【アナザーストーリー】由芽・6日前

 ~由芽編6話以降のアナザーストーリーです。本編6話以前の内容を確かめた上でお読みください~



「こんな朝食、初めてだなぁ。本格的」

「そんなに褒めても何も出ないからね」

 久しぶりに料理を派手に褒められて、ついうれしくなる。もしも原田くんとつき合うことになったら、今まで以上に美味しいものを用意しようとちらっと考える。原田くんはそれを喜んでくれるかしら? それとも重いと考えるかしら?

 ……要も「由芽の料理は上手い」って、ずっと褒めてくれていた。褒めてもらってうれしくなっているうちに、彼の心は変わってしまった。一生懸命、美味しいものを作っても人の心は繋ぎ止められないといういい例だ。


 昆布と鰹節で出汁を取って、大根とにんじんのお味噌汁を作る。野菜は鍋の残りだ。冷凍してあった、本来はお弁当に使うはずだったカジキの塩麹漬けと、……甘い玉子焼きを作る。

 何故だろう、胸がちくりと痛む。玉子焼きを喜んで食べてくれる人は出て行ったのだから、これでいいんだ。間違ってはいない。

 原田くんは綺麗な箸使いで玉子焼きを切り分ける。

「うん、甘いね」

「ダメだった?」

 ちょっと心配になる。要に合わせた味付けだったから、原田くんには甘すぎたかもしれない。

「……これは、要のために作ってるんでしょう?」

「え?」と思う。要が話したのかもしれないけれど「要のための玉子焼き」と原田くんが言ったことに小さく動揺する。そういう話をふたりはするんだろうなぁと思うと、原田くんはどこまでわたしを知っているのか急に不安がよぎる。

 そんなことを考えながら、わたしはこっそりたまってしまった洗い物を少ししてしまおうと席を立った。

「手伝うよ」

と彼が布巾を手に取る。

「え、いいよ」

「邪魔にならないようにするからさ」

 そういう親密な空気感がとても新鮮だった。彼がわたしにやさしさを分けてくれる……気持ちが綻ぶ。

「由芽ちゃんさ」

「ん?」

「午後、要が来るんでしょう?」

「……知ってたの?」

「うん、まぁ、そうかな。昨日、スマホ見てたじゃん。何となくそうなのかなって」

 そうなの、何となくそうなの……。荷物を取りに来るということは、要とわたしの間にあったものはすり減っていくということだ。今だってもう、要とわたしの間に原田くんがするりと入ってしまったもの。

「いた方がいい? 帰った方がいい?」

「……いるって選択肢があるの?」

「だって一人で会いづらくないの?」

「……」

 お皿を洗う手が止まって、水道からはひたすら水が流れていた。会うには気まずいことは気まずいけど……原田くんに抱かれた後に一緒に会うのもかなり気まずい。

「僕が一緒じゃ気まずいか。んー、じゃあ、要に会ってから帰る」

「なんで?」

「牽制」

 何だか途端にものすごく恥ずかしくなって、「何を牽制するの?」とうつむいて言った。

「ん? 何をって、由芽ちゃんはもう要のものじゃないよって、そういうの」

「あ、あのね、でも17日目まではまだ……」

「知ってる。要の彼女を寝とったことになるんだ。でもさ、それでも……好きだよ」

 後ろから抱きすくめられる。バランスを崩してシンクの方に倒れそうになる。くらくらする。なんでこんなことになったんだろう……。




 約束したコンビニで要を待つ。

 原田くんは何かの雑誌を見て余裕の表情だ。わたしが目を向けると、「ん?」という顔をして「どうしたの?」と聞いてくれる。

「えーと……。原田くん、下の名前はなんて言うのかなぁと思って」

「ああ、言ってなかったね?……変な名前でも嫌いにならない?」

「ならないよ」

「よかったぁ。原田夏生はらだなつき。夏生まれの夏生」

 爽やかな印象の原田くんにピッタリな気もしたし、今までの「原田くん」とのギャップに戸惑いもした。

「すぐにとは言わないから、気が向いたら名前で呼んで。きっと自分が特別になった気になると思うよ」

 わたしなんかで彼にそんな効果を与えられるわけないじゃん……と赤くなって俯いていると、要が息を切らせてやってきた。

「ごめん、なんか遅くなっちゃって」

「ううん、大丈夫……」

 要は原田くんのことを見て、一瞬止まった。頭の中の整理がつかないようだった。

「悪いな、休みの日に」

「よお、要。まだ荷物多いの? 手伝おうか?」

 要はまだ明らかに戸惑っていて、原田くんの顔を真っ直ぐに見られないようだった。

「……原田? なんで。お前がそんなこと言うとシャレにならない」

「うん、そうかな? じゃあ由芽ちゃん、帰るね。何かあったらいつでも」

 原田くんはいつも通りの顔ですっと雑誌を買ってコンビニを出て行った。たったこれだけで「牽制」になるなら、今日じゃなくてもよかったんじゃ……。

「荷物、持ってすぐに帰るよ。オレ、バカだから大事な資料とか全部置いて行っちゃって。冬服も多く置いて行って毎日寒くてさ」

 はは、と要は薄く笑った。わたしはとても笑えなくて代わりに息を飲んだ。わたしの部屋へ要と向かう。5分とかからない距離だったけど、手と手がぶつかっても以前のように手を繋いだりはしなかった。

