ナーガと「俺」の午後 上

 寒くはないが、空気の中に暖かさはない。春というより、冬が過ぎ去っただけの無味乾燥な空だ。この灰色の中を龍が飛ぶのだろうか。


 航空自衛隊員だった父は、俺が子どもの頃よく言っていた。父さんが飛ぶよりさらに上の空にはいつも龍がいて、悪いことをしたら必ず見ている、と。

ガンで入院中の父は、よりによって龍が真上を通過する日に息子が犯罪者になるとは想像もしていないだろう。


「オリンピック見てるといつも思うんだよ。悪いことやるならデカい祭りがあるときだなって」

 同僚の長江に金が必要だとうっかり零したとき、奴は声を潜めてそう言った。そして、

「なあヒサシ、死のうとしてる奴って意外と金持ってるの知ってるか?」

 ネットで自殺する仲間を探してる奴を見つけて、声をかけ、葬式代だ掃除代だのと言って金を持って来させる。殺しはしない。もちろん一緒に死にもしない。個人情報を聞き出した後、一発か二発殴って脅すだけ。まず警察には行かないし、万一ニュース沙汰になっても龍が来る日なら、その話題に埋もれてすぐ忘れられる。同僚の話はこうだ。

 やったことあるのかと聞くと、長江は笑ってごまかした。


 今、俺は待ち合わせ場所のカフェの前に立って、約束の相手を待っている。十一時の予定だからそろそろ来るはずだ。来なければ困るが、来ないでくれと願っている。


 背後から小さな声がした。

「ナガエさん、ですか?」

 振り向くと、全身のシルエットも、ワンピースから突き出た腕も脚もすべてが細い女が立っていた。女は、俺が答える前に微笑んで言った。

「ヤスミンです」

 死にたい人間とは思えない笑顔だ。心の中で長江に謝る。お前の名前、勝手に借りたぞ。


 濁った白のプラスチック板に「喫茶パトリシア」と書かれた看板を通り、中に入る。

陰鬱な木々で席が区切られていて、密林のようだと思う。これなら周りに顔を覚えられることもないだろう。席に着いて、すぐ灰皿を引き寄せる。今時珍しく全席喫煙可だ。女がじっと俺を見つめていた。

 これから死ぬのに、副流煙ぐらい構わないだろう?

「私も、いいですか?」

 そう言って彼女は、遠慮がちに灰皿を中央に戻す。

「ああ、どうぞ」

 ケースから取り出した煙草まで細かった。


 自分の煙草に火をつけながら女の鞄を見て、そんなに小さくて煙草以外の物が入るだろうかと思い、つい言った。

「あの、お金は……」

「ああ、持ってきました。一応二十万。ナガエさん、すごくちゃんとなさってますよね。私、死ぬのにもこんなお金がかかるなんて全然知らなくて……」

 注文を取りに来た店員が一瞬怪訝な顔をしたのを見て、俺は女の手の甲を軽く叩いて止める。女は一瞬ハッとしてすぐ俯いた。確かにこれでは生きづらいだろう。


 話している間も、ホットコーヒーをふたつ頼んだ後も、ヤスミンと名乗る女が鞄をまさぐっているのを見て、俺はライターを差し出した。彼女がライターを返すとき、そうだと言って、小さな紙袋を一緒に寄越した。

「お土産です。よかったら」

 言葉の意味が分からず、土産、と聞き返す。

「お茶のクッキーです。今住んでるのが静岡なので」

 死ぬ気があるのか、こいつは? 俺の表情など目に入らないように、女は続けた。


「ナガエさんはお仕事の帰りですか?」

 なぜそんなことを聞くのだろうと思ったが、服装のせいだろう。男が手っ取り早く信用を得る服装はスーツが一番だと、長江が言っていたのに従っただけだ。

「ええ、まあ……」

「こんな日も仕事じゃ死にたくなりますよね……」

 案外、神経の太い女かもしれない。

 彼女の肩越しに窓を見ると、雲の切れ間の青空がのぞいたあたりにマンションの黄みがかった給水塔がそびえている。昔見た映画のポスターだ。俺は無意識に口を開いた。


「ヤスミンさんは、どうしてその名前に……」

 その映画、バグダッド・カフェの主人公の名前は、確かヤスミンだったはずだ。マリアンネ・ゼーゲブレヒトというドイツの女優が演っていた。

「あ、これ、本名からなんです。安田美花っていうので、あだ名で……」

 なぜかひどく申し訳なさそうに彼女は言った。馬鹿な事を聞いたと思ったが、これでひとまず名前は聞き出せた。


 コーヒーが運ばれてくる間、俺たちは何も言わず煙だけが漂っていた。店員が去ってから、安田美花が言う。

「ナガエさんは、どうして?」

「自分も、本名からです」

 頭の中で名前を拝借した同僚に悪い気がしたが、元はと言えばあいつに唆されてこうなったのだと思い直し、すぐに打ち消す。


「ナガエさんは、おいつくなんですか」

「二十七です」

「じゃあ、私のひとつ違いですね。私二十六なので」

 聞く前に何でも話す女だ。


 どちらか片方にすればいいのに、煙草を持ったままコーヒーを飲もうとしてテーブルクロスに零したのを拭きながら、安田美花が呟く。

「あの、どうして死のうと思ったんですか」

 俺は灰皿で煙草をすり潰す。

「いろいろ、ですよ。正直な話、金もなくって……」

 嘘は言っていない。

母親と離婚するとき、父は裁判で相当金を持っていかれたというのに、その直後ガンになって何度も手術をした。当然働けなくなって、保険屋の経理をしている俺の稼ぎではもう次に転移したのを切除することもできない。

「大変ですよね、みんな……」

 安田美花はそう言って、自身も煙草を消す。俺は理由を聞かなかった。二十年前一緒に龍を見たのも、バグダッド・カフェを俺に見せたのも父親だった。今回上手くいったとして、親父を生かしておくのにはあと何度同じことをすればいい? 

 

「出ましょうか」

 女は空になったカップから目を上げて、そうですねと言った。彼女がまたせわしなく鞄の中を漁るのを横目に、俺は仕切りの代わりの垣根に頭を預ける。埃をかぶった葉を人差し指と中指に挟んで引くと、鞘からナイフを抜くように、光沢のある表面が現れた。


 隣の席から、もう龍が静岡を越えたという声がする。

 龍がどこに行こうが関係ない。親父が死のうが、俺が死のうが、安田美花が死のうが何も変わらないのと一緒だ。

 

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