【アナザーストーリー】由芽・3日前
~【アナザーストーリー】由芽・7日前からお読みください。本編とは全然、異なる展開です~
その日は打ちつけるようなひどい雨だった。ガラス窓にまで飛沫があがるような、激しい雨だった。わたしも夏生も、学校に行くのが面倒になる。
「すごい雨だね」
「うん、『バケツをひっくり返したような』というのはこういうのだよね」
ふたりともなかなかこたつから出ないで、立ち上がる気配が微塵もなかった。ただただ、冷たい雨が空気も冷やしていた。
「学校、行きたくないなぁ」
夏生はわたしを後ろから抱きしめるように座ってこたつに入っていて、その腕にふざけたようにぐっと力が入る。
「わたしもだよ」
「だよねぇ」
外の雨とは別の、温かい空気が部屋の中には漂っていた。薄っぺらい壁の外側に打ちつける雨の感触が、彼といると少し和らぐ。わたしは彼の体にもたれかかって彼に甘える。
「……要との約束は?」
「だって、雨もこんなだし」
夏生は一瞬黙って、「あいつ、待ってるよ」と言った。わたしの耳の裏に彼の吐息がかかる。
「夏生と、一緒にいたいって思うのはダメ?」
「ダメじゃないよ。でも僕、スエットなんだけど、そんなんでいいの?」
「もう! そういう意味じゃないってわかってるのに! ……第一、夏生はすっごくオシャレでしょう? 一緒に買い物に言ったからよく……」
前髪をかき上げられて額にキスをくれる。そうしてそのまま、わたしが半身をひねる姿勢で唇と唇が重なる。あの日と同じ唇の感触に、初めてのキスをぼんやり思い出す。
「僕を好きになった?」
「好きになってない人と一緒に暮らさないよ」
「じゃあさ、要と……。要に今日は会えないって連絡を」
わたしから彼の唇を奪う。少しの間、黙ってもらう。
「要の話は今はしたくないなぁ」
そっと唇を離して、彼に伝えなければいけない気持ちを言葉にする。
「夏生を、守りたいの」
「守るの? 僕が由芽を守るんじゃなくて?」
「……悲しい思いをしてほしくないの」
「バカだなぁ」
「わたしは一緒にいるよ」
彼の手をぎゅっと握る。「僕が守るよ」と彼が小さな声で囁く。雨がすべてのわだかまりを洗い流していく……。
『雨だから今日は学校を休んじゃおうかと思うんだけど。要は行く?』
ずっとつき合ってただけあって、要とはこういう時に気安い。要のことなら大体わかる。
『そうだな、学校に行くくらいなら由芽のとこに直接行っても変わらないし。ずっと家にいる?』
それには、即答できない。
『ごめん、調子に乗りすぎ。こんなこと簡単に言える立場じゃないよな』
『ううん、いいよ。前はそうだったんだし、そういうのすぐには戻らないよ』
わたしだってそうだもの。……会ったりしたら気持ちが揺らぎそうで怖い。こんなことになる前を思い出しそうで。わたしの好きな要を見つけてしまいそうで。
『口で直接言いたかったんだけどさ』
要の送信がしばらく途絶える。
何かあったのかな、とちょっと不安になる。
『玲香とは別れるから。さっき話してきた』
息を飲む。
ああ、なんでこんなにややこしいことになってしまったんだろう?どうして大島さんと別れちゃったりするの? それじゃ、要を忘れるためにした努力が全部、無駄になってしまう。胸の内が痛んで止まない。
電話をかける。要は出ない。
『今、電車の中だから後でかけ直すよ』
……あらゆる後悔ばかりが頭を駆け巡る。
わたしの様子が変わったことに気がついて、夏生が顔を見に近づいてくる。彼は今日はコンタクトを外していて、近づかないと何も見えない。
台所からピザトーストの程よく焦げた匂いがして、不意に泣きたくなる。
「由芽、大丈夫? 要と連絡取れた?」
「うん。ちょっと電話する」
「席、外す?」
「うちは狭いから外しようもないよ」
