ナーガと「私」の午後 下
昔と違って小学校は封鎖されていた。
大人まで殺到されてはたまらないのだろう。私は校門の片側の盛り上がった土に足をかけ、よじ上った。こんなことをするのはいつ以来だろう。飛び降りて着地した瞬間、
「ゆき?」
という男の声がした。
一瞬、名前を呼ばれたのかと思い、息を呑む。目の前に三十代程度の男がいた。彼は笑って、
「ああ、砂だったのか」
と、呟いた。初めて見るこの男が私の名前を知るはずがない。
ひとがいたことと、誤解だったとしても久しぶりに自分の下の名前を呼ばれたことで、心臓を掴まれたような感じがする。ふと、マリはいつも手紙を『ユキちゃんへ』で始めていたのを思い出した。
「立ち入り禁止ですよ」
男は先ほどの独り言と変わらない声で言う。そちらことと言いかけたが、知っていますとだけ答えた。
「約束があって」
そう付け足すと、男は何度か頷いた。
「僕もそんなもんです」
葉桜になった木々が一斉に風に煽られる。男は黒いジャケットの襟を立てながら言った。
「ここは龍がよく見えるんですよね。見たことあります?」
「子どものときに、一度」
「どう思いました?」
なぜそんなことを聞くのだろうと思っていると、私の答えを待たずに男は言った。
「僕は、支配されてるなって思いましたよ。人間がどんなに領土を広げて、空を飛べるようになってもあんな生き物がいるなんて」
私はマリと並んで、固い鉄棒だけに身体を支えられながら見たときどう思っただろう。
「あんなの、いない方がいいと思いませんか」
「それは困ります」
一瞬誰が言ったのかと思い、正気に返って自分が言ったのだとわかる。
男は少し驚いたような表情をしていた。弁解しようと思った瞬間、電子音が鳴り、彼が胸ポケットから携帯を取り出し、電話に出た。
「ああ、そっちか。わかった、行くよ」
男は電話を切り、またポケットにしまう。
「あんまりそこら辺にいない方がいいですよ」
最後に男はそう言って、校門をよじ登り、消えた。
彼はたぶん、私より賢くて優しいのだろう。世界と繋がっているひとだ。
私はあの頃から龍がどこを飛んでいようと、ひとよりも高い場所にいようと興味がなかった。
ただ、隣にいる友だちと一緒に見られれば何でもいい。狭い世界で生きていると思う。
でも、地球上のどこにいようと、人間は誰もが龍の腹の下ではないのだろうか。
時刻はもうすぐ正午になる。
彼女は来るだろうか。東の空がゆっくりと雲より一段濃い黒に染まった。龍の影だ。
私は昔のままの鉄棒に向かう。パンプスの底に砂が噛みつく。雲が晴れ、日差しが出てきた。記憶の中よりひどく小さく思える鉄棒の元に手をかけて、私は空を見上げる。
その瞬間、轟音が鳴り響いて、龍の頭の影がどんどんと高度を下げていった。
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