8話「夏休み開幕と私①」

「こんな、ダメですよ……咲耶、さん」

「いいじゃん、ほらコロノ。おいで?」

「で、でも……」

「はい、つかまえた」

 咲耶さんの、底まで吸い込まれそうほど奇麗な瞳。長いまつ毛。ゆっくりと、近づいてきた。心臓が爆発して空まで飛んでいきそうだ。私は我慢できずにまぶたをぎゅっと閉じた。

「そんな……ダメ……」


「んえ?」

 見知った白の天井、光射す窓枠、そして携帯の細かいバイブレーション。

「……夢、か」

 その内容は、断片的だが覚えている。星那衣乃、私はなんて夢を見てるんだ。咲耶さんは尊敬してる存在。なのにこんな、恥ずかしい夢だなんて。

 携帯から鳴るアラームを止めて、顔に手を当てる。湯気が出ているのではと思うほどの熱を帯びていた。目を閉じて、しばらくの瞑想をする。

 よし、朝ごはん食べに行こ。


 携帯からイヤホンをゆるりと伸ばし、朝の静かな道を衣乃は歩いていた。七月も中旬で天気はカラリとしており、見上げればまばらな電線と高い蒼が静寂を強調させる。清々しいものだ。

 家から十分ほど行くと、そこには私の通う中学校がある。携帯は電源を切らなくてはいけないが持ち込んでも良いので、朝はいつもこうして音楽を聴きながら登校しているのだ。

 駅前のイベントで発表しようと思っているこの曲。その再生ボタンを押した。まだまだアラがあるので、あと一週間で出来るだけ煮詰めていきたいと思っている。

 音が少し小さいな、そう思って音量を上げた。少し前に咲耶さんからアドバイスを貰ったこの曲はなかなか良い出来になっている。そう、特にここのコードに移る所とか。

「あのー?」

 後ろから声がして、肩を軽く叩かれた。イヤホンを外して振り返る。私と同じ制服だ。

「どうしました?」

「音楽、スピーカーから鳴ってますよー?」

 イヤホンを耳から取ったのに、シンセサイザーの旋律が手元で震えていた。イヤホンジャックに線を挿していなかったのだ。両手に力を入れて慌てて音を消す。

「あっ、ありがとうございます」

 恥ずかしくなりながら彼女の顔を見る。肩までゆったりとウェーブした淡黄色の髪は、銀の朝日をキラキラと反射していた。

「明日から夏休みだねー」

 気まずい空気を変えてくれようとしているのか、彼女は嬉しそうに話す。

 なんだかフレンドリーな人だな、そう思いながら一つ疑問に思う。

「あれ、名前なんだっけ?」

 同じ学校のようなので、三年生である私はため口でそう尋ねた。先ほどから親しくされているが、おそらく初対面だろうか。仮にどこかで会っているなら無礼ではあるが、彼女の名前は知らない。

 これは失礼しました、そう言って自己紹介を始める。

椿屋真紀つばきや まきです。三年生だよー」

「私は星那衣乃。同い年、だね」

 彼女は柔らかく笑う。その温かい笑顔には安心させる雰囲気があった。私も楽しそうに話す彼女につられて、自然と頬が緩む。

 中学校生活最後の一学期。その最後の日。私は、不思議な彼女と出会った。


「衣乃ちゃんって、ホシナコロノの?」

 午前中で学校が終わり、二人で静かな昼の住宅街を歩いている。一人で帰っていると後ろから話しかけられ、方向も同じなのでこうして一緒に帰る事になったのだ。

 唐突な質問をされた。横を見ると、真紀の何かに期待しているような顔が私に向けられている。ホシナコロノ、音楽用SNSであるロースト・ミュージック・カフェで使っている、私のもう一つの名前だ。

「あー、RMCの。よく知ってるね?」

「なんか聞いたことある名前だなーと思って調べてみたの。そしたらヒットしちゃったー」

 するもんなんだねと照れくさくなりながら返す。彼女も音楽が好きなのだろうか。

 もちろん私も大好きである音楽の話を振りたい。しかし、音楽の話題で話が合うことは滅多にないのだ。私が聞いているのはあまり日本では耳にしないような人たちだし、私も最近のテレビで出るようなアーティストは全く分からない。そんなだから話ができるのは、いつも色々教えてもらっている音楽好きな中年の男集団か、私と同じようなジャンルも聴いている朝海くらいのものだ。

 しばらく他愛もない話をしているうちに、彼女についての事を色々と教えて貰った。進学を考えていること。家は雑貨屋を営んでいること。そして、病弱で学校を休みがちなこと。

