くらうど
三崎伸太郎
第1話
くらうど
ペンネーム
三崎伸太郎
1)浮浪者と犬
そう、私は特殊な能力・・・そうですね、たとえばコンピューター・ソフトの「クラウド」のように、相手の意識を一時取り上げて保管し、私が入れ替われるのですと、男は話した。彼はよれよれのジーンズに黒いシャツ・・・真ん中のボタンが取れている・・・片手で、雑種の老犬をなでている。老犬は、片目の周囲が黒く毛が短い、そして、なんとなくダサイ・・・種類は知らない。とにかく、男は浮浪者のような風体だ。
「では、あなたは誰にでも取って代われると言う事ですか?」と私は聞いてみた。
男はキョトンとした表情をした。
「つまりですよ。あなたが言うように誰の意識にでも取って代わる事が出来るのであれば、人間の社会的観念が崩れる事ですよ」
男は、それでも黙っていた。
「まあ、冗談でしょうけど、なかなか面白い発想ですね。テレビ局などに売り込めば売れたりして・・・」私は、クスクス笑った。
すると、相手は悲しそうな顔になり犬を抱きしめてほお擦りをした。
犬がチラリと私を見た。私は眩暈を覚えた。そして私の目に、私の姿が映っている。あれ、と声を出したら耳には「ワン」と聞こえた。
「犬だ!犬になった!」と、私は叫んだ。すると私の耳に「ワンワン!」と犬の鳴き声が聞こえた。
言い忘れてましたがこの犬が・・・ふしぎな力を持っていまして・・・この犬のおかげで、私は誰とでも入れ替わる事が出来ますと、男が静かに言った。
「ワン!」(なるほど)と、私は叫んでいた。
「それで・・・」と、男が言いかけたので、私は、ああ良く分かりました・・・お願いです、もう私に戻してください。つまり、私は「ワン」とか細くなき「クーン、クーン」と泣きべそをかいた。
「ほら・・・」と相手は言って、私を見た。
「ワン!」(なんですか?)と私は聞いた。
「言ったとおりでしょう。誰も、犬になりたくないんだ」
「ワン、ワン」(まさしくその通りです)と私は言い、とにかく元に戻してください。良く分かりました。もう、疑いませんからと、釈明した。そして、再び軽く眩暈を覚えると、私の目の前に例の浮浪者と犬が見えた。
私は、自分に戻っていた。
「わかりました。ハンバーガーをご馳走しますよ」と、わたしは急いで近くのファースト・フード店カールス・ジュニアに入り、ハンバーガーのコンビネーションを二つ注文した。もちろん飲み物も含めて。男がハンバーガーを食べたいと言ったわけでもないが私が決めていた。もともと、私はここのテーブルでハンバーガーを食べていた。ふと見た窓の外に、浮浪者のような男と犬がいて目が合った。それだけのことだった。
「はい、これ・・・」と私は男に、二つのハンバーガーの入った紙袋とコカ・コーラの入ったカップを渡した。犬が「ありがとう」と言った。音声ではなく、私の脳に直接声が聞こえた。
「いえ・・・でも、実に面白い体験でした」と、私は犬でなく男に言った。
「面白い体験?」犬の声だ。
「あの・・・気にしないで下さい」私は、私の脳が再び犬に取って代わるのを恐れた。
犬と男は店の外の芝生に座り、おいしそうにハンバーガーを食べ始めた。犬はハンバーガーを両手に・・・いや、両前足で挟み・・・芝生に座って・・・ああ、気がおかしくなるような光景だ。こんな事を言っても書いても、誰も信用しないだろう。私は軽く頭を左右に振った。
「人間って、楽しいですか」モグモグと口を動かしながら犬が私を振返って言った。
「あ、いや・・・」,私は、ここから、離れなくてはと思いながら、なぜか動かれずにいた。一時的に時間が止まったようにも思える。腕時計を見ると午後一時・・・確かに時計が止まっている。秒針が動いてないし、それに、私が・・・思考が止まっているのか。何を考えて、何を言ってよいか分からない。私は何者なのかさえも分からない、白の世界にいた。
「ああ、わからない。これは一体」支離滅裂な思考の中で、私はもがいた。
犬が白眼で私を見、コカ・コーラの入ったコップにストローを差し込み、これは男が犬にしてやったのか、とにかく分からないのだがコーラを飲んでいる。やはり、私の思考は動いていない。目の前にあることが脳の中で再生され、変な形に動いている。
ミミズが地上に出て、太陽にさらされバタバタ動くもだえ、あのような感じだ。
「人間って、楽しいですか?」再び声が聞こえた。
「楽しいも楽しくないも、そのような事考えた事がないです。毎日を過ごすのが・・・」と私は考えて、黙った。面白くない。相手は犬だ。真剣に考える事でもないと思った。
「あなたは、金持ちになってみたのでしょう?それに、映画スターなんかにも」と私は、男に質問した。なぜなら、彼の風体は紛れもなく浮浪者だからだ。
男は、ハンバーガーの包みを左手に移し、コーラを一飲みすると「もちろんですよ」と言った。
「大統領も?」
此処はアメリカだ。
「エエ・・・」と、相手は頭を振った。
私は少し相手を小ばかにしたように「だったら・・・金持ちのままでいたらよかったでしょうに」と言った。
「いや」と彼は頭を振り「やはり、自分が最高です」と答えた。
「貧乏でもですか?」私は嫌味に聞いていた。
「もちろんです。あなたも体験してみてはいかがですか?」浮浪者の男は犬の頭をなでながら私に言った。
「私がですか?」
「そうですよ、この犬を、しばらくお貸しします。ですから、いろいろ体験してみてください」
「いや、その私が住んでいるのは小さなコンドで・・・犬猫を飼うには許可を取らないといけないし、それに家内が大の犬嫌い」と、私は嘘を言った。変なトラブルに巻き込まれたくなかった。十分に不思議な体験をした。これ以上はご免こうむりたかった。
犬が横目でちらりと私を見上げ「おい」と言った。犬の話し方が傲慢な感じになった。声が私の耳に聞こえたと言うのが正解かもしれない。
「なんでしょう」小心者の私はおどおどと犬のほうに声をかけた。
「俺は、行くよ」
「何処へですか?」
「お前の家さ」
「じょ、冗談でしょう?」と言った私に、男が犬の紐を手渡した。
「神のご加護がありますように」と、彼は変な言葉も付け加えた。
「でも、家内が犬嫌いですし・・・」と私は言いながらも、変な力に動かされて犬の綱を握り犬について歩き始めた。彼は時々野良犬のように立ち止まっては、道路標識の棒に向かって片足を上げ小便をした。お尻には金の玉がぷらぷらゆれている。
ま、どうせ家内に反対されるだろうから、犬を返す口実になると私は考えていた。しかし、この犬はうまく立ち振る舞った。家内にゴマをすった。いや、そのように見えた。
私は内心少しあせり自分の意見を口にした。
「犬猫には、飼い主の責任があります。無理してはいけません」
「そうね・・・」家内は少し考えた。
「それに、僕は、気管支が弱いので犬や猫はよくない」ゲホゲホと軽く咳をして見せたりもした。
しかし、私の意に反して家内は、いいわ、しばらく飼いましょう。でもドッグ・フードが無いので買って来てと、二十ドル札二枚を私に渡した。私は彼女と暮した長い経験から分かっていた。私に反対の権利など無い。
家から歩いて30分ほどのところにペットショップがある。
私はとぼとぼと犬を連れて歩道を歩いた。
「オイ!」誰かの声がした。いやに抑圧的な声である。
私は辺りをきょろきょろ見渡したが誰もいない。連れていた犬が立ち止まって後足で首の辺りをさすっている。
「オイ!」再び声が聞こえた。そのほうに目をやると学校の校庭の近くに立っている電柱のうえからだ。そこにカラスがいた。大きいカラスである。私は目をそらした。カラスに眼をつけられると攻撃される恐れがある。
「ヘンリー。どこへ行くんだ?」はっきりとカラスの声が私の耳に聞こえてきた。(ヘンリー? 誰の事だろう?)私は内心に思いながら、とにかく凶暴そうなカラスから遠ざからろうと犬紐を引っ張った。すると、カラスはサッと電柱から飛び降りて来て私達の前に立ちふさがった。危険なケースである。カラスは獰猛な鳥だ。怒らしてはいけない。私は知らぬ存ぜぬとした風をして側を通り過ぎようとした。
「どこに行ってるんだ?」カラスが言葉をしゃべる。しかも日本語だ。
「散歩だよ」犬が答えた。
「人間とか」
「ああ、貧乏人だけどね」犬は、私の経済力を知っていた。しかし、本当のことを直接言われて感情的にならない人間はいない。私は少しむっとして「貧乏人で悪かったな」と言い、嫌がらせに犬の紐を引っ張ってやった。
「イテッ!やめろバカ!」と犬は、ギョロメをむいて私に言った。
カラスがカッカッカと笑った。
再び犬と私は歩き始めた。なんとなく犬が私を先導する立場にある。カラスはバタバタと羽を震わせ「カー!」と一声鳴き、学校の校庭にある電柱のほうに飛んで行った。
私達は「ペットショプ」に入った。此処はペットを連れて入いることが許されていた。所狭しといろいろなペットの商品が並んでいる。私は、犬を連れて「ドッグ・フーズ」のほうに歩いた。おしゃぶり用の骨とかボールなどが並んでいるが犬(ヘンリー)は、見向きもしない。
私達は、ドッグ・フーズが並んでいる棚の前に行った。色々な種類がある。
「どれがいいんだい?安いのにしてくれたまえ。二十ドルしかないから」と、私は妻にもらった四十ドルのうち二十ドルを誤魔化した。
しかし、ヘンリーはドッグ・フーズに見向きもしない。そして言った。
「何だ、犬の食い物か」
「だって君は、犬じゃあないか」
「オレは、犬じゃない」
私達は小声で言い合った。
「犬だよ。間違いなく、君は犬だ。なんだったら鏡を見せてやろうか」私は少しいらだっていた。せっかくの休日を、この変な犬に潰されていた。
犬はにやりと笑い、私を引っ張って店から出た。よい天気だ。カリフォルニアの青い空が、乾燥した空気の上にかぶさっている。
「人間の食い物を売っているマーケットはどこだ?」と犬が聞いた。
「あちこちにあるさ。でも、ドッグ・フーズは、此処のがよいと思うけどね」私は、先ほど出てきた店をあごで示した。
「オレは、犬じゃない」犬は繰り返した。
「わかったよ。じゃあ、連れて行ってあげるよ」私は、めんどくさくなって犬の紐をグイと引っ張った。「イテッ!わざとやったな」犬が私をにらんだ。
「じょうだんだろう?たまたま、向きを変えたので紐が引っ張られたと言うわけさ」
犬は、私をギロリと睨み「地球人は、性格が良くない」と、言った。
「へ? 地球人だって?僕がかい?」
「言い直してやる。貧乏な地球人」
「こうしてやる!」私は犬紐を引っ張った。相手は、白目を向いてイテテ・・・止せ、やめろ、ストップとごちゃ混ぜに言葉を発した。
「どうだ。地球人の強さを思い知ったか」
「わかったよォ」と犬は、舌を出して言った。
「どうだ。地球人は強いんだぞ!」と、私は自分に言い聞かすように言葉を出した。(しかし、なぜ地球人なんだろう?)と内心に思いながらも深くは考えられなかった。直ぐ近くにセーフ・ウエイが見えていた。
2)犬の特殊能力
セーフウエイ・スーパーマーケットに動物は入れない。
私はよくこのマーケットに来るので、ドッグ・フードが売られているのは知っていた。しかし、特別な介護犬とか、盲導犬をのぞいた普通の犬は中には入れない。私は犬を近くの柱にくくりつけようとした。
「オイオイ、俺を店の中につれて入れ」犬が言った。
「何でだよ。犬は中に入れないぜ」
「抱えたら入れる」
「入れないよ。特殊な訓練された『エリートの犬』で無い限りね」私は、エリートという言葉で彼を意気消沈させ、諦めさせようとした。
しかし、犬は「もちろん、俺はエリートだ」と、言い放った。
「まさか、だね。エリート犬とはだね、例えば、ほらあの駐車場、あそこに居るだろう?クリーム色の毛で、おとなしそうな犬。あれだよ。あれが、エリートさ」その犬は、白い杖の老人のそばについていた。
私と話しているへんな犬ヘンリーは、フンと言った表情をし「俺は、アンドロメダ星雲の王子だ」などと、青少年向けのSF小説のような事を言った。もちろん冗談だろうが私の作戦は当たったようで、彼の尻尾が又の間にシュンとしている。
私は、ヘンリーを柵にくくりつけようとした。「オイ、止せ。しかし、あんな犬だったら入れるのか?」とヘンリーが聞いた。
「もちろんですよ!」私は勝ち誇っていた。そして言った。「例えば、君がだね。救急犬とかで、サーヴィス犬であればだけどね。それに、君の身体に何か印・・・」と言った束の間、ヘンリは{サーヴィス・ドック}と書いたベストを身に着けていた。
「これで良いか」と彼は言った。
「・・・・・」
「では、俺を抱えて中に入ってくれ」
「嫌だよ・・・蚤がいるかもしれないじゃないか・・・」私の、気の弱い言葉に「抱けよ」犬がギョロメを向いた。小心者の私は、仕方なく犬を抱いた。結構重い。マーケットの入口でショッピング・カートを取り、犬を乗せてマーケットの中に入った。しかし、いかにサーヴィス・ドックでも、清潔好きなご婦人は、カートに犬が載せられているのを好まない。幾人かの婦人の視線が気になった。私は、仕方なくヘンリーをカートから降ろして抱えた。
「バナナが食べたい」ヘンリーが言った。
私は、バナナを買った。
犬は、ブロンドの少女やスタイルのよいご婦人などに目を細め辺りをきょろきょろしていたが「パンを食べたいからベーカリーのほうに行け」と命令口調で言った。私は内心腹が立った。それでも、再び犬にされたらかなわないので、此処は穏便に済まそうと犬の言葉に従った。パンを買い、そして、アイスクリームまで買わされた。
支払いを済ませてセーフウエイの外に出ると、広い駐車場の外れにある縁石に腰を落とした。見上げると相変わらず青い空だが私の心は憂鬱だ。私は思わずため息を漏らして言った。
「ああ、これで二十ドルが無くなった。こんな不景気で二十ドルは大金だよ」
すると犬は、例のごとくにやりと笑い「じゃあ、金持ちになってみるか?」と、私に言った。
「そりゃ、なれるものならなってみたいさ。でも、簡単になれるものでもないと思うし・・・」
その時私は例の眩暈を感じた。
目の前に豪華なシャンデリアが見える。私は螺旋階段を下りているようだ。豪華な館だ。いったい此処はどこだろうと思った時「あら?起きていらっしゃったの?」女性の声が聞こえた。声が聞こえた方向に目を向けると、ブロンドの女性が私を見上げていた。私は階段を降りていた。相手は三十歳ほどの体格の良いセクシーな女性である。形の良い鼻と口。清潔そうに見える。
私は彼女の前の豪華なソファに腰を落とした。体が意思に反して動くのだ。
「コーヒーになさる、それとも紅茶かしら?」彼女は私に聞いた。
「コーヒーにしてくれ」思いもよらない言葉が無意識に出ていた。しかも、私の声ではない。
(まさか?)
女性の近くにいたメイドが部屋から出て行った。ソファーに腰を落とした私は、メイドの持ってきたコーヒーを飲みながらテーブルに置かれていた新聞を手に取った。
(私は何者なのだろう?)と、私は考えた。もちろん、このボディの持主の事である。金持ちで、ブロンドのセクシーな奥さんを持っている。本物の私は貧乏人。年収で計算するとアメリカの中産階級の下段に位置している。アメリカの政府は、中産階級からの税金を当てにしているようで、税金額は毎年うなぎのぼりであり、他の諸経費も高くなった。しかし、私の給料は過去数年上がっていない。むしろ、残業が少なくなったので給料は下がった。
(金持ちになってみたいものだ)とは、支払いをするときの私の口癖だ。
兎に角、犬が、例の変な犬がセーフ・ウエイの駐車場で私を誰かに移し代えたのだ。つまり、私の脳を金持のセレブの脳と代えた。肉体だけは本人の物で、脳は私のもの。車にたとえると、私の身体は中古のトヨタ・カローラであり、相手は最高級車のベンツ。こんな高級車を私は運転した事がない。
「あなた?」
女性の声に顔を上げると、女性が私を見つめていた。
「うん?」
「どうかされまして?」彼女は心配そうに言った。
「あ、いや・・・なんでもない。今日のスケジュールを考えていた」私は適当に答えた。
「あら?今日は、日曜日でしょう?」
「ああ、そうだったね。忘れてた」
女性はかすかに微笑んでソファから腰を上げた。微かに石鹸のにおいが鼻腔をくすぐった。
「わたくし、少し買物に出かけてきます」
「ああ・・・」私は、軽く答え返し新聞記事に目を戻した。心臓の鼓動が高く聞こえてくる。相手が私の不自然さに気づかないように、私は息を潜めた。サンショウウオのような心境だ。じっとしていた。女性はリビング・ルームから出て行った。
私はのどの渇きを覚え、やや冷めかかっていたコーヒーを一息に飲み干した。
そして、私の服のポケットで携帯の着信音が鳴った。この身体の男の物だ。躊躇したが取り出して、受信ボタンを押し、耳に当てた。
「ベン、私よ。あなた、お元気?」女性の声だ。若そうである。
「あ、何とか・・・」
「今日、会えるかしら?」と、相手は聞いてきた。男の名前は「ベン」で、この女は何者なのだろう・・・。
「今日・・・」私は、少し間を置いた。
「そうよ。例の話もしたいし・・・そうね・・・私のコンド(コンドミニアム)に来てくださるかしら?」
コンドはまずい。私は、彼女を知らないのである。もちろん、コンドの場所など知らない。
「どこかレストランでも・・・」と、私は提案した。
「そう・・・そうね・・・では、寿司・バーはいかが?」
私は日本人だ。寿司は好物である。もちろん賛成した。
「じゃあ、モリモトで」と、相手は店を指定した。日本語の名前なので簡単に記憶できた。私は、コンピューターで「モリモト」と言うスシ・バーを探した。どうやら昔、例の日本語テレビにあった「アイアン・シェフ」に出た日本人の店のようだ。
私は車についているGPSをセットし、マンハッタンにある約束の店に向かった。女性は直ぐに見つかった。相手がすし屋の入口近くで待っていたのである。
「ベン!」相手が声をかけてきた。
「やあ・・・」私も軽く片手を上げて答えた。女性は私に近づきアメリカ的に抱擁をして、軽く私の唇にキスをした。セクシーなキスだ。私は、相手を軽く抱きしめた。
女性は、どうも、この身体の持主の愛人のようだ。少し、身体の一部が勃起したので、かなり関係を持っているのだろう。
私達は「モリモト」と書いてある店の中に入って行った。予約して有ったのか、入口で名前を告げると、店員がアーティスティックに装飾された店内の奥のほうのテーブルに案内した。
女性は高級なワインに、刺身と握りの注文をした。
ワインの注がれたグラスを持ち上げて乾杯し、一口飲み終わった後「ねえ・・・」と女性が切り出した。
「うん?」私はあらためて相手を見た。美人だ。若い。
「何時(いつ)なの?」と、相手は短い不可解な言葉を口にした。
「えっ?」
私の少し驚いたような表情に相手は、少し私をにらみつけるようにして「離婚」と再確認するように言った。日本の週刊誌などに書いてあ不貞疑惑のパターンだ。
多分このベンツ野郎のベンは、愛人から奥さんとの離婚を要求されているようだ。冗談ではない。トラブルはごめんだ。私は好んで、この男の肉体を借りているのではない。女性からは、僅かだが殺気さえ感じられる。
「薬・・・用意してあげようか」と、女が言った。私は握りスシを頬張っていた。意味が良く分からない。
「睡眠薬?」と聞いてみた。私の借りている肉体が、不眠症かもしれない。
「毒薬」相手は真顔で言った。
結局私は、見知らぬ女に渡された薬をポケットに入れたまま、この肉体が持主である豪邸にもどった。例の美人妻が朝と同じように私を向かえた。
「おかえりなさい。お仕事でしたの?」と相手が聞いた。
肉体の操縦者である私は、返答に窮した。あなたのご主人は女性と会ってましたよとは言えない。理由が分からないのだ。突然と現場に参入した者が戸惑う事と同じである。
「ちょっとした用事でね」と私は答えた。
相手は軽く微笑んで「お昼、なさいます?」と聞いた。
すし屋で別の女性といた私は、もちろん腹いっぱいだ。久しぶりに高い値段のスシだったから、この男の肉体とは無関係に、私自身が食べたと言う感じだ。一寸手を口の持っていくと、空気に触れた唇の周りから魚のにおいが感じられる。まさか、相手が挨拶でキッスを要求してくる事はないと思うがアメリカ人である。私の口についた魚の香りを感ずかれないようにしなければならない。
「外で、食べた」と、私は言い二階に向かった。このまま、ここにいると怪しまれると思ったからだ。階段を二階に向かって歩きながら足元を見ると、高級なじゅうたんが敷かれている。
足元を見ながら、私は二階にあがりもとの部屋に戻った。ドアを後ろで閉めると足早に鏡に向かった。白人で、壮年の男が鏡に映っている。私は手で顔に触れてみた。唇、鼻、耳と触り、髪をかきあげる。鏡の中の虚像が私と同じ動作をしている。私は、他人になってしまっていた。
人間の脳の持つすべての動きが私で、肉体だけが他人である。強いて言えば他人の高級車を盗用しているのと同じ事で、勝手が違うし居心地が良くない。
ポケットに手が行った。例の小瓶が手に触れた。
小瓶の中身は、本当に毒薬なのだろうか。私の現在持っている肉体の男と、今日会った女性との関係は・・・脳は私で、肉体は他人・・・それで、この肉体の持つ本当の脳、それが支配する資産と毒薬・・・。
私は深くため息をついて頭を抱えた。
美しい妻を持ちながら、何かのきっかけで若い悪女と情を交わしたに違いない。それで、現在の妻を追い出して、若い女と一緒になりたいという事なのだろうか?