「デリケートな問題なら、外に出ててもいいよ」
少し悲しい瞳で見つめられる。この人はいつもこうだ。何にでもやさしすぎる。
彼の頭を抱えるように手を添える。
「そんな目で見られたら何も言えなくなっちゃうよ」
「そういう意味じゃないよ、ごめん」
「そういう意味じゃないよ、夏生が好きなの」
「気を遣わせてごめん……」
「ううん、要と話があるから、ちょっとだけ玄関の外に出るけど寒いからすぐに戻ってくるね」
夏生が「じゃあ僕が」と言いかけたところで電話が着信を告げた。わたしはさっと立って玄関のドアを後ろ手に開けた。
『ごめんね、出るのが遅くなって』
『いや、大丈夫。由芽は? 雨の音がする……』
どうして夏生のことを好きだと言った後で要を思うと胸が軋むんだろう? この人の声にはわたしを切なくする何かが含まれているんだろうか? 二の句が継げずに、やっと声を出す。
『わたしは大丈夫。要は? 駅?』
『うん、出かけてたから……』
自然な空気が、離れていてもふたりを包む。距離を感じない。彼の体温を身近に感じているみたいに。
『由芽、雨でも会いたい……』
『……わたしが出るよ。そこにいて』
人差し指でタップして通話を切る。電話の向こう側で要の声を聞いた気がしたけれどとにかく急ぐ。
部屋に入ると夏生がこたつでテレビを見ていた。曖昧に笑って、後ろ側から彼の首に手を回してそっと抱きしめる。「ちょっと出かけてくるね」。
ルームウェアからざっくりしたアイボリーのセーターとデニムを選んで着替える。要のよく知る、わたしらしいセーターだった。
「由芽、雨、すごいよ。別の日じゃダメなの?」
「大丈夫。遅くはならないから」
「要だって待ってくれると思うよ?」
全部、お見通しなんだ。秋穂ちゃんかもしれないのに、そうは思わないんだ。――彼に深く口づける。
「待ってて」
雨の中に駆け出す。夏生がわたしを追いかけてくる音は聞こえなかった。待っててくれるのかもしれないし、あきらめているのかもしれない。……何を?
雨足は強まって、裾をまくったデニムの足首を情け容赦なく濡らしていく。ナイロン製のキルトの上着の内側だけが温かくて、手は氷のように冷たい。それでも歩みを進める。彼は、わたしに何かをくれるに違いないから。
「由芽! バカだな。傘さして歩いて来たのか? 言えばオレが行ったのに」
パイル地のハンカチで上着を拭いていたわたしの横顔を要は見ていた。
「……原田、いるよな? 無神経でごめん」
「要」
わたしは彼の頬を手で挟んでこちらに向けた。要の顔を真っ直ぐに見る。
「聞きに来たよ」
「由芽……」
後ろから電車の来たことを知らせる電子音のメロディが鳴る。人々がそれぞれの手に傘を持って改札を目指して階段を下りてくる。傘の雫が改札前のタイルを濡らす。わたしたちの足元までひたひたと水が迫るように。
「玲香に別れたいって言ってきたよ」
「そう」
要の手が恐る恐る……慣れ親しんだ手なのに、伸びてきてわたしの頭をあまり背の高くない彼の肩に押しつける。窒息しそうになる。花のようなため息が出る。
「由芽、すごく勝手なのはわかってる。やり直して」
彼の腰の辺りにそろそろと手を回す。一体どれだけこの人はわたしのものではなかったんだろう? 誰だって、誰かの「もの」ではないけど。所有欲は止められない。
「OKだと思っていい?」
わたしの頬は凍えていた。雨の染みた彼の肩は本当に、本当に懐かしかった。ずっとこうしたかった。彼の胸に手を当てる。その胸を力を込めてゆっくり突き放す。
「ごめんね。すぐには消化できないよ」
ごめんね、と下を向いて踵を返す。わたしだって涙がこぼれる。
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