ナーガと「僕」の午後 上
龍を待つひとびとを搔き分けて逆方向へ急いでいると、肩にぶつかるのではなく軽く叩くような感触があった。
「それ、ギター?」
振り返ると、紺色の腕が僕の肩を抑えていて、その続きに警備員の制服を着た男が立っている。僕は自分の胸を斜めに横切るストラップを見下ろした。
はい、と答えると男は目じりに皺を寄せて笑う。
「そうか、バンドとか?」
「そんな感じです」
「俺も昔はやったなぁ。ベースだけど。そうか、ギターか。ここで弾いちゃだめだよ。危ないから」
もう一度はい、と答えると、警備員は手を離した。ずれたストラップを戻して、先を急ぐ。
これだけの人間がいて、本当に誰も思わないのだろうか。
このギターケースの中に銃が入っていると。
目的地である、郊外の大学病院に近づくに連れてひとが減ってきた。こんな日に病人を見舞う気分にはならないということだろうか。
僕の目的も面会ではない。
車もまばらな駐車場を抜けて、病院正面の自動ドアをくぐった。
診察を受けに来たような素振りで入ればあっさりと通れることは、昔、曾祖父がここに入院していた頃知った。
リノリウムの床が波のように蛍光灯の明かりを反射するロビーを横切って、エレベーターに乗る。恐ろしいほど警戒されない。八階まで登って、屋上までは階段だ。
ちょうど八階で待っていた老人と入れ替わりで箱を出るとき、痰の絡んだ声で、ギターかと聞かれた。
「そうです」
自分がギターケースに取り憑く亡霊にでもなった気分だ。
仄暗い非常階段にスニーカーの底が鳴る音だけが響く。
鍵が設置されていたらどうしようかと思ったが、屋上へ続く扉はあっけなく開いた。
外に出た瞬間、冷たい風が塊になって押し寄せて来た。靴底にコンクリートのざらつく感触。灰色の空と自殺防止用のフェンスが広がる屋上には誰もいない。
僕はギターケースを下ろして地面に置く。
ファスナーを引っ張ると、ケースの黒い腹を裂いて、艶消しされた表面が鉛色をした猟銃が現れる。曾祖父の銃だ。
曾祖父は、日本で銃を持てるというのは、これ以上ないほどまともな人間と認められた証拠だが、それをわかっている人間は数少ないと言っていたが、少なくとも彼はまともではなかったと思う。
一昨年九十七歳で死んだ彼は、まだ高校三年生だった僕に車椅子を押させ、この屋上に来て言ったのだ。
二年後、ここを通る龍を殺してほしいと。
地球全体が戦場になろうと、龍は変わらず空を飛ぶ。
曾祖父は先の戦争で徴兵され、ジャングルに飛ばされた。行軍の最中はぐれて戦友とふたりきりになった若い曾祖父は、水と食料欲しさに真夜中の密林でその戦友を撃ち殺したのだと言う。そのとき、龍が現れた。
「あの龍はなぁ、俺の殺しを見たんだ。このこと今知ってるのは、コウタ、お前とあの龍だけなんだ」
鼻に通した管のせいで息を漏らしながら、消えそうな声で曾祖父は言った。その夜、曾祖父は意識を失って、そのまま帰らぬひととなった。
やりたいことがないならそこで見つけろと言われた大学に入っても、何も見つからなかった僕の頭にずっと残っていたのが、その遺言だった。
コウタ、龍を殺してくれんか。
そして、今日僕は曾祖父が家の納屋に隠し続けていた銃を持ち出した。ずっしりと重いそれを持ち上げ、構える。肘から先が、ジャングルで戦友に銃を向ける曾祖父になった気分だ。
重い扉が開く音がして、僕は反射的に銃を下ろす。
しまい直している暇はない。柄の部分を何とか鞄に押し込み、はみ出た銃身に羽織っていたシャツを脱いで、かぶせた。
ゆっくりと振り返って見ると、パジャマの肩にグレーのカーディガンをかけた初老と言っていい男がいた。
痩せていて、肌が黒いが健康的な色ではない。いかにも重病人だ。僕は軽く舌打ちしてから、煙草を吸いに屋上に来たのを装うため、吸いたくもないが一本取り出して火をつける。煙を吐き出すと、背後から声がした。
「火、貸してもらえますか」
誰が言ったのかと思い、振り向くと、先ほどの入院患者が立っているだけだ。
想像よりずっとしっかりした声だ。
「煙草は?」
僕が聞くと、男はうっ血した顔に苦笑を浮かべた。
「いただけますか?」
僕も呆れて笑う。
どうぞと言うと、男はおぼつかない足取りで歩み寄り、僕が差し出した煙草を咥えた。その先端にライターを持っていき、点火させる。風が強く、なびく火で爪が焼けそうだ。三度目でやっと火が付いた。男は満足げに煙を吐いた。
「息子が、吸わせてくれなくってねえ……。そういう癖に自分は吸うんですよ、アイツは」
僕は曖昧に笑って応えた。本当に吸ってもいいんだろうか。男の目はわずかに充血していた。瞳の色素が薄く、顔の造りはどう見ても日本人だが。目だけは海外のモノクロ映画の俳優のようだと思う。
「お見舞いですか?」
男の質問に、そんな感じですと答えた。
「今日来てよかったですね。ここ、龍が通るんですよ。知ってました?」
「昔、ぼくのひいお爺さんが入院してるとき、聞きました」
男は笑って頷き、咳をした。大丈夫だとは思えない。
「私は二十年前、妻の入院中に見ましたよ。その妻とも別れましたけどね」
何でもいいから早く吸い終えて帰ってくれと祈る。男に僕の願いは届かない。
「ここの屋上いっぱいに龍が広がってね。ここで龍の目玉を見たんです」
曾祖父も、ジャングルで龍と目が合ったと言っていた。合ったというより、巨大な眼球の真下に曾祖父がいたと言うべきか。夜空いっぱいに広がる、金色の虹彩。抽象画のようだと思う。
「死ぬ前にもう一度見たいと思うんですけどね。次がいつかはわかりませんが、もう駄目そうですから」
「大丈夫ですよ」
考えるより早く先に口に出していた。無責任だったと思ったが、男は優しく笑い、サンダルで火の消えた吸い殻を潰した。そのままにするのかと思ったが、男はそれを拾って、ティッシュにくるむとパジャマのポケットに入れた。
「悪いことはみんな、龍が見てますからね……」
この世代の人間はよく言う。僕の父も母も。男は礼を言って、屋上からぎこちない歩みで去った。スマートフォンを開くと、もう龍は関東に入ったという。
父も母も、僕と違い介護士になると決めて専門学校に通う弟も、僕が唯一やりたいと思ったことが龍を殺すことだと知ったら、どう思うだろう。龍殺しの犯人として、家族は速報で僕の名前を見るだろうか。
僕は、龍を殺せるだろうか。
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