それとも別の意味で、現在の妻を殺害したとすると・・・この後、どのような結末が待っているのであろう。犯罪は、当然精神と肉体が総合的に行う違法的且つ動物的本能のなす事である。
この肉体を持つ男は、自分の得策のために妻を殺害しようとしているに違いない。
そのために受ける精神的苦痛は、この肉体を動かしている私に降りかかってくる。私は恐怖を覚えた。
肉体が、ぐいぐいと殺人のほうに動いていく。私は、それを止めようとしている。
その時、私の耳に犬の声が聞こえてきた。
「おい、どうだ?」
確かに犬の声だ。(たすかった)と、他人の肉体の中に居る私は思った。犬は、テレパシーと呼ばれるような通信手段で私とコンタクトしているようだ。
「たすけてくれ」と私は、犬に言った。
「金持ちになることは、楽しかったか?」犬が聞いた。
「冗談じゃあない。殺人者になるじゃあ無いか」私は、怒って犬に言った。
「ま、そう怒るな。金のある人間は皆、あんなものさ」
「金持ちの経験なら、もう少しまともな人物を選んでくれ」
「まともな金持ちなど、いないだろ?」犬が言った。
「・・・・・・」私は言葉を失った。
「貧乏な地球人に戻るか?」犬が言った。
「そちらがいい。頼む、元に戻してくれ」私は懇願した。
すると、再び軽く眩暈(めまい)がした。
3)犬とカラスは宇宙人
私は、セーフ・ウエイ近くの路上にいた。
犬の金玉が目の前にぶらぶらゆれている。どうやら、自分の肉体に戻った時に、つまづいて転んだようだ。例のダサい犬が私を振り向いて「お帰り」と言った。
「冗談じゃない。あんな経験は金輪際(こんりんざい)嫌だね」
「いい経験だ」
犬の言葉に、私は「冗談じゃない」と言いながら立ち上がった。その時「カー」と、カラスの鳴き声が聞こえたと思うと、例の大きなカラスがバサバサと羽音を鳴らして飛んできた。
カラスは「ヘンリー。もうそろそろ行くか?」と犬に言った。
「そうだな・・・この辺で、いいだろう」
突然と犬は白人の男性に。そしてカラスは、大男の黒人の姿になった。
「では、とりあえず月に行って、それからだな」犬から人間になったヘンリーが言った。
それでも、私は二人を小馬鹿にしていた。所詮犬とカラスじゃあないか。NASAのロッケットのように地球から月に向かうなんてありえない。
「可笑しいね。宇宙船はどこかな?」私は、犬の首輪と紐をぶらぶら揺らしながら、嫌味ったらしく聞いた。この言葉が、私を大宇宙の旅に向かわせるとは、思いも寄らないことだった。
ヘンリーはにやりと笑って、ポケット中から小さな箱を取り出した。ふたを開けると私の前に突き出した。中に米粒がひとつ転がっていた。
「宇宙船さ」と彼は言った。そして、彼は米粒をポイと道端の木の茂みに投げ入れた。
「さあ、いくか」ヘンリーが言ったとたん、私達はオウムガイの内側にある真珠層と呼ばれるような、光沢のある虹色と白の空間にいた。
「ここは、どこ?」と、私は聞いた。
「宇宙船さ」
「まさか・・・あの、米粒の中?」
「そうだ。見ろ・・・」ヘンリーが指差すと、壁の一部が透けて外が見えた。大きな木の葉が見える。要するに、米粒のような宇宙船は、街路樹の木の葉の上に停まっているようだ。
「そんな、馬鹿な・・・」私はうろたえた。家に戻らなくてはいけない。明日は、会社に行く日だ。勝手に休んだりするとレイオフ(解雇)される可能性がある。私は上司に好かれていなかった。アメリカが不況になる前に家を買い、不況と同時に少しの蓄えも底をついていた。現在は給料から給料と、支払いに追われている。休む暇などは無い。日本にだって、すでに十年間も戻っていなかった。93歳になる母親にも会いに帰れない状態だ。
「降ろしてくれ。明日会社に行く日だ」と、私はヘンリーに言った。
「休めばいいじゃないか」
「君は知らないだろうけど、人間社会は甘くないんだぜ。勝手に休んだりしたら解雇の対象になるさ。仕事を失いたくない。それに、家では家内が僕を待っているだろうし。覚えているだろう?君が犬の時、彼女はドッグ・フーズを買って来なさいと言った。すでに半日は経っている」
「心配ない」相手は、めんどくさそうに言った。
その時に黒人の男、彼はトーマスと呼ばれている、が突然と現れて「準備完了」とヘンリーに言った。
「よし。では、エネルギーを確認する」
「君達何を言っているんだい」私は、二人に向かって声をかけたが相手は答えなかった。
「エネルギーが少し足らないな・・・前回、使いすぎたのでどこかで補給していこう」ヘンリーがトーマスに言った。
「あの、大変失礼ですが、私には分かりません。家に帰してくれませんか?」すっかり、気落ちした私は丁寧な言葉で二人にお願いをした。
「家に?」トーマスが聞きなおし、カッカとカラスのように笑った。
私はムッとした。「こんなのは、マジックに違いない。とにかく、僕をここから出してくれ。もちろん、通り道でいいです。歩いて家に帰るから」と、私は二人に言った。
「君は地球人として選ばれた」と、ヘンリーは分けの分からないような事を言った。
「選ばれた? ぼくが?」
「ああ、そうだよ」
「よしてくれ。僕はすでに64歳だ。妻は70歳。あと三年したら仕事を止めて日本に戻るつもりです。選んでもらえなくても結構です。降ろしてくれたまえ」20歳代と思われるヘンリーとトーマスを諭すように言った。私は、かって日本語学校で教えていた。生徒を、扱う事には慣れている。とにかく、よく話し合ってみようと考えた。
「心配ない」今度はトーマスがヘンリーと同じように言った。
「ありがとう。でも、私は若くないので、他の優秀な若い人を選んだらよいと思う。例えばNASAの宇宙飛行士など如何だろうか。彼達は宇宙になれているし、地球人の代表としては確かで、ああ、そうだ。彼達は僕と違って頭がいいし・・・」と、私は提案した。話しながら、地球人とか、宇宙とか、変な夢を見ている。早く目覚めなければと思っていた。
「心配するな。君は、われわれのシステムが選び出した地球人さ。それに、人間の年齢などいくらでも変えられる。鏡に映る自分を見てみな」ヘンリーの言葉に、光る壁を見ると確かに若い男性が映しだされている。無意識に手や頭を動かしてみると、虚像は私と同じように動いた。
「これは、僕が・・・若くなってしまった」
「変なこと言うな。地球人の年齢など、コントロールするのは簡単だ」と、ヘンリーが言った。
「ワッ!これは、大変だ。僕は君にバーガーをおごって、バナナも買って、しかも、家で飼ってあげるとまで言ったのに」頭で浮かんだ支離滅裂な言葉を口に出した。言葉も「わたし」と「ぼく」が、めちゃめちゃに使われている。
「家では家内が待っている。そうだ。彼女は血圧が少し高い。それに、年上で70歳だから、僕がもし家に戻らないと病気で倒れるだろう。家の支払いもある。電気代もガス代も、車の保険だってあるし」私は、二人に喋りつづけた。
「ヘンリー。このうるさい地球人を何とかしろよ」とうとうカラスだったトーマスが折れた。これで家に戻れるかもしれない。
「彼の家にはダミーを送った。彼より頭が良い。モット稼ぐかもしれないぜ」と、ヘンリー。トーマスが再びカッカと笑った。私は再びムッとし「誰のダミーですか?」と聞いた。
「おまえだよ。地球人」
「僕のダミーが?」
「そうだよ。君より優秀な君のダミーだ。見たいか?」相手の言葉に私はコクリと頭を振った。
キューンと動く音がしたら、直ぐに私の家が見えた。そして、宇宙船はゆっくりとスピードを落として家に向かった。壁が近づいて来たがとまらない。「危ない、ぶつかる!」私の叫び声と同時に宇宙船は家の中に入っていた。一体、小さな私の家の中のどこに居るのか、多分空中だろうが米粒大の大きさなので、虫の嫌いな私ならハエ・タタキで叩き落すかもしれない。私の目の前の壁に私の家の中が映っている。というより、外が見えているというのが正解だ。ところで、どうやって家の中に入ったのだろう。網戸でも隙間は、米粒より小さいはずだ。
「どうやって家の中に、宇宙船を入れたのだろう? 米粒でも、網戸に入る隙間は無いはずだけど。ドアも開いていなかったし・・・」私は素朴な質問をした。
「米粒?ああ、アジアンの食べるアレか。俺たちが乗っている船はミューオン(素粒子)サイズだ。地球の物体なんか、隙間だらけさ。それに、粒子サイズに近づける事で質量をなくしているから、エネルギーが少なくてすむ」
「でも、君がポケットから出した宇宙船は米粒サイズだったけど?」
「持ち運び用の大きさだ。あのサイズでは、大宇宙は旅行できない」
「でも、テレビなどで巨大な葉巻型のUFOとか」
「地球人の創造の産物にすぎない」
「すると・・・地球上では、我々人間に見えない宇宙船、UFOがいっぱい飛んでいる事になるじゃないか」
「その通り」とヘンリーは、何かの装置を確認しながらめんどくさそうに答えた。
私は、やはり夢を見ているのだろうと思った。今朝、犬に私の脳をいじられて以来、どうも自分の考えている事に現実味が無い。タンポポの種のように空間をフワフワ浮遊しているような錯覚がある。
私は両手で自分の顔をこすり、恐る恐る目を開けた。同じ風景だ。しかし、そこには、私が居てコンピューターのスクリーンを眺めていた。
「僕がいる」
「そうだよ」ヘンリーがニヤリと笑って言った。「と、言う事は、あれが僕のダミーかな?」
彼達は私の言動を無視して、別のことを話し始めていた。
「さて、エネルギーを、どこで補給するか」
「この家で、電気を借りよう」
「ちょっと、待ってくれ。宇宙船などに家(うち)の電気を充電されたらPG&E(電気会社)から、それは高額なチャージ(請求)がきます。貧乏人を困らしてはいけません。僕は、君が犬の時、ハンバーグをご馳走してあげたし、バナナやアイスクリームまで買ってあげたのに、恩をあだで返すのは良くない」と、私は慌てて言った。
「心配するな。人間の使う携帯電話に充電するのと同じ量だ」
「それに」と、ヘンリーは言い、あごで外の私のダミーを示して「こいつが、金を稼ぐ」
「そんな馬鹿な。ダミーでも、僕は僕だ。会社員の給料なんか知れているんだぜ。中流階級の下だ。しかも下の下。それ以上は無理だね」私は自信を持って言ったが、開き直ってもいた。そして、少しメソメソしていた。貧乏だったけど、今までの生活は楽しかったのだと痛切に思った。妻との質素な生活や、支払いに終われる毎日が楽しく思い出された。
「降ろしてくれ。もう金持ちになりたいとは言わないから。お願いします」と、私はヘンリーとトーマスにお願いした。
しかし、相手は「だめだよ。君は、地球人の代表だから。今、止めたら地球の人類は滅びる」と、言った。
「人類が滅びる?」私は聞きなおした。
「そうさ。地球が破壊する」
「戦争?」
「いや、違う」
「じゃあ、僕は関係ない。降ろしてくれ。家に帰してくれ」私は繰り返した。
「地球の酸素が無くなる。人類滅亡」
「僕は関係ないね。金持ちであれば別だけど。彼達は財産があるから。でも、僕なら人類滅亡は大歓迎だ。おさらばさ。こんな、格差社会、一生懸命働いても支払いに追われるなんて、もうごめんだ。よし、僕は決心した。人類滅亡歓迎派に入ります。書類があればサインします。判子も押します。従って、君たちと一緒に行動は出来ない。家に帰る」私は理屈を言った。
「しかし、君は選ばれたんだぜ」
「どうして、僕が選ばれたのか分からない・・・」
「我々もわからんよ。他の惑星の奴は、もう少しマシだった」
「・・・・」
「勇気のないやつだ」
私はこの言葉にムッとした。私は日本人である。大和魂と言う言葉を持っている日本民族の一員でもある。こう言った宇宙人の輩に(勇気が無い)などと言われては日本人、
否(いな)地球人の恥であるとさえ考えた。単純な男だと、笑うなら笑え。
「よかろう。君たちがそこまで言うなら、行きましょう。宇宙の果てへでも、どこでも。どうせ、貧乏から抜け出せない。ああ、よろしいでしょう」
私は完全に開き直っていた。しかし、相手は宇宙人。私の真意は分からなかったようだ。
「よし。話は決まった。我々は先ず月の基地に向かう」
彼達は、宇宙船の操作室のようなところに入り、不思議なボード(そこには変な文字や数字が並んでいる)でタイピィングのような仕草をはじめた。
私は彼らの後ろに立っていたが疲れたので近くの、これ又不思議な形のモノに腰をかけた。すると、私の身体は自然界の癒(いや)しに包まれた。私の肉体は、まるで携帯電話のように充電され、エネルギーが沸き起こってきた。直ぐに私は、先ほど愚痴っていた人間ではなく、勇気と希望に満ちた人間に変わっていた。
「月の基地までセット完了。地球時間で二秒・・・出発」
「月、到着」
私は、呆然と彼達の会話を声を聞いていた。宇宙船の外は月の表面だ。つまり、テレビや本で見た月、最近はYUTUBEでも見た事がある。アポロの月着陸疑惑とかで、月面は想像できた。
それにしても、瞬時に先ほどいた私の家の中から月面とは信じがたい。
4)月に行く
「ここは、どこだろう?」平凡な言葉をヘンリーとトーマスの背後にかけてみた。
トーマスが後ろを振り向きカラスのようにカッカッカと笑った。
「月。かぐや姫の家がある」と、ヘンリーが言った。「兎も、蟹もいる」トーマスが付け加えた。彼達は地球人を小馬鹿にしているのではないか。
「月だろう。知ってるよ。それにしても、移動に二秒とは信じられない。まだ地球に居いて、それは月の表面を映したテレビのスクリーンかなにか・・・そうだ、ゲーム機器のバーチャルリアリティを見れる『ゴーグル』かなと、私は言いながらスクリーンの端に青と白で美しく輝く地球の姿を見た。
「地球が見える・・・」
しかし、このような光景は家の近くにある「ベスト」と言う電化製品を販売している店で、デモンストレーションの大型4Kテレビとか何とかで見た事がある。私と家内は、コンピューターなど最新の電化製品の並ぶこの店が好きで、フォル・マート(アメリカの世界的なスーパーマーケット・チェーン)に家から歩いて行く時は必ず立ち寄った。そして、テレビの前に座り最新の画面を眺める。要するにただ見である。
「大型のテレビ・スクリーンのようだ・・・」と、私はつぶやいていた。
私の言葉を無視してヘンリーが「さて、基地に向かうか・・・」と言った。宇宙船はゆっくり動き始めた。銀色の世界がスクリーン上で動き始めた。月面上の光と闇の境や、フジツボのようなクレーターが見えている。しかし、まだ高度は高いようだ。下界は飛行機が着陸態勢に入った程度に見えていた。
宇宙船には音が無い。揺れも無い。どのようなエンジンで動いているのかは分からないないが、私の家の電気で充電したので、多分電気だ。あの時は米粒よりも小さい粒子の大きさだった。しかし、現在の宇宙船は、月面に宇宙船の陰が見えているがかなり大きい。宇宙船は高度を落としたようだ。速度が前よりも遅くなった。
「ここで、何をするのだろう?」当然、私はまだ夢の中にいると信じている。このような事は、現実にありえないからだ。私はアメリカのサン・ホセ市にある小さな家で、年上の女房と暮している。朝きちんと会社に行き、夕方遅く帰ってくる繰り返しの毎日が月曜日から金曜日までつづき、次の年を迎えるのだ。私の給金は高くない。それでも、家内(女房)と生活を切り詰め、何とか楽しく暮していた。あの変な犬が私の前に現れた日だって、数ヶ月に一度しか食べないハンバーガーを、たまたま食べていただけの事だ。他の日には食べない。余裕が無い。
あの辺りで、私の脳に何か変な変化が現れた。もしかしたら脳腫瘍で、幻想を見ているのかもしれない。又、腫瘍の摘出外科手術のため、私は麻酔を打たれたのかもしれなかった。しかし、それにしても私が現に見ている下界はまさしく月で、疑いようの無い風景だった。たとえ、私の脳が腫瘍に冒され、幻想を見ているのであれば、それは夢が現実だと決め付けても良いほどだ。
銀色に輝く月面の岩肌は私の人生では経験した事のない美しさで、外科手術道具の輝きにも見える。
「人類のアポロ11号が降りたのは確か・・・『静かの海』だったけど・・・」私は不安を覚えたので、宇宙船室内の沈黙を破るようにつぶやいた。
「一体、この辺りはどこだろう?」この言葉に、先ほどまでへんな言葉でやり取りをしていたヘンリーが「地球人の月面図と違うが『&%^$#**』だ」と言った。
知らない名前だった。私は場所を聞くのを諦めた。
宇宙船は、月の裏側のほうに進んでいくようだ。全面のスクリーンに光と闇の境界が見え始めている。次第にあたりは暗くなり高度が下がって行く。やがて大きなクレーターの側面が近づいてきた。
『瞬間』と言う言葉が当てはまるかどうか、宇宙船は自然にクレーターの壁を越えて内部・・・つまり、月の内部に入っていた。それは、私が人間として地球上に生を受け学習し、生活し、常識を身につけたこととは程遠い、思考外の出来事だった。それでも『夢』と言えば解決できた。しかし、今の自分が現実に居るのか、虚構又は夢の世界に居るのか皆目見当がつかない。自分の知識や常識外のことを経験すると、思考は停滞する。ただ、周囲の動くままに自分も動いて行く。
「さて、着いた」と、ヘンリーが言ったのを私は上の空で聞いた。月に着いたと言われても、つい先ほどまで私の家にいたのだ。信じることが難しい。
宇宙船のドアらしき物が開き、私はヘンリーとトーマスの後について外に出た。そして、私は言った。「何だ、まだ地球じゃないか!」美しい緑の木々や色とりどりの草花、青い美しい空、そして何よりも、新鮮な空気がある。
私は、手を広げて深呼吸した。安心感が私の身体に湧き上がった。幸福を覚えた。今までは夢だったのだ。さて、家に帰らなければと周囲を見渡した。浦島太郎が竜宮から戻った時の心境だ。道が見当たらないので、住所を聞かなくては。先ほどからの時間を計算すると、私の家からさほど離れていないだろう。
「では、僕は家に帰らしてもらうよ。結構楽しかったよバーチャル・リアリティの世界。君たちも、元の犬とカラスに戻って家に帰らないとね」
私は、彼達二人に片手を上げて歩き始めた。 口笛を軽く吹いた。
しかし、歩きながら今までに見た事のない風景にすこしづつ不安を覚え始めた。自分の住んでいる町なら、普段は行かない場所でもなんとなく一度くらい通ったような記憶があるものである。私は、あたりをキョロキョロ見渡してみた。見た事のない周囲の景色ばかりだ。先ず道が無い。人家のようなところも無い。木々や草花は自然に見えている。
(おい、どこへ行くつもりだ?)頭の中に、ヘンリーの声が聞こえた。私は、振り返ってヘンリーとトーマスの方を見た。彼達二人が私の方を不可思議な顔で見ている。
「家に帰るんだ」
(家?)ヘンリーの声が直接聞こえた。テレパシーを使っているようだ。
「そうだよ・・・」
(地球にか?)
「地球?此処は地球ではないのか・・・」
(月だ)ヘンリーは呆れたように言った。
「月?」私はもう一度周囲を見渡した。しかし、青い空とそよ風、草花・・・地球そのままの環境である。
「此処は、本当の月・・・」私は自分に問いかけた。
(とにかく、こちらの戻って来い。月宮殿に行かねば成らない)
私は、ふらふらと二人の元に引き返した。
「地球人。勝手な行動は慎みたまえ」トーマスがカッカッと笑って言った。
「信じられない。ま、夢だと思うけど」
その時、スーとコッペパンに似たような乗り物が目の前に現れた。それは、飛来してきたのか突然空中から手品のように現れたのか、私では説明できない。とにかく、それは乗り物だ。
私達は乗物に乗り込んだ。そしてそれは、ゆっくりと浮上し草原の上を飛行し始めた。すぐに、下方にシャボン玉の上半分のようなドームが見え始めた。乗物はスーと、そこに向かい、スーと中に入って行った。先ほどとか変わらない自然の風景がつづいた。しかし、何かが違う。私の精神は浄化され、研ぎ澄まされた。
「此処はどこ?」私の質問に「月宮殿」とヘンリーが答えた。
「月の宮殿。誰が住んでいるんだい?」私の問いに、「かぐや姫」とヘンリーが言った。
「冗談は止めてほしいね。あれは、昔の物語に過ぎない」
「では『サラ大統領』ではどうかな?」
「『サラ』・・・聞いたことがる。アレは三崎伸太郎のSF小説『女性王国』の中に出てきた。思い出した。
「その通り。あの『月の宮殿』さ」
「アレは、本当に彼が経験した事だったのか・・・」
「目的が違うけどな」
「目的?」
「『女性王国』の主人公は、サラを助けた。それで、月宮殿に招かれた。しかし、君はこれから地球を助ける為の旅に出ると言うことだ」
「・・・・・・」私には、理解できなかった。今朝、ハンバーガー店で経験した出来事と『地球を何とか・・・』など、関連性がなく、皆目見当がつかない。現に私は単なる会社員で、まあ、エージェントの仕事だから少し特別かもしれないが、その程度だ。2007年のアメリカの大不況で、貯めていた小金も使い、買った小さな家のローンの支払いに追われている。現在は2015年だが雇用が改善されたとか、株価が上がって皆が儲けていると言うニュースを、素直に信じることができない。政府の政策は一部の人には間違いなく富をもたらした。しかし、金が無い人々はどうする事も出来なかった。銀行は貧乏人には金を貸さない。中産階級は税金の標的になっている。『アメリカンドリーム』を信じているのは『後進国から来た移民のみ』とアメリカのニュースは報じている。
だから、私が現在経験している事を『夢』であると考えるのは自然だ。地球では『水槽の脳』と言う言葉がある。自分の体験していることは、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティーであると言う仮説だ。私の現在の立場は、この仮説のような状態だ。
『月宮殿』は、信じられないくらいの美しさだった。地球の造形とは根本的に違う、神秘で高貴な雰囲気に満ちていた。私のように地球生命体としての肉体を持ち、地球で得られた知識でしか物事を認識できないことは、目の前に広がる実物の実在性が曖昧であり、それは『夢』の世界にいることと同じ事である。
私は頬をつねった。
「何をしている?」トーマスのガラガラ声が聞こえてきた。
「あ、いや・・・地球人の作法だよ。我々は夢を見ているか判断する時にこれを行います」
彼はカッカッカと笑い「面白い」と、まともな言い方をした。
「面白くなんか無いさ。僕は、絶対に夢の中にいる」そして私は、手を頭の上の方に持って行った。
「何をしている?」再びトーマスが聞いた。
「僕の枕もとの目覚まし時計を探しているんだ。直ぐにベルがなる。多分朝方だ。僕は朝7時に起きれるようにベルをかけている」
「・・・・・」トーマスはしばらく考えていたようだったが再び「面白い」と、言った。
「地球人は『睡眠』を必要とする生物だ」と、ヘンリーがトーマスに言った。
「そうだったのか・・・彼のダミーに『睡眠動作』を入れなかったぜ」
「地球人は、何時間ほど睡眠というものが必要だ?」
私は、現実に戻り、それでも現実を話せることが少しうれしくて「僕は最低でも8時間は必要です。8時間眠らないと頭が働かない」と、言った。どうせ、この会話だって夢の中のことなのだからと思っているし。
「地球時間で8時間か・・・お前、寝てばかりじゃないか。それじゃあ貧乏から抜け出せないぜ」
「何とでも言ってくれたまえ。君たちは所詮、僕の夢の中の人物達だ。夢から覚めれば、君達ともおさらばさ。明日は月曜日だから、会社だ。家から車で一時間ほどもかかるからね。夢を見ずにグッスリ眠りたい。もう、干渉しないでくれ。では、おやすみなさい」私は、仕事のことを考えていた。私はフレイト・ホワーダー(物流会社)で輸出の仕事をしていた。航空貨物輸出のAWB(エアーウエイ・ビル)などを作る仕事だ。
金曜日に日本向けに作った混載のAWBを整理しなければならない。それに、数多くのE・メイルが日本やクライアントから届いているはずだ。
「とにかく、ダミーには8時間の睡眠時間をセットした。奴は、すでに株で10万ドルほど稼いでいる」
「10万ドル?約1、000万円・・・君たちの言っているのは、先ほど僕の家で見た、あの、なんというか、僕の替え玉(ダミー)とか何とか・・・」
「その通り」
「まさか、あり得ない。僕は貯金が無いし、株なんて無理と思うけど・・・」
「それは、自分の能力だろう?」
「え?ま、そうです・・・」私は、小さく答えた。
「我々には、地球人の持つ『金』とか『財産』又、『地位、名誉』などというモノが無い。しかし、君たち地球人がこれらに振り回されているのは知っている」
「そのとおりです!」私は少し声を強めた。
「しかし、君にはモット大切な役目がある。それは、地球を救う事だ」
「地球を・・・とんでもない。前にも言ったように、僕にはそのような能力はない。無学な人間で、社会的には中間層の下」私は、へとへとに疲れた状態になっている。彼達は私と、誰か他の人間と間違ったに違いない。NASAの宇宙飛行士などや、有名な研究所の博士号などを持つ誰かとだ。私は『貧乏』『中間層の下の下』などど、言い続けた。
「ああ、うるさいやつだ。『貧乏』とは何だ?」
「よく聞いていただきました。『貧乏』とは、お金の無い事です。したがって、勉強が出来ず能力もありません。僕は貧乏だから、君たちに協力できません。失格者です。家に帰らせてください」私には「貧乏」と言う言葉が武器になっていた。これで、彼達は最低の地球人だと判断して「地球を救う」などという、とんでもないプロジェクトから、私を外すだろう。
しかし、私の予想ははずれた。身体の健康チェックとかで透明な筒状の中に入れられた。そして、ヘンリーとトーマスに連れられて、別の人間に会った。女性だったがサラ大統領ではない。医者かもしれない。私達の腕に何か注射のような事をした。
「これで、大丈夫でしょう」と相手は言い、私を見て「例の地球人?」とヘンリーに聞いた。
「そうだけど、今までの人間とは少し違う・・・頭が少し変なんだ」
「彼は、私達の『知能システム』が選びぬいた地球人よ」
「そこが分からない」
「面白い奴だぞ」トーマスが口を挟んだ。
「今まで協力してくれた地球人は、すべてPhd(博士号)を持っていた。しかし、彼は一般人だぜ」
「でも、あなた、彼の脳に入って検査したのでしょう?」
「確かに・・・間違いなく彼は、私達の探していた地球人だった」
女性の月人が私を向いて「貴方は生まれる前の記憶があるでしょう?」と、聞いた。
「生まれる前?まさか、そんなのありませんよ・・・人間は生まれて三歳のころまでは記憶が・・・」と私は言いながら、時々思い出していた変な記憶に思い当たった。
「ああ、一つありました。これが生まれる前のことかどうか知らないのだけど・・・山の上の方に白い服を着た人がいて私達子供をコッペパンの乗物のような物に男女一人づつを乗せて送り出した。そして、私は、ある家の上でパン!とはじけるようになり下に落ちて、母の腕の中にいた・・・」私は、ここまで、ふと思い出した。あの時の乗物は、この月の世界に来て乗ったスクーターのような乗物だった。
「私達があなたを送り出したのです」
「私を?信じられない。私は現在64歳です。貴方は30歳代でしょう?」
「ああ、人間の年代ね。そうね・・・私は300歳かしら?」
私は『月人』だったのだろうか。
そういえば、青い空に浮かぶ水晶のような月が好きだ。月は、地球にぶつかった隕石と地球の破片が宇宙に飛び散り、それが衝突を繰り返して雪だるま式に大きくなった惑星と言うが、本当のところは誰も知らない。
しかし、私の目の前には確かに月人たちがいた。環境は地球そのものだ。私はためらわずに月人に聞いた。
「なぜ、月の中のこのような広大な地球環境があるのでしょうか?」
「難しくは無い」ヘンリーが言った。そして、女性の月人が答えた。
「『かぐや姫』を知っているでしょう?」
「もちろん。竹取物語の・・・竹の中から見つかった、小さなお姫様」
「そう。月人は地球人に比べて小さくなっています。ですから、空間が大きく使えるのです」
「なるほど・・・・」
私は、小さな米粒ほどの宇宙船に乗って、月に来たのだ。月の世界が地球の自然環境のように広々としているのは、私が小さくなったからだった。
地球人の私達は、かって地球に住んでいた恐竜の巨大さを人間と比較して驚愕している。しかし、小さい事の利点は空間占領率に比例する。
又、粒子が空間を進むスピードに近づきたいのであれば粒子の大きさが必要だ。小さくなる技術により、より生命を伸ばすことも出来る。
「ところで、地球を救うとは、一体、どういうことですか?」と言う私の問いに、彼女は「地球人の間で『地球滅亡』と言う言葉が氾濫していますよね」と、私に確認するように聞いた。
「ええ、ノストラダムスの大予言やマヤの暦、神話、天体学者の予測など数多くありますよ。例えば、小惑星や巨大隕石が地球にぶつかるというのが最近の説です」
「それらは、簡単に回避できます。万が一のことがあれば私どもがそれらを消滅させます」
「では、核戦争とか細菌・・・」
「そのような事でもありません」
「ウエブサイトで探すと、いっぱい出てきますけど・・・」私は、うろ覚えのウエブサイトを思い出したて言った。 そこには「地球滅亡のシナリオ」と書いたサイトが多かった。
「ウエブサイト・・・ああ、地球人の作ったコンピューター・システムですね」
「はい。検索サイトで探せばいくらでも出てきます。簡単です。我々現代人は、コンピューター無しでは、生活できません」私は、演説口調で言った。
「そうですね。しかし、それは物理的定数の上に成り立っているので枠組みだけで判断されるモノです」
