【アナザーストーリー】由芽・2日前
~由芽編6話以降のアナザーストーリーです。本編6話以前の内容を確かめた上でお読みください~
昨日の雨を閉じ込めるような暗くどんよりとした雲が、まだ空一面に垂れ込めていた。傘が必要なんじゃないかと思ったけれど、天気予報は降らないことを告げていた。
「今日も寒いね」
と言いながら夏生と一緒に学校へ向かう。繋がれた手はしっかりと結ばれていて、ほつれそうにない。この手を繋いでいた人は以前は要だった。
「ねぇ、放してくれないと遅刻しちゃうよ」
「いいじゃん。もう少しだけ」
「んー、何でワガママ言うのかなぁ。帰ったらずっと一緒じゃない」
夏生はわたしのワガママを今までは紳士的に聞いてくれたのに、つき合い始めてからこの調子だ。けっこう甘えん坊なのかもしれない。
枯葉が裸になった木の根の足元にしがみついている。
「……真っ直ぐ帰らないで今日は買い物にでも行こうよ」
「急にどうしたの?」
「いや、ほら、クリスマスも近いしさ」
今日はいっそう甘えモードだ。何が彼をそうしているのか、心当たりはあった。
「要と会うのがイヤなの?」
わたしは要への返答をまだ先送りにしていた。そんなに急に方向転換はできない。わたしはそれほど器用じゃない。
「まぁ、同じゼミだし、会いづらくはあるかな。由芽を一応、奪っちゃったことになるしね」
「大島さんと要だって同じゼミじゃない? あのふたりだって……」
うっかり口を滑らせて慌てる。素知らぬ顔をして話を逸らせばよかったのに、思わず言葉が喉につかえる。
「要、別れたってこと?」
ああ、まずいな、と思った。どうして言わなくていいことを喋ったりしたんだろう?
「うん、あの、昨日会った時に要がそう言ってて」
「由芽、帰ったら話そう」
夏生は手を放すとにこりと微笑んだ。そうして自分の学部へと向かった。
「由芽!」
秋穂ちゃんと一緒に学部棟を出ると大きな声でわたしの名を呼ぶ人がいて、そこにいたのは要だった。いつ、どこに行けば会えるのか。そういうことは長くつき合っていた要には容易くわかることだった。
「どうしたの? こんなところまで」
「原田のことを気にしないで話したくて」
そう言うと強引に手を引いて、歩いた。
これ以上話したら何かが変わるのか、わたしにはよくわからなかった。要は大島さんと別れたことを「ケジメ」だと思っているのかもしれない。でもわたしの心はそんなに早く物事を受け入れる事はできない。
まして要の位置だったところにはもう別の人がいる。やさしくてわたしを守ってくれる人。わたしが守ってあげたいと思う人。
……と、思えればきっと楽なんだろうけど、わたしはダメだ。まだ要に握られている手がうれしくて胸が震える。当たり前だったことが当たり前じゃなくなって、また当たり前のように……。
「なんで強引なの? もう少し待ってほしいって言ったじゃない」
「じゃあ由芽は、『17日』を過ぎた後でもオレに会ってくれるの?」
「……」
何も喋れずに引きずられるような気持ちで歩く。要の言葉を反芻する。「17日」を過ぎた後……今でも要を想うと胸が痛くなる。それは「好きだ」という気持ちと、「わたしは捨てられた」という気持ちに引き裂かれそうになるからだ。
その痛みを抱えて歩くには十分な時間がわたしには必要だった。「17日」なんて残りはあと2日なのに、結論が簡単に出るわけがない。泣きたくなってくる。
「要……わたしもゆっくり話したいから、部屋に行こうか?」
「いいの?」
「残り2日だもの。大恋愛だったのに、結局『17日』なんて日数じゃ測りきれないんだよ、きっと」
要は一度下を向いて、顔を上げた。
「オレたち、大恋愛だった?」
「少なくともわたしはそう思ってたよ。要以外の人は目に入らなかったし。夏生……原田くんの気持ちも見て見ないふりしてたし」
「知ってたの? 原田の気持ち」
「なんとなくね」
学校沿いの道を毎日の日課のようにふたりで歩く。違うのは手を繋いでいないことだけ。どちらも変に遠慮して、手さえ繋ぐことができない。
「ごめん、由芽の気持ち、踏みにじった」
「いいよ、そんなことこんな道端で言わないで」
「だけどさ」
「いいよ。帰ったら聞くよ」
こうして歩くのは今日が最後になる予感がして寂しくなる。そう思うのはわたしが半分、気持ちを決めているからかもしれない。もし要に誘われたとしても、この間の夏生のときのようにわたしは流されたりしないだろう。まだ、要の肌はわたしの許容範囲に入らない。彼女と幾夜、重ねてきたその肌と簡単に肌を重ねることはできない。
