎりを斎藤様につくって差し上げなさい、と指図した。

弥一郎は、竹の皮に包んでもらった特大の握飯を口にしながら、留美にしたがった。食べながら歩くのは侍らしくないと思ったが大石が出掛けに、古武士は歩きながら飯を食べましたので大丈夫です、修養にもなる、と分けの分からないような言葉も付け加えた。

弥一郎は、指に付いた飯粒を口で拾いながら「“修養 ”ツう言葉は、いってェ何でえィ？」と、少し先を歩いていた留美に聞いた。

留美は振り向いて、弥一郎がおにぎりに噛り付いたのを「修養とは、おにぎりを頬張ることだ」と言って、笑いながら「本来の意味は、精神を練磨して人格を高める事にあるが、おにぎりに噛り付くことは、別に変なことではない。人間の本来の姿だ。それに、おにぎりは美味いものだ」

「一つ、食うか？」弥一郎は包みを留美に差し出した。

「いや、私も持っている。店の者が私にもくれた。腹が減っていないので、美代にやるつもりだ」

「美代？」

「お産の女の子だ」

「ああ、あの子か・・・オラも一つ残しとおくか」と、弥一郎がおにぎりの包みをしまいかけると、留美が言った。

「弥一郎は、腹ごしらえをしておいた方が良いだろう」

「？」

「変な輩（やから）が来ているかもしれぬ」

「ああ、旗本の息子共か」

「江戸は、ヤクザ者が多いようだ」

「湯屋か・・・」

「ああいったモノにはヤクザ者が絡むのだ」

「まッ、しかたねエか」

「取り締まらなければなるまいに、奉行所も力が弱っているようだな」

「うん。ちがいねェ」と弥一郎は軽く答えたが、後に明治政府の中央政権が欧州に模倣して起した、警察制度の創始者、川路利良の片腕となった山岡鉄舟（鉄太郎）に荷担して、警察組織の整備に一役かう事になるのである。

美代の家の前には、役人が立っていた。

「大石殿の言った通りだ・・・」留美が言った。

「大石殿・・・が？」

「ヤクザが、役人を使って家を取る・・・」

「どう言うこってェ」

「美代の父親は、博打で編された。この土地欲しさに、ヤクザが仕組んだ罠と言う事だ」

「で、役人は？」

「賄賂でも貰っているのだろう。御政道も地に落ちている」

「どうする？」

「そうだな。とにかく、行ってみよう。美代や赤ん坊が心配だ」留美と弥一郎は美代の家に向かった。

二人が中に入ろうとすると、役人が棒を二人に押付けて入るのを阻止した。

「私は医者だ。産後の母親を診に来たのだ」と留美が言うと、彼達は中には誰もいない、帰れと二人を外に押出した。

「先生様！」声の方を見ると、お産の時に会った老婆である。老婆は、曲がった腰を前に押し出すようにしながら歩いて来ると、留美の袖を引っ張って、自分の家に連れて行った。中には、美代がいた。

「お姉ちゃん！」

美代が駆け寄って来て留美に抱き付いた。留美は懐からおにぎりを出して、美代と老婆に渡した。

「母様（かかさま）は元気か？」留美の問いに、老婆が自分の顔の前で手を振った。目が涙目である。老婆は自分の着物の袖口で、涙をぬぐうと「ひどいことでございますゥ」と言い、横でお握りを食べている美代を見た。赤児の鳴声が家の隅の方から聞こえてきた。

「あれ、起きたか、起きたか。困った、困った・・・」老婆は、言葉を繰り返しながら立ち上がると赤児の方に歩んで、着物にくるまれた赤子を抱え上げた。

留美が老婆に近寄って、赤子を取り上げた。

「この児の母親はどうしたのだ？乳が足らぬようだ」

「先生様。ヤクザ者達が来て、お春さんを・・・」老婆は再び袖で顔を覆った。

「どうしたのだ？　泣いていては分からぬ」

「はい・・・」老婆は、真っ赤になった目を上げて留美を見ると「お春さんがヤクザに連れて行かれたのでございますよオ・・・」

「どうしてだ。子供を産んで聞もない女ではないか」

「左様でございます。亭主の伊佐吉が家もお春さんも賭博のカタに入れたと言って・・・。嵌（は）められたれたのでございますよオ」と又、目を押さえた。

「それで、美代の母親は、どこにいる？」

「はい、それが・・・］と、老婆は美代の頭をなでて、外で遊んでおいでと言い、美代がいなくなってから「岡場所でェごぜェます・・・」と声を落とした。

「岡場所？お産をしてから一月程しか経っていない女をか？」

「役人と・・ヤクザが・・・」老婆は再び目を押さえた。

「役人も来たのか？」

「左様でェ・・・ヤクザ者が証文を持って来たのでございます。あれは、ニセの証文ですゥ。伊佐古は、自分の女房を賭博のカタにするような者ではござりません」

老婆は、少し這って柱に手をかけるとドツコイショと立ち上がった。そして、玄関（げんかん）の戸を開けると「おミヨ！」と女の子を呼んだ。お美代が蹴鞠（けまり）のように走り込んで来た。「バッチャン！」お美代が元気な声を上げた。自分の役割が分かっているようである。