私には良く分からなかった。
「物理的定数?」
「地球人の使う数字です」
「・・・・・・」私には皆目見当が付かない。
私は、思い切って聞いた。「では、地球が滅亡する本当の理由は何ですか?」
「『不思議の国のアリス』さ」とヘンリーが口を挟んだ。彼はいつも頓知めいた事を言う。
「白い兎を追いかけて不思議な国に迷い込む」トーマスが続けた。
「そのくらい知ってます。アリスと言う少女が兎の穴に落ちて小さくなったり大きくなったり・・・単なる物語でしょう?」と私は、少し腹を立てた。
「いや、申し訳ない。ま、あのような感じになる。つまり、我々は地球人が兎の穴に落ちないようにする」
「兎の穴?月のですか?」私は聞いた。
「ブラックホールから地球を救います」と女性の月人。
「ブラックホール!」私は声を上げていた。ありとあらゆるものが吸い込まれていく未知の世界だ。無知な私でも、耳学問で知っていた。
「無理ですよ。いくらなんでも、あのように巨大なエネルギーの中に・・・」ふと、彼達の実験材料のモルモットとしてブラックホールに送られるのではないかという不安が私を横切った。すると、私の家にいる私のダミーが一生、私に取って代わるのだろうか。もう、日本も戻れないし高齢の母にも会えないのだ。そう思うと、悲しくなってきた。
「ブラックホールなんか、ふつうだよ。地球で言えばアミューズメント・パークかな?」と、再びトーマス。
「そんな馬鹿な。僕は、ウエブサイトで見ました。博士号を持つ偉い方たちがブラックホールは、地球さえも粉々にするらしいです」
「地球物理学ではね」
「?」
「地球では物理定数の上で推測するのだろう?」
「詳しい事は知りません・・・」私の頭には、暗い穴がイメージされた。コンピューターのスクリーンで見た事のある丸くて暗いぽっかりと開いた穴だ。黒い丸い円は穴に見える。しかし『穴』ではなく、時間の静止状態に過ぎないとヘンリーが付け加えた。
「ただ、中に入ってブラックホールを正常にするには、特殊な地球人が必要でした。それが、貴方です」と女性が言った。
「僕が、ですか?」
「そうです」
「でも。ヘンリーは地球の酸素がなくなるとか?それは、ブラックホールと関係ないでしょう?」
「あります。ブラックホールによって、地球のすべての気体がなくなります」
「酸素が・・・」
「吹き飛ばされる」ヘンリーが付け加えた。
「時間が静止していると、動きが無いのに流動性があるのはどうしてだろう?」
「『時間』に、次元が動いていくから」と、ヘンリー。
私にはチンプンカンプンの現象だ。考える事を諦め、誕生日のケーキをイメージした。ケーキの上に立つろうそくの火が吹き消される。暗い闇が辺りを包む。バースディーの歌は、すでに終わっていた。「幸福」を、取り戻さなければ成らない。
私は言った。
「夢でなければ、とにかく、がんばって見ます」
「よし、では明日出発だ」ヘンリーが言った。
5)かぐや姫とブラックホール
私達地球人の常識では、ブラックホールは高密度で大質量のため極限に近い重量を持つ。しかし、月人たちはブラックホールは単なる宇宙の「ほころびで時間が無い」のだと言う。 そのほころびが地球近くに出来かけているので修繕しなければならない。そして、それは人間世界の家の壁にひびが入りつつあるのを修繕するのと同じことらしい。ひび割れた壁を修理する左官職人と同じ事のようだ。
私は壁のひび割れをイメージした。セメントでブラックホールを修理するのだろうか。しかし、ブラックホールは丸い穴のような形だ。そこに宇宙が流れ込んで他の世界に落ちている。私のイメージではそうなる。私は、天文学や物理学に疎(うと)いので、実際は知らない。
これから、月人のヘンリーやトーマスと一緒に、地球に影響するブラックホールを修理に行く。トーマスによると「ブラックホール」は「アミューズメント・パーク」らしいが、遊園地みたいなモノか・・・でも、どうして私が必要なのだろう。わざわざ、私の脳に入り確認し、月に連れてきてまでブラックホールの修理に手伝わされるのだろう。人間社会には優れた人物が数多くいる。私は若くもなく、社会的地位もない。又、大した学歴も持たない。経済的にも貧乏で、性格も世間の荒波にもまれて少々いじけている。月人は、どうして私を選んだのか皆目見当が付かなかった。不安だった。私は再び聞いた。
「ブラックホールって何なのだろう?」
トーマスがカッカッと笑って答えた。
「ブラックホールでは時間が止まっている。そして、異次元のひび割れが宇宙の裏と表をつないでいる。地球人的な考えでは、説明できない」
「現場で、貴方の能力が発揮されるようです」女性が付け加えた。
「では、昼飯でも食べに行こう」ヘンリーが言った。私は、彼の言葉で空腹を覚えた。変な犬の姿だった「ヘンリー」と会った時に、ハンバーガーを食べていて、次に「金持ち」を体験した時は、他人の身体だった。緊張から、お茶漬けなどを食べたい心境だ。
私達、月人の女性を除く、は再びコッペパンのような乗物に乗った。今回はゆっくりとしたフライトだった。美しい森の中を抜け、小高い丘を越えてしばらく進むと湖が見えてきた。
「君は何を食べたいかな?」ヘンリーの問いに私は、日本人らしく「お茶漬け」と答えた。
「なるほど、面白い」と彼は言った。
当然私は「お茶漬け」を、月の地表で地球を見ながら食べられる物だと思った。なぜなら、彼達に出来ない事はなさそうに思えたからだ。しかも、ここに住む「かぐや姫」は、日本に住んでいたことがあるのだ。彼女は、多分、あの時代の日本食を食べていたに違いない。先ほどの20代の年齢に見える月人の女性は現在300歳だと言った。「竹取物語」が1500年ごろとすると、現在のかぐや姫は40歳ぐらいである。当然未だ月に住んでいらっしゃるであろう。
「君達」と私は、ヘンリーとトーマスに声をかけた。
「何だ?」
「『かぐや姫』を知っているだろう?」私は、聞くのは自由だ。月に来ても、俗世界の根性は続いている。どうせ「かぐや姫」など、存在しないので、この月人たちは無視するだろうと思った。
「月の大統領だ」
「大統領?」
「そうさ。地球人の社会にたとえると、そう呼べる」
「ヘェ・・・大統領か・・・『かぐや姫』は、月世界の大統領だったのか・・・」
「会いたいか?」
「もちろんだよ。こんな機会、夢の世界でも一生に一度程度だからね。会って見たいなあ。ずいぶんきれいな清楚な女性のようだし」と、私は少し鼻の下を伸ばした。
「良かろう」とヘンリーが言うと、スーと私達は消えた。そのような感じがした。そして、自然の中にいた。目の前に小さなこぎれいな白い建物があった。古いアメリカ風の建築だ。女の子が一人、玄関のポーチに座り足をぶらぶらしていた。私達が乗物から降りて家に歩いて行くと、女の子はポンと飛び降りてとことこ走ってきた。
「ハイ!」と彼女は言った。アメリカ人のティーンエイジャーである。ガムをクチャクチャ噛みながらニコリと笑った。T・シャツ姿だ。
「やあ、大統領、お久しぶりです」と、ヘンリーが挨拶をした。
「大統領だって?このティーンが?」私は、思わず口にしていた。
「このおじさんは?」
「地球人で、日本人です。『かぐや姫』に会いたいと言うので、連れて来ました」
「ふーん・・・」女の子は、珍しげに私をじろじろ見た。
「貴女は、本当に『かぐや姫』ですか?」
「私『かぐや姫』よ」と、相手は嘘のような返事をした。
「嘘でしょう?だって『かぐや姫』って、日本人ですよ。君は、目が青くて髪が栗色じゃないですか。どう見ても「親指姫」にしか見えない」
「フフッ」と、彼女は含み笑いをした。手を腰に当て、あの生意気そうなアメリカ人のティーンの仕草である。
「で、しょう?嘘はいけません」私は日本語学校で教鞭をとったことがあるので、元教師らしく相手を諭すように言った。
「嘘じゃないもーん」と相手は言った。大統領と言う身分にある人間の言葉ではないので、彼女は娘か、それとも親戚の子女だろう。
「大統領。彼は2015年から来ました。アメリカのサンホセに住んでいたのですが例のコンピューターが彼を今回のプロジェクトに選んだのです」と、ヘンリーが申し上げた。
「ふーん」と、彼女は再び言い、私を再びじろじろ見た。そして、にこりと笑い「やはり、そうだ」と言った。
「・・・・・?」
「私が『かぐや姫』だった時、貴方、垣根からいつも見ていた」
「私が?冗談でしょう?私は二十世紀の人間ですよ『かぐや姫』の竹取物語は十四、五世紀で、はるか昔の時代です。それに『かぐや姫』は、物語です」
「かもね」と女の子は言い、私を相手にしなかった。結局、嘘だったのだろう。だから、だ。
すると、私は自分が今までにいなかった場所にいることを感じた。
「あれ?此処はどこだ・・・」ヘンリーも、トーマスもいない。月でもなさそうだ。
(ああ、やはり僕は夢を見ていたのだ。変な夢だった)と思い、自分の服装に目が行った。汚い服装だ。まるで、布を身体に巻いているような格好である。私は、いつの間にかホームレスになっていたに違いない。しかし、あたりはカリフォルニアのサンホセではない。もちろん月でもない。一体此処はどこだろうと思っていると「ねえ・・・貴方誰?」と、背後から女性の声がした。振り向くと、竹を編み代網にした塀のそばに十二、三歳の女の子が立っていた。
「僕?」と私が言うと、相手はコクリと頭を振った。
「僕は・・・」と、私は言いながら改めて辺りを見回した。明らかに、私の住んでいた時代ではない。ふと、近くに歴史の教科書で見た「牛車」が目に留まった。私は、牛車を指をさした。
「ああ、牛飼い童(牛を引っ張る童子ね)」と、相手は言った。否、違う、私は64歳と言いかけ、自分の手や足の若さに気づいた。しかし、私は続けた。「僕は『牛飼い童』ではないよ。僕はサンホセから来たんだ。アメリカのシリコンバレーで、物価が高く給料は安い所で」などど、分けのわからないことを言っていた。
「ふーん」と相手は言った。
「ところで、君は誰?」私は軽く質問してみた。もしかして、迷子かもしれない。
「私は『かぐや姫』よ」と、女の子は言った。
「『かぐや姫』だって?」
「うん」
「冗談だろう?」と、私は言いながらも、私は再び時空を移動させられたのではないかと考えた。すると、この女の子は本物の「かぐや姫」。
「貴方、どこに住んでいるの?」
「家?」私は黙った。私の家はこの時代には無い。
「住むところが無いの?では、乞食の子供?」
「乞食ではないよ。僕の家はアメリカのサンホセにあるんだ。小さいけど、ね」
彼女は私の言葉を無視して、言った。
「ああ、そうだ。お爺さんに頼んであげる。『牛飼い童』を探していたから。少し待ってて」女の子は家の中に消えた。この場合、かぐや姫のお爺さんといえば「竹取の翁」である。
やがて、女子が人の良さそうな爺さんを連れて出てきた。
「ほら、あの子。家が無いの」と、女の子は爺さんに言った。
「かわいそうにのう・・・」と、爺さんは言い、私においでと手で招いた。
私は、爺さんと女の子の後に付いて家の中に入った。結構な屋敷だ。例の、竹から出てきた金銀で金持ちになったに違いない。
中に入ると、これ又人の良さそうな婆さんがいて、直ぐに団子を出してくれた。みたらし団子に似ている。私は腹が減っていたのでありがたく口にした。団子は質素な味だ。微かに蜂蜜の味がした。健康食品だろう。無農薬かなと考えた後、自分が平安時代に居ることを思い出した。当時甘味料は乏しく、蜂蜜や甘葛(あまづら)が主だったはずだ。
かぐや姫も、私の横で団子を食べた。よく見ると、髪が栗色だ。私が珍しそうに見ていると「かぐや姫」は、竹から生まれたので髪が黒くないんじゃと爺さんが言った。
「へえ・・・アメリカ人かと思った。だって目だって青色だし」
「竹が青いからよ」今度は婆さんがかぐや姫のかたを持った。
「ええ、分かりました。しかし、この女の子は『月人』ですよ。僕は月でこの女の子に会ったから」
これには爺さんも婆さんもびっくりしたようだ。
「うそじゃ、うそじゃ」と、彼達は互いにつぶやいた。
「だって、僕はアメリカから月に行き、先ほど此処に着いたばかりです。嘘じゃありません」
その時、かぐや姫がポツリとつぶやいた。
「そろそろ月に戻らなければ成りません」
物語にしては変にテンポが早いのだがこれは私がバーチャルの世界にいるからだろう。やがて、私は例の箱型の眼鏡を外して、面白くないと考えるに違いない。そこは、多分どこかの電気店の中だ。そして、サンホセの家に車で帰る・・・その時、突然「おじさん。月に帰るよ」と、女の子が私に言った。
「月に帰る?」
「うん」相手はコクリと頭を振った。
びっくりしたのは竹取の翁こと爺さんと婆さんだ。ポカンとしていた。無理も無い。年老いて授かった子供だ。手塩に掛けて育てた・・・いや、かぐや姫は三ヶ月で大人になり、しかも経済は竹の中から見つかる黄金でまかなわれた。したがって、あまり親としての権利は無いかもしれない・・・それにしても突然だったので、二人は驚き、姫を引き止めた。
「そのような考えは良くないぞよ」「そうはさせませんよ」「わがままはよくありませんよ」と言い、かぐや姫を小さな部屋に閉じ込め外に出れないようにした。
私は、爺さんと婆さんにそれとなく諭した。
「アメリカでは、そのような事をすると罰せられます。子供は、親と同等の権利があります」
すると爺さんと婆さんは私を怒った。
「牛追い童子(私のこと)が、こなければ姫は『月に戻る』というような事は言わなかったのじゃ」と、爺さんは言った。
「そんなこと、私は知りませんよ。個人の勝手だと思いますけど」私は2015年の自分の性格そのままで、すべてに無頓着である。ただ、早くアメリカのサンホセの家に戻りたかった。年上の妻が待っている。確かにヘンリーやトーマスは私のダミーを私の代わりに家に置いている。しかし、私にかなうわけがない。皿洗いとか、掃除とか,洗濯まで私は出来る。月曜から金曜まで会社で働き、食後の食器を、皿洗い機を使わずに全部手洗いする。週末は洗濯と掃除をする。妻がテレビを見ながら笑っていても、私はセッセと働くのである。追加だが、風呂では妻の背中を流す。どうだ、こんな事はダミーでは出来ないだろう。
私は爺さんに言った。
「僕だって、来たくて平安時代に来たわけじゃあないですよ」
私の言葉を無視して婆さんが「お爺さん、こうなったら天子様(帝)にお願いしましょうよ」と、口を挟んだ。いつも、お頭(つむ)の弱い男性という生き物は、女性の意見に左右されるものである。
「おお、そうじゃ。帝はかぐや姫に興味を示されておった。妾(めかけ)に差し出すので、護(まも)ってもらおう」此処で、竹取の翁は己の欲を暴露した。かぐや姫の将来を案じるならば、彼女の考えをやさしく見守るのべきであろう。
爺さんは、帝の御殿に使いを送った。直ぐに、刀、槍、弓矢などで武装した武士の集団が竹取の翁の家を取り囲んで、かぐや姫をガードしてしまった。
「たかが女一人のために、税金の無駄遣いしやがって」と、私は声を出していた。「私は、断固として、このような理不尽な行動に反対する。民主主義社会では・・・」と言った時、私は爺さんの手下に「月からの使者」ということで部屋に閉じ込められた。
「おい、開けろ!僕はかぐや姫とは関係が無い。アメリカのサンホセから来た会社員だ」などど、戸をたたいたが爺と婆は開けなかった。
私は絶望した。このまま平安時代に骨を埋める事になるかも知れない。歴史の本で見たことのある加茂川沿いの屍の山が思い出された。私も、あのように捨てられる。冷たい板の間に仰向けになると、サンホセの家が思い出された。まだ何年も家のローンが残っていた。2008年の大不況では、支払いに追われて大変な目にもあったが小さくても住み慣れた我が家だ。早く帰って、カップ・ラーメンを食べたかった。
「ねえ。何しているの?」突然耳元で声がした。驚いて見上げると、かぐや姫が立っていた。
「なあんだ。かぐや姫君か・・・君、確か月の大統領だよね」
「そうよ。サラ」と彼女は答えた。
「だったら、月・・・いや、もう結構です。地球に戻してくれませんかね?」と、私は丁寧に頼み込んだ。
「でも、月に戻ってブラックホールを修理して、そして、地球を助けるのがおじさんの役目でしょう?」
「おじさん?僕は現在は童子(わらじ)だけど・・・」
「もう、元に戻っているよ、さあ、月に帰るよ」と、サラ大統領は言った。クチャクチャとチューインガムのような物を噛んでいる。そして、アメリカのチア・ガールのような仕草を私の前でして見せた
「何か、不安だけど・・・まあ、いいや」私は立ち上がった。
そして、板戸の隙間から外を眺めた。帝の軍隊が見えた。
「武器を持った侍達に取り囲まれているよ。何しろ帝の兵隊だから、強いかも」私は、かぐや姫に言った。
彼女はチア・ガールの仕草で「ゴォ・ファイ(ト)・ウイン!」(Go fight Win) と言い、そして「イエーイ!」などど、はしゃいでいる。まったくアメリカのティーンそのままだ。冗談じゃない。
「僕はごめんだよ。槍で突かれたり、弓矢で射られたりじゃ怖くて動けない。この際、あなたは帝の嫁になりなさい」私は、竹取の爺さんや婆さんと同じような事を言った。とにかく己(おのれ)が大事じゃ、と考えたのである。
「帝の嫁?」とサラは言った。
「そうだよ。妃(きさき)だぜ。ボロイだろう?」と、私は下品な言葉も使った。
「ふーん・・・・」
サラは、分かっていないようだ。つまり、月では、否、未来社会では『結婚』などという慣習は無いのかもしれない。
「男性と女性は結婚して、子供を作るんだ」
「ふーん・・・」
「そしてだね。女性は金持ちとか、地位の高い人間とか、有名人とかと結婚すると幸福になれるのだよ」私は、饒舌になっていた。
「おじさんは?」と、サラが言った。
(ほら、きた。私は?)
「確かに僕は金持ちではない。地位もない。仕方ないさ」開き直った。
「で、おじさんと住んでいる女性は幸福なの?」
鋭い質問だ。
妻の姿が思い出された。月の支払いに四苦八苦している姿だ。支払いが出来たと喜ぶ姿である。外で食事をする余裕さえない。もちろん、バケーションなど、取るお金も無い。私は、一生懸命働いているつもりだが経済的には恵まれていない。あの『働いても働いても・・何とか』と言う、言葉通りだ。
「『幸福』ではないよ。だから、君が帝と結婚すれば、君は幸福になれるし、竹取の爺さんと婆さん、そして僕も無事だということさ」
「では、聞きます。地球人に取って『幸福』とは何ですか?」と、サラはガムをクチャクチャ噛みながら、私に聞いた。
「えっ?」私は、言葉に窮した。外では、弓、槍、刀を持った帝の兵達が殺気立っているのが見える。
「来るなら来てみろ!命は無いぞ!」などど、物騒な言葉を大きく美しい満月の夜に向かって叫んでいた。どうやら酔っ払っている様子。多分、兵の士気をあげる為に、振る舞い酒があったようだ。
「とにかく、此処は物騒だから。やんわりとだね、その・・・取り合えず『結婚してもいいです』と言い、急場をしのいだ方が良いでしょう」と、これ又私は、世慣れた経験から彼女を諭した。分別など無い。ただ単に、あのような物騒な連中から暴力を受ける事への恐怖感からだ。私は小心者である。相手の気持ちを考慮せずに暴力を振るう人間と関係を持ちたくない。
「かぐや姫、出て来ォい!」兵達は、一向に現れない月からの迎えに痺れを切らしたのか、今度はかぐや姫に罵声を浴びせ始めた。帝の軍隊は統率が取れていないようだ。
「兵隊は、乱暴そうだね・・・」私は心細かった。薄暗い部屋の隙間から外を見ると、兵達の持つ松明の灯りが天の川のように見えている。
「出て来い!かぐや!」今度は呼び捨てだ。
すると、サラ、否、かぐや姫は戸を開けると、外に向かって大声を上げた。
「だまれ!糞兵隊!」
一瞬辺りが静まった。そして、天の川が動き始めた。「かぐや姫を引っ張り出せ!」兵達がこちらに向かってきた。
その時、暗闇の空に光りが射した。
「帰るよ、おじさん」サラが言った。
「どこに?」
「あそこ」サラが指差した方向には、美しい満月がある。そして、月の乗物が空中に浮かんでいた。多分、ヘンリーとかトーマスに違いない。それにしても、変だ。平安時代に来る時は、あのような乗物は使わなかった。瞬時に私はこの時代に来ていた。
「あれは・・・UFO?」
かなり大きい円盤状の物体が空中に浮かび金色に輝いていた。その時「ヨッ!」と声がしたと思うと、目の前にヘンリーが立っていた。
「なんあだ・・・夢か。又、君が僕の脳を操作したのか」
「地球人。此処は、現実の『平安時代』だ」
「・・・」私は多分・・・あの絵本などで読んだり見たりした、かぐや姫が天上に帰る場面にいるのだ。
「かぐや姫をだ捕せよ!あの光に向かい矢を射て!」「オッ!」と、屋敷の周りでは声が上がっていた。兵達は振舞い酒で半ば酔っていた。中には暗闇に座り、酒だけ飲みながら反対方向を見て「オッ!」と、声だけ上げている輩が大勢いた。
「相変わらず野蛮な地球人どもだ」ヘンリーが言った。
「平安時代さ」私は、少しムッとして言った。
彼は私をチラリと見て「帰るぜ」と言った。
「じゃ、いくよ!」と、かぐや姫、いや、サラが言った。
私は、しぶしぶ彼らの後について外に出た。すると、塀の上や中庭、そして、屋敷を取り囲んでいた兵達が一瞬、こわばった表情で私達を見た。
「彼達を捕まえろ!」隊長らしき男が命令した。ワッ!と、兵達が私達を襲ってきた。 そして、臆病な私はサラの後に回り、震えながら「そら、君が帝の嫁になっていたらこんなことにはならなかった。今からでも遅くない、嫁になると、いいなさい」と彼女に言った。
「何言っているのおじさん?」サラの声に私は改めて辺りを見た。兵達の動きが止まっている。「ど、どうしたのだろうね?」私は聞いた。
「うるさいので、あの人達を硬直させただけ」サラが言った。
「なるほど・・・」
私達は光っている乗物の方に歩いた。歩きながら気づいたのだか私達は次第に空中に浮いて行き、やがて乗物に乗り込んでいた。乗物の中からは外がまるで真昼のように見える。少しはなれたところでは、多分帝だろうと思える間の抜けた顔をした男が御輿(みこし)に座っているのが見えた。
「やれやれ、でもなんで平安時代に来たのだろう?」私の質問に「あなたに『かぐや姫』を認識させるためです」と、月の大統領にもどったサラが言った。
宇宙船は一瞬にして月に戻った。どうやら時代も、元に戻ったようだ。地球を回る「国際宇宙ステーション」が見えている。
6)宇宙とブラックホール
「宇宙とはなんだろう・・・」私は、月から見える広大な宇宙を見上げながらつぶやいていた。
「『宇宙』とは、たとえば、雨上がりにできた小さな水溜りさ」と、私の呟きが聞こえたのかヘンリーが答えた。私は、路上に出来た雨上がりの水溜りを思い出した。確かに、水溜りを覗き込むと水に映る私の姿と空・・・それより、今にも落ち込んでいきそうな深い空間に思える。
ある時、風が水溜りの水面を揺るがした。虚像が揺れ動く。平面の二次元世界が波となり三次元世界になっていた。その下に広がる空は四次元だ。
「君は、その水溜りに向かって声をかけただろう?」
「はい・・・どうして、それを?」
「丁度、サラ大統領が我々に必要な地球人を探しておられた。君の祈りが通じたのさ」
「別に、特別祈ったわけでも・・・あの時は、精神が研ぎ澄まされていて、なんとなく・・・その、祈りたかった」
「ま、そのような時もあるさ。さて、トーマス、どうだ?エネルギーは一杯になったか?」ヘンリーは、トーマスに向かって言った。
「後、少しだ。結構強いブラック・ホールだからR-2aa657まで、もって行く」
「よし、それでいいだろう」
私には、わけのわからないような会話だ。先ず「ブラック・ホール」の名前が怖い。直訳すると「黒い穴」、それで上から望みこむと穴が深そうだ。私のささやかな記憶には、ブラック・ホールには、ありとあらゆるものが吸い込まれて砕けるなどと言う、うろ覚えの知識があった。しかし、ヘンリー達は「ブラック・ホール」を、単なる普通の現象と捉えている。三次元の世界が二次元(平面)になる逆現象で、三次元の現象は二次元の上にプリントされるなどと、コンピューターでコピーするような事を言った。つまり「クラウド」と同じらしい。辞書にはクラウドの事を、データを自分のパソコンや携帯端末などではなくインターネット上に保存する使い方、サービスのこととか説明してある。例えば、私がブラックホールに吸い込まれると、私はクラウドの中に保存されるのと同じことになる。写真のように私自身が保存され、必要に応じて再生されると言う事らしい。ブラックホールは、つまり、保存庫・・・写真のアルバムのような場所のようだ。ヘンリー達が言うには、一つのブラックホールが地球を飲み込んでしまうと地球と地球上に住む人間を含む生命体はプリント化してしまう。つまり、時が止まり写真の一枚と同じになる。
そして又、ブラック・ホールは単なる保存場所だけではなく掃除機みたいに動くらしい。宇宙を掃除する掃除機の吸引口から地球を守るためには・・・。
私は掃除機を思い出していた。年上女房の尻にしかれているから、私は掃除洗濯はお手の物である。新しい掃除機を買った時は、幸福を覚えた。だから、どんなごみが掃除機で吸引しにくいかも知っている。
「掃除なら自信がある」少し、怖さも薄れ、僅かながら自信さえも出てきていた。無知な者に、恐れは無い。
ヘンリーとトーマスは、私を無視した。
私は再び「カップ・ヌードル」を食べたくなった。宇宙のイメージから「ウルトラマン」を思い出し、ウルトラマンの出るカップ・ラーメンの宣伝を思い出したからだ。
しかし、そもそも宇宙とはなんだろう? 私には知識が無い。又、科学者のように、物事を分析し要約して推測する理論的な能力にも欠けている。
したがって空間を一次、二次、三次、四次元、さらに多元などと分けられても、単に人間の頭で考えた数式上の決めつけとしか思えない。
古代ギリシャのピタゴラス派は「万物は数である」と考えたらしい。つまり1、2、3と言うような整数で万物は説明できると考えたのである。これは理解できる。簡単だ。しかし、他の哲学者のアナクサゴラスのように「最大の物も最小の物もない」などと言われると、私の頭にある数学は怪しい領域に入っていく。そもそも私は能力的に深くあれこれ考えられない。最終的には「ま、いいか・・・」と結論付けてしまう輩(やから)だ。実際に私が『月の世界』にいたとしても、これは多分錯覚に過ぎないという考えを捨てきれない。理論的思考の中にしか自然世界の原理は無いとする哲学は、私にはほど遠い存在である。
だから、月人のヘンリーやトーマスは私を馬鹿な地球人だと思っている。
それでも、私はなぜか月の大統領サラに選ばれた。サラは全能の神さえも支配する、いわば宇宙の女王だ。私は、一般的な地球人として、性格は悪く、ボランティアの経験もないし精神的、経済的的余裕なども無い。精神的に余裕無い大人の典型で、子供も嫌いだ。近所の餓鬼共が外で遊んでいると「黙れ!」と一括する。家の前の道を、誰かが愛犬を散歩などさせながら小便させたり糞などをさせると烈火のごとく怒って外に飛びだし、当然喧嘩騒ぎになる。実際先週も喧嘩し、私の妻は間に入り大変な目にあった。彼女は私の喧嘩騒ぎに、なんども大変な目に合っている。
足には水虫があり、痔持ちだ・・・良し、分かった。よかろう。確かに60歳を過ぎた男が経済的にも恵まれず、地位も名誉もないとなれば、開き直るまでの事だ。
ギリシアの哲学者、自然哲学者のヘラクレイトスは「万物は流転する」と言った。ギリシアの自然哲学が思考の根源としたロゴス(宇宙の法則)は、ブラックホールによって完全に否定されるのだ。ざまあ、見ろ。
すべての科学的哲学的思考は、あれこれと人間の言語でつじつまをあわす頭の良い連中の、庶民を惑わす魔術である。
私は自信が出てきた。この際、どの様な仕事が待ち受けているかは予測できないが貧乏人の意地を見せるときが来たのだ。頭に、日の丸のついた手ぬぐいを巻こうとさえ思った。
太平洋戦争の特攻隊隊員のような気持ちになった私は「さ、いこう」と、スクリーンを見て色々準備に忙しいヘンリーとトーマスに言った。
彼達は、私の言葉には返事をせず仕事を続けていた。
私は、もう一度言った。
「さあ、覚悟は出来た。ブラック・ホールに体当たりだ」
「何を言っているのだ? ブラック・ホールは君達地球人が考えているようなところじゃあないぜ。どんなところだと思っているんだい?」ヘンリーが、仕事を続けながら言った。
「ブラック・ホールとは・・・暗い穴で、何でも吸い込んでしまう」
ヘンリーはカッカと笑った。そして、言った。
「なかなか、大した発想だ」
「・・・・・?」
「穴?」
「そうですよ。暗い穴・・・」と、私は確認しながら、ふと(本当に穴か)と内心で思った。英語を直訳して、そのまま理解しているのだ。
「馬鹿なヤツだ。ブラック・ホールは、つまり平面だ。それがパイプのようになっていて、繋がる。簡単に言えば、コピーの紙を丸めたモノに近い」と、ヘンリーが言った。
私は学生時代、テストの問題が解けずテスト用紙を丸めて一生懸命に答案用紙に向かっている周囲の同級生を見たり、教室の外を眺めたりしたものだ。では、ブラック・ホールとは私の手の中にあった丸めたテスト用紙のようなものか、と私は考えた・・・しかし、これもどうやら怪しい。
ヘンリーは「ブラック・ホールは『平面』だ」と言った。「平面?」で「穴」では無いのである。では、ウエブサイトなどで宇宙のガスや塵(ちり)などが吸い込まれている、あの写真は?
