地球とナーガの午後
木古おうみ
ナーガと「私」の午後 上
龍は太平洋を渡り、正午過ぎには東京を通過するらしい。
臨時喫煙所は満員で、頼りない仕切りの板に背を預けながら、霞むひとの群れを見ていた。
すみません、と声をかけられて振り向くと、デニム生地のおんぶ紐で子どもを抱いた女性がいた。
「子どもがいるので、消してもらえませんか」
私は自分の指先から上る煙と、若い母親の脱色した髪を見比べる。確かに仕切りの外だが指定された喫煙所の範囲中だと反論するか、何も言わずにもみ消すか迷っていると、白い板の間から作業服の中年が出てきた。
会釈だけ返して、作業員がいた場所に滑り込む。パーテーションの隙間から、母親が私を見つめていたが、すぐにひとに紛れて見えなくなった。二十五、六歳。私と同じくらいだろうか。
よく女が煙草を吸うと結婚や出産のとき後悔すると言われるが、日曜日に近所のショッピングモールのフードコートで金切り声を上げる子どもとその親を見るたび、どちらもする気がなくなる。
短くなった煙草を捨てて、新しいものに火をつける。白い仕切りに囲まれ、俯きながら四月のまだ冷たい空気に紫煙を混ぜるひとびと。皆が龍の訪れを待って空を見上げているというのに。
正確には龍ではなく、ナーガと呼ぶらしい。
インドの神話の蛇からとられたというが詳しくは知らない。日本では単純に龍と呼ばれていた。龍は何をするわけでもない。ただ、ゆっくりと地球を周回している。南に飛んだり、北向きに軸を変えてみたりしながら、ただの一度も地上に降りることもなく。生き物というより低気圧や龍巻のような現象に近いのかもしれない。
その龍が、二十年ぶりに東京を通過する。
目の前の学生ふたりがスマートフォンを傾けながら、龍がすでに本初子午線を越えたと話している。
時刻は十一時だ。今日は火曜日だが休日のようにひとが多い。私は休む気はなかったが、若いのだから見に行ってくるといいと上司に勧められて有休をとってしまった。
私が週に五日フロントに立っている、都心のビジネスホテル。今日も龍を見るためなら素泊まりでも構わないという人間が、全国から集まっているのだろう。
元はリゾートホテルで働き口を探していたが、真夏に陽の光を吸う黒いリクルートスーツを着て、ビニールバッグや浮き輪を提げた潮の匂いのするひとびとの中で賑わう港町の駅に立っているとき、もう何もかもやめようと思った。
その後は、二次の面接を蹴って冷房の効きすぎた車両に戻り、東京に帰って、すでに内定が出ていた今の職場に決めた。それから社会人になってから二年経った今でも、観光地に行こうと思ったことはない。自分が世界から必要とされないのに合わせて、自分の生きる場所もどんどん狭くなっていくが、それでいいと思う。
今日も龍を見に行くつもりなんてなかった。けば立った緑の絨毯と、経済新聞が置かれたマガジンラックしか見えないフロントで、アジア人の観光客や酔った会社員の相手をしていればそれでよかった。それでも、言われた通り休みを取って、パーテーションの中に隠れながらも、ひとで溢れかえる川沿いの通りから逃げ帰える気にならないは小学生時代の記憶のせいだろうか。
私が初めて龍を見たのはこの川沿いにある小学校に通う一年生のときだった。
特別措置で休校になったが、子どもたちは朝から校庭に集まって、土埃で煙る空を見上げていた。隣にはマリという同い年の友だちがいた。日に焼けて、プールで色の抜けた髪をふたつに結んでいた。初めて、子どもだけで映画に行ったのも彼女とだった。シネフィルが馬鹿にするようなアメコミ映画だったけれど、大人になったような気がして笑ったのを覚えている。
一番低い鉄棒に腰かけて、空いっぱいに広がる白い腹を口を開けて見上げながら、次に龍が来るときも同じ場所で一緒に見ようと、私たちは約束した。小学生が誰でも文集に書く類の口約束だ。親が転勤族だったマリは三年生のとき転校して、手紙を送りあう間も彼女の住所は数度変わった。今は年賀状だけに元気かどうかと「今年は会いたい」と書くだけの仲だ。龍のことを書いたことはないし、その今年が来たことはない。
あの頃は想像しなかったほど、私は陰気になって、痩せて、煙草を吸うようになった。マリは来るだろうか。来たら私だとわかるだろうか。小学校は通りを渡り切ったすぐそこにある。
私は燃え殻を捨て、仕切りを出た。
路傍にはパトカーや消防車に加えて、装甲車までが並んでいる。何を守るのだろう。
ひとから龍を。龍からひとを。それとも、ひとからひとを、だろうか。
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