ドアを開けると誰もいない部屋はがらんとして、要のいつもいたスペースにあったテレビゲームはもうすっかり片付けられていて、夏生のために新しく買ったクッションが置かれていた。要のゲームもマンガもごっそりクローゼットにしまわれていた。
これが今のわたしだ。
部屋に入った要はきれいに整頓された部屋から自分の匂いが残っていないことを確認しているようだった。
「本当に原田といるんだ?」
「うん。思ってた通り、やさしくしてもらってるよ」
「そっか……オレも、この間までは原田になら由芽を譲ってもいいかなぁなんて思い上がってたよ」
お客様のように要は腰を下ろす。ふたりで暮らしてた頃の名残りのカップで、紅茶を淹れる。当たり前のようなひとつひとつのことが、どこかしら異なっているのに知らないふりはできなかった。
「わたしたち、終わっちゃったね」
涙が出るのを止める努力はしなかった。口から発する言葉がすべてを終わらせる力を持っていた。
「……終わっちゃったか?」
「終わりだよ、すごく悲しいけど。どこを取っても終わってしまっている。要のことは、正直に言えばまだとっても好きなの」
「だったら!」
「でも……たぶんもう戻れないよ。そのことがすごく悲しい」
要にもたれかかるわけにはいかなかったので、一人でこたつ布団が濡れるくらい涙をこぼした。要も何か言おうとしていたし、手を差し出そうとしてくれていたけど、結局何もしなかった。
つまり、そういうことだ。
要がわたしの涙に手の届かないところにいるように、ふたりの心の距離は確実に隔たっていた。前と同じように過ごせないなら、いつでも、小さなことでも彼を疑ってしまうくらいなら、離れてしまう方が正しく思えた。情とか、そんなものは見ないふりをして。
「由芽、悲しい思いをさせてごめん。由芽がいちばん大切だってことを忘れてた。隣にいてくれて当たり前だった。ついさっきまで、そう思ってたけど……間違えた後に前と同じってわけにはいかないよな。わかったよ、もう困らせないから泣き止んで。由芽の笑った顔が本当に好きだったんだよ」
彼はわたしの手を取って、わたしを強く抱きしめた。こんなに間近に体温を感じるのに、悲しくて強ばる。彼の手がわたしの髪をかきあげて耳元に口づける。むかしのように唇が重なり……そうして、離れた。
「オレを忘れないで。まだ由芽がいちばん好きなんだ」
「忘れられないよ……。ありがとう、キスしてくれて。うれしかった」
「また由芽が、あんまりオレの夢ばかり見るようになったら呼んで? いつでも原田の目を盗んで会いに来るし、そのときは由芽を奪うかもしれないから」
「秋穂ちゃんに聞いて走ってきたんだけど……大丈夫だった? 電話も出なかったから」
彼は彼に似合わず必死に走ってくれたようで額に汗が光っていた。いつもキレイに整えている髪も違う方向に流れていた。
「うん、大丈夫。要とはすっぱり別れちゃったし」
「由芽……」
抱きすくめられる。まだ要の温もりが恋しくて夏生の体温に体が馴染まない。
「由芽、無理したね? 目が真っ赤じゃん」
「えへ」
「『えへ』じゃないよ。まったく。自分に関係することだけどさ、もう少し時間をかけてもよかったんじゃないの?」
「……かければかけるほど、辛くなるから」
彼の腰に回した手が、小刻みに震えている。ここは泣く所じゃないと自分に言い聞かせる。
「いいんだよ、そうしても……。僕は由芽をいつまでも待てるし、由芽を支えることもできると思う」
「決めたの。……夏生だけの由芽になる」
「夢かな?」
「ちっとも? 思いっきり現実だけど」
「じゃあキスしても構いませんか? レディ」
夏生はおどけて腰を下ろすと優雅にわたしの手を取って口づけした。わたしはその大袈裟な身振りにくすくす笑ってしまったけれど、その後、瞳を射抜くように見つめられ動けなくなる。彼はすごく真剣に、わたしに「目覚めの」キスをした。
ふたりで布団に入って凍てつく冬の星空を見ていた。昼間はあんなに淀んだ雲で覆われていたのに、今日は月も出ている。か細い月が星空に遠慮して飾られていた。
「よかったの? ほんとに。僕が後悔させるかもよ?」
「……裏切りはやだなぁ」
「わかった。浮気するくらいなら、別れてからにする」
「そうして。……嘘、絶対ダメ。夏生がそばにいてくれないと困る」
彼はわたしのバラバラに乱れた髪に指を通した。わたしを見る目がやさしい。
「僕と由芽は、おじいちゃんとおばあちゃんになっても離れない運命だといいな」
「何それ?」
わたしはつい笑ってしまった。
「死ぬまで一緒ってことだよ」
ああ、そういうことか。
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