「ああ、あれか?」ヘンリーが私の疑問を脳の中で読んだようだ。
「あれは、だな。簡単に言うと『息だ』ブラック・ホールは生き物のように吸ったり吐いたりしている。したがって、宇宙船を素粒子の大きさにしてだな・・・それから、時間をゼロにして、目的のブラック・ホールに入ると、チクチク針をさす。例の、地球の「一寸法師」のようにするのさ」
さっぱり分らない。ヘンリーは話が下手だ。文章がきちんとした日本語になっていない。まあ、相手は月人なので仕方ないかもしれないが私には、彼の言ったことが理解できなかった。もちろん、一寸法師は知っていた。彼は鬼に飲まれた後、鬼の胃の中で針の刀を胃壁にチクチク突き刺して、鬼を降参させる御伽噺だ、最終的に、鬼から奪い取った「打ち出の小槌」で、一寸法師は大きくなり普通の人間になった後、鬼から助けたお姫様と、結ばれた。めでたし。と言うストーリーである。
とにかく、一枚の紙を丸めるとパイプになりそれをつなぎ合わせるとリングになり、捻(ひね)ると二つ、四、八、十六とNの二乗で増えて行く。しかし、ブラック・ホールはこのような状態ではなく、我々人間が知っている「メピウスの輪」とか「クラインの壷」と言う事らしい。どちらかと言うと「トーラス(ドーナツ状)」の空間に近い「クラインの壷とメピウスの輪」と月人は言った。本当に分らない。
しかも、宇宙船を素粒子の大きさにするということは乗組員の私達はそれ以上に小さくなると言う事だ。
ヘンリーが言うには、地球人が考える「プレオン(仮想上の点粒子)」程度らしい。彼は「地球上の尺度」と「宇宙の尺度」の相違、そして又空間原理の法則などと物理学者に対するような答案を返した。私のような頭の悪い一般人に分るはずがないだろう。分るのは「一寸法師」の物語だけだ。すると、彼は私に「その通りだ。打ち出の小槌を振れば、空間は縮まり、他の空間から見ていると縮まる空間の物質は小さく見える。見えると言う現象も、光りの産物だから宇宙とか空間移動では通用しない」と言った。ますます分らない。
「よし。準備完了」トーマスが言った。
「よし、行くか」ヘンリーだ。彼は、私をチラリと見ると「用意は言いか?」と、聞いた。
「用意も何も無いさ。君達が僕を誘惑して、此処に連れてきたのじゃないか。僕の意志ではない」
「何を言っているんだ。先ほどは、やる気満々だっただろう?」
「破れかぶれだったんだ。でも、地球に帰りたくなった」
「・・・」
「例の、地球人の・・・『望郷』と言う奴か」彼は、望郷を日本語で言った。私の頭のなかで漢字のスタンプが押された。
「な、何をかん違いしているのだ」私は、心を読まれた様で少し動揺した。
「では、どうした?」
「実は、今日・・・」と私は言い、コホンと軽く咳をし、続けた。「実は、今夜家内と焼き鳥屋に行くことを思い出した」
「ああ、そんなことか。問題ない。君の好きな時間に返してあげよう」と、ヘンリーが言った。
「えっ?そんなことが出来るの?」私は、またもや軽い言葉で聞いた。
「しかも、少しは小遣いあげられるぜ」トーマスだ。
「小遣い?」私は二十ドル札を想像した。
「うん。一億ドルぐらいかな?」
「一億ドル・・・」不幸にも、長年貧乏暮らしをして来た64歳の私には、ピンと来なかった。ただ、イメージの中で、葉巻をくわえた太っちょがテーブルの前に詰まれた大金を前にガハハと笑っている昔の新聞の風刺画があった。
私は此処で言って置くが「貧乏」は良くない。人間が卑屈になる。一億ドルは、貧乏な私には信じられない金額だ。私自身も機会は逃したくないようで「よし、わかった。正義の為に立ち上がる」などど、分けのわからない言葉を口にしていた。実際、現在の状況も分らなかったし、これから何をするかも分らない。月人が言う事は科学の基礎的な知識の無い私にはチンプンカンプンである。ただ、一億ドルの札束が頭の中にイメージされて残った。
「よし。トーマス。光速の三倍でブラック・ホールまで飛ぶ」ヘンリーが言った。
「えっ? 光りの速さの三倍なんて、そんな馬鹿な。光りの速さを超える速度はありえないでしょう?」
「地球人の古典物理ではね」
「アインシュタインの相対性理論ですよ」と、私は知ったかぶりをした。
「ああ、彼か。ま、少し宇宙を理解していた物理学者だな。さて、行こう」ヘンリーが何かに手を当てた。周囲が少し輝いたような感じがした。そして「さて、着いた」と、ヘンリー。
「何処に?」私は聞いた。
「地球の近くにあるブラックホールだよ」
「まさか。もっと遠い所でしょう?」私は、宇宙旅行をイメージしていた。地球から、月まで来た時も瞬間だった。まるで、時間は存在していないかのような動きである。
「ああ、宇宙船を素粒子程度にしているのでね。それで、少し時間がかかった」と、彼は説明した。要するに、移動の計算に時間がかかり、実際の移動は瞬間である。彼達には移動の距離が存在して無く、何処へどの時間に、そしてどの位置に、と前もって調べることだけに時間を要した。移動に移動の時間が無い。ようするに距離が無い。私にはさっぱり分らない。
現在、宇宙船はブラックホールの中にいるらしい。しかし、別に以前と変わったような環境ではなさそうだ。
私は、宇宙船の外を見るために「窓?」、日本語で窓というと、例の家とか電車の窓だけども、少し違う。想像にお任せする。説明できない不思議な『窓』から、外を見ると空間が歪んで見えた。
「どの様に見える?」ヘンリーが私の近くに来て聞いた。
「空間が歪んでいる」
「なるほど・・・地球人には見えるんだなあ。まだ、古い機能が残っているからだろう。よし、では君は外に出て、この空間を修繕してくれ」
「修繕?僕がですか?」
「そうだ。曲がりが変なところがある。そこに、これを放射してくれ」ヘンリーが小さなペンのようなモノを差し出した。
「此処から外に出てですか?」
「そ」短い言葉が返って来た。
「危ないじゃあ、ないですか。ブラックホールでは、人は重力で押しつぶされると聞いています」
「大丈夫だ」トーマスが近くに来て、ガラガラ声で言った。
「でも、酸素もないし。生きられない」
「それも大丈夫だ。酸素が無くても生きれるようにしてある。月で治療を受けた」
私は、腕にされた注射のような事を思い出した。私は、サイボークにでもなっているのであろうか。
「ただ、君は消滅するかもしれない」
「消滅?すると、此処で死ぬ事じゃあないですか。地球には年上の妻が私の帰りを待っているのです。私が帰らないと、掃除洗濯は誰がするのですか」などど、ちぐはぐな事を私は口走った。私の家には私のダミーがいることも忘れていた。
「心配するな。直ぐに、君を作り上げてやる。細胞は確保した。元通りにする」
「でも、それは僕ではない」私は、おろおろしていた。一億ドルの現金も要らないとさえ思った。
「実は、消えないかもしれない」と、ヘンリー。
「本当ですか」
「計算が出来ないんだ。我々には、ここの空間のゆがみが見えないしね。だから、地球人の力が必要なんだよ」
「何か、分らないけど・・・ま、いいか。では『変な曲がり』を、どのように探すんですか?」
「多分、もつれていると思う。量子のもつれ」
「もつれている?」
「簡単言うと、毛糸がもつれたような常態」
「・・・?」
「三箇所ほどある。それを探して、そのビーム・ガンで縺(もつ)れをほどいてくれ」
「でも、途中で僕が消え始めたらどうなりますか」
「ふむ・・・」ヘンリーが首をかしげた。
「『消えないかもしれない』ガハハハ」と、ヘンリーと同じように言って笑ったのはトーマスだ。
「なんか、無責任な気がしますが・・・」
「しかし、地球人。地球の滅亡を救うには、君しかいないんだぜ」
「でも、ぼくは・・・社会から虐げられてきたし。社会に借りは無いのです」つまらない言動をした。私は、げんざい「ブラック・ホール」の中にいる。
「地球人。スクリーンを見てみろ。近い将来の地球だ」
宇宙船の壁(?)に、地球が映し出されている。そして、片方に銀河の端がある。太陽系が映し出された。
「いいか、よく見ろ」ヘンリーの声が頭の中に聞こえた。
スクリーンの銀河の一部が崩れ始めた。太陽系の一部の星が崩れていく。土星、木星、火星、そして地球が、ただ月はない。移動したようである。
「つまり、このようになる」
「青い、美しい地球が黄色くなってきた。色は次第に濃くなりオレンジになると黒い縞模様が表れて次第に地球を覆い始めた。やがて、地球の一部から花火のように色々な色が暗い宇宙に飛び出して行き、やがて何も見えなくなった。
「これが、君の地球の最後さ」ヘンリーが言った。
「・・・」私は、言葉が出なかった。
「どうする?」
「やる。地球が滅亡するなら、此処で僕が死んでも同じだからね」私の顔は、きっと青ざめていたはずだ。
「心配するな」
「心配するもしないも、ここから出て行くのは僕だからね。『ブラックホール』の中だよ。僕はきっと死ぬさ」
「オイオイ、地球人。此処に来てみろ」トーマスが私に言った。彼は目の前のスクリーンを指差している。
私は、とぼとぼ歩いていき、彼のスクリーンを見た。何かしら変な文字が並んでいた。
「此処に、示している・・・あ、少し待て。地球の文字にしてやる」彼の手が動くとスクリーンに懐かしい英文と数字が現れた。「この重力と時間は、我々の知る手ごわいブラックホールに比べて最も軽い。君は、間違いなく消えていなくなる事はないぜ。ガハハ」私は、今朝電柱の上で聞いたカラスの声だ。
「しかし、どうしてブラック・ホールの中で、普通にいられるのだろう?」
「それは、われわれが時間を克服しているからだ。つまり、地球人がブラックホールと呼ば場所と時間をプラス・マイナスにしてるからだ」
「分らないけど、ま、いいか。それでは僕が宇宙船から出る宇宙服は?」私は、テレビで見た宇宙飛行士の宇宙遊泳の映像を思い浮かべていた。
「大丈夫。ドアから出て歩ける。散歩でもしていると思ってくれ。我々は君をピンポイントまで連れてきたので『ほつれ』を見つけるのは簡単だ。でも、君の能力次第だがね」
「では、行きます」私は宇宙船のドアの方に向かった。
ドアが開いた。雲の上のような・・・色は無い。私は、妻を思い浮かべた。私がこんなところに来て、地球を救う為に命を賭けた仕事をしているとは夢にも思っていないだろう。家には私のダミーがいて、私と同じように生活しているのだから。
アポロ十一号の月着陸では、アームストロング船長が「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」と言った。冗談じゃあない。私の前には透明でもない、地球上では想像も付かない又、言葉では説明の出来ない空間があった。この中には、私しか見えない「もつれ」があり、私の手の中にあるモノで、その縺(もつ)れを解くと、地球が救われるのだ。
「地球人大丈夫か?」頭の中にヘンリーの声が聞こえた。
「くそ。やぶれかぶれだ」私は、そう自分に言い聞かせてブラックホールの中に一歩を踏み出した。
「なんだ?」と思った。普通の・・・そうだ、雪の降った原野のような感じだ。すると直ぐ目の前に黄色く光る最初の「縺れ」を見つけた。私は、そこに向けて手の中にあるペンのようなモノから光りを吹き付けた。縺(もつ)れが消えた。
「よし、よくやった。後三個ほどあるはずだ」再びヘンリーの声が聞こえた。
「後三個・・・」私は、キョロキョロと辺りを見渡した。
「地球人、少し急げ。ブラック・ホールの時間を調整するエネルギーが少なくなってきている」ヘンリーの声が聞こえた。
「時間切れ?」私は縺れを探しながら、頭の中でヘンリー達に聞いた。彼達は、テレパシーのような通信手段を使っている。
「心配するな、まだ地球時間で58分と01秒ある」
私は、二個目を見つけて縺れを消した。
「ヘンリー。もう、無いよ」
「いや、あるはずだ。少し歩いてみろ」頭の中に声が聞こえた。私は、心細くなり宇宙船を振り返って見た。雪のような平原の中に真珠のような宇宙船が七色に光り、ヘンリーとトーマスの姿が見えた。私を安心させる為に宇宙船の壁を透かしているのだろう。彼達の言葉に従えば、私は間違いなく全ての縺(もつ)れを見つけて、ブラックホールを開放できるはずだ。
私は気を取り直して、歩き始めた。歩いてはいるのだが足に土やアスファルトのような固体を踏んでいるような感覚は無い。我々地球人は、物体から受ける感覚を身体の器官に知覚させ記憶によって行動や考えを持つが、私のいる空間は・・・常識では言い表せない所だ。そして、私の脳も普通ではない。澄んだ水晶のように、雑念を排除している。自分自身が信じられない。地球の人間世界では、私は金銭的、性格的に貧乏で宗教の取り上げる罪の全てに振り回されている小物で小心者だ。大罪を犯してでも、他人より有利になると言うような考えなども持った事がない。知能指数のIQと呼ばれる点数も低い。
繰り返して申し上げる。私は、人類の救済者ではない。宇宙人達にそそのかされ、その気になっているだけだ。このなんとも表現のできない空間で、糸の縺れのようなモノを消すことが地球を救うらしい。しかし、正直、私にとってはどうでも良い事だ。
人間社会に裏切られたと考えているような、やけっぱちの人間が地球を救う、人類を救うなどど言うことは、冗談でしかない。
人類を救うのは、あの「ノーベル賞」などを貰った偉い人たちだ・・・私は、ブツブツ日本語でつぶやきながら量子の縺(もつ)れを探した。最後の縺れは、言葉では表現できない水晶のような小さな空間の端にあった。
色が付いていて、ピリピリと震えている。まるで、小さな生き物が追ってから逃れてくぼ地に隠れ、震えているように見える。
私は、それを消そうとビーム・ガンを向けたが躊躇(ためら)った。可哀想に思えた。それは、生物ではない。月人達から単なる「縺れ」と聞いている。物に対して、哀れむ必要は無いのではないかと思われるが宇宙における私の感情は高ぶっていた。
私は、宇宙船を振り返り万歳をした。大きな声で「万歳! 万歳!」と叫びながら両手を挙げた。
「なにやってるんだ?」ヘンリーの声がした。
「僕は地球を救えないよ。人類滅亡。仕方ないさ・・・」
「・・・」
「僕は知ってるよ。選ばれた人間だけが生き残る時代だって・・・テレビで聞いているからね。人間選別。ミカンのように選別されるんだ。僕など、どうせ選ばれない。ま、いいさ。選ばれない方が気楽です。この世と、おさらばだ。いさぎよくね」
「何の事だ?」
「知っているだろう。人間の開発する人工知能が地球を支配するって」
「ああ、あれか。人間達が話している・・・心配するな。有り得ない」
「マイクロ・チップが体内に埋め込まれるんだぜ。それに、人口知能がコントロールするトランス・ヒューマニズム、ゾロゼックスゼーアン人間と機械の融合さ。人類再生化計画。ピーター・ティールが目指しているし、それにシンギュラリティも直ぐ来る。人工知能が人間の脳を超えるんだ」
「人間、考えすぎだ」
「どうしてだい? 現に僕だってこうやって宇宙に来ている。ありえないことさ」
「なるほど。では、答えよう。人間を守っているのは月人だ。人間から人間性を失わせないようにしている」
「たとえば?」私は、意地悪く言った。
「ま、磁場を少し狂わせば、人類の作ったシステムは崩れる」
「磁場?」
「一つの方法だ。ま、その必要はないがね。人間が人間性をなくさない限り、地球は存在できるのさ」
ヘンリーは、地球を管理しているかのような言葉を使った。
彼達月人が仕事を達成しなかった私をこの空間に残し、ここから飛び去ってもかまわない。
私に悔いは無い。アメリカのサンホセで暮している家内には、優秀な私のダミーが一緒にいる。家内を幸福にできはずだ。
日本の愛媛県にいる96歳の母には、とうとう会えなくなるが兄と儀姉さんが見守っているので、安心だ。
私は、ふと立ち止まり暗黒の宇宙を見上げた。満点の星が美しい。幼少期に小さな山村から見上げた星空と、この宇宙空間の星空は等しく思えた。
私は妙に落ち着いている。あの辺りから、私はここにジャンプして来た。
「オイ、何しているんだ?」再びヘンリーの声がした。
「ここで、死ぬ準備だよ。覚悟はできた。矢でも鉄砲でももってこいだ。地球を救う為に僕を選んでくれたけど、僕にはできなかった。やはり、僕は落第生だ。アメリカでは、やっと三流大学を卒業して就職したけど、何度もレイ・オフ(解雇)された。そして、少しも出世しなかった。貧乏だった」と、余計な事も言った。まあ、人の愚痴ほどつまらないモノは無い。大宇宙という異次元の中で私は、鉛筆でつけた点よりも小粒だった。
その時「どうした?」突然目の前に、ヘンリーとトーマスが現れた。
「責任を取る・・・」と、私は彼達に言った。
「責任?」
「全てのもつれを、消滅させなかったからね」
ガハハハは、とトーマスが笑った。
「いや、アレでよかった」ヘンリーが言った。
「?」
「最後の『縺れ』は、人間の真意を問う、大宇宙の情けと言うことになる」
「大宇宙の情け?」
「そうだ」
「・・・」
「難しい問題ではない。君は無事地球を救ったわけさ。さて、帰ろう」
すると、その言葉の瞬間に、私は宇宙船の中にいた。
「助かったんだ」と、私は言った。
宇宙船の真珠色の壁が美しい。外の景色がみえる。地球が見える。
7)突然と地球、神様に出会う
「ワン!」犬の鳴き声に、私は我に返った。
私はハンバーガーを食べていた。窓の外に目をやると、浮浪者のような男と犬が歩き出そうとしていた。犬の尾がうれしそうに揺れている。
「ヘンリー・・・」私は、急いで立ち上がるとハンバーガー・ショップの外に駆け出した。
浮浪者と犬の方に掛けていくと彼達の背後から「ヘンリー!」と、呼びかけた。
「なんだい、若いの」浮浪者が振り返った。
「ヘンリー」私は犬に呼びかけた。
「犬の名はジャックだ。おめェ、犬すきかい?」と、浮浪者が言った。「いや、この犬はヘンリーと言う宇宙人で、月の住人だ」と私は言った。犬が私に擦り寄ってきてペロペロ手を舐めた。暖かい犬の舌が私の手に感じられた。
「ヘンリー? どうした。私だよ」私の問いかけに犬は「ワン」と、小さく言葉を発した。
「カラスのトーマスが近くにいるかもしれない」と、私は言いながら周囲を見渡した。
浮浪者になるような人間は欲が無く邪心も無い。彼は、黙って私の言動を聞いていた。一般人であれば、私を精神異常者と思うだろう。警戒もするはずだ。
「あなたは、私にこの犬の持つ超能力を教えてくれましたよね」私は、確かめるように浮浪者にたずねた。
「いや、若いの。わしは、そのような事はしない。ここの芝生で休んでいただけでね」
「でも、僕は、ハンバーガーをご馳走したはずですが・・・」
「確かに、腹は空いている。しかし、金がない。分るだろう?」
「・・・そうですか。多分私の思い違いでした。ランチでも一緒に如何ですか? おごりますよ。店に入りましょう」
「いや、犬がいるのでね。若し、ご馳走してくれるなら『ツー・ゴー(持ち帰り)』にしてくれ」
私は、頭を振って承諾すると店の中に引き返し二人分のハンバーガーのコンビネーションを袋に入れてもらい、コップにコカ・コーラを注いでストローを掴み外に出た。
ハンバーガーの袋を浮浪者とヘンリーに、いやジャックとか言う犬に渡した。すると、浮浪者は犬から袋を取り上げて中のハンバーガーをむき出しにして犬に与えた。
犬はストローでコーラを飲まなかった。男が彼の自転車につけていた袋から犬用らしい皿を取り出すとコーラを注いだ。犬はハンバーガーを白目をむいて数口で食べ終わると、今度はコーラの皿から、ぺちゃぺちゃと音をたててコーラを飲み干し、皿を舐めた。
確かに、犬はヘンリーではないようだ。ヘンリーは人間のようにハンバーガーを両手(足)で掴んで食べ、コーラをストローで飲んだ。
そして犬は、はにかんだ様に頭を降ろし私のほうに来ると愛想を振りまいた。私は手で犬の頭を触った。犬の頭骨は痩せていた・・・おかしいなと思ってよく見ると、犬が別の白い犬に代わっていた。私が散歩の時に会う、白い年老いた犬に似ている。
犬は、ゆっくりと私を見上げた。私は慌てて浮浪者の男に目を向けた。男も、白い髭を蓄えた頼りなさそうな痩せた人物になっていた。
「これは・・・」私は、言葉を失った。あたり一面が白の世界だ。雪の中ではない。絵を描く白いカンバスの上にいるように思える。
白い平面を見ている。
立体感が無い。写真のようだ。「写真」と、考えて私は思い出した。例のブラック・ホールの事だ。
(地球は、ブラック・ホールに)と、話そうとすると浮浪者から、返事が帰ってきた。
「ここは、平面空間に思えるかもしれないが心像の世界だ。しかし、人間が言う『心象』とは違うがね」
「私は、今何処にいるのですか?」心細くなって聞いてみた。
「神の世界だよ」と、答えは単純に返ってきた。
「では、私は死んだのですか?」恐ろしくなって聞いてみた。(南無阿弥陀仏)アメリカに住んでいるにも係わらす、日本人らしく心でつぶやいていた。とうとう、来るべき時が来たのだ。キューブラー・ロス「死の概念」なども、齧(かじ)った事があるのに、実際は簡単で単純で、あっけ無いものにすぎないようだ。
「あの、死後の世界では、つまり・・・空を飛んで、あ、それにダンテの神曲での地獄編では、アレは結構面白いですね。天国より面白く、色々な人が、平等に苦しんでいる。いや、苦しみに合わされている。あれって、結構本人たちは楽しんでいるようにも思えるのですが・・・天国は、殺風景です。花が咲いていたり、小鳥の声、そよ風、平凡すぎる」
「ふむ・・・」神は黙った。
「死ぬも生きるも」と言う歌もあります。
「何だ、それは?」神が聞いた。
「あれ?神様なのに知らないのですか?日本の歌ですよ。古い演歌です。私の前の時代、野口雨情という詩人が書いて、中山晋平が曲をつけた。私も、この部分しか知らない」
「ふーん」神はうなづいた。神らしくない。少し、鼻水も垂れていた。私は、ポケットからハンバーガー・ショップで貰っていたナプキンを取り出して神に渡した。
「ありがとう」神は素直に礼を言って、ナプキンを手にするとシュンと鼻をかんだ。まるで人間だ。
「若いの、私を『神』らしくないと思うだろう」
心を読まれた私は、慌てて「どんでもない、あなたは間違い無く神様です。ですから、できれば私を『地獄』に、送ってください。私は罪深い人間です」と、ダンテの「神曲」の挿絵を思い出していた。この世に考えられるありとあらゆる拷問を、地獄に落ちた人間達は受けているらしい。神は罪な事をするものだ。地獄の悪魔達だって、多分人間をかわいそうに思うかもしれない。で、拷問も多種多様であるらしいから、男をかどわかしたヌード姿の女人達がお尻を刷毛の先で撫でられて苦しむ姿や、元金持ち達が札束でピシピシ叩かれて苦しんでいるのを見て楽しもうと神にお願いをしたのだ。出来れば、永遠の憧れであるマリリン・モンローにも会ってみたいが彼女は天国にいるのかもしれない。
先立って101歳で無くなったデイヴィッド・ロックフェラーには会えると思う。彼は、間違いなくダンテの地獄編の住人に思える。ヒトラーやスターリーンなども、未だに地獄でお勤めを果たしているに違いない。なぜなら、この世の悪人達、金持ちも含めて、は地獄では永遠に拷問を受けると聞いている。人間の人生の期間など子供や老人の期間を除けば四、五十年年程度に過ぎない。その間に、悪い事と「人間社会」が決めた事に反した人間は、地獄で永遠に拷問を受けるのである。つまり、人間で悪い事をしたことの無い者などいないので、およそ、全ての人間は地獄にいるわけだ。
「私は神様です。これを見なさい」と、私が要求もしないのに、神は突然と腕まくりをしてタトゥー(刺青)を見せた。白く、細い腕には「神」と、漢字でタトゥーがしてある。
「あの、それは漢字ですけど・・・」
神はポッと赤くなり「辞書で調べて、気に入ったのでね」と、人間くさい事を言った。万能の神が辞書など使うわけがない。私は、彼は偽者(にせもの)の神に違いないと思った。しかし、結構面白いので騙されているふりをしようと考えた。心は読まれる。ちぐはぐな事を想像しながら暗号のように考えをまとめた。
「神様なら、ロット(宝くじ)の当たり番号なども、分りますよね」と、私は言ってみた。相手は、一瞬顔をこわばらせたが「もちろんじゃ」と、神の威厳を見せつけようとした。
(しめた、これで金持ちになれる)私は例の暗号の考え方で内心ほくそ笑(え)んだ。
「来週のロット(くじ)の番号が分りますでしょうかねえ?」私は神を上目遣いで見ながら聞いてみた。
神は少し瞑想し「11,28,38,62,67、メガ・ナンバーが12」と言った。ボールペンとナプキンを手にして待っていた私は、番号を書いた。メガ・ナンバーと言う事は「メガ・ミリオン・ロッタリー」の、当たりナンバーに違いない。
(しめしめ、これで億万長者の仲間入りだ。ビル・ゲイツに並べるかもしれない・・・)
「しかし、若いの」と、相手はギョロメを向いた。邪悪な心の私は、流石に驚いた。
「なんでしょう・・・」私は、か細い声で聞いた。
「ロットとは、何だね?」
私は、心を見破れたのかもしれないと思いながら、おどおどと「つまり、夢です」と、適当な答え方をした。
「夢? 寝ている間に見るあれか」
「いや・・・その、この夢は『希望』です」
「すると、金を持つことが希望になるのかね?」
やはり、神は知っていたのだ。やせ細ったホームレス姿の男は、今はキリストのような姿に見えていた。
「じょうだんですよ・・・」私はうつむいて、地面を見ながら小さく言った。
「ふむ、よかろう。汝は(なんじ)は、地獄に行くべし」例の「神の言葉」が少し混ざっている返事だった。
「地獄ですかあ?」私は拍子抜けした顔で、神に念を押した。
「怖いか?」
「いえ、別に怖くは無いですよ。人間の人生では苦労しましたので。三回もレイ・オフ(解雇)されましたのでね。アレに比べれば・・・だって働かなくても食べていけるのでしょう?それに、色々な有名な人たちにも出会える。天国にいる人たちより、きっと人間味があるはずです」
「なるほど、そういう考え方もあるのかね」
「そうですよ、神様。天国より地獄の方にこそ、ユニークな人々が暮していると思いませんか」
「いや、行った事が無いのでね」
「ああ、それはいけません。神なら、やはり、地獄で拷問を受けている人間の事も知っておかないと。悪魔達だって、お金と色仕掛けで、騙されているかもしれない」
「・・・・・」
「地獄から煉獄、そして、天国に上がった人間でも賄賂で上がった人間もいるとおもいますよ」
「そんな馬鹿な・・・」神は、唇の先で薄く笑った。
「あなたは、神様ですけど人間のことを良く知らないようですね。人間は、したたかな生物です。最近YUTUBEでは、あ、YUTUBE見てますか?」
「いや、私は神だから、あのようなモノは必要が無い」
「だからだ。だから、最近の人間社会は神の恵みを受けられないんだ。神様が人間のすることを知らない。YUTUBEでは、人間の身勝手な情報が流れています」
「そうか・・・」神は、例の『神』と書いたタトゥーのあるか細い白い二の腕辺りをぽりぽり掻いた。
「若し、よかったら一緒に地獄に行って見ませんか?」私は、地獄が大変なところだったら、この神にお願いして、せめて「煉獄」とか言うところに鞍替えをさせてもらおうと考えたのである。「煉獄」とは、地獄と天国の間にあり、軽い罪を持つ人間が天国にいけるように魂を洗浄するところらしい。「魂」を清めたら、天国に登れるらしい。つまり、地獄の人の苦しみも知らぬ存ぜぬの人間になり、心の無い輩になるわけである。
「そうねえ・・・」女性のように、柔な言葉をぽつりと言った神は、少しの間考えていた。