「オレには何も言う権利ないんだけど。……原田とそういう関係になった?」

「……まだ、上手く話せない」

「じゃあ、17日目までにはまだ日にちがあるけど、お互い次の相手が決まったってことかな?」

 唇を強く噛む。そして、心を決めて要を見る。

「なんでそんなこと言うの? わたしは、わたしは……。要のせいでどれだけ傷ついたか、どれだけみんなに迷惑かけちゃったか……わかんないの? 正直に言えば、原田くんとはけど、まだ本当につき合うのかわたしの心は迷ってる。要は、17日目までとか期限切っておいて、どれだけわたしと一緒の時間を作ってくれたの? わたしの気持ちを大切にしてくれたの? もう決して戻らないなら……要の言うようにお互いの相手が決まったなら、わたしたち、きっぱり別れよう。もう毎日泣いて秋穂ちゃんや原田くんに迷惑かけたくないし……昨日、原田くんに抱かれてわかったの」

「――何を?」

「わたしは要に告白されて浮かれた気分のまま、2年間過ごしてきたってこと。こんなに手酷い裏切りにもあって、わたしは要を信じ続けることが難しい。帰ってきてくれるかもとも思った。あなたの心がまだ少しはわたしにあると信じたかった。でもね、その前に心が折れちゃったの……」

 要は手近にあった自分の荷物をとりあえずまとめると、「出直すよ」と言って出て行ってしまった。気が抜けて、腰が抜けた。座り込んでまたひとり、飽きることもなく涙に溺れる。

 トントン、とノックがあって外をうかがうとそこには原田くんがいた。

「ちょっと待ってて」

 ティッシュで鼻を拭いて、洗面所で顔を洗う。

 ドアを開く。まるで本当に王子様が現れたかのようにさっと手を引いてくれて抱きしめられる。

「辛かったんだよね?」

 こくり、とうなずく。だって、うなずくことしかできない。

「わたし、わたし……、数日でも要と一緒の時間がまだ残されてると信じたかった。」

「……17日の約束はなくなったの?」

「わかんない、要、意地悪で……」

 彼はわたしの体を離すと、ぎゅっとわたしの両手を握った。

「すぐに気持ちがスライドしないのはわかってる。それが僕の好きになった由芽ちゃんだから。僕は7日間、待つよ。それがヤツとの約束なら。その間、少しずつ僕を好きになってもらえるよう努力はするけど」

「……うん、ごめんね、いつも迷惑かけて」

「いいんだよ、好きになったのは僕なんだから。……ていうかさ、やっと『好きだ』って伝えられてうれしいよ」

 昨日から言葉より体、という感じだったのに、そんなことに赤くなるなんて小さく驚いた。「そんな風に好きでいてくれたのか」と思うと、それは自分にはもったいないことのように思えた。そして彼のしゃがんだつむじを見ながら、「……好きだよ。夏生くん」と聞こえるか聞こえないかの声で言った。彼はそーっと顔を上げて、「これ、夢?」と一言聞いた。「夢じゃないよ」と答える。

「……由芽ちゃん、お昼はスパゲッティ食べたい」

「え? 昨日、一緒に食べたよ」

「ナポリタンでいいから。材料ある? 僕、作れるよ」

「買い物行かないとダメかも」

 原田くんはがっくりしていた。




 原田くんと手を繋いで買い物に行く。気持ちが新鮮で、温かいのか恥ずかしいのか、頬が赤くなるのがわかる。顔を上げると背の高い原田くんがいて、いつ見上げてもわたしの顔に視線を合わせてくれる。

「どうしたの?」

「うん……慣れないから、緊張かな?」

「緊張する必要ないよ。ほら、秋穂ちゃんといる時みたいに笑って。……しかし、秋穂ちゃんと仲いいよね?」

「そうだけど、なんでそんなに知ってるの?」

 原田くんは口をつぐんだまま空を見ていた。

「すごい今さらだし、気持ち悪いと思うかもしれないんだけど。1年の時の『心理学A』、一緒だったんだ」

「え? そうなの? ……でも原田くんのことまだ知らなかったし、気がつかなかった。ごめんね」

 それは「哲学1」と同期にあった授業で、まだ要のことも知らなかった頃の話だった。

「どうしてわたしだって知ってたの?」

「……要が由芽ちゃんを『哲学1』で見つけて、かわいいって騒いでたから、『心理学A』でも目が行ったんだよ」

 そんなこと、全然知らなかった。要は唯一わたしを見つけてくれた人なんだと思っていたから。そういうのが運命なのかと思っていた。

「要があんまり言うからさ、話しにくくなっちゃって。この話はまだ要に話したことないんだよ」

 道の真ん中とか、公衆の面前とかそういうことはどうでもよかった。背の高い彼のウエスト部分に腕を回してぎゅっと抱きつく。踵が少し地面から浮く感じがする。彼からはよく洗った清潔なシャツの香りがした。彼は思いの外、慌てていたけれど、きっとこうして間違いはないんだという直感めいたことを感じる。

「由芽ちゃん、人が来たら……」

「いいの。誰かに見られてもいいの」

 頭の上に手を置かれて撫でられる。彼の大きな手から温もりを感じる……。

「けっこう甘えん坊なんだね、由芽ちゃんは」

 彼は笑みを浮かべて、彼の腰から離れないわたしを見ている。そういうのって、なんかいいなぁと思う。ふわっとやさしくされて、お姫様のように扱われる。思えば蜜月でも要とわたしの間にはそういうことはなかったような気がした。

「早く告白すれば良かったなぁ。意気地無しだったよ」

「大丈夫だよ、間に合ったから。……わたしの王子様でいてくれる?」

 何も言わずに、彼はわたしの顎を上げさせて軽くキスをした。彼のキスは切ない目で行われる。時にはそこでため息さえこぼれる。

「自信ない。そうありたいけど」

「バカだなあ。嘘でも『なるよ』って甘く囁いてくれないと」

「そういうシーン?」

「そうだよ、そういうシーン」


 ふたりで食べきれないくらいの量の食べ物を買った。エコバッグひとつでは収まりきれない量だった。


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