 軽い足取りで私の横を跳ねる彼女を見ていると体が弱いだなんてとても思えないが、三年生になっても休んだり保健室にこもったりすることがままあるらしい。

「真紀の家、行ってみてもいい? 雑貨屋ってちょっと気になるし」

 前を行く真紀が立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いて、そして笑った。

「もちろん! 今日はキラキラの朝陽みたいな、ステキなお友達ができていい日だなー」

「ステキなって。恥ずかしいなー」

 にひひと顔をほころばせて再び歩き始める真紀。私も同じような顔になりながら、そんな彼女について行く。


「はい、とーちゃくだー」

 真紀と私の足が止まる。

 緑豊かなプランターと色とりどりな花。爽やかな木製のドアと、アルファベットが記された古めかしいブロンズのプレート。灰色をしたコンクリートの住宅街であるはずなのに、そこだけヨーロッパへと移り変わったような、不思議な空間。

「……キレイだね」

 そうでしょと誇らしげに真紀が言い、前を行って扉を開く。鈴の音がこだまして、いらっしゃいと歓迎してくれているようだ。誘われるように店内へと歩いていった。

 中に入るとその素敵な空間はなお主張を強めた。明るく白っぽい木肌をした棚には、マグカップ、ボールペン、トートバッグ、ほかにも様々なものが並べられている。ずっと見ていたくなるくらい心地よい空間だ。

「いらっしゃい。あら、真紀の友達?」

 腰ほどの低いカウンターから女性の声がかけられる。そこにはイスに座って本を持ちながら、私に目をやる四十代くらいの、恐らく真紀の母がいた。

「あっ、友達の星那衣乃です。お邪魔します」

「お邪魔しますって、あなたお客さんでしょー?」

 にこやかな表情でゆっくりしていってねと言われた。笑うその顔は確かに似ていて、やはり親子だなと勝手に納得をする。

「衣乃ちゃん」

 真紀から名前を呼ばれ、それに反応して返事をする。彼女は少し目を細めながら口を開いた。

「友達って言ってくれて、嬉しいな。その、学校あんまり行ってないから同年代の知り合いあまり居なくて」

「べっ、別に、大げさだよ」

 照れてしまって彼女から目を背けてしまう。

 私も学校では話をする仲のクラスメイトは何人かいるが、自分の心の底を話せるような親友にはまだ出会えていない。まあ気にくわないという訳ではないが、中学を卒業すればもう会わないんだろうなといった、そんな予想をしてしまうくらいの仲だ。

 一時間にも満たない真紀との時間。しかし何故か、彼女とは誰よりも波長が合う気がする。私が一方的に思っているだけなのかもしれないのだが。

「ごめんごめん、変なこと言って。何か欲しいのあるかなー? お友達割引するよー」

「真紀は商売上手だね。ううん、欲しいものかぁ」

 そう言って商品に目をやる彼女に合わせて、整列したのを順番に眺める。

 そういえば、思い出した。確か来週は咲耶さんの誕生日だと、朝海が言ってたんだ。せっかくだし、何かプレゼントしてみようかな。

「誕生日プレゼントとか、何がいいかな? あんまり慣れてなくて」

「ほほー。さては彼氏さんかな?」

「そんなん居ないし。女の先輩ー」

 彼氏なんて別に、興味ないし。なんて思っていたが、なぜか朝に見た夢の痕跡が頭に流れ出す。だめだ、余計な事思い出してしまった。それを振り切るように、再び商品棚に意識を集中させる。

「あっ、これいいかも」

 そこにあったのは白に青のトートバッグだった。横には小さな猫のシルエット。涼しげなそれを肩にかける咲耶さんを想像して胸が躍る。

「かわいいねー。これにする?」

「うん、お願いしようかな」

 はい、じゃあ包装するねー。真紀はそう言ってそれをカウンターまで持っていく。

 なんだかあっけなく決まってしまったが、もう少し悩んだ方が良かったのだろうか。そんなことをぼんやり考えながらお会計を済ませた。中学生にしてはたくさんお小遣いを貰っている方だが、思っていたより今月に響く額だ。まあ後悔なんてないけど。

「はい、どうぞ。喜んでくれるといいねー」

 真紀から丁寧に渡された、ラッピングされたトートバッグ。うん、これなら絶対に喜んでくれる。きっと、大丈夫。

「ありがとね」

 紙袋を手に提げる。来週がすこし心配だけど、いや、やっぱり楽しみだ。

「じゃあ、私そろそろ帰るね。お昼ご飯も家にあるし」

 真紀は店の出口までついてきてくれた。今日初めて見た、すこし寂しそうな目をしながら。

「また来るから、明日から夏休みだしね」

「そっか、そうだよね!」

 最後は思い切り手を振って別れた。連絡先だって交換したし、また会いに来よう。きっと、楽しい時間になるだろう。

「ステキな友達、か」

 確かに、私にとっても彼女はそうなのかもしれないな。

 上機嫌なステップで、再び静けさを取り戻した一人の住宅街を歩く。

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