私は、後もう一押しだと思い「神様が地獄で拷問にあえぐ人たちの事を知らないなんて、クリスチャンの人たちは、貴方に幻滅しますよ。否、彼達だけではなくイスラム教徒や仏教徒も、キリスト経を軽蔑するかも知れない。もちろん彼らだって天国と地獄は持っているようですが何分身勝手ですからね」と、付け加えた。
「そうねえ・・・フム・・・」と神は考え込んでいる。
「地獄で苦しんでいる人々を救済するのが神様の役目ではないのですか? もしかしたら、救済する責任があるかもしれない。悪い事をしないように人間を導くのが神様達の役目でしょうから」と、私は釘を刺した。
「なるほどね・・・よし・・・」神は決心をした。しかし、神の決心の言葉は弱かったので、喜んで参加するのではなく、何となく私の言葉に踊らされたのだろう。
「よし、これで決まり」私は、俄然やる気が出てきた。多分、私はハンバーガーの食中毒で死に、目の前に神が現れたのだと考えていたからだ。ここのハンバーガー店は、私の家内には十分な補償もするだろうし、いざと言う時に自分でも生命保険に入っていた。多分、私の家内は経済的に今より良くなるはずだ。
私に悔いは無かった。それよりも「地獄」めぐりを楽しんで見たいと考えていた。現世では小物だった私がした罪など、知れている。大した拷問は受けまい。魔王だって、結構よい奴で、彼の宮殿にある広大な庭の草むしり程度の罰則であろう。
「では、地獄へお連れ下さい」私は、神様に丁寧にお願いをした。
「でもね。あたしは地獄を知らない」とキリストは言った。
「『あたし』ではなく『私』でしょう?それに、あなたは神様でしょう?地獄の場所をしらないなんて、有り得ない」私は神を小ばかにしたように言った。神を冒涜して地獄に落ちる。しかし、地獄に向かおうとしている人間には怖いモノはないのである。破れかぶれの心境と言っても差し支えない。
8)地獄の大魔王と神と地獄に落ちる
「この犬がね」神は言った。
先ほど、ぺちゃぺちゃと皿にこぼしたコーラを飲んでいたダサイ犬の事だ。
私は犬を見た。記憶では、犬はヘンリーと言う名の月に住む宇宙人だったが今回は単なる犬のようだ。
犬は、まだ皿の中を嘗め回していた。
「この犬がね、大魔王です」と、神が言った。
「えっ?なんて言いました?」私は、聞き直した。
「この犬が大魔王だから、彼に頼んでみよう」
「この犬が?」と、私が口にした時、例のヘンリーのように「犬で悪かったな」と、黒い物体が私の目に立ちふさがった。黒いてるてる坊主のような、実体の無い陰のような姿だ。
「あの、大魔王様ですか・・・」私は、小さく確認した。神様は罰をあまり加えないが悪魔達は、やばい連中だ。悪さをする。
「そうじゃ。この糞餓鬼奴!」相手は、最初から喧嘩腰だ。(この野郎、やる気か!)と、既に地獄行きで開き直っている私は、当然開き直って思った。貧乏を長く経験していると「大魔王」さえも怖く無くなるのだ。
「まあまあ、魔王君。許してあげたまえよ。この人間は、貧乏人だから」
私は少しムッとした。如何に神にせよ、真っ向から「貧乏人」などと言われると、気分は良くない。貧乏には、好きでなったわけではない。神々がえこひいきしたからではないか。私だって、マイクロソフトのビル・ゲイツぐらいの金持になりたかった。しかし、家のローンや学生ローンの返金に追われ、結局ハンバーガの食中毒(多分。しかし、記憶には無い)で地獄行きになった男である。神でも悪魔でももってこい。
「おい悪魔。糞餓鬼奴で悪かったな。俺達が悪い事をしないと、アンタの仕事もなくなるんだぜ。つまりレイ・オフ(解雇)だ」と、チンピラのような言い方をした。
大魔王は、人間からこのような言葉を浴びせ返されたことが無いようで、口をあんぐりと開け、大目をむいてしどろもどろしていた。黒い顔が真っ赤な血の色にかわっている。
「まあまあ・・・君達、喧嘩は止したまえ」神が仲裁に入った。
「フー」と大魔王は息を吐き、両肩と両手を上げて仕方ないと言うようなジェスチャーをした。
(あ、こいつ気が弱いな)と、私は思った。一瞬、神と大魔王を家来にして世界征服をとさえ考えたほどだ。
「では、魔王君地獄界に行くかね?」神が言った。
「神君。僕はこの人間気に食わないよ。首を180度のネジ曲げの刑にかけようと思うほどだ」
「ああ、あれかね。アレは酷い拷問だ」と神は言い、ちらりと私を見た。
「フェア(公平)で、お願いします。僕は知っているのですよ。僕程度の罪では、魔界でも軽い刑に過ぎないことを。若し、この法律に反したら、もちろん、訴訟を起こします」と、私は大魔王を見た。
「何、それ? 法律? 魔界ではワシがルールのはずだ」
「それは、昔の事です。如何に大魔王でも、法律違反は許されない」
「そんな馬鹿な」
「大魔王さん。あなたは、大変古い考えの持主だ。それでは、現代に通用しない存在。だから、我々人間は、地獄も天国も同じように考えてしまうんです」
「そう言われてもなあ・・・」大魔王は考え込んだ。
「ま、私にお任せください」私は、完全に神と大魔王を仲間にしていた。
「では、参りましょうか」神が言った。
すると、大魔王は近くの地面を犬が前足で地面を掘るような仕草をした。穴が現れた。
「これは?」私が聞くと、大魔王は地獄への入口だと、口を否(いや)に大きく開けて言った。
地獄は、宇宙の「ブラック・ホール」のようになっているらしい。入口に立つと、漏斗状になっている地下の世界が見えた。私は「ブラック・ホール」には、経験がある。月星人のヘンリーやトーマスと、地球を救う為にブラックホールに行き、糸の縺れのようなモノを消し去った。それが地球を救う事だった。しかし、今回は地中にある地獄行きである。生前悪い事をした人間が死後に送られる世界だ。私は、大魔王と、そして神様も同行して、地獄に降りて行った。辺りは、灰色がかった薄暗い世界だった。降りていくに従い不安が増して来た。「地獄の苦しみ」などという言葉が思い起こされた。とにかくすごい拷問があり、それが極限に近い日数も続けられる。日本では地獄は八段階あり、無間地獄という八段階目では、七段階の地獄の攻めなどがまだ軽く感じられるような、すごい拷問があるらしい。ひどい話だ。
私と、大魔王と神は、薄暗い空間をどんどんと下に降りて行った。地獄に近くになるにつれて、大魔王が次第に落ち着きを見せなくなった。
「どうしたのですか?」と、私が聞いてみると魔王は「あ、いや・・・」と言葉に力が無い。顔を見ると、赤っぽいすごい形相の額(ひたい)に汗が出ていた。
「大魔王さん。体の具合が悪いのでは?」
「・・・」彼は、無言だった。
「どうしたんだね、魔王君」神も心配そうに聞いた。
「いや、なんでもない」
やがて私達の降下速度は次第に遅くなり、トンと言う感じで地面らしきところに着いた。前方に赤い門が見える。
「ああ、アレが地獄の門ですか?」私は、生きている時に地獄絵巻などを見ていたのを思い出して言った。しかし、赤い炎が出ていない。少し、趣(おもむき)が違う。
「こりゃ、ひどい」神が言った。
「予算が足らなくてね」大魔王が言った。
「予算ですか?」私が言うと、大魔王は「物価高で、修理が出来ない」と、答えた。
「死んだ人間達から、お金を巻き上げればよいでしょうに」
「それがね。地獄に来る人間は、既に金を神の方に差し出している」
私は、チラリと神を見た。神は目をそらした。
「どうして、ですか」大魔王に聞いた。
「罪の軽減さ。要するに、神に金を出して地獄から煉獄に変えてもらうらしい」
「そんな馬鹿な。神様は、そんなアンフェアな事はしないでしょう」
「するさ。天国の維持費なんぞ、地獄に比べれば何億倍だからな。それに、上空ほど金が掛かる」大魔王が言った。
私達は、ぶらぶらと歩いて地獄の門の前に来た。
「これが地獄・・・」神がぽつりと言った。
大魔王は、すごい形相にもかかわらず憎めない奴で、何となく恥ずかしそうに、そわそわしている。ま、初めて神を自分の館(やかた)に入れるので緊張しているのかもしれない。
門を開くと、悪魔か鬼の門番がいて前世に悪い事をした人間が拷問を受けている悲鳴などが聞こえるはずだ。
私は、これは良い経験になると思いながら、いざとなったら神に助けてもらおうとやせ細った神様の傍にいた。
しばらく門は開かなかった。
「・・・」大魔王は門に近寄った。
「大魔王君。どうして門は開かないんだい?」神が聞いた。
「忘れていた。門番は休暇だ。子供が生まれる」
「悪魔の子供ですか?」私は聞いた。
「彼のカミサンさんは、鬼だけど、美人だ」ニコリともせずに大魔王は言った。すごい形相だ。私は、思わず目をそらして悪魔の門番と鬼との相思相愛を思い描いていた。
大魔王はブツブツ言いながら、自分で門に手を掛けると門を開いた。
すると、何かが違う。「どうぞ」と、大魔王は神と私を振り向いて言った。
私と神は、大魔王の後について地獄の門をくぐった。
「あれ?」私は思わず声を出した。
地獄の中は、明るく周囲には花々が咲きほこり、前世で悪い事をして地獄に落とされた人間達が花の手入れをしていた。
「間違って、天国か煉獄に来たのでは?」と、私は言った。
「地獄さ」大魔王が答えた。
「拷問が無いようですが・・・」私は例の、美女が拷問に苦しむ姿や金持ちが拷問を受ける様を思い浮かべていたので、失望の色を隠せなかった。
「魔王君。地獄としてのシステムが機能していないのではないかね」神が言った。
「そうなんだよ、神君。私も、最初は少し戸惑った。しかし、前世で悪さをした人間を拷問で攻め立てるより、彼達の心を休ませて反省させ、新たな人間に作り変える事の方が真の地獄としての『価値』を持つと思ったものだからね」
「君には、失望したよ。魔王君」神が言った。大魔王は、すごい形相の顔をさらに赤くして、うつむき腕を組んだ。
「しかし、私は大魔王の考えに賛成ですね。前世に悪い事をしなかった人間など、先ずいませんでしょうし、それに地獄の拷問のプロセスは、そもそも誰が考えたのですか。アレは、時代遅れです。フェアでないようだし」私は、自分の貧しい人間らしい考えを隠しながら言った。
「地獄のプロセスは神たちによって作られたのさ。自分達を優位に置く為にね」大魔王が答えた。
神の端正な白い顔が少しゆがんでいた。
大魔王の顔の方が男らしく、何となく立派に見えているので不思議だ。
「僕だって、上からの命令に従っただけだ」神がぽつりと吐き出すように言った。
「神様に上ってあるのですか?」私は聞いた。
「大宇宙。そもそも、死後の世界では魂だけだから、それが元の宇宙区間の戻される。地球からだと、つまり、近くのブラックホールまで10億光年ほど掛かる。その間には、宇宙線とか彗星との衝突・・・それは、大変過酷な旅となるの。それを『地獄』としてビジュアル化しているのさ」大魔王が低く言った。
「でも、ここにいる人達は、まるで生きている姿ですけど」と、私は言った。
「確かに。人間は人間の姿のままにセットしてある。ヴァーチャル空間なのだよ。しかし、架空の人間でも死後の本人の魂を入れているので、生存している時と同じだ」
「年齢はどうなるのですか?」長年疑問に思っていたことを大魔王に聞いた。
「自分の好きな年齢と言うより、悪がピークの時の年齢だ」「悪がピーク?」
「我々は悪事をエネルギー換算するからね。悪のエネルギーが最高値の時の年齢になる」
「なるほど・・・そういうことか。分りやすい」
「なに、宇宙では全てエネルギーと時間計算さ」大魔王が言った。
「しかし、これでは、困る」傍で呆然と突っ立っていた神様が口を挟んだ。
「?」
「これでは、悪い人間が増える」
「でも、拷問より良いでしょう?」私は言った。自分を有利にする為だ。
「神を信じなくなる」
神の言葉に、私と大魔王は顔を見合わせた。
「拷問は、人間がかわいそうだと従業員たちが言い出してね」大魔王が答えた。「あの、従業員というのは悪魔達ですか?」
「そうです」
「なるほど。あの怖い顔をした悪魔にも心があるんだ」
「それは差別発言だ。我々地獄の悪魔達は、長年こういった嫌な仕事を強制されてきたんだ。なんども、神々に意見を申し入れたが誰も聞かない。一度など、釈迦と言う神が天国から地獄に一筋の糸をおろしてきてカンダタと言うインド人の男を助けようとした。しかし、彼が人間らしく自分だけ助かろうとしたら無慈悲に糸を切った。哀れなのは蜘蛛ですよ。あれ以来地獄に住んでいます。カンダタも神嫌いになり、悪魔になりたいなどと言って困りました」
「神様の罪」私は思わず口にした。近くにいた色の白い痩せた神は、流石に驚いた顔をした。
「刑罰は?」「多分、一億回の鞭打ちの刑。若しくは十字架に磔にされて、槍で突き刺しの刑」
「や、やめてくれ!」キリストに似た神様は何かを思い出したようにおびえた。
「ね、嫌でしょう。皆嫌なんだ。だから、大魔王さんが改革した地獄の方が正しいのです」私は自分の立場も忘れて、神様と大魔王を説得するように言った。心の片隅に、最初に思った野望が芽を出し始めていた。神と魔王を操る。
「見せたいものがあります」大魔王は、すごい形相の顔をさらにゆがめて小さく言った。
「何だね魔王君」神は話題が代わった事にほっとしたようだ。
「悪魔の連中がね・・・その、人間くさい事をやり始めて困った・・・」
「なんだい、それは、変な事は許しませんよ」神は、自分の本来の仕事を思い出したようだ。
「僕のせいではないよ、神君。悪魔達が組合を作った」
「組合?」「そう。労働組合」「ばかな!」神が少し声を荒げた。
「だけどね、絶え間なく地獄に送られてくる死後の人間を毎日拷問するんだぜ。皆飽きるよ。拷問だけなんて、馬鹿らしいじゃない」と、大魔王。
「馬鹿らしい?嫌に抽象的な言葉ですね」と、私は言った。
大魔王は、私をギョロリと横目で睨み、ため息を吐いた。
私は、生前に見た「地獄図」や、ダンテの神曲にあった人間を炎で焼いたり、切り刻んだり、鞭で叩いたり、とにかくありとあらゆる拷問を死後の人間に加える場面を思い出していた。
「ふむ・・・」神様は、黙った。
「神君。本当に地獄は必要なのかい?」大魔王が聞いた。
「えっ?」神は、この突然の言葉に白い顔を少し赤らめた。すこし後ろめたさを感じているようだ。
「天国のようにだね。いや、僕だって、昔は天国にいたじゃないか」大魔王は自分を「僕」と人間のように呼称し、神に言った。
神が軽く頷いた。
「本当ですか?信じられない」と、私は言った。
「信じようと信じまいと、僕は神君と同級生だった」
「ええ?本当ですか。本当に信じられない」
「本当・・・」神がやけっぱちな声を弱々しく洩らした。
「僕のほうが勉強が良く出来たのに」大魔王は、小学生のように愚痴った。
「確かに君は勉強が出来た。しかし、駆けっこでは僕のほうが速かった」と、神。話が幼稚である。
「あの、そのような事はさておいてですね。誰が、大魔王さんは地獄で、神様は天国と決めたのですか?」私は、ずばりと肝心な事を聞いてやった。彼達の子供じみた論争には、興味が無い。それに、私は死んでいるようなので地獄か天国か、出来るだけ早く決めて欲しかった。悪魔達は死後に地獄に来た人間の女体をくすぐったり鞭打ったりはしないようなので、私はせめて好きな読書でも出来るところに死後の仕事を持ちたかった。もちろん、地獄においての仕事には給料が支払われないかもしれない。しかし、食べなくても死の世界に「死ぬ」と言う事はないだろう。適当に毎日を暮らせれば良いと考えている。
私の質問に、彼達は「神」と声をそろえて言った。
「『神』ですって?だって、あなたが神で、あなたが大魔王でしょう?」私は二人に確認した。
「嫌違う」今回も神と大魔王は同時に声を出した。
「違う?じゃあ、あなた達のほかに本物の『神と悪魔』がいるわけですか?」
「そうなんだよ・・・『神』だけだけどね」神が弱々しい声で言った。大魔王が傍で頷いた。
「では、あなた達は偽者の神と悪魔なのですか」
「いや、僕達は本物です」「でも、今しがた『本物の神』と言ったじゃないですか」
「確かに・・・」と、神と大魔王は暗い顔をした。
「それは、誰なのですか?」
「嘘をつきたく無いので言います。確かに『本物の神』は、います。しかし、僕たちも偽者ではない」大魔王が言った。
「『本物の神』ですか? 神の上は『大宇宙』とか、神様が先ほど言ってたけど」
大魔王は、チラリと神を見た。そして言った。「違う。神の『神』は『月人』さ」
「えっ?」私は、思い出した。生前に月人のよって宇宙に連れて行かれ、ブラックホールの時間の縺(もつ)れを取り除く手伝いをさせられた」
「月人とは、月に住む宇宙人達のことですか?」
「そうです」と大魔王。彼は両手を腰の後ろで組んでいた。そして、続けた。「とにかく、君達に見せたいものがある」と言い、彼は歩き出した。
神様と私は、大魔王の後について歩き始めた。
しばらく歩くと、もちろん両側の道には花が咲き小鳥が鳴いている。地下の暗い空間ではなくて、ここは明るい真昼の空間だ。しかし、太陽は無い。
電気は、どうして作っているのだろう。私は人間社会を思い出していた。ここは地獄だから、当然暗い地中だと想像していたのだが一大改革が地獄で起こったようだ。悪魔達が組合を組織し、死後の人間に対する懲らしめを止めた。つまり、悪魔が「悪魔」で無くなった。地獄が「地獄」でなくなったことを意味していた。しかし、この秘密が漏れると、人間社会では、反道徳的なことを平気で行う罪人(つみびと)が無尽蔵に作られるだろう。人々は、死後における地獄での責め苦を恐怖しなくなり、身勝手な行いをするようになる。地獄に行っても、適当に暮せるのだと考えて、好き勝手に自分達の損得で物事を行うに違いない。
「地獄」が「地獄で無い」ことは「極秘」にすべきだ。
「人間の弱さにも呆れるね」神が言った。
「弱さ?」私が聞くと、彼は「私達が管理しないと、直ぐに人間社会の道徳的秩序は崩れちゃうしね」言葉が現代調だ。
「それで、神様と大魔王様ですか・・・」私は、納得した。人間は、身勝手な生物だ。現代は、格差社会で富裕層と貧困層の二極化が応じている。資本主義社会だから当然だろうが政治が上手く機能していない。そして、倫理的にどちらの階層が優れているとは言えないが両方の階層とも、善と悪の両方を兼ね備えている。「人間とは?」と、テーマを置いて哲学的思考に頼っても、核心を突く結論は出てこない。
地獄と天国の機能はどうだ。神と大魔王の話によると、指導的立場にある天使も悪魔も、既に疲れ果てているらしい。地獄では、現に悪魔の労働組合が組織されていた。生前に悪い行いをした人間に与える罪の償いとしての拷問などは行われていない。「馬鹿らしい」と言うのが彼達の持論だ。確かに、限りなく地獄に落ちてくる人間を裁き、罪を償わせる為に拷問を行うのは道理に反している。実際には、死後の人間の魂は宇宙空間を「ブラックホール」に向けて移動する。そして、ヴァーチャル的には、人間の肉体は地獄や天国に送られる。天国はさておいて、労働条件の悪い環境下で仕方なく働かされていたのは悪魔達で、大魔王や閻魔様はマネージャー的存在だった。
では、天国や地獄の主は誰かと言うと、神様と大魔王は「月人」だと言った。
私は現在、食中毒で死んでいるのだが「月人」と言う言葉が自分の生前の記憶にあることに気づいた。
「ここだよ・・・」大魔王が怯えたように、大きいドアの前で止まった。なぜか見た覚えがあるようなドアだ。虹色の光沢を持っている。
「神様の家だ」と大魔王が言った。彼の赤黒い色の顔が青黒くなっている。神、ここにいるタトゥーを腕にしている我々人間の神様も、血の気のうせた青白い顔になっていた。多分、この中にいる「本当の神様」は相当怖い存在なのだろう。つまり、すごく悪い奴で、神様と大魔王を顎で使い、地獄に落ちた色っぽい女性たちをハーレムのように周りに置いてよろしくやっているのではないか。人間の欲望を残したまま死んだ私は、地獄でもいやらしく想像した。とにかく、ハンバーガー店での突然の死だったので、煩悩を残したまま地獄に落ちたようだ。
9)地獄で月人に再会し、私は神になった
ドアが開いた。二人の人らしき影が光を背景にして入口に現れた。神と大魔王が「ヘヘェ!」と、地上に平伏した。日本の殿様に家来が平伏するような様だ。
「ヨッ、地球人」入口に立った二人の男の一人がぼんやりと突っ立っている私に向かって言った。背後が明るいせいか、顔が分らない。
「ガハハハ!」と、もう一人の男がカラスの鳴声のような声で笑った。私は、思い出した。月人のヘンリーとトーマスだ。
すると、私は死んだのではなく生きている?
「やあ・・・」
「地球人、元気だったか?」
「ヘンリー・・・」「どうだい、地獄は?」「僕など、死んだら地獄落ちだと思っていたので、至極当たり前さ。しかし、君達も死んだのかい。月人は死なないと聞いたけど」
「生きているぜ。どうだ地獄は?」トーマスがヘンリーと同じ質問をした。
私は、地に平伏している神と大魔王を見た。まるで地上に置いてある白い石と黒い石のように見える。
「地獄は・・・変わった」と、私は言った。
「そうだろうね」ヘンリーが言った。
「そもそも、どうして君達月人が地球の『地獄』にいるのかね。悪い事をした罪の償いに地獄に落とされた、と言うストーリーかな?」
「残念だな地球人。我々には人類の使う善悪の概念は無い」
「善悪の概念が無い。すると、君達には天国も地獄も無い。それなのにどうして地獄にいるのだろうね?」
「地獄は、われわれが作ったヴィーチャル空間のようなものだ」と、大魔王と同じような事を言った。
「では、僕は現在何処にいるのだろう?」
「地獄だよ。つまり、ブラック・ホールの中さ。人間」トーマスが言った。すると、私はあのままブラック・ホールにいたことになる。
「人間は、ブラック・ホールでヴァーチャル現象に遭遇する。それが地獄さ。宇宙船に乗ってくれ。地球に戻るぞ」
「戻る?僕はハンバーガーの食あたりで死んだはずだが」
「くどいヤツだ。死んではいない。とにかく、乗れ」
「彼達は?」私は、神と悪魔を見ながらヘンリーとトーマスに聞いた。
「ああ、神と大魔王か。彼達は,このまま」
私は、宇宙船の中に入った。すると、記憶が蘇ってきた。今朝、ハンバー店で犬を連れている浮浪者に会ったこと。犬と烏(カラス)が月人のヘンリーとトーマスで、私は彼達と一緒に月に行った。そして、地球を守る為にブラック・ホールに行き、縺(もつれ)と呼ばれるものを消し去った。唯、最後の一つを除いては・・・。
「死んだと思っていたよ」私は、月人達に言った。
「死か・・・人間の『死』には、無駄が多い」
「無駄が多い?」
「複雑すぎる」
「そんな事をいっても、僕には分らないね。だって、人間の死は、完全な終わりなんだよ。生命の終わり」
「まあな。人間のような生命体は自己の細胞組織を秩序的に形成させて生物化している。秩序が崩壊すると、生命体として機能しなくなる」
「『死』は、全ての人間にあるんだ」と、私は確信するように言った。
「そのように創(つく)ってある」ヘンリーが言った。
「でも、君達には人間のような『死』が無いようだね」
「いや、ある」意外な言葉だった。
「あるの?」私は聞いた。
「人間の死とは違う」
「?」
「我々の個体の持つエネルギーは、一つの天体にも該当する。したがって、我々が人間の死の概念に近い時には宇宙が膨張する」
まるでチンプンカンプンである。宇宙は膨張するなど、天体学者が使う言葉だ。私など海は広いな大きいな程度の尺度でしか物事を考えられない。
「地獄は平穏な社会だった」と、私は話題を変えた。
「それだ、地球人。君が『地獄』を変えたのさ」ヘンリーが言った。
「?」
「君が最後に残した『縺れ』あれが地獄のヴァーチャルを一転させた」
私は思い出した。
あの時、私はかすかに震えている「縺れ」を可哀想に思った。
あのことが地獄絵巻にあるような拷問を無くした。
「では、ダンテの書いた『神曲』にある、地獄は存在しないのだろうか?」私は素朴な質問をした。
「そうだ。そもそも、あのようなシステムを創作したのは人間だ」
「神は、あのタトゥーを持った神ではなく実際の神は、地獄など作っていなかったと言う事ですか?」
「当たり前じゃないか、人間。善悪の判断の基準は何だ。もちろん人間社会を考慮してだが、都合よく作られた道義に過ぎない。「地獄」とか「天国」とかは、完成されていない生物の妄想だ」
「ふうん・・・良く分らないけど、まあいいや」
その時、トーマスがガハハと笑い「人間、神になってみるか?」と聞いた。
「神だって? 僕が? 笑っちゃうね。実際、僕は地獄行きの人間だぜ。神などになりえるわけが無い」
「では、一度体験してみてはどうだ?」
「体験か・・・一度だけねえ・・・」私は、嫌らしい妄想を持った。綺麗な女天使達に囲まれた姿だ。イタリア・ルネッサンスの画家ボッティチェッリの「ヴィーナス誕生」や「プリマヴェーラ(春)」に描かれている美人達に、神となって囲まれてみたいものだ。もちろん他の画家の描いた天使達も、皆美人である。「美人」がどうして「天使」なのか、誰も証明していないし証明など出来ないだろうね。美人の写真を見てみると「美人」と決められるのは、顔についている人間の器官で、これらのバランスの対比に過ぎない。そして、その時点における表情が補足される。
しかし、神を取り囲む女性達が美しいのには何か訳がありそうだ。
「神と言っても、色々な宗教があるけど、僕はどの神を体験できるのかな?」と聞いてみた。
「どの神でもいいぜ。好きなのを選びな」とトーマスが言った。
「そうは言ってもだねえ。僕の好き嫌いもあるし・・・」私は、美女達の姿をイメージしている。
「イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏陀でも良いぞ。それにゾロアスター教もある。とにかく人間は身勝手に自分達の都合だけで沢山の宗教を作り、神を創造した」
「神達は、みな天からの啓示を受けたと聞いたことがある」
「単なる我々の、言葉だ」
「色々な神を言ってもね、迷うだけさ。僕は、どちらかと言うとキリストが好きだな。彼はやさしそうだし・・・それに、清潔そうだからね」
「磔になったぞ。ガハハ」と、トーマス。
「それは、避けてくれ。どちらかと言うと、天国のみにして欲しい」ゴルゴタの丘で磔になったイエス・キリストのことを思い出していた。この刑では、死ぬ前に48時間も苦しむらしい。
「身勝手な人間だ」
「キリストのような『神』になる」と、私は罰当りな判断をした。今度こそ、地獄に送られるのではあるまいか。
と、思ったら人間の世界だった。私は、普通の人間で、神ではないようだ。
目の前には、明るい店内の中に色とりどりのグロッサリー(食料雑貨)が積まれている。(美しい・・・)と、私は思ったがふと我に返って冷静に眺めると、いつも買物をしているセーフ・ウエイ(アメリカの大手スーパー・マーケット)の店内だ。
しかし、私の目には、ここが童話の「お菓子の国」のように見えた。色とりどりの新鮮な商品があたり一面にある。
私は、神の国にいるようにも思えた。立ち止まって眺めていると、色々な幼少期の楽しい思い出が蘇って来た。父と母が汗して働き、魔法のように色々なものを与えてくれた。朝早くから夕暮れまで額に汗して働く父や、母の汗、私は現在の自分の乾いた身体にもどかしさを覚えた。
ショッピング・カートを押しながら近づいた買い物客が私を不審そうに眺めながら去った。
私は、自分の服装に目をやった。薄汚れていた。靴は・・・汚い草履だ。手を眺めると指先の爪には黒いごみが入っている。顔を触ると髭が伸びていた。私は何者だ?
