4話「登校と私」

「おーい、リーダー!」

 部室である第二音楽室。午後の授業も無事乗り越えた私は、いつものようにその引き戸を開いた。

 一般的な音楽室を想像してもらえれば、この部屋と相違ないだろう。その向こうから駆けてくる彼女は米田凛よねだ りんだ。入部時から文化祭まで二ヶ月の間ではあったが、私がいるバンドでドラムを担当していた。おでこが出るくらい短い茶髪に活発そうな見た目。イメージ通り彼女は気さくな性格で、バンドを抜けてからも私は今まで通り「リーダー」と呼ばれ続けている。最早彼女のリーダーではないのだが、どうにもそれを咎める気にもなれずにいた。

「ん。どうしたのリン、と葵?」

 凛の斜め後ろに、さらりとした赤髪のミディアムヘアが隠れている。

 栗江葵くりえ あおいだ。凛が現在ドラムを叩いているバンドのギターボーカルで、凛とは幼なじみだそうだ。テクニックは私よりも上だと個人的には思っており、なんだかライバル意識にも近しいものを感じている。

 ほら、と凛が彼女の背中を押し、私の前に出た葵と目が合う。はっきりとした目、気の強そうな顔をしていて表情を出すことも少ない。しかしそんな彼女はいつもと違う、恥じらうような仕草をしながら口を開いた。

「……これ、青山さんは興味無い?」

 咲耶ちゃん、だろぉー! と騒ぎながら凛が後ろから葵に抱きつく。慌てふためく彼女から渡されたもの、それは一枚の紙であった。

「あお……咲耶は出る? 私達は出るんだけど」

 それは学校の最寄り駅で開催されるライブイベントのフライヤーだった。出演バンド募集中、と派手な色の大きなテキストがギラギラと主張をしている。

「アオイがさー、どうしてもリーダーも誘いたいーってね。どう?」

 余計なことを言うなと葵が小声で怒っているのが聞こえた。漫才のようなやり取りを見て、なんだか可笑しくなりながら私は答える。

「あーこれか、実はね」

 私がこの「出演バンド募集中」の文字を見て心踊らないわけがない。しかしこんな、微妙なリアクションになったのには理由がある。いつもの如く、私は頭の中でいくつかの出来事を整理し始めた。

 そう、一度目は昨日の夜だった。自宅で文化祭の打ち上げをしたあの日。




「じゃ、そろそろお開きかなー! 眠いし!」

 相変わらず洒落た音楽が流れる店内。私たちはピザにポテトの山、更にはケーキを何とか討伐してしばらく談笑を楽しんでいた。

「帰ろっかー。お父さんご馳走様でしたー」

 今回の夕食は父の奢りになった。日頃の無口な父を思い浮かべて、そんなことをする人だったかなと意外な気持ちになる。しかもショートケーキまで。少し見直さなければならないなと思い、カウンターで片付けをする父に目をやった。

「いいんだ。そもそも俺の金じゃないしな」

 他の三人はその言葉に疑問符を浮かべる。しかし私はこの「俺の金じゃない」という言葉を聞き、瞬時に一つの仮説を立てた。

 恐らく、いや、父の性格からして確実に、今回のお金は私のバイト代二日分なんだ。タダ働きを私にさせて、その分を今日の晩御飯に使ったんだ。もう十年以上の付き合いなんだし、思えばそういう人だったなと腑に落ちる。

 あからさまに不機嫌な顔になってカウンターを睨んだ。やっと気付いたかとでも言いたげな顔で父は薄く笑う。

 ほら、やっぱり。この人を見直す前に真相に気づけて良かった。

「これ、君達は興味ないか?」

 そんな憎い父は反省の色を見せないまま、私たちに一枚の紙を手渡した。

「第二回、駅前音楽祭?」




 打ち上げをした次の朝。しっかりと開かない目をこすりながら改札を過ぎ、私は学校へと向かっていた。

 暑くなってきたので今日からブレザーは着ておらず、白いブラウスの首元では気だるそうにネクタイが揺れ動く。いつも穿いている黒のタイツも無く、肌白な素足がローファーまで伸びている。

 ようやっと鬱陶しい梅雨が明けたのだ。しかしそれが原因だろうか、ここ数日で一気に気温が上がって蒸し暑くなった。春場はよく黒タイツを着用しているが、流石に暑くなるとそうもいかない。

 そして背中には黒のギターケースと肩にトートバッグ。まあケースといってもソフトケースなので、中身が無ければふにゃふにゃとしているのだが。

 少し前まではリュックを使っていたが、ギターを背負っていると一緒には持ちにくい。なので最近は家にあった、シンプルなトートバッグを右肩にかけて使っているのだ。

「お、おはよう。咲耶、さん。」

「おはよー、ん?」

 朝の時間は思うように体が動かずかったるい。そんな私に、なじみの無い声で挨拶が飛んでくる。その方向には長い黒髪の、私と同じ制服にベースを背負った彼女がいた。

「あーと、上島さん。珍しいね」

 真っすぐと肩まで伸びた奇麗な黒髪、前はぱっつんと目元で横に切りそろえられている。上島咲うえしま さき、彼女には和美人といった言葉が似合う。

 葵や凛とは幼馴染であり、三人はバンドを組んでいる。そこではいつも仲がよさそうにしているが、私と上島さんはあまり話をすることはない。そして今、彼女にどこか違和感を感じている。

