ナーガと「俺」の午後 下

 安田美花が死ぬ前に行きたい場所があるといい、俺たちは川沿いの通りへ向かう道を歩いていた。

本当に死ぬ気があるのかと思い、何も殺す必要はないんだと思い直す。どこかで風呂を焚いているのか、湯と石鹸の甘い匂いがした。


 一歩進むごとにひとが増える。はぐれないよう小走りに俺の少し後ろを歩く安田美花は子どものようだと思う。


「パトリシア、綺麗なお店でしたね」

 女が明るい声を作っていう。どこがだ?

「そう、ですか?」

「名前も好きです。そういう映画のヒロインいませんでしたっけ」

 横目で彼女の方を見たが、ひとの影になって表情が見えない。手を引いてやるのもおかしな話だと思う。


「そんなのいたか?」

「ほら、フランスの何でしたっけ、古い映画のジャンル」

 安田美花がひとの波から浮かび上がる。

「ああ、ヌーヴェルヴァーグ?」

「はい、それで有名な、ゴダールだったかな」

 また沈む。

「……パトリシア・フランギーニ? 勝手にしやがれ、の」

「そう、それです! 海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら、勝手にしやがれ、って!」

 ひとの肩と肩の間から抜け出した彼女は照れたように笑った。やはり、名前は映画から取ったのではないだろうか。


「安田さん、龍が見たかったんですか」

「いいえ、本当はもうちょっと先に行きたかったんですけどひとが多くて無理みたいですね」

 そう言って彼女は俯いた。俺はもうしばらくしたら、この女を殴るのだろうか。通行人にぶつかっただけで、飛ばされそうになるこの女を?


 それにしても反対側からの人通りが多い。それも、龍を見に行くというより、急き立てられているようだ。


 何かあったんでしょうか、と安田美花が不安げに聞く。

「さあ……」

「今、何時ですか」

 俺は腕時計を見る。既に正午を過ぎていた。

「龍、来ませんね」


 前に進もうとすると、警官が飛び出してきて視界を塞いだ。まだ何もしていないが、一瞬息が止まる。

「こっちには行かないで。避難した方がいいですよ」

「避難?」

「今ね、龍が墜落したんですよ。知らない? ドローンだかなんだかで襲撃されたって」

 何か聞く前に警官は俺を通り越していった。


安田美花が自分の靴先を見つめるように下を向いて呟く。

「あの、決めた場所に行きましょうか。私の行きたいところはもう行かなくていいので」

「もういいんですか」

「本当に大丈夫なので……」

 俺たちは方向を変えて歩き出した。墜落現場から逃げるひとびとが絶えずぶつかる。


「安田さん、あんた何で死のうと……」

「ユキ?」

 雪? 奇妙な答えに何事かと思い、振り返る。雪など降っていない。


安田美花は人込みの遥か遠くを見ていた。視線の先に、同じくらいの年の痩せた女がひとりいた。安田美花が顔を向こうに向けたまま早口に言った。

「ごめんなさい。一緒に死ねません。約束がありました」

 走りだそうとするその肘を掴む。今なら殴れると思った。


「安田美花!」

「違うんです!」


 彼女が声を張り上げた。俺をまっすぐに見て言う。

「本当は名前違うんです。ヤスミンっていうのは、映画から取りました。騙しててごめんなさい」

 肘を掴む手から力が抜ける。

「……バグダッド・カフェ?」

 女は驚いたような顔をして、笑って頷いた。腕がするりと抜けて、彼女は再び駆け出した。数歩進んでから、俺の方に向き直り、手で筒を作って叫ぶ。


「あなたも、死なないで!」  

 女の姿は見えなくなった。


「勝手にしやがれだ、安田美花さん……」

  自分の腕にかかった小さな紙袋を見て、俺は笑った。どうしようもないとひとは笑えるらしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る