私は「ホームレス」のようだ。神ではない。その証拠に、念じて食物を買うお金を手に入れようとしたが手の中に何も表れなかった。乾いた手のひらが差し出されている。「神は死んだ」などというニーチェの言葉が思い起こされた。「貧しい人は幸である。天国は彼らのためにある」と言うようなキリストの言葉にも腹が立つ。私は、天国よりも現実に食べ物が欲しい。空腹だ。しかし、商品を掴み外に逃げ出しても直ぐに警備員に捕まるだろう。額に汗して、欲のために働かない私に非がある。
私は、手ぶらでセーフ・ウエイの外に出た。やることは一つ。物乞いだ。近くにあったダンボールの箱の一部を剥ぎ取り、店から離れた駐車場の端に出た。店の近くで物乞いをすると警察に通報される。私は、この光景を何ども見た覚えがあるので注意した。
ダンボールに「ホームレス」と書くペンが無い。私は、ダンボールの切れ端だけを両手に掲げて道の端に立った。汚れた粗末な身なりなので、これで十分だ。月人達は私を「神」にしてやると言いながら「ホームレス」にした。宇宙も、天国も、地獄も経験した私には現実の世界で体験するホームレスの姿は、自分からプライドを剥ぎ取り生存の延長、否、生命を維持させようとする本能に従っている。それこそ、ニーチェの「畜群本能」に加わった姿だ。ギリシャの哲学者プラトンの説く「善のイデア」などとはかけ離れた、大宇宙における存在の価値のみが確認できた。モンテェーニュのエセーさえも、大儀に感じられる。これ等哲学者達は「神」を否定している。しかし、私は「神」を否定する根拠をもたない。
なかなか、人は恵んではくれないものだ。それでも、慈愛に満ちた人もいる。数時間後、私の前に現れた女性が二ドル恵んでくれた。それから、少しづつ恵んでくれる人が出てきて、夕方近くになると30ドルほどが私のポケットにあった。
私はセーフウエイに戻り、カップヌードルの箱を買った。$3.50だった。箱を抱えて外に出ると、既に夕暮れだ。カップヌードルには湯がいるが私は空腹だった。箱には12個のカープヌードルが綺麗に並んでいる。私は透明な包装ラップを破り一つを掴みあげた。紙の蓋を破ると、醤油味のスープの匂いが鼻を突いた。小エビが数個見える。乾燥した小エビを掴みあげて口に入れた。噛み砕き胃に流し込む。次に麺を割って一片を口にした。ボリボリ噛んだ。なかなかの味だ。しかし、やはり湯がほしい。私はコーヒー店に入り、コーヒーを一つ注文した。そして、湯をカップヌードルの中に注いでくれないかと頼んでみた。一瞬店員は怪訝な顔をしたが店内の奥からお湯の入ったポットを持って来た。私は二つのカップヌードルに湯を注いでもらった。
店の外に出ると、歩道の方まで歩き縁石に腰をかけた。フォークが無い。近くの植木の枝を折り箸にした。
現在、私の風体はアメリカのホームレスだ。日本人の私がアメリカにまで来て「ホームレス」になったのは何か理由があるだろうが一切思い出せない。記憶にあるのは今日、家を出たこと。自分の家には私のコピーがいる。そして、ローンに追われていた家の場所は忘れている。
今夜、泊まる場所が無い。ラーメンを食べながら今夜の寝場所を何処にするか考えた。そして、以前にホームレス達が小屋を作っていたハイウエイ(高速道路)脇を思い出した。ここから歩いてもそう遠くは無い。私はよたよたと歩き始めた。メリディアン通りを南西方向に歩き、右脇のハイスクールを越えると、ハイウエイを走行する車の音がザーザーと聞こえてきた。時々立ち止まっては、先ほど買ったコーヒーのカップに口をつけた。心細い。夕刻に寝る場所が無いという事がこんなに不安だとは。
ヨボヨボと歩いて、何とかハイウエイを交差す橋桁の下に付いたが人家の横と橋桁のわずかな隙間はフエンスで囲まれていた。私はオロオロと辺りを見回し、うす暗くなってきて淀んだ大気の中に、誰かがフエンスに開けた穴を見つけた。人の体が入れそうだ。私はカップヌードルの箱とコーヒーを先ず入れて、穴の中に頭を入れた。その時「ヘイ」(ヨッ!)と、誰かが声を押し殺して言った。本能的に声のした方を見上げようとして金網が背中に触れ、フェンスが揺れた。
「おい、あせるな。仲間だ。ゆっくり出て来い」と、相手は言った。私は、改めて声の主のほうに目をやった。
一目でホームレスとわかる輩だ。
「すまない。ドア・ベルが無かったのでね」
「故障している」と、相手は答えた。今は、車の音がザーでは無くゴーと聞こえてくる。
私は穴から抜け出て、フリーウエイ脇の茂みの中に出た。どうやら、近くにあるのは相手のテントらしい。ブルー・シートが木から橋桁の脇にあるフエンスに結びつけてある。中には寝袋らしきモノが見えていた。
「少し、車の音が多すぎるね」私の言葉に、相手は顔をくずし「音が無いと寂しいぜ」と答えた。「なるほど・・・」
「国税調査にきたのかな?」
「いや、宿が無くて迷い込んだ」私は素直に言った。
「ホームレスか・・・」と、ホームレスが私に言った。
「いや、違う。放浪者だ」
「ホームレスだろう?」
「ホームレスかもしれない」
「素直でない奴だ」
「よし、それでは正直に話してやる。私は神様だ」
「・・・・・」相手はポカンとして私の顔を覗き込んだ」
「神だ」
「そうか・・・分かった。ま、仲良くしよう。アンタが神なら、俺は人間だ」と彼は言った。
「神からの差し入れだ」私は、カップヌードルの箱を差し出した。
「なるほど・・・」
「稼いだ金で買った」
「ほう?どう稼いだ。空缶回収でもしたのか。アレは、まあまあの金になる」
「ダンボールだ」「物乞いか」「物乞いではない。労働をして稼いだ」
「まあ、そう、考えても良いだろう。ところで、泊まるところは無いのだろう?」
私は無言で頭を振った。
「そこに、毛布があるので、それで休んでくれ。それが精一杯だ。夜中は寒いので、俺の寝袋に背中をつけろ。暖房代わりだ」
「ありがとう」私は、思わず涙声。
「神は泣かない。神が泣いた教会の絵も見たことがないし、俺の村の牧師も神が泣くとは説教しなかった。あんたは、なんだか人間くさい神だな。ウイスキー、どうだ?」
「ウイスキーか・・・酒は飲めないが飲んでみる事にする」
「飲め」男はアルミ・カップにウイスキーを注ぐと私に渡した。そして、自分のコップにも注ぎ「では、神と人間のために・・・」と、乾杯した。
ウイスキーが胃に下ると、安堵感を覚えた。泊まるところが出来た。
「さて・・・」と、相手はあたりを見渡した。
「どうしました?」
「電気をつけるか・・・」
「電気?ここにコンセントがあるのですかねえ」私は神と言うより人間の酔っ払いだった。
「ある」
「ある?」
「ソーラー・スポットライトLEDだ」
「あの、時々個人の家の敷地に立ててるアレですか」
「あれさ。ま、見てろ・・・」彼は、スイッチを入れて、近くの土に立てた。灯りが相手の髭面を照らし出した。ブルー・テントの中はかなり明るい。
「なるほど・・・」私は、感心した。
「な、まあまあだろう。一本、いただいてきた」
「いただいてきたって・・・その、どこかの庭先からですか。それは、いけません。ドロボーになります」取り敢えず、私は神様なので相手を咎めた。
「まあ、かたいこと言うなって。相手は、大金持ちだった。一本ぐらい大目にみろよ」
「その、一本でも好くありません。しかし、ま、いいでしょう」何となく、神様だ。
「そうかい。俺は、テッドだ。神様は・・・本名のままか?」
「私の本名?」
「たしか、イエススだろう?」
「ああ、キリストの事ですか?」
「そうさ。とりあえず、人間には名前がある。親が決める」
なるほど、この髭面のホームレスにも、親がいた。両親は彼の明るい未来を祈り、真っ赤な血を白いミルクにして乳首を彼に与えた。お尻を拭いてやりオシメを換え、父親は額に汗して重労働に耐え、家族のもとに少なからずの金銭を運んだ。
「私は神ですがイエス・キリストではありません」
「すると他の宗派かな?それでも、名前ぐらいあるだろう?」
「あります。サムです」
「サム? まるで人間のような神様だ」
「そうです。昔は人間でしたが月人に『神』にされたのです。もちろん天国にも地獄にも行って来ました」
「なに?天国と地獄にもかい?」
「そうです」
「苦労したんだなあ。普通は、どちらか一つだ。村の牧師が言った。まあ、身の上話はいい。過去は聞かない。まあ、飲め」
ウイスキーが私の手にあるコップに注がれた。私は、飲んだ。フリーウエイを走る車の音が聞こえ、ヘッド・ライトの光がサーチ・ライトのように我々の上に照らされる。私の酔いも、サーチ・ライトのように揺れていた。
私は、朝が来たのを知らなかった。テッドが私を起こした。
「オイ、神様。生きているか?」
私は目を覚ました。土の上に敷かれたカード・ボードの上に毛布をかけて寝たので、体のあちこちが痛む。朝のラッシュ時間帯なのだろう、車の音が多い。
「生きている・・・」私は答えた。私は神で、永遠の命を持っているので生きているのは当たり前だ。しかし、なぜか人間と同じだ。
「そうか、生きていればよかろう」と、相手は適当な受け答えをした。
私は、起き上がった。
「さて、コーヒーでも飲みに行くか」テッドが言った。
「いいですね。顔も洗いたい」
「小便は?」
「コーヒー・ショップでします」
「俺は、ここでする」彼はテントから少し歩いて、フェンスに向かって小便をした。彼の放尿が朝の光を受けて光っている。私も、彼の近くに行って同じように小便をした。
「神様と並んで小便か。アーメン」と、テッド。
「神のご加護を」私は放尿をしながらテッドに言った。
そして、気づいたのだが他にも二三のテントが近くにある。その中の一つから男が出てきた。
「ヘイ・・・」小便の終わったテッドが彼に声をかけた。男がこちらを向いた。黒人の年老いた男だ。大きな鼻の鼻腔は長い顔にのけぞり、鼻の下が長い。分厚い唇は白くなった口ひげが囲っていた。彼はニッと笑ってテッドを見、軽く手を上げて答えた。
「アーメン!」私は言った。男の耳に聞こえたのか、彼は顔を挙げて手で十字を切った。私は神である。全ての人に祝福を与えるのが仕事だ。祝福?と私は思った。どうやら、人間らしさが少し残っているようだ。私は神様だが「祝福」を、人間に与えるのは「人間性」を問う事なのである。自己を改革し、自分で希望を創造する知恵を与えるのだ。
(しかし、神は我々を助けない)空耳だろうか。私には、確かに聞こえた。神は助けない。私は、イエス・キリストの最後の叫びをゴルゴダの丘で聞いた。
(わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか)一体、イエス・キリストは神に何を期待したのだろう。天地が裂ける様な、神の人間界に対する罰則か、それとも命乞いだったのか。
イエススよ、私は神として言う。誰にも期待してはならない。自分で戦い、自分で切り開くのである。そして、神を見つけよ。
私は又他の粗末なテントから年老いたホームレスが現れるのを見た。彼は、紙袋をぶらぶらさせながら近づいて来た。私達に「朝食はどうだい?」と言った。袋の中には四個のハッシュ・ブラウンが入っている。彼は、先ほどの黒人のホームレスにも声をかけた。私達四人は、フリーウエイ横の土手に並んで腰を落とした。手渡された、既に冷たくなったハッシュ・ブラウンを少しづつ齧り始めた。誰も、パクパクとは食べない。少しづつ少しづつ口に入れて行く。小さな幸福だ。
「うまい」私は神の力でコーヒーを出して進ぜようと思ったが黒人のホームレスがテントから魔法瓶を持って来て、コーヒーをカップに注いで差し出した。「神様、先に飲め」テッドが言った。私は行為を受けた。一口飲んで、カップを他に回した。
目の前を自動車が絶え間なく通り過ぎる。轟音と風と排気ガスが取巻いている。
「今日は、ポリスが来るかもしれない・・・」誰かがポツリと声を洩らすように言った。
「ああ、たぶんな・・・一週間になるからなあ・・・」
「又、移動か・・・」
「アルメダン池にある沢の辺りは、フォーレスト・レンジャー(森林監視員)が見張っていて、住めない・・・」誰かがつぶやいた。
「ここには住めない?」私は聞いた。
「サンホセ市がホームレスを一箇所に集め始めている」
「つまり住居を与えられる事でしょう?」私の言葉にテッドが首を振り肯定した。
「笑わせるよ。いくつかあるさ。ホームレスに折りたたみ式の家をとか、安全なテント村とかな。しかし、住民が許さない。ホームレスの中には社会に受け入れられないやつがいる。元犯罪者や麻薬常習犯、精神を病んだ者もいてね。まあ、大半の奴が精神的におかしいのさ。そんな奴らを住まわせるまっとうな住民がいる分けない。俺が、まともな住民なら反対するぜ」
「精神病ですか」
「ロイは、自分は悪魔だといってる」彼は、一番端に座っている男を顎で示した。身体が刺青だ。「それに、アンタは神様だ。牧師だという男や自分が宇宙人だと信じているのもいる」
「・・・住民が、受け入れると思うかい?」
「それは・・・」私は言葉に詰まった。確かに、健康な生活をしている人たちにとってはホームレスのような浮浪者は厄介者に過ぎない。
「でも、何とかしたいですね」
「・・・」テッドはハッシュ・ブラウンの最後の一片を口に押し込み、パタパタと手を叩いててハッシュ・ブラウンのカスを払った。何とかできない現実を知っているぞという風だった。
「皆同じように生まれて、親に育ててもらい、成長したわけでしょう?」
「ホームレスの中には、生後直ぐに捨てられた者もたくさんいる」
「えっ?」私は言葉に詰まった。余りにも一般的な観点から意見を言っていた。ここでは、常識が通用しない。神の哲学は一般的な常識の上に成り立つ。
その時、どこかで電話のなる音がした。黒人のホームレスがポケットから携帯を取り出して耳に当てた。彼は誰かと話し始めた。話しながら彼は皆に言った。
「ポリスが来る・・・」彼達は腰を上げた。
私はテッドがテントを片付けるのは手伝いながら「携帯を持っていましたね」と、聞いた。「皆持ってるぜ。神様もいるかい?」「お金がありません」私は、今朝から丁寧語になっている言葉遣いで言った。多分ホームレスに感服したからに違いない。
「オバマ・ホーンだ」「?」「大不況下でオバマ大統領が取った政策の一つでね。低所得者にフリーで携帯を持たせるプログラムがある」
「へえ・・・今のトランプ大統領でなくオバマ大統領の時ですか」
「20億のアメリカ人がこのプログラムを利用している。250分のトーキング時間がある」
「結構長いですね。でも、どこでバッテリーのチャージをするのですか?」
「教会だな。それに、ときどき図書館なんかでこっそりチャージさせてもらえる」
「なるほど・・・では、コンピューターも使えますよね」
「ん?」テッドは借用しているスーパーの手押し車に家財を積み込みながら私を見た。
「必要なのか?」
「若しコンピューターがあれば、少し私に名案があります」
「名案?」
「そうですよ。要するにお金を稼ぐのです」
「どうやってだい?」
「株です」
「株だって?」
「そう・・・」
「なるほど・・・神様の考え方は、少し違うな・・・しかし、資金はどうする?」
「皆から借ります」
「皆から? ホームレスからかい?」
「そうです」
「なるほど・・・しかし、神様だから知っていると思うがホームレスは金が欲しいのではないぜ」
「え?」
「俺達の大半は、単に働くことが嫌いな怠け者で薬物中毒者だ」
「しかし・・・」
「『ホームレス』と書いたダンボールを両手に持ち二三時間程立っているだけで数百ドルの施しを受けられる。特に女性のホームレスは有利だな。交通事故で手足に負傷を負ったやつは『ベテラン(退役軍人)』と書けば、かなりの額が稼げる。奴らは、市や政府の世話にもなっていて低所得者に対する補助金やフード・クーポン(困窮者のための食品割引切符)も貰っているのさ。しかし、残念ながら奴らの金は薬に消える。ヘロインやコカインだ。金では解決できないと言う事だよ」
「しかし・・・金持ち達は貧乏人の敵でしょう?」
「神様にしては、情報の持ち合わせに乏しいねえ・・・貧乏人の敵は、貧乏人。互いに足の引っ張り合いさ。金持ちの手先になってね。貧乏人が貧乏人をいじめる。これが人間社会というものだ」
「・・・・・・」月人に神にされている私には、言葉が無かった。
お金というものは、人間の作った不可解な価値の代償物である。人間社会は全ての価値判断をお金でする。私が人間の時に、金が無いのは顔が無い事と同じと誰から聞いたこともある。しかし、神は、金(カネ)を作った覚えは無い。未熟な人間がふとしたきっかけで「価値」判断を覚え、価値の交換を始めた時に生じたのが金(カネ)だ。この時点で人間社会に利益配分が始まり、欲の上に成り立つ愚かな争いごとが起こり始めた。
私は人間を経験した神だ。まだ人間としての欲も持っている。だから、金の価値でホームレス達を救済しようとしたのだ。
「さて、動くとしょう」テッドが言った。
彼達は、テントを片付け始めた。多分黙って借用したと思われるショッピング・カートのなかに手当たり次第に手持ちのものを入れて行く。
彼達のグループはお互いに助け合った。半時間ほど経つとフリーウエイ脇の土手には五台ほどのショッピング・カートが並んでいた。
「神さんは、どうする?」テッドが私に聞いた。
「えっ?一緒に動いていいですか」
「ま、いいだろう。ホームレスになりたくなかったら、はやく社会に復帰するんだな。俺達のようになると社会復帰は難しいぜ」
テッドがカートを押して先に歩き始めた。
ホームレスは口数が少ない。獣道のような細い道をショッピング・カートの一団が巡礼者のようなにのろのろと動いていく。
その時、ボリス・カーが数台近くにあるウォルマートの駐車場に入ってくるのが見えた。「テッド、あのポリス達は君達に注意を与えるかねえ・・・」私は彼の背中に向けて声をかけた。
「・・・心配するな」彼は、カートを押すのを止めて後方の仲間を振り返った。皆心配そうに彼を見た。
「どうなるのですかねえ・・・」私が言うと、テッドは「サンホセ市のホームレス収容所行きということになる」と低く答えた。
「収容所は、悪い所ですか?」
「いや・・・」
「食事やシャワーも取れるのでしょう?」私は、常識的な問い合わせをした。
「まあな・・・」彼の言葉は短かった。
私は神であり、モーゼのように民を指導する者ではない。ホームレス達とサンホセ市内にあるホームレス救済のシェルターに連れて行かれた。サンホセ市には沢山のホームレス・シェルターがある。私達は、簡単な手続きを済ました後、広い室内に案内された。一人用の簡易ベットが並んでいた。
「アルコールは禁止だぞ」と、係りの男が念を押した。皆無言で、簡易ベットに腰を落とした。
「なかなかではないですか」と、私はデッドに声をかけた。
彼は、それには答えずベットの上に横たわった。
「寒くないし、食事も出て、それにトイレやシャワーも取れる」と、私は続けた。テッドは答えなかった。彼は目を閉じていた。眠っているようだ。
確かに、夜中でも車の往来が途切れないフリーウエイ横のテントでは熟睡できないだろう。しかし、それでも彼達ホームレスはテント生活よりも恵まれている救済設備を出たがる。自由を求めているわけでもない。ホームレスの40パーセントは精神に問題を抱えていて、生活を改善できない弱い人間である。神である私は、ホームレス達をもう少し観察する必要があるようだ。
少々疲れ気味の私は、シャワーを浴びる事にした。シェルターの事務所に行き、シャワーを浴びたいと言うと、バスタオルと石鹸、そしてシャンプーが手渡された。
五個ほどのシャワーが並んでいる。私は、久しぶりの温湯を体に浴びながら、人間の作っている不可解な社会を考えた。特に「金持」と「貧乏」の違いには、戸惑った。確かに私が人間であると時、月人によって神にされる前、私は「貧乏」に慣れていた。つまり、金が無いと言う事だ。アメリカは二週間毎に給料が渡されるのだが全て給料は支払いに消えた。給料から給料の生活が続いた。こういった生活が長く続くと貧乏慣れするのか、金が余ると何かに使い銀行に貯金することもない。
しかし、神になった今も、私は「金」と言うものの不必要性を感じている。
テッドも言った。ホームレスは金を欲しているわけではない。さらに聞くと「ソックスだ」と答えた。ショッピング・カートを押して毎日歩くのでソックスが直ぐ駄目になるらしい。
なるほど、彼達を幸福にさせるのは「ソックス」を与える事か・・・シャワーの湯を浴びながら神として私は考えた。
私は神としてのプライドもある。彼達に、ソックスを与えようと考えながら自分のベットに戻った。
靴が無い。私はスリッパでシャワー室に行った。靴は簡易ベッドの下に置いたはずだ。
「靴が無い・・・」私はあちこち目で追った。見当たらない。ベッドの下も屈みこんで見た。
「どうした?」デッドが声をかけた。
「靴が無い」
「何?置いていたのか?」
「シャワーを浴びに行ったもので」
「盗まれたんだ。靴はこのようにゴミ袋に入れて身近においておかないと盗まれる」
「知らなかった」
「神様も、知らない事はあるだろう。心配するな。オフィスに行って説明しろ」
「靴を借りれますかね?」
「貰えるさ」
「よかった・・・」
「自分の持ち物から目を離すな」とテッドが忠告した。しかし、ホームレスになったばかりの私は手荷物を余り持たない。カップヌードルの箱だけだ。
神の私は、スリッパでパタパタと音を立てながらシェルターのオフィスに行った。
「あの・・・」人間にお願いするのは、私が神としてのプライドに触る。しかし、マジックのように、私の手の上に「靴」をだすと、ますます人間との差が応じて人間が分らなくなると思われた。
「どうしました?」オフィスの中の男性が私を見た。
「靴を・・・」
「盗まれたのですか?」男性は、直ぐに察したようだ。
「シャワーから戻ってみたら、靴が見当たらなくなってました」
「なるほど・・・で、足のサイズは?」
「27インチ」
彼は立ち上がって別の部屋に行った。直ぐに窓口に現れて靴が置かれた。
「履いてみて下さい」
私は、受け取ると足に入れた。
「ピッタリです」
「そりゃ、よかった。では、名前とサインを下さい。日付も入れて」
私は、神なので名前は無いが人間の時に使っていた名前を記入してサインをした。
「そうだ、ソックスも必要だ」と男は言い、再び奥の部屋に行くとソックスを二足持って来た。
「これも、私に・・・」私は相手を見た。
「そうですよ。貴方は素足ですから、ソックスも必要でしょう」
私は素足でスリッパを履いていた。
神は、思わず目頭を熱くして「有難う。人間は、立派だ」と言った。
「人間は、立派ですか?」と、相手は言い笑った。
「立派です」
「面白い人だ。でも、お酒は禁じてありますから」と念を押した。
どうやら、酔っ払っているのではないかと思ったようだ。
私は、片手をあげて挨拶をし、簡易ベッドに戻った。
「どうだい、新しい靴は?」テッドが聞いた。
「人間は、立派です。ソックスまでいただきました」
「人間は、立派だって?」オフィスの男性と同じように聞き直した。
「立派です」私は同じように言った。
「なるほど。神様の言葉は面白い。どうだい、ロイ?」テッドは隣のベッドの刺青男に声をかけた。彼は自分を悪魔だと思っている。
返事が無い。ロイは毛布を頭から被りベッドに横たわっていた。テッドは起き上がると、ロイの毛布をそっと持ち上げた。ウイスキーの匂いが鼻を突いた。刺青男がウイスキーの瓶を抱えている。首の横の刺青が赤黒く染まっていた。
「おまえ・・・又か」テッドは毛布を元に戻した。飲酒をしていることが分ったら、彼は追い出されるか、アルコール依存症の更正保護施設に送られる。
「悪魔さんは、どうされたのですか?」私は神だが陳腐な質問をしていた。
「アル中だよ」当然の返事だ。
「その・・・何か訳でも・・・」再び陳腐な質問だ。
「ヒッピーの成れの果て、とでも言おうか。俺も、余り知らないのだがね。背中に悪魔の刺青があり、それで悪魔だ」
「悪魔の刺青ですか・・・」
「言い奴だぜ。弱いんだ。とにかく、くよくよと考えてしまう。しかし、絵もかく」
「絵ですか?」
「中々上手い」
テッドは立ち上がると彼のベッドの下を見、一枚の絵を掴みあげた。
これだ、この絵はアメリカを代表する具象画エドワード・ホッパーのようでもあり、ニュヨークの抽象表現主義であるポロックのようでもある。アルコール依存症ではポロックになるが悪魔の絵には哀愁があり、心のうちを絵の具で隠すような苦悩が見られた。
「なかなか大した画だ」
「最後の一枚だ。後は酒の為に売り払った」
「もう画いていないのですか?」
「心に余裕が無いのさ」
「余裕」
「満杯になっている。大体のホームレスは、そうなる。経済的な問題ではないと言う事だ」
「心の問題ですか」
「ま、そうなる」
「あなたは?」
「私もだ。女に裏切られてね。家を飛び出した」
「?」私は、その時、泥炭の沼のような私の記憶の底にあった、小さな小石のような記憶に触れた。
「あの、失礼ですがテッドと言うのは本命ですか?」と、私は聞いた。なぜなら、私がベンと言う金持の男と入れ替わっていた時、鏡で見た姿を思い出したからだ。
「テッドだ・・・昔、ベンとも呼ばれていたがね」
「ベン・・・」どうやら私の推測は近そうだ。
「ニュヨークにも住んでいましたか?」
「・・・なぜ聞く?」
「いや、神ですから。分るのです」
「神様か・・・だろうな。神に、嘘はつけない。その通り。ニュヨークにも住んでいた。他には?」
「お金持だったとか・・・」
テッドは、簡易ベッドに腰をかけて少し両手を組んでしばらく床を見ていた。そして、言った。
「金持だった。全て、自分のものだと思えた。他人の愛さえもだ」
「なぜ、カリフォルニアに?」
「逃げてきたのさ。落ちぶれたからな。浮気がばれてね。家内の父親に追い出されたって訳だ」
つまり、彼ベンは資産家の家の婿養子だったようだ。あのブロンドの美しい夫人を毒殺する前に計画が見つかり、家を追い出されたと云う一般的な図式になる。私は人間であった時に、変な犬のパワーによってベンの身体に乗り移っていた。だから、何となく彼の心境が分る。
現在、私は食中毒で死んだ後、神になった。神としての力を誇示し、彼を復活させても良い。落ち目のベンを援助して、再び実業家として復活させる。
しかし、ベンは言った。経済的な助けよりも心的な助けを要する。
「元の金持に戻りたいですか?」素直な質問をベンにぶつけた。
「いや・・・戻りたくない」
「金銭に不自由しない財力を再び欲しいと思いませんか?」
「思わない。この生活を気に入っている」
私には分らなかった。人間社会の価値は金銭で表すことが出来るからだ。金銭と人間の価値を同一させることに異を唱える者あれば申しなさい。罰を加える。神である私には人間の目論見(もくろみ)がはっきりと分るのである。地獄に行きたいものは名を名乗れ。
さて、私はベンを助けようと思った。
彼を助ける事により、悪魔と思っている画家や、気のよい黒人の老人、他のホームレスも助かるのである。
現在の社会は何を求めているか、それを知る事で彼ら人間達を助けることが出来るのではあるまいかと、私は神らしくも無い発想を持った。神の力で、そのことを知れば一番だ。しかし、それは余りにも現実離れしそうで人間のためにならない。
したがって、神の私は人間のように考えてみたのだ。
直ぐにひらめいたのが電池だ。最近はリチイウム・イオン電池が注目を集めている。携帯電話とか電気自動車とかに使われていて、今後も需要が伸びるようだ。では、これよりも優れている電池を開発すれば良い。
電池とは、私のような神にとってはいとも簡単に作り出せる原始的な微小エネルギーの一つに過ぎない。人間社会が必要とする「電池」形式で電流の流れを起こすエネルギーは、地球の自然界の中に存在している。要するに地球の全ての物体は電気を持つと言う事だ。物質は原子から成り、原子核は陽子と中性子(人間の物理学上)から成り、負荷を持つ電子が核を中心に回っていると言う事になっているが実際はそうとも言えない。そのような現象は宇宙では存在しない。私は、人間だった時に月人に地球を救えと言われブラック・ホールに下り立った。辺りは雲の様な世界で、瓢箪(ひょうたん)のような綻(ほころび)び、歪(ゆがみ)とも云うが漂っていた。
敢(あえ)て言う。原子核の周りにあるのは電子の雲である。したがって、電気を作るには、この雲を少しずらし、電子を移動させることにより熱エネルギーや磁場を起こさせる。これを人間達は電気と呼び、あらゆる生活に用いているのである。
私は、この簡単な微小エネルギーを発生させる装置を、ベンに作らせてホームレスを助ければと思った。
「ベン、もう一度ビジネスマンになりませんか?」
彼は簡易ベッドに仰向けに寝て目を閉じていたが返事をしなかった。
私もベッドに仰向けになった。
「私には、最もパワーがあり長時間電力を維持できる電池を作れます。どうですか?興味ありませんか」と、仰向けのままつぶやくように言った。
「ない」直ぐにベンの声が耳に届いた。
「大金持ちになりますよ」
「成りたくない」
「どうしてですか?お金があれば、こういった生活をしなくてすむのではありませんか?それに、貴方の仲間だって、生活が豊かになり幸福になれる」
「・・・・・・」
ベンは返事をしなかった。横を振り向いて彼を見ると、寝息を立てていた。
全ての人間は金という原始的な価値物体に振りまわされているのだ。私は神として、人間の不幸を見逃すわけには行きません。人間だった時に、この金というものにひどい目に合わされたので、金持は全員地獄に送り、貧乏人を天国に送ろうかとさえ考えている・・・何か、文句あるかい。神の権威を利用して、罪の無い人間に罪を被せるのは如何なものかとでも言うのかね。
では君に申そう。金持は君を支配していないか? 見下していないか? 私は人間の時に2003年の三菱ランサーに乗っていたがシリコンバレーのフリー・ウエイ(高速道路)は高級車がほとんどだった。私は、薄くなってきた頭の天辺に手を当てながら思ったものだ。人間の社会は平等ではないな、と。貧乏人の君達は、人間社会は平等だと思っているらしいね。目を覚ましたまえ。僕は、君達を助けないよ。自分で頑張るんだね。
少し感情的になっていた神の私は、冷静さを取り戻して新しい電池をイメージした。人間の持つ携帯は平べったいリチウム・イオン・バッテリーだ。これよりも更に薄く、パワーもあり長時間電気を供給できるバッテリーを作るのは神の私には簡単だ。しかし、出来るだけ人間の能力に合わせて作り上げなければ成らない。
翌朝、私はもう一度ベン、つまりテッドに言った。
彼は、朝食のパン・ケーキを食べていた。パン・ケーキの上に掛けられたシロップが光っている。バターは、パンケーキの上で無造作に胡坐を書いているように見えた。
「やってみるか・・・」ナイフで、ソーセージを切りながらテッドが自分に言い聞かすように言った。
「そうですよ。諦めてはいけません。道は開けます」神の私は、誰かの本のタイトルのような言葉を使った。
「後で、設計図を見せてくれ」
「『設計図』ですか・・・分りました。コピーを持ってきます」設計図は用意していなかったが人間のように自分の意思を人間の能力に合わせて現実化できる。神様の私は、自分が神である事を誇りに思った。
私はホームレス救済のシェルターの事務所に行くと、係員にコピー・マシン(複写機)を借りたいと頼んだ。
女性の事務員が私を「コピー・マシン」の方に連れて行った。
「何をコピーしますか?」彼女は、何も持っていない私を見て怪訝そうに聞いた。
そもそも、コピーマシンは原稿や図面、それに写真など、何か薄い物体の表面に描かれた文字や数字、絵などをコピーするものだ。現在、新しい電池の「設計図」は、私のイメージの中にだけある。それを人間界の基本機能に照らし合わせて整理整頓し、工学的な仕組みに作り上げて彼達人間に示さなければならない。
「送ってきます。今から、友達に電話しますので」と、私は言い訳した。
「あら、そうですか? では、どうぞ」彼女はコピー・マシンから動こうとしない。私は神である。人間に疑われては成らない。
神は、コピー機に手を掛けて相手を見た。目が合った。
「そろそろ送ってくるはずだけど・・・」私は、神であるから人間の作るスーパー・コンピューターの何億倍の力を持つ。
コピーマシンがガクッと動き何かがプリントされ始めた。
「ほらね。友達が送ってきた」
係りの女性は、安心したようにコピー・マシンの動きを眺めている。何枚ほどコーピーするのか見ているようだ。
10枚ほどの用紙がプリントされた。
私はそれを手に取り、係員に礼を言ってテッド達の部屋に戻った。
殆どのホームレスはベッドの上に横たわっていた。やる気が無い。つまり、生活に対する意欲が低下している。向上心も無い。「喝!」と禅宗の僧侶のようにホームレス達に気合を入れたい。しかし、私は神なので穏やかに指で十字を切った。
「これです」私は、プリントした用紙の内容を確認もせずにテッドに手渡した。神の私が念じて作り上げたものだ。人類に寄与する事間違いなし。彼は横たわったまま手で受け取るとバッテリーの設計図を胸の上に置いた。
全ては彼次第である。私は神なので、それ以上の事はできない。テッドは胸の上に置いた設計図を両手で掴んだまま目を閉じていた。
人間と言う生命体は、実に厄介で脳内のエネルギー調整によって社会的活動がコントロールされている。エネルギーが低下すると、精神の混乱が思考と行動上に現れるようだ。人間達は、それを「うつ病」と言っている。
私がテッド、つまりベンの脳の中にいた時には、ビジネスマンとして活発に行動していた。野心家で行動力と精神力はバランスが取れていた。しかし、現在の彼はやる気に乏しい。
「どうですか? やる気がありますか?」私はテッドに声をかけた。
彼は目を開き、胸の上に置いていた設計図を眺め始めた。
隣のベッドに寝ていた通称悪魔がベッドから起き上がると靴を脱いだ。臭い匂いが漂ってきた。
「悪魔、靴を履くか足を洗って来い」テッドが彼に向かって言った。
悪魔は、ニッと笑い靴と靴下を持ってシャワー・ルームの方に向かった。
テッドは私のほうを見た。「神様。これは、すばらしいアイデアだ。作ってみるか」
「作る?」
「先ず試作品を作り、商品化できるかどうか確かめる。それからだ」
「出来ますか?」私は、彼の目を見た。
「・・・」
テッドは、ベッドから起き上がると改めて設計図を見直し始めた。
私のバッテリーは人間界では宇宙物理学とか言う分類に入り、形はリング状だ。リングの中に十字のような軌道がある。この先端から発生するエネルギーの分散により人間界のマイナスとプラスの電気を起こす仕組みである。
ほぼ永久的に電気は発生する。
流石にテッドは元ビジネスマンだった。仲間を集め始めた。ホームレースの中にも、すごい人間が混じっているものだ。例の黒人のホームレスは、工作機械の経験者だった。元コンピューター・エンジニア、元ソフトウエア・エンジニア、元設計技師など直ぐに集められた。
彼達は小金を出し合い、小さなガレージを借りた。まるでHPやアップルの創業者達のような船出である。
コンピューター技師は、サルベーション・アーミー(救世軍)の経営する中古品の店からコンピューターやプリンターを買って来て改良した。ソフトウエア・エンジニアは、バッテリー開発の為のソフトを作り始めた。設計技師が図面を描いている。
神は、人間が希望を持ち未来に向かって動き始めると用が無くなる。
私はガレージを出て、ふらふらと歩いた。一時間ほど歩いた後、気づくと目の前に見覚えのあるハンバーガー・ショップが見えた。ポケットには、ホームレスの時に稼いだ小金が入っている。私は神なのか人間なのか。神は空腹にならないのだろうか、心臓の鼓動は、体温はと、店の方に向かって歩きながら考えた。両手を頬に触ってみると暖かい。胸に手を当てると心臓の鼓動がある。すると、私は神ではなく人間だ。私の歩調は速くなった。
10)神から人間に戻る
久しぶりに食べるハンバーガーは美味しかった。ハンバーガーを食べる一口ごとに記憶が蘇って来た。ふと見た窓の外に、浮浪者のような男と犬がいた。
「おい、人間。神はどうだった?」何処からか声が聞こえてきた。私は、ハンバーガーの店内を見渡したが誰も私に声をかけてきた人はいない。
「ここだよ、ここ」再び声のしたほうを見ると、犬と目が合った。私は外に飛び出した。「ヘンリー!」私は犬に呼びかけた。犬は尾を振っている。浮浪者が「この犬は、ヘンリーじゃないぜ。ジャックだ」と、怪訝そうに言った。
「俺は、ここだ」再び声がした。
「どこ?」
「お前の頭の中さ」
「ヘンリー、そんな窮屈なとこに居ないで、外に出てきたらどうだい」私はブツブツ独り言のように話した。浮浪者が犬を連れて立ち去った。彼は、私を気違いと思ったに違いない。
(まてよ・・・)私は、以前と同じような事を繰り返しているように思った。つまり、宇宙から戻り、ハンバーガー・ショップにいた時と同じようなシーンを繰り返している。浮浪者は神で、犬は地獄の大魔王だった。
「では、君が僕を神にしたり人間にしたわけか・・・」私は言葉に詰まった。中国の荘子(荘周)の思想書にある「胡蝶の夢」のようである。夢と現実が交差しているのだ。私の場合、貧乏生活が現実だった。金持のビジネス・マンの脳に入りセレブな金持を経験したり月人と月に行き、地球を救う為にブラック・ホールに行った。
最後は地獄に落ちた。その後は神になった。そして、どうやら再び現実の貧乏人に戻ったようだ。どの様な哲学的結論よりも「これが現実だ」とする、自分の現実を受け入れた言葉が私をせせら笑っている。所詮現実からは、逃げ切れないのである。逃げ切れない以上、立ち向かう姿勢が必要なのだ。
私は家に帰ることにした。しかし、家には私のコピーがいるはずだ。私が突然家に帰ると、もう一人の私が私を迎えることになる。
私は家の近くで、本当に私のコピーがいるのか様子を伺った。今日は、土曜日で私なら必ずジョキングに出かけるはずだ。
私は、私が家から外に出てくるのを待った。私の記憶では、私のコピーが必ず家に居る。私より優秀だと月人は言った。もう一人の私が現実に居るのであれば、私のアイデンティティー(個性)は、どうなるのだろう。
私が疑問を解く前に、男が家から出て来た。私だ。ジョキング姿ではない。犬と一緒だ。すると、犬は月人のヘンリーかもしれない。
「ただいま・・・」私は、ダミーの私が居ないうちに家のドアを開けた。
「おかえり」懐かしい家内の声だ。近くでは近所の餓鬼共が騒ぐ声が聞こえている。餓鬼共が余りうるさい時、私は家から外に出て怒鳴る。「うるさい! 静かにしろ!」
「こどもだから」と言われても、私は容赦しない。親が怒らないから子供が駄目になり、彼達の将来にも良くないというのが私の持論だ。政治家が子供のためにとか老人の為になどと言うと「ばか者!」と、テレビの中の政治家に対して怒鳴るのだ。そういう輩に限って、子供や老人の事を理解していないのである。
「早かったわね?」
「犬が逃げたから・・・」
「そう・・・」
「どうやら、犬は自分の家を思い出したようだよ」
家内は、何も言わずにテレビの画面に視線を戻した。家の中の調度品が全て新しい。
「あれ、このソファは何時買ったの?」と私は聞いた。今朝、私が家を出る時は20年以上も使っているソファーがリヴィング・ルームの真ん中に置かれていた。そして今朝、私は経済的に困り家を出たが・・・それからの記憶がはっきりしない。
「さて、家のローンの支払いはどうするか・・・」私は、自分のデスクに戻りコンピューターに向かった。
「今月も家計が苦しいから、蚤の市に行って何か売ろうか」私はテレビを観ている家内を振り向いて言った。(あれ?テレビが新しく大きい。4Kなどと呼ばれているものだ)
「ねえ、このテレビどうしたんだよ。クレジットで買ったのではないよね。知らないよ。支払いが大変だよ」私はぼやいた。
「何言ってるのよ。あなたが勝手に買ってきたのじゃない」
「えっ? 僕が?」
家内は何も言わずにテレビ画面を見て、お笑い芸人の言葉に笑った。
私の頭の中は、支払いに追われる悪魔のようなローンやクレジットの額で一杯になり、卒倒しそうになった。地獄だ。新しいテレビなど買う余裕は無いはずである。長年ブラウン管のテレビを見ていたが政府がデジタルに変更した際、見れなくなった。それ以来、テレビはやめてコンピューターのスクリーンでYUTUBEでテレビ番組を観ていた。
私は、震える指でタイプを打ち銀行口座を開けた。額には汗が吹き出ている 目を閉じて心を落ち着かせ口座を見た。ゼロがやたらに多い数字が現れた。「ワッ!駄目だ。破産だ・・・」と私は声を上げた。
「何言ってるの?」家内が怪訝そうに私を振り向いて言い、再びテレビ画面を見ながら笑った。
「君は、何で平気でいられるんだよ。この、負債額を・・・」私は、口座を見直した。銀行が負債額をチェックの口座に記入するはずが無い。すると、この数字は何だろう。億の単位である。私は0の数字を何度も数えた。(1、2、3、4、5、6、7、8、9・・・まさか?)