「おハナ（花）さん。呼んで来てくれ。乳ください言うのだよ」お美代が肯いて外に駆け出した。

やがて、体格のよい女がお美代の後から現れた。弥一郎は女に見覚えがあった。お春のお産の時、産湯の水を汲みに井戸に行った井戸端で乳児に乳を含ませていた女である。彼女は弥一郎を見て軽く頭を下げた。

「おハナさん。すみませんねエ」老婆が言った。

「おたがいさまだよう」と女はノンビリとした口調で言い、留美から赤児を取り上げると胸元を広げた。見覚えのある大きい乳房が現れた。お花は片手で乳房を軽く持ち上げて、泣いている赤児に近付けた。赤子は泣くのを止め、乳首を口に含んで力強く飲み始めた。赤児の目がお花を見上げている。

お花が「たくさんすいなあ。いっぱいあるよう」と、話して聞かせるように言った。

「すみませんねェ。おハナさん」老婆は目を細めて赤児を見ている。

「うちの児だけじゃあ乳がはってえ」

赤児の口がモグモグと動いている。お花の乳房が豊に波打つ。弥一郎は美しいと思った。気持ちがなごんで来る。彼は母を思い出した。母も、俺に乳をくれたのである。あのように、俺を抱きかかえて、体内にいる時も、体内から出た後も、俺が自分で飯を食べられるようになるまで、母は自分の養分を俺に分け与えてくれたのだ。

弥一郎は、お春という赤児の母親を思ってみた。彼女は、亭主の借金の方（かた）に、湯屋で望まない仕事に就かされていると言う。いや、彼女の辛さは、自分の赤児に乳を分け与えられない事であろう。母という使命を果たせない辛さだ。

「いってェ、どこの岡場所でェ」弥一郎は刀を持ち上げて、老婆に聞いた。

老婆は、口をあんぐりと開けて弥一郎を見た。お花が赤児を抱え直して弥一郎を見た。乳の香りが鼻をかすめた。

「どうするつもりだ？」留美が聞いた。

「助け出す」

「証文があるのだぞ」

「証文？　どうってことねェ」

「馬鹿な事はするな。下手をすると役人に捕まる」留美が弥一郎を制して言った。

「じゃあ、どうすりゃいい？」

「とにかく岡場所に行ってみよう。大石殿に言われた事もある」

「ウム・・・」弥一郎は、留美の言葉に従わざるを得なかった。連中は、役人と結託していて、証文で家屋（かおく）を博打の方（かた）に取り上げようとしているのである。現に、美代の家の前には役人が立っていた。二人は、老婆に、お春のいると言う岡場所を聞くと外に出た。すると、岡引の留五郎の姿が目に入った。留五郎は、隣の家の角を曲がるところである。

「留美、あの岡引ァ、お産の時の奴じャねェか？」

「そのようだ」

留五郎はお春の家に入って行った。直ぐに彼は出てきたが同心の目黒と、白鞘の刀を差した数人が一緒である。白鞘（しらさや）の刀と言えば、白柄組（しらつかくみ）だ。多分、旗本のドラ息子達の暴力組織である白柄組が、親の権力を背景に悪い事を企（くわだ）てているに違いない。

どこかで犬が吠えていた。鶏の鳴き声も聞こえた。

江戸の下町を根城にして、悪徳を働く輩は最近増えていると大石が話していた。弱い庶民が必死に生きている下町の長屋街まで、蝕（むしば）んでいる。徳川幕府の崩壊を暗示するようなものが庶民の間にあった。

江戸の街を歩くと、私娼を目的とした店が多く目に付く。性と言うモノがどの程度人間社会に関わりを持っているかは、時代によって異なる。しかし、日本における性の歴史は古来、鷹揚（おうよう）である。

要するにいずれの政策者も性の売買を厳しく取締まってはいないし、性の商売は余り御禁制に触れていないのである。それよりも、むしろ庶民に開放して、社会的不満のはけ口にした傾向がある。

ヤクザ者達は、御政道の甘い陰に隠れて女達をくいものにした。また、一部の女性達は簡単に生活の糧を得る手段の場としたし、それに女性が金を稼ぐ為の仕事が少なかった時代であった。江戸の盛り場には揚弓場（ようきゅうじょう）、提灯屋、仏具屋など、色々な商人が店の奥に私娼のための小部屋を設け、賃貸にしていたのである。

「ぶれいもの！」誰かが、弥一郎に声を上げた。声の方を振り向くと、白鞘の刀を差した三人の若い武士が弥一郎を睨んでいた。

「どうした？」留美が弥一郎に聞いた。

「さあ、しらねェ」弥一郎が首をかしげていると、三人は弥一郎と留美を取囲んだ。その周りを直ぐに、繁華街を右往左往していた江戸の庶民が取り巻いた。彼達は、頻繁に起こる喧嘩騒ぎを娯楽の一つとして考えていた。

「オラが、何か？」弥一郎が相手に聞いた。

「“オラ”だと？何だ、田舎侍か。ケッ、拙者の刀に当って知らぬ存ぜぬでは通らぬぞ」無理に武士言葉を使っているようだ。