「咲耶さん、その。急だけどお願いがあってね?」

 そうだ、呼び方だ。咲耶さんだなんて下の名前で呼ばれたことは今までなくて、今まで青山さんだった。私は不思議な顔になりながら、一緒に横を歩く彼女にどうしたのと返す。

「その、私のこと……あのね、恥ずかしいんだけど、」

 彼女が立ち止まった。私も足を止めて、その真っ赤な顔を見る。

 なんだかこれは、そう、告白されるシュチエーションだ。テレビで見たことがある。私も平静を装ってはいるが、今にも彼女の恥ずかしいが伝染しそうだ。

「あのね、私のこと。」

「うん……」

 熱を帯びた瞳が視線と合った。私の顔に血液が集まりつつあるのが分かる。

「私のこと、咲って呼んでほしいの!」


「ほんとなんか、朝から疲れたよー」

「うう、ごめんね咲耶さん……」

 二人は学校に向かって並んで歩いている。駅から続く、住宅街を通る広めの道にある、沢山の学生の流れに乗って。

 どうして下の名前で呼んでほしいのかは先ほど質問をした。私が、凛と葵の名前を下で呼ぶようになったのが原因だそうだ。三人のうち一人だけ苗字で呼ばれるのは嫌だった、それが理由らしい。

 そんな事かといった反応をしたが、彼女にとっては大きな問題だったみたいで、今日の朝も私を駅前で探していたと恥ずかしそうに言っていた。弱気そうな振る舞いに反して行動力はあるらしい。

「咲ー?」

 そう呼びかけると薄く頬を赤くして、嬉しそうにこちらを向いた。少しそのまま歩いた後、続けて私が口を開く。

「呼んだだけ。ってなんかこれ、カップルっぽいやりとりだ」

 ふざけた口調で彼女の顔を見る。私に向けられた瞳は潤み、顔はさくらんぼに勝るとも劣らないほど赤く染まっている。理由はないが、本能的にいじわるをしたくなった。それだけだ。

「あ、あのね、咲耶さんに渡したいものがあるんだけど」

 強引に空気を変えるように切り出して、手早くリュックからなにやら取り出す。渡されたそれは一枚のポスターだった。

「よかったら、一緒に出ないかな?」

 昨日の夜にも全く同じものを見た。第二回駅前音楽祭、そこにはそう記されていた。

 咲は眉を下げて私の返答を待つ。そんな彼女を見て、ひらめいた。

「出てもいいんだけど、一つ条件があります」

 なに? とそのまま私を見ながら、心配そうに咲が訊ねる。




 そして時は戻り放課後の部室。葵から渡されたその紙。それと同じものを既に二枚も持っているのだ。昨日に父から渡された時点で私たちは出ると即答し、今日の放課後にでも手続きをすませるつもりだ。

「あー、出る。そっか、葵たちも出るんだよね」

「そうだけど。簡単に決めていいの?」

 葵はあっけにとられている。何と説明すればいいのか考えていると、横から私の視界に一人入ってきた。咲だ。彼女は横に立つと、ゆっくりと顔を私に近づける。

「や、やぁ、咲耶ちゃん。元気、かな?」

 肩を小刻みに震わせ、ひきつった笑みを私に向けている。葵は呆然と立ち尽くし、凛に至っては顎が落ちるのではないかというほど大きく口を開けている。

「さ...咲?」

「どっどど、どーしちゃったの咲!」

 今朝に締結した契約内容。私たちが当イベントに申し込む代わりに、今後は私に馴れ馴れしく話すこと。思っていたのとなんだか違うが、しっかりとそれを実践してくれている。なるだけ我慢はしていたが、思わず笑いがこぼれてしまう。

「こんにっちはー! あれ? どしたの?」

 そんな私たちの後ろから声がする。夕維だ。彼女は葵の持つ紙に興味を示したのか、それに近づいて勢いよく覗き込んだ。

「あれ! 葵ちゃんもそのイベント出るの?」

「うん。出る」

「実は私たちもなんだー! 昨日みんなで決めたんだよ!」

 そう、夕維の言った通り昨日決めた。夏休みに入ってすぐにあるそのイベントが待ち遠しい。

 昨日。昨日?

 横から私を貫く視線を感じた。全身から冷や汗が出る。

「咲耶……ちゃん。昨日決めた、って」

 咲は今にも泣きだしそうな顔で私を凝視していた。浮気されてしまってひどく悲しむOL、そんな顔だ。これもドラマなんかでよく見かけたものだ。

「あー、その。ええと」

 修羅場というものは経験したことはないが、浮気がばれた男性はこんな風なのかなと、目をどこかへ泳がせながら他人事のようにそんなことを考える。

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