「このお金はどうしたのだろう?」私は声を上げた。
「先ほどから、何言ってるのよ。貴方、株で儲けたじゃない」
「株で?」
「そうよ。アマゾンの株をたくさん買って、それにフェイス・ブックの株も」
「僕が?」
「貴方しか、いないでしょう。でも、大した額じゃない見たい」家内は私のしつこさに呆れたように少し声を荒げた。
「僕は金持ちなのか」
「知らないわ。でも、前よりはマシのようね」
「・・・・・・」私は、夢を見ていると思った。
「それより、住宅税の支払いが来るけど、大丈夫かしら?」と、家内は聞いた。
多額の貯金額を知らないようだ。
私は、平静さを装い「何とかなるさ。大丈夫」と、預金残高をなんども見ながらうなずいた。しかし、高額な預金は私の働いたお金ではない。私は地獄も天国も見て来た。あそこでは、お金は役に立たない。又、月人達は人間の使う金銭は原子的な産物だと言った。人間の世界は、お金があればよい教育を受けられ、経済的な将来さえも約束される。
「ちょっと、出かけてくる」私は、妻に声をかけて家を出た。そして、セーフ・ウエイ(アメリカのスパーマーケット)に向かった。
私は通りを歩きながら今朝、犬、いや犬に姿を変えていた月人のヘンリーと一緒に歩いたことを思い出していた。
家から歩いて20分ほどのところにセーフ・ウエイがある。
私はとぼとぼと歩道を歩いた。
セーフ・ウエイの駐車場に来ると、コーヒー・ショップの近くでホームレスが立っているいるのが見えた。私は、歩を早めた。あれは、私ではないか。神になった私は段ボール箱の切れ端を握り締めて立っていた。
彼は、確かに私だ。では、私は誰だ・・・と、ホームレスの私に近づきながら考えた。
しかし、男は私ではなかった。似ていたが私ではない。
私は、財布から一ドルを取り出して彼に差し出した。
彼の手が伸びた。見覚えのある私の手だ。
私は、もう一度ホームレスの男の顔を見た。
「あなたは、本当にホームレスですか?」と私は聞いた。
「どうでしょうね・・・」と彼は答えた。
「あなたは、誰ですか?」と私は、相手が答えるはずが無い質問をした。
「神です」相手は微笑んで答えた。
「違う、あなたは私だ」
「いえ、私はあなたではない」と、相手は答えた。
「では、私は誰でしょうか」私の声は震えていた。
「あなたは人間で、私は神です」
「キリスト・・・」「いえ、私は神で、キリストではない」と彼は言った。
「では、あなたはどうしてホームレスなのですか?」私は嫌味な質問をした。相手は、微笑んで「ホームレスでは、いけませんか?」と、返した。
「いや、別にホームレスがいけないわけではありません。ただ、神様がどうしてここに立っているのかと思っただけです」
「月人に神にされたのです」
私は言葉を失った。目の前にいるホームレスは、間違いなく私だ。私は、セーフウエイに入ると、カップヌードルの箱を買って戻ってくると、ホームレスに渡した。
「これが役に立ちます」
「ありがとう・・・」相手は、うれしそうに受け取って礼を言った。私は、彼に頑張ってくださいと言ってセーフウエイから家に向かった。
11)地獄旅行
その途中「オイ!」誰かの声が背後からした。いやに抑圧的な声である。(カラス・・・)私は、声の聞こえたほうを見た。
カラスが学校の校庭近くの電柱の上にとまっているのが見えた。
「トーマス!」
カラスは何も言わない。ただ、ガーと鳴いた。
普通のカラス・・・。
つまり、私が今朝経験した月人との冒険は、現実の事ではなかったに違いない。その時、カラスがサーッと目の前に下り立った。
「地球人」カラスが私に声をかけた。
「トーマス!」私は思わずカラスに駆け寄った。
「オイオイ、止せよ。アブネーな。踏み潰すつもりか」
「あ、いや。ごめん。嬉しかったもので」
「元気そうじゃないか」
「おかげでね。天国を見たり、地獄を見たり、神の経験までさせてもらったから、疲れたよ」
カッカとカラスのヘンリーは笑った。
「ヘンリーは?」
「奴は地球人のダミーを連れて月に戻った」
「すると、僕は、間違いなく現実に戻れたんだね」
「ガー(間違いない)」カラスのトーマスは言った。
私は思わずカラスのトーマスを両手で掴んだ。
「いてて・・・よせ。翼が汚れる」
「黒い翼が汚れるなんてありえないよ」
「良く見ろ。この色は暗黒の宇宙の色さ」
「そうだねえ・・・希望のある色だ」
「その通り。全ては黒から始まるの」トーマスは再びガハハと笑った。
「これ、預かってるぞ」トーマスが羽の下から何かを取り出した。
「なんだい?それは」
「ヘンリーが地球人に渡せとさ」
私は彼から光るものを受け取った。
「では、地球人さらばじゃ」少しおかしい日本語でカラスのトーマスは言い、ガーと声を上げて飛んで行った。
私の手の中には、ブルーの玉が残った。ビー玉かな・・・私は手で握り締めた。幸福な気持になった。
「地球人・・・」ヘンリーの声だ。
「ヘンリー?」
「そうだ。それで、私と連絡が取れる。貧乏が否になったら、連絡をして来い」
「貧乏は、大歓迎さ。結構楽しいものだよ。しかし、宇宙が恋しくなった時に連絡させてもらう」
「いいだろう。次はアンドロメダだ」
「アンドロメダ・・・250万光年先のアンドロメダ星雲」
「直ぐそこだ」
「ま、月人たちにはね。僕達地球人には、はるか彼方ですよ。ところで、どうしてアンドロメダに?」
「あそこのブラック・ホールに少し問題が発生している」
私は、ブラック・ホールを思い出した。
「面白いぞ」ヘンリーが言った。
「冒険だね」
「大宇宙や時間は、人間の物理的概念を越えている。しかし、今回は地球人の不思議な心の持ち方に習うことがあった。頑張れ。では、合羽からげて三度笠(さんどかさ)だ」と、最後には分けのわからないような言葉を言ってヘンリーは私との交信を終えた。
月人は、時々変な日本語を使う。
私はブルーのビー玉をポケットにしまい家に戻った。家内は。まだ愉快そうにテレビを見ていた。私達は、冷蔵庫に残った一本の竹輪を、相手に食べらそうとお互いに手を付けず、結局は腐らせてしまう貧乏人である。
しかし、私達は健康な貧乏人だ。私は、月人が私のダミーを使って作ってくれたお金の全てを、色々な福祉施設に寄付することに決めた。
お金は、なるようになる。あの大宇宙を思い出すと、幸福感のほうが私には似合っている。人間特有の物的価値判断を持つ社会は、未だ人間の本能の影に支配されていた。
私は、貧乏なまま、このまま自然の流れに身を任そうと決めた。
テレビは、トランプ大統領が貿易不均衡問題で中国や世界を相手にとって一人で戦っている映像を流していた。大統領は身振り手振りで、話をしている。彼は、今までお愛想で政治をしてきた歴代の大統領の尻拭いをしていた。私は、ふと赤黒く怖い顔をした大魔王の顔が浮かんできた。トランプ氏は地獄の大魔王に似ている。私は、天国の神様よりも、地獄の大魔王に愛着を感じた。地獄を拷問などの無い世界に変えた大魔王は、神々たちから非難を浴びた。
わたしは、もう一度彼に会いたくなった。
私はヘンリーから貰った瑠璃色の玉をポケットに入れ、散歩してくると家内に告げて外に出た。学校の芝生の運動場に入ると、私は瑠璃色の玉をにぎりヘンリーを呼んだ。
「どうした?」直ぐに声があった。
「ヘンリー。もう一度地獄に行きたいのだけどね」
「地球人。地獄は怖いところだぞ」
「知ってるよ。しかし、それは昔の事さ。地獄に行ったときに見たんだ。地獄は改善されている。大魔王だけが頑張っている。何か彼の手伝いをしたい」
「・・・」
「駄目かい?」
「いや、変わったやつだな。地獄を懐かしく思う地球人は始めてだ」
「大魔王が良い奴でね。何となく気が合う」
大魔王は、アメリカのトランプ大統領と同じで、一人で頑張って地獄を改革しようとしている。大魔王とトランプ大統領の顔が重なった。トランプ大統領は中国製品などに関税をかけたが地獄の大魔王も、地獄に落ちる人間には関税のようなモノを掛ける事にした。すると、人間達は天国の方に行こうと努力を始めた。当然、天国は人口の過密化が起こった。神様たちは怒り、天国に昇天する人間にも関税をかけるようにした。貧乏人は天国にいけなくなった。金が無いばかりに、良い人たちも地獄に落ちる。
「ふむ・・・」ヘンリー短く言い「よし、地獄に送ってやるよ。つらい拷問があるかも」と続けた。私は少し弱腰になり「現在の地獄では、拷問は行われてないよね」と、ヘンリーに再確認した。
「自分で確かめてみたらどうだ」
「そうだね」と、私は気弱に答えた。前回は、やせ細った神がついていたので、余り怖くは無かったが今回は一人だ。あの時から再び神々のロビー活動で大魔王が交代させられ、昔のスタンダードな地獄の拷問攻めが復活していたら、大変な目に合う。
地獄をGOOGLEのサイトで調べたら、それはひどいものだった。悪霊どもが地獄に落ちた人間にありとあらゆる拷問をするというのだ。焼いたり煮たり、刻んだり、なんども生き返えらせられて、永遠の苦痛が地獄に落ちた人間には繰り返されるというものだ。
あの大魔王(閻魔大王とも呼ばれている)がこのサイトを見たら、あのすごい形相で、涙を流すに違いない。
「人間」は間違っている、と彼は言うに違いない。
私は、月人のヘンリーに「よし、地獄に行くぜ」と言った。すると、私の目の前に黒い穴が開いた。
「地獄の穴だ。何かあったら、知らせろ」ヘンリーが言った。
「有難う。大丈夫。では、さらば」私は、穴の中に飛び込んだ。
落ちた場所は、覚えのある地獄の門の前だった。そして、前回と違った事はあたり一面が炎の海で、あちこちから人間の叫び声や苦痛の声が聞こえていたということだ。私は、月人から永遠の命を貰っているので、炎に取り囲まれても熱くもなんとも無かった。
大魔王は、どうしたのだろう? これは、まさしく地獄である。彼が理想とした人間や地球上のすべての生き物に対する、慈悲は何処に行ったのか。
突然、私は鬼と黒い悪霊ような悪魔どもに取り囲まれた。
「逃げれないぞ」と、相手が言った。
「ぼくは、大魔王の友達だ」
「これは、大罪だ。大魔王様の友達だと? 嘘をつく人間は、口裂きの刑だ。地獄から逃げれれとでも思ったか!」口から炎を吐き出しながら怪獣のような悪霊(悪魔)が私に言った。普通の人間なら、これだけで卒倒する事間違いない。しかし、私は暗黒の大宇宙を旅した経験を持つ。この程度の恐怖は、お笑い程度に過ぎない。
「馬鹿者!」と、私は先ず奴らを叱った。
彼達は、地獄に落ちた人間達を一方的に苦しめる役割なので、相手から叱られた事が無いようだ。一瞬動きが止まった。お互い顔を見合わせて何かしゃべり始めた。
「捕まえて地獄役人に出せば、俺たちも地獄の門の中に入れるぜ・・・」
「しかし、これは抜き打ちの監査かもしれないよ・・・」そんな声も聞こえた。
「監査は、一億三千年後のはずだ」
「特別という事もあるし・・・」
とにかく、ブツブツとうるさいので私は彼達を見渡して「大魔王(閻魔大王)に取り次いでくれたまえ」と、言った。
中の青黒い妖怪のような悪霊(悪魔)が恐る恐る「大魔王様はご病気です・・・」と、小さく言った。
「そんな馬鹿な。つい先だって彼と会ったときは元気だった。どんな病気だい?」
「その、どんな病気だといわれてもあっしたちは知りません」と、弱そうな小さな鬼。
「その、精神的な疲労とか聞いてますが・・・」他の赤い鬼がもじもじとしながら言った。
「精神的な? すると、彼は精神病か・・・そうか、君達が人間と仲良くしないから大魔王は病気になったに違いない」
「騙されるな!」背後の悪魔が仲間の悪霊や鬼を叱咤した。
「この人間は、危険人物だ。、無間地獄(八大地獄の一番下で、最高にひどい刑罰の階層)に送れ! 捕まえろ!」などと、最後尾の悪魔が叫んだ。
そうだ、そうだとの同意もあった。
私の堪忍袋は切れた。
つかつかと、鬼や悪霊達の間を進み暴言を吐いた悪魔に近寄ると、頭をこつんと叩いた。イテッ! と相手は言い、既に泣き顔だ。
何分、私は月人達に永遠の命を与えられている。このパワーは、地球の神をしのぐほどの力を持っているのだ。
私は彼達を見渡し「良いですか。私の要求に従わない鬼や悪魔は、このように痛い目に合います」と、地獄の悪霊達に告げた。
彼達は静まり返った。
その時、地獄の門の扉が少し開いた。地獄の火炎が見えた。
私の周りに居た鬼や悪霊の悪魔達が地にひれ伏した。
「騒々しいようだが何事か」と、巨体を持つ悪魔のようなような妖怪が言った。
「へへッ、門番様。この地獄に落ちてきた人間がたいした悪でして。そのう・・・私どもに暴力をふるうのです。私の頭を、ほれこの通り、瘤です。この人間に殴られました。直ぐに無間地獄にお送り下さいまし」
「お前たち、下々の悪霊達が人間にやられたとな。地獄の恥じゃ。人間をこちらに連れて来い」と、門番が言った。
「お待ち下さいませ。この人間は悪くないっす」と、ぶるぶる震えながら小さな先ほどの鬼が言った。
「なにッ!」門番の悪魔が声を上げた。
小さな鬼が勇気を奮い起こしたように「あっしは、こんな仕事はもう嫌ですだ。前のような穏やかな地獄に戻るべきであります」と、言った。
「この裏切り者が!」近くの悪魔が鬼の首を掴んで持ち上げ、真っ赤な口を開いて、鬼を食べようとした。私は、とっさに彼の股間を蹴り上げた。
グッググと変な声をあげて、巨漢の悪魔は倒れた。
「これ、門番! よく聞け。私に逆らっても無駄だ。門を開けて、大魔王のところに案内しろ」私は相手に強制した。
「糞ッ! 地獄の恐ろしさを思い知らせてやる」門番は地獄門を大きく開けた。火炎がゴーゴーと吹き出た。あちこちから炎に焼かれる人間の悲鳴が聞こえてくる。
「どうだ! お前も、あのようになるのだ」門番がすごい形相で私を睨んだ。
その時、誰かが私の服のすそを引っ張った。目を落としてみると例の小さな鬼だ。
「人間のだんな、逃げましょう」と、言う。
「鬼君。こんな事に負けてはいけません。断固、このような理不尽な仕打ちには戦うべきです」
「でも、あっし達鬼でも門の中はキツイです」
「僕に任せなさい。大魔王にあって、君の好きだった穏やかな地獄を取り戻して上げます」
小鬼は感激したのかポロリと涙を流し、痩せた二の腕で涙をぬぐうと「あっしも、お供します」と、任侠的なことを言った。
「実は、あっしの親が地獄の世界に住んでいて、嫌な労働を強制されているので、ヘい」と、小鬼は続けた。
「へえ・・・どんな労働?」
「地獄に来た人間を鞭で叩いています」
「どんな人間を?」
「最近はテレビ局の人間達らしいです。政治家もいます」
私は人間界のテレビ番組を思い出した。
「まあ、数回ほど鞭で叩いた方が良いかもしれないね」
「いえ、少なくとも50万回ほど・・・」
私は、言葉を失って鬼を見た。鬼は、目を伏せた。
「ま、仕方ない。ここは地獄だからね。さて、中に入ってみるか」私は、小鬼をお供に連れて地獄の門から地獄の業火と呼ばれる炎の中に入った。わ、熱い、小鬼がジタバタしている。
「君はこの中は初めてなの?」
貧弱の小鬼は、よろめきながら痩せた手で汗をぬぐっている。「あ、あっしら下層の鬼や悪魔の類は暗い地獄の外だけと決められてやす」
「そう・・・大変だね。しかし、希望を持つことだね。僕が大魔王に掛け合ってあげます」
「だんな。有難うございますだ」小鬼の話す言葉はあやふやだ。一体何処生まれなのだろう。
「熱!」炎が彼の頬を撫でた。
「僕から離れないように。少しの辛抱だ」私と小鬼は10分ほど歩いた。すると火炎地獄の外に出て、熱い鉄板のような道に出た。 アチアチと、小鬼は飛び跳ねた。
「君、少し静かにしなさい」
「だ、だんなは熱くないですかい?アチッ!」
「精神力です」私には月人から貰ったパワーがあるのだ。
小鬼は飛び跳ねた。
「分った。僕の肩に乗り無さい」
「へい。すいやせん」小鬼はピョンと私の肩の上に飛び乗った。まるで軽い。
熱い鉄板の道をしばらく進むと、再び闇だった。あちこちに血だらけの人間達がうめいていた。人間に対する拷問があちこちで行われている。
「これは、一体どうした事だろうね。大魔王は、地獄に革新を起こしたのに」
「・・・・」小鬼は返事をしない。彼を見ると、手で目を隠している。鬼でも怖いのだろう。
少しづつあたりが明るくなり始めると、人間が熱湯の中で茹でられたり、弓で射られたり、槍で串刺しに成っていた。
余り、楽しい光景ではない。
「神様!」誰かが私達を止めた。「神様」とは地獄では不似合いな言葉だ。そのほうを見ると、見覚えがある顔だった。たしか、ホームレスで名前はロン、「悪魔」と呼ばれていた男だ。
「君、こんな物騒なとこで何をしているのですか?」私は彼に声をかけた。
「あ、やはり神様か。見覚えのある人間だと思っていた」
「すると、君は死んだのですか?」
「そうなんだ・・・」と、彼は悪魔の刺青のある背中を見せた。
「では、アルコールで?」「少し、飲みすぎた」「死ぬまで、飲む事無いでしょうに・・・」「少し金持になってね」「金持に?」「そう、電池が売れ始めた」
「えっ?すると、テッドは、バッテリーの製造に成功したんだ」
「そ・・・俺は、うれしくなかった。絵を又、かき始めたんだがこのざまさ。突然とだぜ。突然、この世界。ま、俺の絵のイマジネーションの結果とでもいおうか、印象的だ」
「悪魔さんが地獄にねえ・・・」
「ところで、神様の背中に乗っているのは何だ?」ロンが聞いた。
「ああ、彼は鬼君ですよ」
「ふむ。神様の肩に小鬼か・・・絵になる。おい、あんたの名前は?」と、ロンが私の肩に乗っている小鬼に聞いた。
小鬼は返事をしない。
「あれ、こいつ気絶してやがる」と、ロンが小鬼に近づいて言った。
「先ほど、炎の中や熱い鉄板の道を通ったので熱中症かな?」
ロンが小鬼の首を掴んで私の方から引き離した。サルを掴み挙げているように見える。
「小悪魔が『神』の肩に乗っていることに気づいて気絶したのだろうよ」
ロンが小鬼の頬をピタピタと軽く平手打ちをした。子鬼が目を覚ました。
「ヒエー、お許し下さいましい」まるで日本の江戸時代に、悪人が代官にわびる言葉である。
「何も謝ることなど無いよ」と、私は小鬼に言った。
「し、しかし神様の肩に乗ってしまいましたです」
「神と言ってもだね・・・私は元神です。それに、地獄に来た人間だから。ま、良いでしょう。許します。君も、せっかく地獄の門を入ったのだから、ご両親か家族に会いに行ったらどうですか?」と私は、小鬼に言った。
「有難うごぜーやす。その前に、何か恩返しをさせてくだせえ」
「そのようなものは不要ですよ。大丈夫」
「しかし・・・」小鬼は、動こうとしない。
「ところで、神様はどうして地獄に来たんだい?」ロンが聞いた。
「私ですか? 私は、知り合いの大魔王君に会いに来たのですが、地獄は変わってしまいました。以前来た時は、大魔王が改革して平和な地獄社会だったのです」
私達が立ち話をしていると、突然地獄の炎が降りかかってきた。
「これ、貴様たちは何をしている!」炎の中から三匹、いや三悪魔のような怪物が現れた。手には血の付いた棍棒や鎖、鞭などをぶら下げていた。
「花見です」と私は答えた。冗談のつもりだったが相手を怒らせたようだ。
「今な、俺たちは人間を1、345人ほど痛い目に合わしてきた」何のつもりか物騒な事を言った。人間の世界にも、このような脅しを言う輩はいる。
「それで?」と、私は言った。
「・・・」三悪魔は顔を見合わせた。ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。どうやら脅しが通用しないことに戸惑っているようだ。
「こ、この野郎」怪物の一悪魔が棍棒を振り上げた。小鬼がピョンと飛び上がり怪物の顔にしがみついた。
「いてえ、この野郎、怪物は小鬼を掴んで投げた。
「オッと」軽い声を上げてロンが小鬼を掴んだ。
「ナイス・キャッチ!」
「昔、野球が好きだったからね」ロンが言った。
「お前たち、許さんぞ!」怪物達は声を張り上げて口や鼻から炎を噴いた。
「まてまて、これが目に入らぬか」ロンが背中の悪魔の絵を怪物達に見せた。大岡越前のテレビのようだ。
「悪魔?」怪物が言った。
「そうだ。監査に来たのだ」
「監査?」怪物達は再び顔を見合わせた。余り頭は良くないようだ。目の前の出来事を直ぐには把握できない。この手の輩は、権力に弱い。
「監査は、後五万三千二百年後だと、聞いてるぞ・・・」
怪物達は疑った。
「今回は、特別だ。最近地獄には悪い悪魔が増えたからだ。お前達は首にする」
「だんな、あっし達は悪魔ですが別に悪い事をしているわけでは・・・」お互いに目を合わせて頷いた。
「君達は地獄に落ちた人間達に拷問をしているではないか」と、私。
「それは仕事ですだ」
「私は神様の『神様』です。だから、とても偉いのです」と、私は付け加えた。
「神様の神様?」
「と、いうと・・・上のほうにいる偉い人?」と、一怪物が聞いた。目をぐるぐる回している。
「さよう。つまり、すごく偉い人であります」と、私は軍国調で答えた。階級に弱い輩には、この口調が効果的である。
「ヒエエ! お許し下さいまし!」怪物達はひざまついて平伏した。
「許す。顔を上げよ」私は怪物達に言った。怪物達が顔を上げると、よほどショックを受けたのか中には鼻水を垂れているのもいる。吊り上っていた目も力を失い、単に己を守ろうとする弱い輩の姿勢だ。
「あっしには家族がいまして、それに、隣の源五郎は今年から幼稚園に入る子供がいるんですう。あっしら、ここで神様に職を奪われては生活ができません」怪物達は色々申し開きを始めた。
「でも、きみら失業保険があるでしょう?」ロンが聞いた。
「と、とんでもない。失業保険をもらえるのは人間を数万人ほど拷問にかけないともらえません。あっしら、下の階級は数千人の人間を拷問にかけるだけで。それに、あの・・・貧乏で、へい」
「貧乏?」私にはきつい言葉だ。私は人間世間の言う「貧乏人」で、まったくお金に縁がない。朝から晩まで一生懸命働いても、右から左へと稼いだ金は消えていく。少し、怪物達に同情した。
しかし「貧乏だからと、甘ったれてはいかんよ」と、ロンが言った。
「作用でございますう。しかし、いくらなんでも数万の人間を拷問にかけるのは体力が要りますだ。残業手当など出ませんし」
「それに、あっしらは古い拷問の道具しか持ってません。金持ちは最新の拷問道具をもってますう」
「あっしの棍棒なんかひいひい爺さんから譲り受けたもので、棍棒というよりこんにゃくの塊みたいなものでごんす。最新の拷問システムにはついていけませんでごんすよ」先ほどから怪物達の言語にはあちこちの方言が混ざっている。
「最新の拷問システム?」
「ヘイ、電動式で」
「電動式?」
「オート・コンビネーションです」
「次から次に拷問をかけるシステムです」
「最初に火責め、鞭打ち、熱い鉄板での焼付、身体の切り刻み、次から次と・・・それは、もうすごい拷問で、それはそれは怖いです。あっしらの古い道具では太刀打ちできませんや」
「規律違反だね」ロンが答えた。
「へい。監査でなんとか改善をご要求下さいまし」怪物達は再び頭を下げた。
「でも、君達は拷問の仕事が好きかね?」と、私は聞いてみた。
「とんでもないです。誰も、こんな仕事など好きではありませんよ。あんな酷い事・・・」
「では、何で拷問などの仕事に携わっているんだい?」
「それは・・・その、怒らないでくださいよ。神様の罰が当るからで、へい・・・」
「神様の罰?」
「さようで。人間に拷問をかけない怠け者の悪魔は地獄の外です」
「すると、この鬼君は、拷問ができないんだ」私は小鬼を見た。彼が、コクリと頭を振った。小鬼の体形では反対に人間にいじめられるだろう。
「私ら、家族と離れ離れに暮すのは嫌で、いやいやながら拷問の仕事に就いているのですが一人何ぼの仕事ですんで、棍棒や鞭では生活できる十分な報酬を得られませんのでやす」
「わてなど、異国かのら出稼ぎですわ。違う宗教ですので、驚いてますう。色々な地獄に行きましたですがここの労働が一番きついでっせ」などという怪物もいた。
「そう・・・では現在、この地獄は誰が仕切っているのだろう?」
怪物達はそわそわし始めた。怖いらしい。額には汗が出ている。
「恐れながら申し上げます・・・」小鬼だ。変な言葉を使う。
「君、知ってるの」
「はい。命を懸けて申し上げます」
「無理しなくても良いけど、言ってみてよ」
「地獄を支配しているのは・・・」その時、小鬼の体が吹き飛んだ。
辺りが轟々と呻り、地面が軋んだ。
「愚か者め」どこからか声がした。
怪物達や小鬼は地面にひ触れしてぶるぶる震えだした。
「神様、これは何の声かね?」ロンが言った。
ロンは驚いていない。ホームレスなど最低の生活の経験が彼の精神を鍛えていた。これ以上は悪くはならないという哲学が彼の根底にはある。
「誰だろうね? まるでホラー映画だね」私も「愚か者」程度の言葉では驚きたくない性格だ。何分貧乏生活を何十年も続けている。多分一生だ。破れかぶれの開き直り哲学で生きている。
私とロンは相手の出方を待った。絵描きのロンはスケッチブックを取り出した。地獄に来ても、作品を描こうと思っているらしい。
地鳴りの後は、雷鳴だ。近くの地面が裂け、地獄に落ちた人間がさらに暗い暗黒の世界に落ちていくのが見える。国会議員や経済界の人間、それに俳優やヤクザ、詐欺師、ペテン師などだ。恐怖にゆがんだ顔や叫び声、苦痛のうめき声、泣き声などと一緒に、引きちぎられた首、槍の刺さった体、切り刻まれた人間の肉なども混ざっている。酷いことをするものだ。
「無間地獄に行け!」雷鳴のような声が聞こえた。
「これは、酷(むご)いねえ・・・」
「たしかに、酷い」
私とロンは、目の前の光景を直視しながらつぶやいた。
「無間地獄にどんどん落とせ!」声は、さらに高くなり、さらに残酷な仕打ちを受けた人間が苦痛にもだえながら暗闇の中に投げ込まれた。ガリガリと音がするので、裁断機のようになっているらしい。炎に混じり血しぶきが飛び散り、焼け焦げた悪臭が鼻を突いた。
「休むな悪霊共! 休むと首にして地獄の門の外に追い出すぞ!」声はヒステリックに高くなった。
しかし、聞き覚えのある声である。
「止めたまえ。少し酷すぎるよ」と、私は声のする火炎の中に向かって言った。
「・・・」
「これ以上の刑罰は止しなさい。これは、拷問です」
「・・・」
「大魔王の地獄改革を阻止して、生前罪を犯した人間に刑罰と称した拷問を与えるのは、間違った考えです。すぐ、止めなさい」
「そうだ、止めろ! 顔を見せろ! 卑怯者!」生前は、おとなしいホームレスだった、自称悪魔のロンが声を上げた。
すると、炎の中から怖い顔をした怪物が現れた。
「黙れ人間ども!」怪物が言った。
「いや、黙らない。こんな事をしても悪人は更正しない」
「罪を犯した人間には刑罰を加えよと、地獄の法典に記してあるぞ。それを実行しているまでだ」
「ふむ・・・それは変だ。法典は改正されたはずで、拷問刑罰の13条は法典から削除された」
「法典は、この大魔王だ!」
「君は大魔王ではないよ」
私は怪物に近寄ると、顔を掴んだ。
「いてて・・止せ」
私は怪物の仮面を引っ張った。身体の痩せた、色の白い顔が現れた。
「やはり、神様か・・・腕に『神』の刺青があったのでね。そうだと思った」
神は、正体がばれたので開き直ったのか小さく咳払いをし「神を信じないものは罰せられます」と、牧師のようなことを言った。
「神様、大魔王の地獄改革に反対なのですか?」私も神だがキリストに似た目の前にいる神とは違う。位が上である。
「大魔王君の地獄改革で、天国は被害にあってます」
「ほう・・・どの様にですか?」
「皆天国に来なくなった。地獄の方が面白いからと云うのが一つの理由です」
「ふむ・・・」
神は威厳のある顔で「人間は、地獄に来る為により悪いことをするようになりました」と続けた。
「なるほど・・・人間の弱さかな。でも、このような残酷な刑罰を与えるより、大魔王のように人間に反省を促す方が刑罰に値すると思うのですがどう思います?」
神は私の言葉には答えず、天をあおぎ手を大きく広げて言った。
「第二に、天国の天使達が地獄に遊びに来て悪魔と結婚し始めた。これは許されない」神の顔は見苦しくゆがんでいた。
「恋愛は自由でしょう?」
「いけません。天国の綺麗な姉ちゃん・・・失礼、天使達は天国の神の元に居るべきです」
「神様、時代ですよ。もう、天国も地獄も無い。自由な社会になっています」
「いえ、神に逆らうのは罪です」
「なるほど・・・」
彼は、少しゆとりの笑顔を見せた。
「神は、この上に居られます」と、厳かな調子で言って手で地上の方を示した。多分天国の事かもしれない。
「そんなことより、神君。私は月人を代表し、君を一万回の鞭打ちの刑にしようかとも考えています。大魔王を何処に閉じ込めているのか云いなさい」と、私はキリストに似た神に言った。
「刑罰はいけません。右の頬を打たれたら、左の頬を出すべきです」などと、彼は分けの分らない事をブツブツ言い始めた。
「残念ながら、そんな事は私には通用しない。君を鞭で打つだけだ。もちろん、右の頬も左の頬も打ちますよ」
私は、怪物達に、この神を捕まえよと命令した。
今までの流れから、神は弱い奴で私のほうがランクが上だろうと推測した怪物達は「ヘイ!」と言い、口から炎を吹きながら神様を鎖で縛った。彼の神の力をもってしても私には抵抗できない。
神は、しきりに念じてパワーを出そうとしているが身動きがとれない。私の持っている月人から貰った瑠璃色の玉のパワーが勝っている。
「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」と、どこかで聴いた言葉を彼は言った。
「見捨てては居ませんよ。罪の無い大魔王を救いたいだけです」と、私は言った。
「終わった・・・」キリストの最後の言葉に似ている。
「別に終わったわけではないはずですよ」
「私の霊をあなたの手に任せます」
「心配しなくても、君の霊は天国です。鞭打ちの刑は冗談です。大魔王の居るとこに連れて行ってください」
神は、ほっとしたようでチラリと地面にひ触れしている怪物や小鬼に一瞥をくれると「分りました・・・」と観念したように言った。
大魔王は、地獄御殿の一番奥のほうにある部屋に幽閉されていた。
「ここです」と、神はドアを手で示した。腕の刺青がちらりと見えた。
彼がドアを開けると、部屋の中央にある柱に大魔王、自称閻魔大王が括りつけられていた。イギリスの画家、フランシス・ベーコンが1949年に発表した絵画「叫ぶ教皇」に似ていた。
「あ、神君。これは卑怯」大魔王は神を見るなり言った。
彼は、蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされていた。以前赤かった大魔王の顔が白くなっている。
「どうして蜘蛛の糸なんだろうね?」と、私は聞いてみた。
「神君が天国の神に恨みを抱いている蜘蛛を騙したんだ。僕が天国のスパイだと言って、蜘蛛に僕を柱に括りつけた。蜘蛛が僕の血を吸ったものだから、このざまさ。ああ、力は出ないしかったるいし、小便も垂れ流してしまった」
良く見ると床が湿っている。
「これは、いけないよ神様。直ぐに大魔王を開放しなさい」と、私は神に命令した。
「あの・・・そういわれても、この蜘蛛の糸は恨みで作り上げられた糸だから、蜘蛛でないと解けないのです」と、イエス・キリストに似た神がクイズのようなことを言った。
「では、蜘蛛は何処に居るんだい?」
「地獄の特別地獄にいます」
「特別地獄?」
私の周りに居た怪物や悪魔達の顔色が変わった。
「だれか、特別地獄を知っているの?」
「へい・・・」
「どんなどこ?」
「グーグルのウキペディヤにも書いてないでごわす」
「とても、怖いところで、地獄のなかの地獄で『地獄の釜』と呼ばれてますだ・・・最下層の無間地獄より下でごんす」ここまで言った怪物が想像して気絶した。想像もできないほど怖いとこのようだ。日ごろ、拷問慣れしている怪物達がこわがるのだから、想像だに出来ない恐怖の場所のようだ。
「地獄の釜か・・・」
「・・・」皆黙った。
「では、行って見ましょう」と、私は提案した。
「・・・」だれも、返事をしない。
「おれ、お供するよ」ロンがスケッチしていた手を止めて言った。彼は生前に、絵画は具像から始まり、抽象で人間を欺くのだ。だから、画家の目で見た真実を抽象化したいと言っていた。次に人間に生きかえつたらすごい地獄絵を描くに違いない。
「では、二人で行くか。しかし、特別地獄って何処だろうね?神君、何処だい?」私は、言葉を強めて近くにいた神に聞いた。
「・・・」答えない。
「答えないと、鞭打ちを一万回を行います」
「そ、それは卑怯」神は、少し顔をゆがめた。
「卑怯も糞もないさ。知っているだろう?蜘蛛の糸の話。ガンダタと一緒に地獄に落ちた蜘蛛、彼はかなり天国社会に恨みを持っているらしいぜ」
「それは・・・ガンダタのせいで、私ら神々のせいではないですよ」
「そうかもしれない。しかし、相手はそう思ってないみたい。君の『神』と書いた二の腕など見ると、怒りに狂うかもね。案内しないと、僕は告げ口をしてしまいそうだね」
「・・・」
「では、一緒に行きたくなかったら、地図を書いてくれたまえ」
「わかりました。蜘蛛の居る特別地獄に案内します」神は、諦めたように言葉を吐いた。
「よし、では行こうぜ」
私と画家のロン、そして小鬼がロンの肩に乗って神の後について歩いた。かなり歩いた後、神が立ち止まり前方を指差した。
「あそこです」と、彼は言った。穴が見える。穴なので黒ければ少しは納得できるが穴からは青い光がでていた。
「あの中に蜘蛛が居ます」
「あ、そう・・・変な穴だね」
「誰も、入ったことはありません。一度、悪魔の一人が間違って入った後、黒い塊になって穴から吐き出されました。黒焦げです。まるで、正露丸のようでした」
「正露丸か・・・でも、悪魔達は火炎の中でも大丈夫なのでしょう?」
「でも、黒焦げでした」
私は、そこで「デーモン(悪魔)・コア』を思い当たった。1945年と46年にアメリカの二ユーメキシコ州にあるロス・アラモス国立研究所の物理学者がプルトニウムの塊を臨界状態に近づける実験中に誤って被爆死した。プラトニウムが臨界状態になると青い光りを発光する。つまり蜘蛛の隠れている穴から出ている光りは火炎ではなく放射能のようなモノではないか。月人と大宇宙を飛行していた時、たびたび青い光りを見ていた。核分裂を繰り返す放射性物体の発光だ。
しかし、地獄に落ちた蜘蛛がウランやプラトニウムなどのような放射性物体が核分裂する穴に住んでいるのか分らなかった。
「特別地獄は、悪魔達の死刑場と呼ばれてやす」と、小鬼が言った。
「ヘェ・・・地獄の悪魔も刑を受けて死ぬんだ」と、ロンがスケッチしていた手を休めて言った。
「それで、正露丸か・・・つまり、悪魔や地獄の怪物は放射線で処刑させられる訳だ」私は日本の丸薬を思い浮かべた。蜘蛛は天然原子炉の「地獄の釜」と呼ばれる天然ウランが連鎖的に核分裂する場所に居るのだろう。地獄の悪魔や怪物達さえも放射線に殺傷され正露丸のようになってしまう。
私は皆を穴の外に残し、一人で青い光り、物理学ではチェレンコフ放射光と呼ばれる光りの中に入って行った。もちろん普通の人間であれば一瞬にして放射線により丸焼きにされる。しかし、私は月人から永遠の命と不思議なエネルギーを持つた玉を持たされている。強力なバリアーが私を取巻いているようだ。
穴の中のコバルトに輝く空間を数分ほど歩くとドームに出た。巨大な蜘蛛が銀色の玉の上に乗っている。この蜘蛛が神に天国からガンダタと一緒に地獄に落ちた蜘蛛だ。小さかった蜘蛛が巨大化していた。
蜘蛛がギロリと私を睨んだ。
「やあ、蜘蛛君」と、私は蜘蛛に呼びかけ手を上げて挨拶をした。
「何だ、人間」と、高圧的な口調である。地獄の怪物達も恐れる存在なので、力を誇示しているに違いない。
「お願いに来ました」
「ジョーダンじゃあねえ。馬鹿な人間のガンダタのおかげで、おらァ、地獄暮らしだ」
「昔の事でしょう? 仏様も、後悔されてましたとよ。聞くところによると、後で地獄に捜索隊を送ったらしいのですがあなたは見つからなかった」
「なんだって? そいつは、本当かい?」
「本当ですよ。阿弥陀自身の口から聞いたのですから」
「地獄に落ちた後、火炎から逃れる為にこの穴に入ったからなあ・・・」
「それで、見つけられなかったんだ。でも、この放射線の中で良く生きてられましたねえ」私は、関心を装った。相手の機嫌を害しては、地獄の改革を行う大魔王を括っている蜘蛛の糸を解けない。
「放射線かどうかしらネェが隠れるところは、ここしかなかったのでね」
「多分、ここは天然の原子炉だったんですよ。それで、蜘蛛さんは次第に手放射線に慣れて行った。そして、原子炉も大きくなり、あなたもすごい力を持ったわけですよ」
「そうかい。コホン」
「あれ、風邪ですか?」
「いや、最近少し体力が落ちた」
「それは、そうでしょう。その、玉になったような岩石は多分ウラン。そこに居たら病気になります。直ぐここから出ましょう」
「たまには、気分転換するか・・・」
「それが健康の秘訣。後で、青汁も差し上げます」
「そりゃあ、なんだい?」
「人間が健康の為に飲んでいるものです。野菜の栄養が濃縮されていて、蜘蛛さんにぴったりです」
「ほうほう。おめェ、気に入ったぜ」
「それに、あなたが柱に縛った大魔王は、貴方を天国に帰してあげようと、天国と交渉しています。蜘蛛の糸を解いてあげてください」
「いいよ。問題ない」
私は、蜘蛛と一緒に大魔王が括られている地獄御殿の一番奥のほうにある小さな部屋に戻った。
「ヒェ! 蜘蛛!」大魔王が恐ろしそうに声を上げた。
「大魔王さん、大丈夫です。蜘蛛さんは、貴方を括っている蜘蛛の糸を解きに来たのです」
「本当かね?」
蜘蛛は、大魔王に近寄ると蜘蛛の糸を食べ始めた。不思議な事に食べながら少しづつ小さくなって行き、自分の吐き出した糸をすっかり食べ終わると普通の小さな蜘蛛になった。
私は、神に蜘蛛を天国に連れて帰るようにお願いした。
そして、再び地獄の王として君臨した大魔王は、地獄を元のように平和な場所に変えたが天国の神々との交渉の結果、罪を犯し地獄に落ちた人間には、毎日の反省と悔恨の涙を与える事とした。新しい地獄には、花々が咲き悪魔、鬼、怪物達が仲良く楽しそうに暮し始めた。しかし、人間界で罪を犯した人間は、毎日反省と悔恨の涙が与えられている。彼達は、地獄のあちこちで泣きながら懺悔をした。これは、拷問と同じほどの罪の償いのようで、神たちは満足した。
12)わが家に地獄の大魔王が来る
私は、久しぶりに地上に帰った。昼近くだった。
家に帰ると、妻はまだテレビを見て愉快そうに笑っていた。
「お腹がすいた」と妻に言うと、私の帰りが遅いので先に昼ごはんを食べたと言う。
私は「では、ラーメンを食べる」と言い、鍋に水を入れてレンジの上に置き、日本のインスタント・ラーメンの袋を破った。冷蔵庫を開けると、ラーメンの中に入れる具を探したが何も無い。相変わらずの貧乏ではないか。ただ、竹輪が一つ皿に置かれラップがかけてある。これは、私と妻がお互い相手に食べらそうと、手をつけないものだ。既に数日経っていた。
「竹輪、食べていいかな?」と、私は家内の背後に声をかけた。
「いいわよ。置いておくと腐ってしまうよ」家内が、答えた。
「ほんとに良いのかい?」
「もちろん」
「夜は何を食べる?」
「久しぶりにギョーザ食べようか」
私は、家内の声に励まされ、竹輪を鍋の湯に入れた。鍋の中で湯に浮くラーメンと一本の竹輪を見ながら、私は何となく幸福を感じていた。
神の至福とは、こんな事かもしれないと思った。「おいおい」誰かの声だ。鍋の中から聞こえてくる。
私は、蓋を開けて中を見た。竹輪が「いい湯だ」と言った。
「だ、誰でしょう?」私は、慌てて火を止めた。
「大魔王さ」
「えっ?竹輪が大魔王様ですか?失礼しました」私は、ぺこぺことお辞儀をしながら竹輪を箸で掴むと皿の上に置いた。
「フゥー」と竹輪が言い、もくもくと黒い煙がでると中から大魔王が現れた。
「うわあ、すみません。私は一旦死んでいたようなのですが神のお恵みで地上に戻されたのです。私の意志ではありませんです。地獄に落ちて、その後、ワッどうして地上に戻ったのか」などど、支離滅裂に言葉を言った。
大魔王は例の怖い顔で私を睨んでいた。否、睨んでいるように見える。とにかく怖い顔なのだ。
「分りました。とにかくラーメンを食べて、それから地獄に落ちます」と、私は続けた、
「あの人、だれ?」大魔王は妻の方を見て私に聞いた。
「え?」私は、ふと、強い家内を思い出した。長い間一緒に暮してきた経験から(多分家内は、地獄の大魔王程度でも驚かないに違いない)と内心思った。そして、必ず私を地獄から救ってくれるだろうと、甘い考えも持った。
「ああ、大魔王さん。あの人には気をつけてください。私も、今回地獄や天国を経験させていただきましたが、あの女性にだけは頭が上がりません」
この言葉は、大魔王を脅かしたようだ。
「ほ、本当かね?」彼は、信じられないと言うように恐い顔を真っ赤にしてあたりを見回している。
「どうしました?」
「いや、逃げ場を考えていた」
やはり、相手は弱気だ。私は地獄で神を背後にして民主主義を訴えたので、大魔王は私のことも知っていた。
「逃げられませんよ。残念ですが大魔王さんも、これで終わりかも」
「ま、待て。僕は、決して怪しいものではない」
「僕?大魔王さんは十二分に怪しく見えますよ。今まで何万年も不死身だった地獄の大魔王も、ここで終わりですよ。僕がせっかく蜘蛛の糸を解いてあげたのに」恩も着せてみた。再び地獄に戻りたくは無い。
「まて、まて、まってくれ。僕は、御礼に来たのだぜ」
「お礼?」
「そう」大魔王が恐い顔で頷いた。
「どうして?」
「ほら、僕を蜘蛛から助けてくれたじゃあない」
「ああ、アレですか・・・」
ここで、大魔王はコホンと咳払いをした。
「どうしたの?」家内が今から声をかけて来た。
「いや、なんでもない」
「そう?話し声が聞こえたようだけど?」
「独り言です。会社でスピーチがあるから練習してた。さあ、ラーメンができた」
「面白いテレビをやっているよ」
「うん。後で見る」
私は、二つのどんぶりを用意しラーメンを分けた、そして、一つを大魔王に差し出した。
「あの、何もありませんがおすそ分けです」
「これ、何?」
「ああ、そうか・・・地獄にはラーメンが無いんだ。これは、ラーメンの言う大変高級な人間の食べ物です」
「そうかね・・・」
「食べてみて下さい」
大魔王は器用に箸を使った。彼は、ラーメンを一口すすると「うまい」と、言った。
「ね、結構いけるでしょう?」
「いける」怖い顔をどんぶりから上げて大魔王が言った。
「このラーメンを、地獄で売ると売れますよ」
「うーむ・・・」大魔王は例の顔を赤黒くして、目をギョロリと動かした。
「あの、神様から地獄は財政難と聞きましたけど」
「そうなんだ。人間は、死ぬと天国に行きたいらしくて、金を天国に寄付する・・・地獄に来る連中は借金まみれで貧乏人、最近の連中は地獄に落ちても一生懸命働かないし、人間の権利とか何とか、ああ、考えただけでも頭が痛い」
「なあるほど・・・大魔王さんも結構大変ですね」
大魔王は、麺をズルズルとすすると、次にはどんぶりのスープを飲んだ。お腹が空いていたようだ。
「あの、もう少し作りましょうか?」
「そうね・・・」大魔王が怖い顔を少しくずした。
私は、ここで家内に言ったほうが良いと思ったので、大魔王に少し待っててくださいと言うと家内のいるリビング・ルームに行った。
「あの、実は先ほど友達を連れてきたんだけど・・・」
テレビを見て笑っていた家内は、私を振りむくと「誰を?」と、聞いた。
「あの、大くん」
「大くん?」
「大魔君」
「あら、そう・・・」
「それで、今二人でラーメンを食べています」
「ラーメンでいいの?」
「うん。彼、始めてラーメンを食べて感動している」
「ラーメンで?」
「そう・・・」
「だったら、いいじゃない。ごゆっくり」
やはり家内は気にも留めていない。たとえ怖い顔の大魔王が目の前に現れたとしてもビクリともしないはずだ。彼女は、蛇の背に乗った人間だ。小さい頃父親と山に行った時に丸太が横たわっていたのでその上に乗ったら動いたと言う。良く見ると蛇だったと言う話だ。
ラーメンを食べ終わると、私は大魔王を連れて出かけることにした。彼がラーメンを売っている店を見てみたいと言ったからだ。
途中、刺青をした巨漢の男達が道横でたむろしていた。彼達は、大魔王が歩くと目をそらした。
いずれ地獄に落ちる事を予期しての恐怖か、それとも大魔王の顔が怖いのかは知らない。大魔王はものめずらしそううにあたりを見渡しながら私の横を歩いている。
やがて、セーフ・ウエイの駐車場に着いた。
「ここが、人間の食料を売っている店です」
「人間の・・・か」
「ところで、地獄に落ちた人達は、人間の食料を食べるのですか?」
大魔王は目を白黒して、考えた。
「食べるぞ」
「死んだ人がですか?」
「そ」
「信じられない。ラーメンで儲ける話は冗談だと思ってました」
「地獄には火があるからね」
「確かに・・・あの火には、参りました」私は地獄に落ちていた時に体験した「大炎熱」と言われる熱さを思い出した。
「しかし、最近は予算不足で余り火も燃やしていない」
「そうでしたね。思い出しましたよ。大魔王さんが地獄の改革をされた」
「最初は抵抗があったんだ。親から受け継いだ地獄を改革してよいものかどうか・・・」
「親から? だって、大魔王さんは不死身でしょう?」
「いや、3,000年ほどで変わる。男系の家系の男子が後を継ぐんだ」
「男系の家系?」どこかで聞いたような決まりだ。
「まいちゃうね。僕はあとを継ぎたくなかった」
「時代が時代ですからねえ。理解できます」
「苦情が多くてね」
「ああ、鬼たちでしょう?聞きましたよ彼達から。拷問をする道具類、棍棒等が古すぎて使い物にならないとか・・・」
「鬼達は、世襲制だから仕方が無いとして、地獄に落ちてくる人間が変わった」
「え?人間は同じでしょう」
「いや、賄賂を使ったり雌鬼にチョッカイをだしたり、思い出しただけでも頭が痛くなるぞ」
「それで、そんな人間をどうしているのですか?」
「もう一つの段階にある地獄に移そうとすると弁護士を使って訴訟するんだ」
「ええ?」私は驚いて大魔王の顔をのぞいた。
「ああ、やだやだ・・・」大魔王は、さも疲れたように頭を振った。
「しかし、地獄に弁護士いるんですか?まさか、死んだ人間の元弁護士が地獄でも弁護活動をすることは無いでしょう」
「弁護士は、天界から来る・・・」
「天界?」
「そ・・・つまり、天国だよ」
「ええ!」私は驚いた。
「だって、きみも地獄で見ただろう?」
「ええ、あの神様たち・・・」多分月人で、ヘンリーとかトーマスかな・・・と、私は想像した。
「だからね。最近は地獄の経営も上手く行かない。そこで、君の家に来て竹輪の中に隠れていたら、地獄の灼熱の中のように湯のなかさ」
「ああ、アレはすみませんでした。ラーメンを作っていたものですから」
「いいんだよ。この際、言わしてもらいます。君、地獄に興味ないかね?」
「地獄ですか・・・」
「そう」大魔王は何となく嬉しそうに言った。何か魂胆があるのかもしれない。二度と地獄なんかに落とされるものかと、私は深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
「それはそうと、大魔王さんは僕にお礼をしに来たと言いませんでしたっけ?」
「ああ、そうそう。御礼をします」
「無理しなくていいですよ。財政難でしょう?」
「なあに、金品ではお礼できないけど、好きなものを二つほど適えてあげます」
私は驚いて、すごい形相の大魔王を見た。無理しているようだ。それに、条件が昔物語りのようで、信憑性が無い。
「いいですよ。無理しなくて」と、私は何となく大魔王のお礼なるものを避けようとした。実際、では金銀財宝や綺麗なネエちゃんをなどど素直に言うと、大魔王は途端に「それ見たことか!」と言い、今度こそ私を八大地獄の八番目、ここはもう大変な場所らしい地獄に連れて行くかもしれない。
「ええ? いいの?」大魔王が言った。
「はい。私は、貧乏が好きですから」彼は何も経済的なことには言及していなかったけども、何となくそう思った。
「じゃあ、率直に言います。君、地獄引き受けてくれないかね?」
「ええ!」私はセーフウエイの玄関で声を上げた。近くのアメリカ人のご夫人が怪訝そうに私達を見た。
終了
4月23日2018年
くらうど 三崎伸太郎 @ss55
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